東京生まれ東京育ち〈タイの田舎暮らし②〉
2022年12月20日
いかに自分の価値観が東京での生活から影響しているのかというのを実感した。19年間の何気ない毎日だったけれどもそれは実は私に気付かぬうちに大きな影響を与えていたのだ。素足で歩けない自分、若干冷たいシャワーの水、ご飯に蝿が止まっているの拒絶。何かと「汚い!アルコール消毒!洗わなきゃ!」と思ってしまう。しかしその感情の理由は、今まで自分が綺麗な環境で育ったからだと思う。(潔癖症であるのも一つの理由でもあるが) 今持ってる自分の価値観はあたししか持ち得ない大変な個性で、私の環境で育ったから持つことがてきたものである反面、それは自分の慣れ親しんだ価値観の枠から出ることを阻害しうる存在にもなる。どうしても自分の知っているものを優位にみてしまう。「食べず嫌い」という言葉があるけど、まさに今の状況を説明する打ってつけの例だと思う。食べてもないのにこれはまずいと、自分に勝手に思い込んでしまうこと。そしてこの時、どうやって食べてもないの美味しいまずいがわかるのかというと、自分の経験から。結局、自分の知らないものは怖いと感じてしまうのだよ。そして知らないものから逃げる言い訳として、「まずい」と決めつけてしまうのだ。
けど、そんな中ひとつ思うのが、もし私が東京以外の街、例えば今いるタイの田舎のような場所で育ったら、どう感じるようになったんだろう、汚いなんて思わないで当たり前なんだと思えるんだろうか。きっと汚いなんて思わず、当たり前だと感じられたんだろうな。人間には一人一人にその人なりの当たり前があって、それは誰が上で下だとか優劣なんてない。ただその人が生きてきた環境がそうさせただけで、別にその人に罪は何もない。そうなんけど、人間って自分の価値観を絶対視してしまう生き物で、相手の文化を否定し、自分の文化を押し付けてしまう。こういうことが西洋中心主義の考え方と植民地時代を作ってしまったんだろうな。自分よがりになってしまう、という問題に対してお医者さんが処方する薬みたいに最適な解決策なんてよくわからないけど、私が思うに、「まずは郷に入れ」だと思う。「郷に入ればごうに従え」ということわざがあるけれども、その前に郷に入る必要がある。入らないと何も始まらないし、入らないままいると食べず嫌いみたいに独断と偏見が次々に湧き出てきて、何もできなくなってしまう。けど一度入ってしまったら、そこで生活しなければならないわけで、否が応でも郷に従えるものだ。だからこそ相手の価値観が育まれる環境に自分を無理矢理にでも入れて見ることが大切で、そして初めて何か見えてくるものがある。初めはその文化に戸惑いや拒絶があるけど、意外にも、いけるものでひょっとすると新しい文化の方が自分に合っていたり。だってまあ、同じ人間なんだもん、起きて食べて寝る、みんな何ら変わりなんてないんだよ。
あと、「よく若いうちは海外へ行け」なんていうけれどもこの言葉は本当なんだと思う。若いうちって、それまでに形成された価値観が半熟卵のように未熟だから、どうにだってなるしやり直しがつく。自分がいかに偏った価値観で育ち、自分の価値観の元を知れ、他の人にも自分と同じような当たり前が存在する。そういうことを知るだけでも、自分と他者を俯瞰に見ることができて、国や性別、宗教、学歴のような肩書きで人を判断することなく1人の人間として見れる目が育つのではないかなって思う。(海外きてまだ四ヶ月とちょいしか経ってないのに何大きなこと言ってるんだろ笑、けどマレーシアに関しては4ヶ月、タイに関しては2日しか経ってないのにこんなに発見があるのだから国を出ることは、よくわかんないけれどもな何かがすごいんだよきっと。)
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