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蛇口~第18回坊ちゃん文学賞応募作③

 きっかけは、自宅トイレのリフォームだった。
 手洗い台を設置した業者が、撤収の際、交換の済んだ古い蛇口を積み忘れて行った。
 三角形のハンドルが付いた、ごくありふれた銀の蛇口だ。僕が子供の頃から使われていたもので、金具の継ぎ目は黒ずんで緩く、曇った表面に錆が浮いている。
 次の不燃ごみに出せばいいだけの話だが、いざとなると捨てるに忍びない。今までの感謝も込め、磨いてみることにした。

 長年の汚れを落とされ、ぴかぴか光る蛇口は笑っているようだ。しっくり馴染む手応えで、ハンドルも気持ち良く回る。
 そう言えば小さい頃、僕には蛇口が魔法の道具に見えたっけ。ひねるだけで壁から水が出る。しかも無限に出すことも、自在に止めることもできる。それが面白くて、何度も出しては止め、親に叱られたものだ。壁の中に水道管が通っているなんて、当時は思いもしなかった。
 手洗い台で優雅に寝そべる新しい蛇口の隣へ置く。スリムなレバー式の蛇口は、他人行儀に取り澄まして見える。まだ現役で通用するのに、もう水は出ないんだな。使いおさめのつもりで古い蛇口を軽くひねった。
 ――チョロチョロと細く水が流れた。
 新しい方に手が当たったかと思ったが、水は古い方から出ている。気が付けば連結部が台に埋まり、形の違う二本の蛇口が並んだ格好だ。引っ張って抜こうにも抜けず、水がもったいないので一旦締める。
 水が止まった。もう一回開く――出る。締める。止まる。普通に機能する。
 使えるものは仕方ない、なら旧の方を使おうか。割り切ったところできっちり締めると、すぽんと蛇口が抜けて僕の手に収まった。後には何事もなかったように、新しい蛇口の付いた手洗い台。
 これはどう考えればいいのだろう? 念の為また開いても、宙に浮いた蛇口から水が出るはずもなし。仕事の疲れが溜まっているのだと言い聞かせ、離れたテーブルへ蛇口を隔離してゴミ袋を取りに行った。

 戻って来ると、蛇口はテーブルの板面から垂直に生えていた。
 僕の方へ吐水口を向け、今にも何か噴き出しそうだ。テーブルに沿って迂回し、にょっきり突き出たハンドルを握る。
 締め直して引いてもびくともしない。使わなければ取れない仕組みなのか?
 コップを宛がってひねると、勢い良くおがくずが舞い、視界が茶色くかすんだ。あわてて締めようとするが、喉がむせるやら目がかゆいやら。どうにか止まった時、蛇口は足だけのテーブルで窮屈そうに縮こまっていた。


 その日を境に、僕の日常は少し愉快になった。
 アラジンのランプほどではないにせよ、僕は魔法の道具を手に入れたのだ。
 どんなものからも中身を取り出せる奇妙な蛇口。冷蔵庫に付ければ収納した食品が出てきたし、本に付ければ文字の洪水が起きた。テレビに付けた時は、タレントや番組のセットが転送されるかと期待したが、これは本体の基盤や配線が流出し、一台駄目にしてしまった。
 家の外でも試して分かったことには、蛇口は対象に付けると、僕の目にしか見えないし触れなくなる。要するにいたずらのし放題だ。
 僕が蛇口をひとひねりすれば、工事中で騒音まみれの道路を瞬時に舗装し直すことも、満員御礼の通勤電車から僕以外の乗客を引っ張り出すことも、利益が数値がとうるさい会社のデータベースを盗み、ライバル企業に持ち込むことだってできる。
 平和主義の僕は、もちろんそんな真似はしないが、できると思うと気持ちが大らかになる。それが功を奏したか、万年平社員の僕が、ここ最近は仕事で実績を残せるようになっていた。

     ***

「おい中井、次の社内コンペ、お前も出すんだって?」
 慣れない企画書と取っ組み合う僕に、天敵が声をかけてきた。
「推薦してもらったから。天海も当然出すだろう、お互いベストを尽くそう」
 企画部エースの天海は、僕たち同期の出世頭だ。彼の提案する企画はヒットの連続で、上司の覚えもめでたい。僕が社内の業務改善だの、顧客のアフターケアだのに忙殺される間、社運を左右するプロジェクトで飛び回っている。
「あいにく仕事が多過ぎて、コンペ一つにベストなんて尽くしてられないな。お前のベストがどれだけのものか、俺も楽しみにしてるよ。せいぜい頑張れ」
 たどたどしい僕の手付きをせせら笑い、天海は僕に背を向けた。忙しいと言いながら、わざわざ人のデスクに押しかけて自慢する。僕はこいつが心底嫌いだが、実力の差が推し量れないほど無知でもない。だからずっと愛想笑いで濁してきた。しかし、それも今日限りだ。

 蛇口を初めて人に使った時は、ひどく緊張したものだ。
 テレビのように壊してしまったら、僕は殺人者だ。見えない蛇口から犯人が特定されることはなくても、一生罪の意識に苛まれる羽目になる。
 自分を実験台に確かめた。蛇口を人間に付けた場合、出てくるのは頭の中身や胸の内。理性の奥に眠る、本性という源泉を汲み上げることができるのだ。
 女子社員の敵だったセクハラ役員を暴走させ、地方に飛ばされるように仕向けたり。要注意クレーマーの闘争心を絞り、多少大人しくなってもらったり。無茶なノルマを課す上司の熱血を抜き取り、部内の雰囲気を平穏に保ったり。壁に隠れた水道管のように、僕はみんなの目に触れないところで、会社に貢献し続けてきた。

