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Diary_02252024

8時半起床。夏海さんは既に起きていた。朝食。

ジェームズ・パロット『The Fraidy Cat』を観る。1924年に、ジミー・ジャンプというチョビ髭で悔しそうな顔をするキャラクターが定着して以降のチャーリー・チェイスの一巻物で、こういうちょっとしたものもギャグや映像が充実しているのには毎回驚かされる。

9時過ぎ、夏海さんはフォーラスへ、僕はホルンに置いてある荷物を取りに寄ってからフォーラスへ。瀬戸さん、卓さん、東洋子さん、千尋さんと合流。福原さんも撮影で来ていた。準備の間、僕は特にすることもないのでブラブラする。

10時過ぎ、「ラス前ミュージックフェス」2日目の一番手がポンコレラ。引っ越しを間近に控えたタコとアンコウのカズー談話と、大型人形たちの奉納の踊り。僕は見物のつもりだったが、始まる直前に渡されたケンガリで少しだけ参加。30分ぐらいは演るのかなと思っていたので、スパッ!と終わってビックリする間もなく撤収。

再び荷物をホルンへ置きに戻ってから、久々に駅前TSUTAYAに寄る。今日は借りたいものがあった。中央郵便局へ。急ぎのsekifuを発送。スーパーで買い物し、ホルンへ戻って昼食。コーヒーを飲んで一息つく。小一時間ほど仮眠。

16時半ぐらいに外に出てみると雨。そしてかなり寒い。今度は友川カズキを観にフォーラス前へ。間断なく商店街に流れるアナウンスや音楽に邪魔されつつ、出血した指でコードを押さえつつ、あの寒さの中で全く手を抜かないパフォーマンス。去年の10月に観たライブで初めて聴いて衝撃を受けた名曲「イカを買いに行く」や、「メダカざんまい」「農協の軽トラ」など、ぶらんど〜む一番町を一気に透徹した詩的空間へと引き上げる(ぶらんど〜む一番町にもそれなりの詩情というものはあるのだけど)怪曲たちが鳴り響く。一番聴きたかった「夢のラップもういっちょう」を堪能し、「次は『ひとりぼっちは絵描きになる』…」という声を聞いて後ろ髪を引かれつつ、タナランへ移動する。雨はみぞれになっていた。

タナランでは菊池君、姫本さん、菅原さん、那須さん、千葉大さん、チナツさんらと行き合う。夏海さんの話ではアンディ君も来ていたらしいのだが、気づかなかった。福原さん主催の上映会「まちとまなざし」の最終日、Cプログラムを観る。

最初は夏海さん/ポンコレラを福原さんが撮った『人形と動くもの』を観る。ほぼ完成した状態のバージョンは前にオンラインスクリーナーで観ていたが、やはり大きい画面で観ると格別に面白さが増幅される。夏海さんの家での制作風景や、弱っちゃんやシマっちゃんに餌を与える姿、話す様子など、多くは日常的に見慣れている光景だし、片平市民センターでの打ち合わせや公演に至っては僕も参加していたので、まるで自分の日常が再構成されて目の前に展開されるような体験でありつつ、それでも僕が見落としているもの、または見ないようにしていたかもしれないもの、福原さんしか観ていなかったものが映っている。それらが総体として姿を現すと、それは僕の日常の再構成映像などでは全くなく、福原さんの映画になっている。「福原さんの」という言い方はどこかピントがずれていると思うが…。

昨日の『void』の客席からの感想に「福原さんの映像には福原さんが存在していない感じを受ける」というものがあったと思うが、僕は全くそんな感じは無かったし、むしろその逆で、福原さんが「自分というよりもカメラが撮っている」と自嘲気味に話していたことに大きな疑いを抱いているのだった。福原さんほど強固な意思をもって対象を捉えようとしている人は居ないと思うし、それははっきりとどの画面にも現れている、と僕は思う。仮に「なんとなく」撮ったショット、「偶然に」撮れた瞬間が含まれているのだとしても、それらは編集によって選択されて現に映画を構成しているのだから、意思が介在しないわけがない。むしろ、そのうえで「存在していない感じ」を観客に与えてしまうのはある意味で福原さんの腕であり、奥ゆかしさなのだと思う。

続いて最後の上映作品、同じく福原さんの『老人と家』を観る。『家』『家にあるひと』という再構成・再編集を重ね、さらに追加撮影までが盛り込まれて現在の作品になっており、その過程で、別にこの映画の関係者というわけでもないのに、少なくとも7回は観ている。観るたびに感想が変わるのは、福原さんの個人的な動機から出発した「記録映像」の集積が構成されて物語性を帯びてくるようになり、恐らくは福原さん自身も気づいていなかったであろう多様な豊かさが、バージョンアップのたびに立ち現れてきたからではないだろうか。

終映後の福原さんと夏海さんの対談も良かった。今日は夏海さんは「まちとまなざし」のプログラムを一気に全て観ているので、映画について語る言葉がいつもより饒舌で、僕にとっては珍しいなと感じるほどの新鮮さがあったのかもしれない。振り返ってみれば、今回の上映会は福原さんの映像作家としてのユニークな存在感と、キュレーター的なセンスが同時に発揮され、複眼的な考察が促される好企画だったと思う。

帰る前に福原さん、安倍さん、菊池君、千葉大さんらとしばし歓談し、本格的な降りになった雨のなか、夏海さんとタナランを辞す。

近所で少し買い物をして帰宅。買ってきたもので適当な夕食。

メールをいくつか書く。久美子さんとの映画会の打ち合わせが二転三転するが、どうにか予定が決まる。



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