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暇すぎて小学生時代の頃を思い出す

 一応は労働をしているはずなのに暇な感覚が抜けない。職場へ行かずに労働をしていると、可処分時間が増えるに増える。通勤時間だけでなく、働いている時間に家事や食事を済ますことができるので、もろもろ含めて自由な時間が増えていく。

 土日なんかもやることがない。やるべきことは全て平日に済ませてしまうからだ。これは良いことなんだが、良いことなのに「暇だなー」という気持ちが強くある。今(土曜日の昼間)だって本当にやることがない。

 この”やることのなさ”は小学生時代の休日を思い出す。あの頃もやることがなかったのでゲームばかりしていた記憶がある。クリアしていないゲームをやり、クリアしていないゲームが存在しなくなったらクリア済みのゲームのスコアを高め、そうこうしているうちに新しいゲームを買ってもらえる。そんな生活だ。

 昼間は大抵そうやって過ごしていた気がする。全く創造性の無い子供だった。とにかくゲームをやっていた。今も大して変わらない気がする。

 実際、今だってやることがないので何かをやろうと思ったらゲームくらいしかないだろう。文章を書くわけでもないし、絵を描くわけでもないし、工作をするわけでもない。三つ子の魂百までと言うが、子供の頃の人間性が大人になって変わるかといえばやはり変わらないものなのかもしれない。

 最近になって思うのは、今のインターネットで何かを楽しむためには積極的に発信をしないといけないな、ということだ。10年前くらいだったら匿名で見ているだけでも楽しめた。これは各々のコミュニティがある程度まとまっていたおかげで、匿名であってもそこに参加している感覚が得られたからだと思う。

 今のインターネットはコミュニティが分散しすぎているせいで、何も発信していないとそれこそどこにも属せない。小規模であれ、受け身ではなく攻めの姿勢でいかないと娯楽すら楽しめないのでは、と思う。

 ゲームをやるにしても、ゲームをやって終わり、だけだと余程感激しない限りはそれ単体では面白くない。ゲームのレビューをSteamみたいなプラットフォームに書くなり、noteみたいな別の場所に書くなり、もしくはプレイ画面を録画して加工してyoutubeに上げるなりしないと、真に楽しめていないのでは、と感じてしまう。これは考えすぎだろうか。

 小学生の頃みたいにゲームならゲームで完結した楽しみ方をしたい。でもインターネットがこれだけ発達した現代においては、それはなかなか難しいように感じる。今更だけど、こういう感覚があるからソシャゲが流行ったんだろうな。本当に今更だけど。

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