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リアル書店のリアルな日々(2)

今年83歳を迎える父の勤労意欲がハンパない。家族の心配をよそに、広島の実家から全国各地に季節労働者として今も勇んで働きに出る。昨年は青森でリンゴの収穫を終えたかと思えば、次はミカンの収穫があるからと、LINEで繋がっている労働仲間たちと静岡で合流する。途中、私たち家族が住む長野にも立ち寄ってくれた。

青森で太宰治記念館を訪れたとかで太宰作品を読みたくなったらしく、新駒書店に寄って『人間失格』の古本を買ってくれた。父が静岡に向けて出発した後、この本をどこで入手したかを仕入れ担当の妻が確認したところ、それは実家の甥っ子から譲り受けた本だった。つまり、広島の孫の手元を離れて長野の叔父(私)の本屋で売りに出され、祖父に見初められ、またはるばる広島に帰って行ったことになる。しかも、父も甥っ子も家は別だが同じ敷地内に住んでいるわけだから、本の立場からすれば、「俺にわざわざこんな旅をさせずとも、”じいちゃん、これあげる”で済む話じゃねえか!」と憤慨したかもしれないが、紙の本は始めから旅をするように宿命づけられているのではないかと思えるほど、それはそれはいろんな人の手を経て我が書店にやってきては、いろんな人に見初められて旅立っていく。

紙の本がどのように世の中で循環しているのかをすべてトラッキング出来たら面白いだろうが、その旅路や出会いに思いを馳せるだけでもロマンがあるではないか。出来るだけ多くの人に見初められ、長い年月をかけて旅ができる本の制作に携わることが出版業界の端くれにとっても幸せなことなんだろうな、と思う。「売れた、売れない」だけでなく、旅立っていった本たちが辿る旅路まで気になりだしたのは、本屋を始めた効用のひとつかもしれない。

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