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僕が楽園にたどり着くまで

僕は、「誰もが豊かに楽しく生きられる社会」の実現に向けて
経済(経国済民or経世済民)に関する情報や
楽しく生きる方法を発信しています。

現在住んでいるのは宮崎県の最南端にある町
串間市という場所に妻と娘の3人で住んでいます。

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薪風呂、薪ストーブ、薪を使った調理など
薪を中心に生活しています。

他には畑をやったり、サーフィンを楽しんだりと
自然豊かな場所での生活を満喫しています。

こんな現在の僕ですが、実は30年近く東京で過ごしました。

生まれは和歌山県の新宮市
そこで18年間を過ごし、高校卒業と同時に上京したんです。

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最初に就いた仕事は、今のDTP(デスクトップパブリッシング)の
アナログ時代の仕事でした。
レタッチと呼ばれていた職業です。

まだコンピュータやインターネットが普及する前だったんです。
当時はレコードのジャケットやポスター
雑誌の表紙などを印刷するための原版の制作をしていました。

職人的な仕事だったため、
「この仕事を覚えたら、一生食いっぱぐれない」
そんな風に言われました。

そして仕事も楽しかったんです。
自分の創ったモノが全国の店頭に並んでいて
それをみるとちょっと誇らしい気分でした。

当時はバブルの入り口で、とても景気のいい時代だったこともあり
給料も同世代よりは多かったと記憶しています。

そして14年間、同じ業界で仕事をしましたが
バブルがはじけて世の中の流れが変わりはじめ
デジタル時代に向かいます。

そんな中、僕の仕事もコンピュータで
できるようになっていきました。
当時はIllustratorやPhotoshopはMacintosh版のみで
Windowsで動くモノはありませんでした。

ということで
僕がはじめて触れたコンピュータも
必然的にMacintoshでした。

Macで作業ができるようになったので
それまでの技術は必要なくなり
MacでのIllustratorやPhotoshopの操作を覚えれば
誰にでもできるようになり

それまで数年かけて覚えるような仕事も
わずか数ヶ月でできるようになったんですね。

それまでは職人的な仕事で
「この仕事を覚えたら、一生食いっぱぐれない」
そう言われていたのにも関わらず
僕がやっていた仕事は
レタッチという職業名ごとなくなりました。

正直ショックでした。
何を信じて生きていこう!?
普遍的なモノはないのか?

頭の中が混乱と不安で満たされていきました。

”万物は流転する”

と言われるように移り変わることは
仕方のないことなんですよね。

そして何が普遍的なものなのか?
そんなことを悶々と考えるようになり
14年間お世話になった業界を去りました。

当時、アルバイトで生計をたてる人たちがいました。
フリーアルバイター
「フリーター」と呼ばれた人たちです。

つまり、アルバイトで食いつなぐということなんです。

将来のことを深く考えず、僕もフリーターになりました。
色々なアルバイトをしながら生活していました。

リフォームの訪問販売営業、おもちゃのぬいぐるみを売る飛び込み営業、
ハウスクリーニング、シロアリ駆除、イベント大工
キャバクラの店長、バイク便のライダーなどなど

そんな生活を5年ほど続けていながらも
将来のことを考えて悩んではいました。

バイク便のライダーをしていた頃
ちょうどインターネットの黎明期で
まだ、ブロードバンドではなく
回線はISDNというアナログ回線でした。

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バイク便をやっているときも
事務所にパソコンがありましたが
ISDN回線でした。

ちょうどその頃、ADSL 常時接続という言葉を
ちらほら耳にするようになりました

僕がその当時、考えたのは
これからの時代、インターネットに接続さえできれば
空間に縛られることなく
好きな場所で仕事をして生きていけるようになるんじゃないか?
ということでした。

そんなことを夢見たんですが
以前の仕事でアナログからデジタルへの移行に
ちょっとだけ、Macをいじった程度でしたから
コンピュータの知識やインターネットの知識など
ほぼありませんでした。

どうしたら、コンピュータやインターネットに
詳しくなれるんだろう?