「ちょっと待て天海、髪に糸くずがついてる」
「何!? ……どこだ」
 顔をしかめて髪を探る天海の頭頂に、素早く蛇口をねじ込んだ。企画書のフォーマットが入ったディスクを近付け、アイディアをひねり出す。
「取れた。もういいぞ」
「……ありがとう。じゃあな」
 透明な蛇口を生やしたまま立ち去る天海を見送り、僕はほくそ笑んだ。
 裏方作業の多い僕は、『ありがとう』と感謝を向けられることに慣れている。たとえその場限りの口先だとしても。
 僕だって天海のように、一度くらい『さすが』と尊敬され、『すごい』と羨望まじりの称賛を浴びてもいいだろう。気の進まない奴が惰性で取り組むより、やる気のある人材に任せた方が、企画ももっと成功するはず。 
 コンペの期限と今後の展望で頭が一杯の僕は、天海の蛇口をきちんと締めなかったことも忘れ、企画書の仕上げに力を注いだ。

     ***

 天海が出先で倒れたのは、僕の企画書がコンペの提出期限に滑り込んだ数日後だった。
 医者の診断は過労とストレス。アイディアを出す際、蛇口を最後まで締めなかった結果、仕事人間の天海はアクセルが踏みっ放しの状態になった。
 寝る間も惜しんで仕事に没頭し、自滅。関わるプロジェクトは軒並みブレーキがかかり、本人も当面の入院を余儀なくされた。

 見舞いになど来てほしくないことは百も承知で、僕は天海の病室を訪ねた。
 やつれきった天海の頭から、未だにだらだら熱心を垂れ流す蛇口を締め、引っこ抜いた。
 ――ぼんやりさ迷う天海の目が、僕を認めて薄く笑った。
「俺から企画を横取りしといて、コケたら承知しないからな」
 その一言が突き刺さり、僕は逃げるように病室を後にした。
 皮肉屋な天海流の激励だったのかも知れない。くだんの企画書がコンペを通り、僕がプロジェクトリーダーに決まったことが耳に入ったのだろう。一方、選に漏れた天海自身の企画書は、アイディアの欠片もないと酷評されていた。

 帰り道、僕の足は恐怖に震えた。
 発覚するか否かの問題ではない。魔法の道具を得たと有頂天になり、親切ごかしに他人の中身を操り、欲に駆られて悪用した。僕はなんて性根の歪んだ、恐ろしい人間になってしまったのか。

 ポケットの中で、蛇口がぐねりとのたうつ。
 恐る恐る取り出したそれは、ハンドルをぐっともたげ、吐水口からちろちろと二又の舌を覗かせた。銀色に輝く鱗のない蛇は、にたりと笑っているようだった。
 蛇口が蛇の形に似るのは、水神の使いを模しているからと聞いた覚えがある。――そうか、僕は神様の罰を受けるのだ。自分の理屈を人に押し付け、毒を吐き続けた報いだ。
 蛇口蛇は僕の手を這い上り、頭上に達してとぐろを巻いた。三角頭のハンドルが目一杯開かれ、僕の中に渦巻く諸々がほとばしった。真っ黒に腐敗した毒と不満は永久に思えるほど流れ続け、やがてぴたりと止まると、僕は空っぽになった――。

     ***

 意識が戻ったのは、ベッドの上だった。
 横たわる僕を、入院着の天海が見下ろしている。
「……頑張れとは言ったけど、それで自分が倒れてりゃ世話ないぞ」
 俺も人のことは言えないか。苦笑する天海の目は穏やかだった。リーダーが立て続けに倒れ、コンペのプロジェクトは白紙に戻るという。天海にも、会社にも多大な迷惑をかけた。僕一人で負いきれる責任ではない。
 涸れ果てたはずの感情が揺さぶられ、僕は天海にことの顛末を洗いざらい吐いた。
 支離滅裂でにわかには信じがたい話を、天海は黙って聞き通し、話し終えた僕の頭をそっとなぞった。――キュッと蛇口の締まる音がした。
「中井。実は俺、お前がずっと羨ましかったよ」
 出世頭の天海が、うだつの上がらない僕の何を羨むのか。理解できない僕に、天海が笑って続ける。
「がむしゃらに仕事して実績上げて、褒められるのには慣れてても、お前みたいに、人に感謝されることは少ないから。相手に親身になって寄り添えるところ、俺の気付かない、細かい目配りのできるところ。羨ましくて、勝手に妬んで突っかかってた」
 絞めた蛇口を再び開き、天海が僕の頭から何か汲み出した。続いて取り外した蛇口を、今度は自分の胸に取り付け、ひねる。
 透明な液体がこぽこぽあふれ、蛇口も透き通って消えていく。――キュッと終いに一声鳴き、天海の手に、満たされたコップが二つ並んだ。
「水は流せば涸れるけど、人の心は涸れない。たとえ涸れたと思っても、必ずまた湧いてくるし、こうやって、お互いに分かち合うこともできる」

 僕と天海の手に、交換されたそれぞれのコップ。
「今回は痛み分けだ。次は負けないからな」
「望むところだ」
 ――カチン。澄んだ音で、二つの心が触れ合った。