日記を毎日書くことで生活の空虚さに気づく

 日記を書き始める前には「日記を毎日書いていれば何かしら良いこと起こるんじゃないかなー日々の暮らしに面白味が増すんじゃないかなー」と漠然と考えていたのだけども、そんなことは一切起こらなかった。せいせいするほど今までと何も変わらず、良いことは何も起こらず、ただ言いようの無い苦しみだけが積もる日々が続いている。

 たまに楽しくなる日もあるのだけども、それも五日に1回程度だ。まあこれくらいの頻度で楽しくなれるのならまだマシかもしれない。それ以外の五日に4回は「書くこと何もねー禁煙つれーゲームやっていてー日記書くの止めようかなー」という気分で書いている。そんな気分をしてまで日記を書く必要はあるのか? 無いのだが、世の中の全ての営みは無意味なので、そこは気にしていない。重要なのは日記を始める前に曖昧に立てていた仮説「日記を毎日書いていれば生活が楽しくなるのでは?」が、完璧に間違っていたということだ。

 日記を書くことで自分の生活の空虚さに対峙しなければならなくなり、逆に辛さが増したと言える。日記にはその日一日に成し遂げた何かがそのまま反映される。何もせず寝ていたらそれこそ禁煙の苦しみと睡魔についてしか書くことが無くなる。ゲームしかしていなかったらそれについて書くしかない。そのようにして、自分の生活が日記というフィルターを通して可視化されるのだ。

 特に書いているときが顕著だ。その日一日が楽しければ日記を書いていても楽しいし、その日一日が空虚なら日記を書くのがとんでもない苦痛に変わる。そんな感じで、9割くらいを苦痛のまま暮らしてきた1ヶ月だった。

 でもそんな空虚な日記を毎日書いていて、それで良かったこともある。自分の生活の空虚さに慣れるのだ。「空虚でない生活にしてやるぞ!」とたまに意気込むこともあるのだが、それも長くは続かない。”日常”は人生の9割以上を占める。日記を書くことで、日常を渡り歩いていく術が身につくような気がする。

 生活は空虚だし、特に何も起こらない日々が続く。それが気に入らず無理にイベントを生活へ組み込んだとしても、そのイベントすら繰り返している内に日常へ回収されていく。この空虚な日々を受け入れることが肝要なのでは、と思う。主張したいこともなく、言うべきこともなく、面白かったこともない日々だけども、それが日々の生活というものだ。できる限り気分よく過ごすことを目標にしよう。


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