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思い出される人のこと⑥

思い出される人のことも今回からは私の小学校時代になります。
私は、習志野市立大久保小学校を昭和39年に入学し、昭和45年に卒業しました。
私の当時の住所は船橋市ですから、越境ということになります。
なぜ、越境したのか…。
親が決めたことなのでわかりかねるところなのですが、船橋市の小学校の通学路は物騒であった、と母からは聞いているのですが、そんなに差があったとも思えないので、本当は何が理由だったのかな、と考えることが時々あります。
当時習志野市は急激に人口が増えていて、私が入学した年に大久保東小学校という小学校が新しくできました。正確に言うと、大久保東小学校は既にできていて、できてはいるものの、校舎が完成していなくて、もともとの大久保小学校の校庭にプレハブ校舎を建てて居候していたのでした。
それが私が大久保小学校に入学した4月に新しい学校に移ったのでした。
私たち新入生は大久保東小の生徒が出た後のプレハブに入学したのでした。
というのは、大久保東小の校舎の建て替えに引き続いて、大久保小学校の校舎の建て替えを始めたのでした。
本来の校舎がある反対側、校庭を挟んだ形で建っていたプレハブ校舎、一階建てだったように思いますが定かではありません。
そこで何を学んだのか、友達にはどんな子がいたのか、先生はどんな先生だったのか記憶が何にも残っていません。
それでもかすかに残っていること、
小学校一年だったか二年だったか、多分一年の時の同級生にたしか江口君といったと思うのだけれど、ちょっと個性的な子がいました。
男の子、授業中も席にじっとしていることができなくて、動いていたのと、友達とのコミュニケーションもつっついたり、叩いたりというコミュニケーションの取り方をしてくるので、ちょっと怖い存在でした。
パンツを穿いていなくて、手ぬぐでふんどしのように腰の周りを覆っていたのが、あるときひょんなことからバレて、同級生にからかわれていました。
いつも怖い想いをさせられていることもあって、そういう時の同級生は、冷たかったと感じました。
二年生になって、特殊学級に編入したと記憶します。
今なら、こういう子をどう扱うのかな、と思います。
もう一人、これは何年生の時の同級生かもはっきりとしないのだけれど、多賀谷さんという女の子がいました。
全然美人じゃないし、勉強もできる方ではなかったけれど、健気な感じがして印象に残っています。多分お家が大変だったのだと思います。
私が大学に入ってから、休みで帰省したときに、近くの商店街で働いていたのを見かけたことがあります。
たしかお団子やさんで売り子をされていました。
ちょっとお話ししてみたかったけれど、話はしなかったですね。
もう一人、田久保君という子がいしまた。
多分小学校四年の時の同級生。
割とよく話しをした記憶があります。とはいえ何を話したのかは思い出せない。優しい静かな子だったと思います。
お家が農家だったと思います。今頃どうしているのでしょう。
こうしてみると小学校時代は割と友達の少ない子だったのかもしれません。



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