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2022年11月17日

今日たこ焼きを食べながら、最近読んだ本について考えた話。

今日は朝から突如たこ焼きを食べたくなる衝動に駆られ、気持ちを高揚させながらたこ焼きを買いに行った。そして迷った末に王道の味にし、数分待ち、たこ焼きを受け取る。すぐさま香ばしい油の匂いを放つたこ焼きを嗅ぎたいけれども、ダイソン級の吸引力を持った鼻息を持っている私は鰹節を吸い込んでしまうことを危惧しやめる。誰かにそんなシーンを見られたもんなら、名前が服部愛子からダイソン愛子になりかねない。でもうちはダイソンよりルンバの方があだ名として呼ばれるならかわいいから、仮に見つかったら頼むからルンバにしてってお願いしようと思う。そんなことを考えながら、待ちに待ったたこ焼きをほうばり、カリっとたこ焼きを噛む。ああ、熱い、待てばよかった、、と思いながらも実はこの舌に容赦ない熱さは嫌いではない。

だがしかし、何かがおかしい。

んんんんん??

熱さの先にはファンファーレが響き渡る幸せが待っているはずなのに何かがない。おかしいぞ。不味くはないのだがいまいちインパクトに欠ける。そして私は気づいてしまった。「たこがはいっていない」のである。中には申し訳程度の天かすとネギと紅生姜。これじゃあただの焼きである。あたしゃ、このただの「焼き」を食べるために暑いなか歩き

なんか書くの疲れたからやめる、さっさと本題に入ります

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「たこ焼きにタコが入っているのと同じように中身が詰まった言葉で語れる人間になりたい」

今の自分の言葉は他人から借りてきた言葉に過ぎなくて何も説得力がない。どこかの大学教授が中身のないこうあるべきだと現実味を全く帯びていないべき論を自慢げに語るのと同じように。

言葉ってのは経験と結びついて初めて真の言葉になる。この世界に地に足つけて生きて、辛くても生き延びて、その上でやっと言葉に重みが出てくる。自分の発する言葉に責任を持てる、自分の中から形成された言葉が言える、そんな人になりたい。しかも私は教育の世界に戻ろうと思ってるからこそ、言葉に伴う行動をしなければ。実行動の伴ってない言葉を子供に投げかけたとしてもそれは響かない。なぜか子供って不思議なことに、こういうことがわかるんだよね。「あ、この人の言葉は上部だ」って。

あと、今までいろんなこと学びたくね?って思って教養を学ぼう!とか思ってたけどそれも私自身教養が何かよく分かってないのが本心。そもそも今、巷で言われている教養やリベラルアーツって、言葉自体が意味よりも先行してしまって、形骸化してしまっている感じがする。今の時代は答えのない時代だからそんな時代で生き延びるためには自分で考えられる人間にならねば!そのために教養を学べ!って言葉をそのまま信じて、やすやすと学ぼうとする人がいるもんならば、それはいかにも教養がないことを自ら露呈してるよ。メディアの煽りや時代の流れに流されちゃっとるやん?そもそも教養って、そういった流行や世間の評判に捉われないで、一旦立ち止まって俯瞰的に物事を見ようよ、本質を捉えようよってものなのに

そんで本当の教養ってもんは、大学と言った教育機関で学べるものじゃなくて、この辛い世界を(私は世界なんて何もわかってない)ああでもない、こうでもないと悶え苦しみ、時には粉々になってってそういった艱難辛苦の経験の中から自然と学べるものなのではないか。風邪ひいたらネギを首に巻けみたいな、科学的根拠なんてで 1ミリもないけど、なぜか効果があるおばあちゃんの知恵みたいな、経験でおばあちゃんたちが身につけて行った豆知識と同じような感じ。だからこそ人によって、必要になるものも経験するものも見るもの全て違うわけで、そういったものの中で教養が培われるとするのならば、そもそも教養とはズバリこれだって定義づけなんてできないのでは。だからこそ、教養を教えるだなんて不可能だと思う

たとえどっかで本読んだり、誰かに教えてもらったり、大学で学んだりする中で身につけたとしても、それは教養なんかじゃなくて、ただの知識にすぎない。さっきの言葉の話と同じ。

教養も、言葉もみんな自分の経験と結びついて初めて真の教養や言葉になる。(だからこそ今書いてる文章も経験が伴ってないから未完成)

ってヤマザキマリさんの本を読みながら思った

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