そう考えて、それまで色々な仕事をして
色々なことを学びましたが
仕事にするということは
1日の中でそのことに一番多く時間を使うんだなぁ
と感じていました。

ということは
コンピュータやインターネットを使う仕事に就けば
それが早いんじゃないかと考えたんです。

当時の僕は36、7歳だったと記憶しています。

そこからコンピュータやインターネット関連、
プログラムについて色々と調べました。

そして、そんな理由から単純にプログラマになろう!
そう決めたんです。
プログラマになってコンピュータやインターネットに詳しくなったら

その先はフリーランスでWebクリエイターになって
ホームページの制作や映像制作をしたり
その他、色々なデザインすることを仕事にしよう。

好きな場所で好きな事を仕事にしてという夢を描きました。

そんな僕の夢を
周りの友人はみんな笑っていました。
30代後半になって
突然、方向転換してプログラマ

そんなの無理に決まってる!
もうすぐ40歳だよ、あの人就職できるの?
そんなことを言っている友人もいたようでした。

30代後半にきて新しい道に進む
そんなのは無謀だし、無理なんだ
というのが周りの見方でした。

でも僕の中には
人間は誰でも同じような能力を持っているはずだ
他の人間にできて僕にできないことなんかない
そんな想いがありました。

でも、どうすればプログラマになれるのかが
分かりません。

とにかくプログラム言語というものを覚えよう
そんな単純な発想から
プログラム言語に関する本を買って読んでみました。

結果は
何がなんだか 分からないというもの。

でも諦められず、独学を始めました。

そんな時にフリークリエイターの人と知り合いました。
その人はMacを使い、
当時はかなり高価だった(今も変わらないかな?)
「Maya」という3Dソフトで色々なモノを作っていました。

その人の
「プログラム覚えると強いよ」
という一言で 単純な僕は
よりプログラムへの思いが強まりました。

でも、その人の仕事を見せてもらっているうちに
面白そうだなぁと好奇心をくすぐられ
その人からMacを譲ってもらうことになりました。

そこからは中途半端だった
IllustratorやPhotoshopの使い方を
マスターするのに没頭していきました。

グラフィック系ソフトって思った線が綺麗に引けて
頭の中のイメージを楽に具体的にできて
楽しくて仕方がありませんでした。

そんなことをしながらもコンピュータのこと
プログラムのことがわからないという壁もあり
やっぱり、プログラマを目指そうと思い直し

求人誌を買ってきては
「プログラマ募集 / 初心者歓迎」の文字を探し
とにかく、面接にいこうと決め
面接を受けまくりました。

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何社ぐらいの面接を受けたかは覚えていませんが
結果は散々でした。

