先生とこたつ(BL小説)

 煙草が高くなりましたね、と、先生が言う。白くて骨ばった指先に、新聞の紙は妙に硬くてつやつやして見える。
「高くなったんですか」
「悪夢が現実になった感じの値上がりですね」
「はー」
 俺には煙草のことはよくわからない。成人してまだ二年だし、周りの同世代にも吸ってるやつはほとんどいない。臭いし、正直まだ大麻とかのほうが吸いたいぐらいだ。親もどっちも吸ってなかった。じいちゃんは吸ってて、吸ってる間は近くに行っちゃだめだって言われてた。実際近づくと咳き込んだ。そう言うと、先生は眼鏡の奥の灰色がかった茶色い目を細める。角度によっては少し緑にも見える。この薄い色が加齢のせいなのか、若いころからそうなのか、はわからない。会ったばっかりの頃の先生に聞いても「さて」と言われてしまったので、確かめるすべがもうない。
「僕、そのじいちゃんと同じぐらいじゃないですかね」
 そんなことはないだろ。と思うけど、じいちゃんっていくつだったっけ。計算してみる。
「七十六歳」
 のはず。
「一回り違いますね。安心しました」
 先生は六十四歳。これは計算しなくてもすぐわかる。恋人の年だから。恋人。本当に恋人なのかな? これは確かめるすべがある。聞いてみればいい。でも聞くのが怖い。聞くのが怖いと思ってることを知られるのも怖い。六十四歳。じいちゃん、俺が中学生のときにはその年だったんだ、と思う。でも今一緒にこたつに入っている先生の細くて繊細な体と、じいちゃんの肉の厚くて重そうな様子は全然重ならない。
「先生煙草吸ってないよね」
 もしかして俺の知らないところで吸ってんのかな、と思って、ちょっと嫌な気分になった。
「禁煙中です」
「いつから」
 先生はふっふっ、と息が漏れるような笑い方をした。
「ざっと十年前から」
「それ禁煙っていうか、やめたんじゃ」
 ううん、と、先生は小さくうなる。
「そう言うにはまだ未練がありますからね」
「未練」
「値上がりすると忌々しいなと思うのは、未練でしょう」
「なんでやめたんですか?」
「肺炎で入院したからですね」
「未練も捨てましょうよ」
 ふっふっ、と先生は笑う。
「なかなか捨てられないのが未練ですよ」
 なんかその言い方が、ちょっとやだなあ、と思う。教え諭すみたいなやつ。でも先生に対するやだなあ、って気持ちはだいたい先生の魅力と裏表なので、ふーん、と言ってごまかす。
「十六から吸ってましたから」
「不良じゃん」
「心外ですね」
 全然心外そうに見えない。
「二十歳になったからやめるっていう人もいましたね。そういう時代だったんですよ」
「へー」
 昔のドラマとか映画を観ると、確かに老いも若きもやたらと煙草を吸ってるなと思っていたけれど、あれは演出じゃなく、本当に吸っていたのか。考えただけで咳き込みそうになる。
「体に悪いよ」
「そういうの、今ほど一般的じゃなかったですね。あと、体に悪いっていうのを気にすることが、恥ずかしいというかね、そういう空気がありました」
「闇の時代じゃん」
 ふっふっふ。先生は頬杖をつく。頬を覆う長い指。小さな皺が寄ったさらさらした肌が手の圧力でゆがむ。乾いていて、なんとなく優雅で。この人が煙草を吸うのも、きっと優雅だっただろう。十六歳のこの人。
「闇の時代」
 先生の薄い唇が繰り返す。
「怒った?」
「僕はヘーゲル的歴史観の持ち主ですからね」
「わかる言葉でしゃべって」
「未来はよくなると思っているタイプなんで、否定はしません。過去は闇です」
「十六歳で煙草吸いだしたのって、闇のせい?」
 先生ははて、と言う。
「なんで吸い出したんでしたかね」
「覚えてないの?」
「なんとなく十六歳ぐらいから習慣がつきましたけど……初めて吸ったのはもっと早かったですよ。中学生……いや、小学生かな。大人に一本もらったりね」
 小学生に煙草をやる大人。
「闇じゃん」
 ふっふっふ。先生は笑う。
「そういうものがお日様の下にある世の中だったんですよ」
「俺昭和に生まれたら昭和のうちに死んでたと思う」
 先生は面白そうに俺の体を見下ろした。182センチ。先生とは身長なら十センチ、体重は二十キロぐらい違うかもしれない。でも子供の頃は普通に病気をいっぱいした。煙吸うだけで咳き込んでたんだから煙草なんか吸ってたら大変なことになってたと思う。
「先生は闇の時代を生き抜いたんだね」
「まあ、そういうことです」
「よかったよかった」
「本当ですよ」
 頬杖をついたまま、先生は部屋を見回す。わりと広いはずのマンションは、少しの隙間があれば本棚が、棚がないところには本が挟み込まれている。日本語の本も英語の本も、それ以外の本も。今もこたつの上には本が三冊置いてある。先生は何冊かを並行して読むタイプだった。
「実際煙草なんて悪いところしかないですね。本もどれだけ傷めたことか」
「もう吸っちゃだめだよ」
「しませんよ」
 はっきりした返事に、ちょっと驚いた。先生はいつも言葉に余白を持たせるような話し方をするから。
 両手の指を組んで、その上に顎を乗せている。カーブのきついレンズの向こうから、俺の顔を見つめている。どうやって作られたのかわからない、不思議な色の瞳。
「綺麗な肺の若い子と付き合ってるんで、できる限り長生きしたいんです」
 俺はこたつに突っ伏した。ふっふっふ。先生は笑いながら、とん、とこたつの中で俺の太ももを蹴った。

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