第16回「紅白歌合戦と新春かくし芸大会」
2024年は能登地震、日航機炎上というショッキングな出来事で平穏な日常生活の大切さを実感する波乱の幕開けとなりました。
テレビ全盛の頃、昭和の穏やかな年末年始には国民的番組と言われる番組がありました。このいずれにもクレイジーキャッツは関わっていました。
年末の番組は、今でも続いている「紅白歌合戦」(NHK)。最高視聴率は1963年の81.4%。
植木等さんの「スーダラ節」は1961年8月に発売され、大人から子供まで社会現象となるほどの大ヒットとなりましたが、その年の紅白にはお呼びがかかりませんでした。
植木さんの初出場は1962年、「ハイそれまでョ」で登場、強烈な印象を残しました。最高視聴率となった1963年には白組のトリ前24番目に登場、クレイジーキャッツのメンバーも加わり、「どうしてこんなにもてるんだろう」「ホンダラ行進曲」の2曲をメドレーで歌い会場を大いに盛り上げました(紅白で2曲歌ったのは初めて)。1964年は「だまって俺について来い」、1965年は寺内タケシとブルージーンズのエレキ演奏をバックに「遺憾に存じます」と4年連続出演。1966年は、ハナ肇とクレイジーキャッツとして「チョッと一言多すぎる」、1967年「花は花でも何の花」で出場しました。その後も1968年、1969年、1970年、1972年にハナ肇とクレージーキャッツとして応援ゲストで出場、1975年にはハナ肇さん、1993年には谷啓さんが単独で応援ゲストで登場、1993年には植木等さんが審査員で出演しています。
平成に入って1990年の紅白歌合戦には植木等さんが数々のヒット曲をメドレーにして吹き込んだ「スーダラ伝説」をひっさげ23年ぶりに歌手として復活。司会の西田敏行さん、北島三郎さん、森進一さん、五木ひろしさん、谷村新司さん、布施明さんなど白組出場メンバー総出の応援をバックに明るくパワフルな歌声を披露し、白組優勝に貢献しました。植木さんに対抗する紅組の曲は、ちびまる子ちゃんのエンディングテーマとして大人気のB.B.クイーンズによる「踊るポンポコリン」でしたが、これらを抑え、この年の紅白の歌手別最高視聴率56.6%を記録しました。
「新春かくし芸大会」(フジテレビ系列)は、1964年から2010年まで、基本元日の夜に放送され、オープニングは晴れ着姿の出演者による「一月一日」の合唱でスタート、1980年代初頭までは視聴率30%以上、最高は1980年の48.6%という人気番組でした。クレイジーキャッツの「おとなの漫画」や「ザ・ヒットパレード」のディレクターのすぎやまこういちさんの企画(当初は演出も)でスタートし、渡辺プロダクションとフジテレビが制作しました。
出演者が出身地により東軍と西軍に分かれ、この番組のために練習した芸を競う番組で、1965年から1980年までは東軍キャプテンがハナ肇、西軍キャプテンが植木等。クレイジーキャッツ、ザ・ピーナッツ、ザ・ドリフターズ、沢田研二さん、森進一さん、布施明さん、中尾ミエさん、伊東ゆかりさん、園まりさん、梓みちよさん、奥村チヨさん、キャンディーズ、小柳ルミ子さん、天地真理さん、アンルイスさん、アグネスチャンさん、太田裕美さんなど渡辺プロダクション所属タレントや堺正章さん、井上順さんをはじめ後期には渡辺プロ以外の人気・アイドルタレントも多数出演する正月らしい華やかな番組でした。
番組の人気コーナーとして、珍しい楽器演奏や伝統芸能披露、英語劇・中国語劇、堺正章さんの個人芸などありましたが、特に印象に残っているのがハナ肇さんの銅像コントです。渡辺プロ発足時からの功労者であるハナ肇さんが銅像に扮し、身動きできない状況で、後輩タレントたちが手加減なく銅像に水やペンキをかけたり、モップで顔を拭いたりするコントですが、ハナさんが亡くなられる直前まで続けられました。ハナさんは「思いきりやらないと面白くならない」と遠慮しがちな後輩たちに言っていたそうで、テレビ黎明期をクレイジーキャッツのリーダーとして牽引し、「ナベプロ帝国」とも言われた芸能プロのリーダーとして活躍したハナさんの面目躍如たる人気コーナーでした。
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