今もそうかも知れませが、IT企業は
みんな若いんですね。

面接に行くと僕よりも一回りは若い人が面接官
そんなことはザラでした。

社長も僕より若いことがほとんどでした。

そんな若い面接官に
「どんなプログラムを組んだ経験ありますか?」

そんな質問をされて
「えっ!いや、プログラム組んだことはありません。」
と正直に答えると

冷ややかな笑みを浮かべて
「なめてるんですか?」
そんなことを言われました。

僕は求人誌に書いてあった「初心者歓迎」の話をし
話が違うんじゃないですか?
と突っ込みました。

そしたら
「ここで言う初心者っていうのは
趣味でプログラムは組んだことあるけど
実務経験がないという意味の初心者ですよ!」

そんなことを強い口調でいわれ
逆ギレした僕は、「お前にできるんだったら俺にもできるだろ!」
といってその場を立ち去りました。

駅までの帰り道
やっぱりダメかなぁと
気を落として帰宅したのを覚えています。

当時、今の妻と同棲していました。
その妻が帰宅したときには
面接の時の状況を話しながら
涙ぐんでしまいました。

すごい挫折感で
胸が締め付けられるような苦しさでした。

それでも、翌日には
グラフィック系ソフトのスキルアップと
同時にプログラムの学習も続けました。

そうしていると、知り合いの
フリークリエイターさんが
「お前、プログラマになりたいんだよな!?」

そんな質問をしてきたので
「はい!」と即答しました。

その人の話では、
「今、一緒に仕事してるIT企業が
プログラマ募集してるってよ
ダメ元で受けてみれば」

そんな提案をしてもらって
その会社に面接に行くことにしました。

僕より若い面接官2人を相手に
面接は進みました。

分かること 分からないことを正直に話して
とにかく、やる気だけはあります、後はやるだけです。

そんな勢いだけの僕でしたが
自分の想いは出し切ったという満足感はありました。

そして数日後、採用の連絡をいただけました。

これでやっと自分の目指すところ
独立してフリーランスになるためのスタート地点に立てました。

そこからは、毎日ひたすら仕事と勉強でした。

会社では、僕の上司も先輩もみんな年下でしたが
年齢なんか関係ない そう考えていた僕は
上司のいうことに耳を傾け 先輩から教えを請い

自分でも気づかないうちに少しずつスキルアップしていきました。

3ヶ月ほどしたところで、大手電機メーカーに出向が決まり
自社のプロジェクトではラフな格好でしたが
スーツにネクタイという出で立ちで出勤するようになりました。

毎日、帰りは終電 家に着くのは日付が変わってから
休日も出勤する日もありましたが、それでも一生懸命に働きました。

当初は3年間はこの仕事を続けようと考えていましたが
あることに気づきました。

出向先が変わったり、プロジェクトが変わると
使うプログラム言語が変わったりして
ほぼ知識のない言語を学びなら仕事をすすめたり

DB(データベース)専門の人がいて
SQLというデータベース言語には精通していても
プログラム言語はほとんど分からなかったりすんです。

分からないということが普通で
分からなければ、その都度必要なことを学べばいいということです。

プログラム言語が違っても基本的な概念はそれほど変わらない
なので、まるっきりゼロからではないんですね。。

DB専門の人はスペシャリストですから
プロジェクト内には欠かすことが出来ない人材だったりします。

僕の最終的な目標はプログラマではなく
フリーランスのクリエイターです。

分からない事はいっぱいありましたが
分からないことをその都度、調べたり学んだりしながら
進んで行けばいい
そう考えて2年でプログラマを辞めることにしました。

でも、理由はそれだけではありませんでした。

当時まだ赤ちゃんだった娘と一緒に遊ぶ時間の少なさ
家にいて家族と過ごす時間の少なさ
これでは、何で家族をもったのかわからなくなるし
僕が目指す家族像とはほど遠いものでした。

もしかしたら、それが一番の理由だったかも知れません。

辞めた後はフリーランスとして家で仕事をしながら
家事と育児と育自の毎日を過ごしました。

デザインなどに関して独学で始めてしまったので
それまでやってきたことが間違いないのか不安な気持ちにもありました。

そこでデジタルハリウッドというクリエイター養成学校にも
夜間、半年ほど通ったりもしました。

そして結婚前から決めていたことが1つありました。

それは、子どもを授かったら
義務教育に通わせずに育てるということでした。

娘が生まれた直後から妻とはその話をしていましたが
妻は反対でした。

プログラマ時代にも時々、その話題で
妻と2人で話し合いましたが
妻は不安だといいます。

それはみんなと違うからというものでした。

僕の中には周りがしていることが必ずしも正しいとは限らない
という考えでした。

でも妻は、僕とは違い
周りと違うことをすることに不安を感じていたんですね。

プログラマ時代に本屋に立ち寄ったある日、棚に並んだ雑誌の表紙に
「ホームスクール」という文字を発見しました。

その雑誌を買って帰り、読んでみると
そこには本田健さんという作家さんが
自分の娘をホームスクールで育てるためにアメリカへ移住
そんな話が載っていました。

本田健さんの本は「ユダヤ人大富豪の教え」というのを
以前、読んだことがあったんです。

初めて知った「ホームスクール」という言葉でした。

そんなことから妻も「そんなのがあるんだねぇ」と
一気に安心した様子でした。

周りに合わせて考える人は、驚くほど簡単に考えを変えるんですね。^^;

そして娘が小学校に入学する年
千葉県の外房の町に引っ越しをすることにしました。

これもまたおかしな話だと思われそうですが
以前「フォトンベルトの謎」という本を読んでいた僕は
2011年12月に太陽系全体がフォトンベルトに突入し

天変地異的な事が起きると信じていたんです。

もし、東京で大地震が起きたら
とても対応できないんじゃないかという不安と

毎週末、家族を連れて千葉の海にサーフィンに行っていたので
娘も海が好きでした。

幼い娘にとっては砂浜は巨大な砂場だったんですね。

そして、2010年の秋に千葉県の外房にある
大網白里町(現・大網白里市)へと引っ越しました。

そして新たな場所で新たな生活を意気揚々と始めたのですが・・・

2011年12月を待たずして
天変地異は起こってしまいました。

3月11日 東日本大震災が発生
福島原発が爆発して、大網白里町にも
かなりの放射能が降りました。

幸い僕は、直感的にこれは危険だと考え地震から2日後には
家族と愛犬を連れて車で神奈川県まで逃げました。

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その後は、妻の実家(和歌山県の那智勝浦町)に2ヶ月ほど
非難していました。

そして毎日のように放射能について調べたり
放射能に詳しい学者の講演を聞きにいったりして
最終的には移住を決断しました。

2011年の終わり頃には、東京で開催されていた
移住セミナーにも参加をして色々な話を聞きましたが
話だけでは分からないので

2012年3月に家族で1ヶ月の居住場所を探す旅に出ました。

色々なことがあったのですが
最終的に現在の居住地にたどり着きました。

現在のところ僕にとっては楽園ですが
これで僕の人生が終わったわけではありません。

まだまだこれからが人生だと思っています。

2019年末で一旦、クリエイターを辞めました。

これまでも色々なことがありましたが
東日本大震災の時の政府の対応に憤りを感じた僕は

現在、経済の基礎的なことなどを学び
それを発信しつつ、田舎暮らしの楽しさを伝える活動をしています。

そして「誰もが豊かに楽しく生きられる社会」の実現に向けて
今日も僕は活動し、これからもこの活動を続けます。

拙く、読み辛い文章を最後までお読みくださって
本当にありがとうございました。






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