APS開学の思い(2) 大学を、格差を生む装置にしない。

大学はどうあるべきかとか、研究とは論文とは、ということに悩んでいる大学の先生って、割と多いんです。

というのも、残念ながらいまの大学の形が、本来の大学の理念からは、どうしても離れざるを得なくなってしまっているからです。

本来的には、大学は学びたいと願う全ての人に開かれているべきであり、研究成果は広く世に公開されるべきだと考えられています。

プラトンのアカデメイア以来、大学の理念は、知に拠って生きることを善とし(善く生きる)、それを可能ならしめるために知の領域を広げ(研究)、それを普及させる(教育)ための機関として大学は出来上がっています。

実際のところ、経営の世界をみても、知の力があればこそ、高度なマーケティングができたり、組織のマネジメントができたり、データに沿った経営が行えたりするわけで。知に拠って生きることで、組織は効率的になり、人は働きやすくなり、消費者にはよき製品・サービスが届くようになる。

だとすれば、学問の知識は、なるべくなら多くの人に手にしてもらいたいわけです。一部の人だけが占有したならば、知る者と、知らざる者の間での、知識を媒介にした格差の源泉になってしまう。

それでは、現在の大学制度はどうか。

仕方のないことでは、あるのです。経済システムの中で存続するためには、学費をとらねばいけないし、教育の水準をコントロールするためには、選抜試験のようなものは必要不可欠です。法制度の規制もある。文科省によって各大学に入学定員が割り当てられているのですから…

ともあれ。大学は、狭き門となっています。そうせざるを得ないのです。高い知能水準と、十分な経済力とを有している人だけの世界。意欲や、知を必要としている程度によってではなく、現時点の学力と経済力とによって選抜する機関となっている。

研究論文を書いていると、この問題にさらに深刻に直面することになります。いまや、上級学術誌の論文は数十ドルの値段で売買されます。その値段を払って手に入れたとして、やたらと難解に記述され、「学びたい」とする人が容易にアクセスすることを拒むものになっている。

こんなことでいいのか。

そう思ったからこそ。真にアカデミシャンでありたいと願って、私はまずYouTubeをはじめ、そして今、APSを立ち上げることにしました。

幸いにもその思いには、私以外にも少なからぬ大学の先生たちが共感してくださっています。そうした先生たちに巡り合えたのは、私にとって非常に幸いなことでした。

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