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藻塩橋


JR田町駅の東口を出ると、駅前のバスターミナルとは少し離れた所に藻塩橋という名の橋がある。ここは川沿い、橋の多い街だ。
高層ビルに遮られ、うねるように吹く川風は力強く、時に僕たちをいたずらに弄ぶ。




25年位前になるだろうか。
そのバス停の前に建つ高層マンションの一室に友人一家が住んでいた。
ある日、僕たちはその友人宅33階のベランダから川に向かって紙ひこうきを飛ばした。

誰かが言った。

『この高さから紙ひこうきを飛ばしたらどうなるのかな?』

その魔法の言葉に僕らは幼い好奇心を抑えることができず、一心不乱に紙ひこうきを折った。いくつかの紙の種類と、試行錯誤を重ねた折り方。
思いのほか直角的に落ちていく紙ひこうき。
風を纏い、ゆらりと優雅な放物線を描く紙ひこうき。
狙い通り川に着地することなどなく、人知れず街のゴミへとなっていくそれを、僕たちは飽きもせず、ずっと見下ろしていた。
まだ酒も飲めず、咳き込みながら煙草を吸うような10代夏の話だった。


⁂⁂


そんな僕らも40を超えた。
友人たちの身に起きたいくつかの幸福な出来事と、今後の安寧を願い週末に鎌倉へ参拝と乾杯の旅に出た。
僕たちは右手に缶ビール、左手にはおつまみという不謹慎なスタイルで北鎌倉駅からいくつもの神社を練り歩き、そして山を越えた。
妊娠や安産を願う者、またそのお礼参りをする者。厄を落とすために皿を割る者。三者三様の願掛けをした。
銭洗弁財天では、それぞれが用意したお札や硬貨を水で洗い清める中、僕がふざけてクレジットカードを洗おうとすると、みんなは笑ってくれた。
その後も、祭りで溢れる人波を避けるように街を闊歩し、到着地点の由比ヶ浜まで。
上空を旋回するトビに慄きながら、まだ少し冷たい海水や潮風と戯れる。
海岸線でのしばしの休息を経て、僕たちはそのまま江ノ電に乗り鎌倉駅へ。
桜散る古都を背に、東京は田町へ戻った。


田町は、かのマンションへ。
そこから見える景色は絶えず変化している。
蜘蛛の糸を掴むかのごとく、上へ上へと伸びていく超高層ビル群。
長い工期をようやく終えた札の辻橋。
田町ハイレーンがなくなり、芝浦工大のグランドは土から人工芝に。
変わらないのは東京タワーくらいだろうか。
25年、長い歳月だ。
僕たちもいつの間にか父親に。
そして、今思う。

この高さから紙ひこうきを飛ばしたらどうなるのだろうか?

ただ、僕はみんなの前で口に出さなかった。
少し怖かったからだ。
もしかしたら、飛ばした紙ひこうきがベビーカーに乗る赤ちゃんの顔に当たってしまうのではないか?
はたまた、ふらつきながら歩くような速度で走る自転車の老体の眼前をよぎったら?
などと勘ぐる、至極真っ当な恐怖感を覚えた。

でも本当は違った。

僕が怖かったのは、
「こいつらならやるかも」
という思いだった。
僕の理性的な危機管理を足蹴に、25年前のような純粋な気持ちで紙ひこうきを飛ばすかもしれない。
もしかしたら、自分とは少しずつ、少しずつ、だけど確実に離れていっているかもしれない。
そんなことは考えたくなかった。
僕はそのまま何食わぬ顔で、日暮れと共にライトアップされていく赤い電波塔をずっと静かに眺めていた。


⁂⁂⁂


JR田町駅の東口を出ると、バスターミナルとは少し離れた所に藻塩橋という名の橋がある。ここは川沿い、橋の多い街だ。
高層ビルに遮られ、うねるように吹く川風は力強く、時に僕たちをいたずらに弄ぶ。


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