私が「学習の個別化が必要だ」と、主張する理由

団体の考えにも大きく影響していますが、以下は、私個人の一考え(思想)です。

「学んだ力」から、「学ぶ力」へ

人には自分の人生について選択・決定する権利と自由があり、「学んだ力」ではなく「学ぶ力」は、その選択・決定を実現する上で、社会が保障しなければならないものだ(少なくとも現在の知識をベースに成り立つ資本主義社会、民主主義社会においては)。それは、社会におけるあらゆる基本的な権利の実現を個人に保障するものであり、学ぶこと自体が1つの権利になるからだ。

これまでの社会(工業型社会まで)は、学校で習った画一的な知識・技能またはその延長にある知識・技能を元に、皆が同じ仕事をし、生活していくことができた。ただ、現在の、これからの社会では、学校で身についた知識・技能のみで、人生100年時代と呼ばれる時代を、幸せに生きていくことは難しい。

その時に、学校が、特に公教育が保障すべきは、特定の知識や技能などの「学んだ力」ではなく、学校を出た後も継続的に「学ぶ力(学び続ける力)」だ。脳の発達段階を考えると、成人してしまうと、「学ぶ力」は「学んだ力」以上に身につけづらくなってしまう。学校は、人が社会に出て行く前に、「学ぶ力」を持った「1人前の学習者」として、社会に送り出してやらなければならない。

「学ぶ力」は、「学ぶこと」でしか身につかない

自分の欲求や意志に応じて、目的や目標を設定し、その実現に必要な方法を考え、試行錯誤しながら学習する。自分に何ができて・できなかったか、自問自答し、次の1歩を考えていく。「学ぶ力」とは、そんな力だ。

目的や目標はダイエットでも、社会課題の解決でも、家族の幸せでも、昇進することでも、なんでもいい。固定化・定型化された知識・技能に意味がなくなればなくなるほど(ググればわかる、労働が機械に自動化される)、「学習」は個に帰属するようになり(対して「教育」は社会・全体に帰属している)、「学ぶ」は「働く」に近づき、「学ぶ力」は「働く力」に近くなり、「生きていく力」になる。よく(うまく)働くものは、よく学ぶものであり、よく生きるものになる。

「学ぶ力」は、人から教えられて身につく力ではなく、「自分で学ぶこと」を通じて身につくもの。「学ぶ力」の多くを占めるのは、「自分の学習は自分のもの」という責任感やオーナーシップ、「自分の力で学んでいくんだ」という意志だからだ。それを培うには(もしくはそれを毀損せずに育っていくには)、「自分で学ぶこと」を繰り返すしかない。

学びは、孤独な行為

だから、個に学習の権利と責任を委ねる必要がある。そこでの成功も失敗も、誰のものでもない、全て自分の責任。学ぶとは、最終的には孤独な行為。仕事も人生も同じだ。

何をしていいかわからない。わからない問題ばかりだ。1人じゃ、解決できない。失敗したらどうしよう。だから、人は寄り添い、助け合い、時に同じものを目指して学びあい、働き、権利と責任を委ね合う(ただし、会社においても、学校においても、その全てを人に委ねてしまってはいけない。それは、自分の人生の舵を他の人に渡す行為だ)。「これは自分の人生だ」と、自分で舵を切ろうとする人は、よく学び、よく働き、よく生きる。

学校は、「学びを学ぶ場所」

人生における学習や仕事について、子どもが将来に渡る責任を負うことはできない。しからば権利も同じ。学校は、まだまだ「生きていく力」、つまり「学ぶ力」が十分でないものに、「自分で学ぶこと」をくりかえさせることで、学習の権利と責任を少しずつ委ねていく場所だ。

だからこそ、学校では、(段階的ではあったとしても)自分の欲求や意志を表明できる必要があり、目的や目標を設定できる機会がなければならない。そこでは、大人から見れば無駄に見えるような試行錯誤や失敗も認められ、評価(評定や点数付けではない)されなければならない。1人では実現できないことを協力して実現し、時に対立し、自分の欲求が通らないことがあっても、孤独な時には、助けや支えのある場所でなければならない。1つの「未来の理想的な社会」を模したものででなければならない。

授業では、決められた正解が一方的に教授され、そこには失敗が認められず、同じ方法・やり方で、画一的な正解が求められる。クラスメイトとの協同は、教師のあらかじめ用意したシナリオと答えの通り。そんな授業では、「学んだ力」は身についても、「学ぶ力」は身につかないだろう。過去から「学んだ力」のみを教えることは、未来を生きる子ども達を過去に返す行為。学校は、「学びを学ぶ場所」でなければならない。

私が「学習の個別化が必要だ」と、主張する理由

1人1人がそれぞれのペースで学べる。「学習の個別化」を図ることで、学習を効率化できる。確かにそれも大事で必要なことだ。どうしてもわからない授業を耐えて受け続ける子は、教科の学力だけでなく、学習意欲や肯定感も削がれてしまう。eboardを立ち上げた最初の問題意識は、まさにそれだ。

しかし、私が明確に「学習の個別化が必要だ」と主張するようになった理由は別のところにある。それは、子ども達がこれからの時代を生きていくために必要な「学ぶ力」をつけていくには、子ども達が「自分で学ぶ」しかないからだ。たとえ、それが教科の知識・技能習得の面(点数)で、失敗したとしても。

学校では、失敗の責任は本人だけでなく、学校や先生、学級や保護者で負うことができる(あらゆるステークホルダーが負わなければならない)。点数が伸びないなら、その結果と責任をしっかり学習者にも委ねた上で、一緒に向き合わなければならない。それに対して、いたずらに補習の授業を受けさせる、繰り返しの課題を出すなどは、失敗に対する子どもの思考を停止させ、さらに「学ぶ力」を奪う行為だ。

「学習の個別化」は、基礎・基本をそれぞれにあったペースで学ぶと言う狭いものではなく、授業はもちろんのこと、学校生活のあらゆる面で、その権利と責任を子ども達に委ねていくということ。それが必要になるのは、子ども達が1人の人間として、「学ぶ力」を身につけていくためだ。「学ぶ」ということそのものが、1つの権利となっていく時代に。

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