姉妹教会のコラムを読んで

ふと思索していることを、裏打ちされた気がしたので一筆。

世の中に仕え、奉仕するのも教会の大きな役割。ですが、実際は「結婚式くらいでしか縁がないわ」と思っていただけたら、まだいい方くらいなものです。
誠実という名の勇気をしっかり持って、知恵と実践を携えて、日々世に奉仕できたら良いと思います。さりとて、自己保身の強い引力を振り切れないのが、実情という方も多いのではと感じています。私自身は少なくとも、そうです。

具体的に勇気を持つための方策は、日々の学びと祈りとのうちにありましょう。心身のトレーニングと同じような面があります。積み重ね無くして、いざという時発揮はできません。

まあ、なんとか、勇気と知恵を持った気になって、聖書の言っていることを、伝える段に至れたとしましょう。

そこに、陥りやすい罠のひとつを見るのです。

「正しい、本物の神さんを伝えよるけん、少々の無茶はええんじゃ!」

この心理は、真理からは遠く離れています。無許可で教会の宣伝広告をそこらに掲出したり、対話の形式を一見とりながら「信じなくてはならない」と恫喝したり……。

相手を尊重するこころは、そこにありません。また、世の秩序を徒に乱すのは、秩序をも創造された神の御旨に大きく反します。クリスチャンたるもの、無思考ではいけませんが、素直に世の秩序や法を守るのが道理。混乱混沌をもたらせとは、聖書に書いてはありません。

もちろん、聖書の基準に生きようとする際には、世の中から衝突を持ちかけられてしまうことも多々あります。「和を乱す洋物の宗教風情が!」と言われたことが私自身多々あります。その際には、冒頭でも触れた、愛と誠実による勇気が問われます。右のほほを打たれたとき、左のほほを差し出せるか。

私自身、2000年代に入ったころ、街中でからまれてもみ合いになったことがあります。思わず口をついて出たのは、「打ちなさい!それだけの責任を負う覚悟があるなら!」でした。相手の青年はハッとした表情になりました。左のほほを差し出すことをせず、言葉でカウンターパンチを打ってしまった私も、ハッとしました。不当な暴力に知恵で返せたと甘く見積もれば、まあ、アリなのかもしれませんが。

結局、青年はバカバカしさに気づいたのか、「ええわ、もう……変わったやっちゃな……」と笑いだして、去っていきました。

程なく、浅知恵で保身を図ったと気づいたとき、むしろ自分にぞっとしたのを思い出します。勇気というもの、まだまだ私には身についていないようです。

話が蛇行しました。

世の中で、何かを伝えるというのは、やはり甘くないのだなという点がひとつ。それでも、どんな時にも誠意・真心だなというのがひとつ。このあたりを踏まえて、伝道はもとより、今後のnote上での創作や執筆へとつなげてまいります。押し付けや混乱を離れて。ありとあらゆる分野部門の、ホッとするものをお届けできたら、と。

長くなりました。こうして、次第に私「コイツ」の姿も、ご覧いただけることと存じます。これからもどうぞ、ご贔屓のほど、よろしくお願いいたします。

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