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皆との「いのちの旅」に乗り遅れた私

ちょっと聞くのが遅すぎたかもしれないわね。この歳になると、辛かったりしたことも、良い思い出になっちゃうから。でも、そんな中でも忘れられないことといえば、やっぱり戦時中の体験だわね。

昭和一九年の夏、学徒勤労動員令というのがあって、私たち伊那高女(長野県伊那市)の四年生は全員、名古屋にあった三菱航空機の軍需工場に動員されたの。今でいう高校一年生。みんな、親元を離れるのは初めてだったから、とても不安だったわ。
工場ではあの零戦を作っていました。慣れない工場での作業は大変だった。工場には寮があって、八人一部屋の共同生活。空襲がひどくなると防空頭巾をかぶって寝たわ。

でもね、じつは私は、卒業後の四月から東京の学校に進学しようと思っていたから、寮に参考書を持ち込んで、休憩時間や休日に一人勉強していたの。受験日には一人、東京へ行かせてもらったわ。

そんな日々を過ごしていた時に大きな出来事が起こったの。三月十二日の名古屋大空襲。たくさんの人が亡くなった。でも、私たちは奇跡的に全員無事だったのね。皆で良かったわねって喜びました。

でも翌日、皆で工場の瓦礫撤去をしていた時、B29が一機だけ音もなく飛んできたの。そして一発の爆弾を工場に落としていった。それが班の伝令役だった飯島米子さんに命中。彼女は即死したわ。

その知らせを聞いた校長先生は、米子さんの慰霊祭を母校でやると言って、工場長の制止を無視して、私たち全員を帰郷させたのね。そして、二度と名古屋には戻しませんでした。工場からは早く戻るようにという厳しい命令が何度もあったそうなんだけど、校長先生は頑として拒否したのね。その後、名古屋には何度も大きな空襲があったわ。私たちのいのちは、米子さんに助けられたのね。

そんな私たちが八〇歳を越した時、当時を振り返って文集を作ろうということになったの。タイトルは『いのちありて~学徒勤労動員の記録』。

皆、工場や寮での辛い思い出や、戦争の悲惨さ、いのちの大切さを書いたわ。でも、私にはそういうことが書けなかったのよ。「いのち」をテーマにした文章なんて書けなかった。寮で一人勉強していたからかもしれない。仕方がないから、当時の学校の校舎や教室の思い出を書いたわ。

その時、何か寂しい気持ちになったの。あれだけの体験をしたのに、皆との共通の思い出がなかったのね。もちろん、東京の学校に行ったことは後悔ないけど、私一人だけ、みんなとの「いのちの旅」に乗り遅れてしまったのかなって。

でもね、その後の同窓会で「あなたの文章を読んで、昔の学校を思い出せたわ。ありがとう」って言われたのね。少し救われた気がしました。

こんな話でいいのかしら。楽しかったことなら、もっと話せるのに。でも、辛かったことの方がなかなか話す機会がないから、貴重かもね。何より、いつも何も聞いてくれないあなたから質問されて、いろいろ話せて良かったわ。ありがとう。



※本稿は、「宣伝会議45期 編集・ライター養成講座」(2022.7~2023.2)の瀬戸山玄氏クラスの課題制作③です。
瀬戸山玄氏ホームページ http://www.monogatari-seisakusyo.com/

【課題制作③】
「あなたの同僚、両親、兄弟姉妹、祖父・祖母、叔父・叔母(伯父・伯母)、いとこなど、近しい関係にある人から、悩みなど、他者の辛いことをききだして読み物を作成してください」

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