【短編】どこか遠く、グラスの中の氷が溶ける音がする

 僕は彼女に会わなかった。

 運命的な出会いをし、それから結婚するまでのストーリー。全ての始まりとなるその喫茶店に、入ることを辞めた。
 突然やってきた二度目の選択で、僕は彼女よりも、役者として生きる事に決めた。

 その日朝起きると、27歳の自分に戻っていた。

 懐かしいアパートの燻んだ天井。隙間風が靡かすレースカーテン。手を伸ばし、スマートフォンで日付を確認する。少し寝返りを打つだけで、狭いベッドは嫌な音を立てた。

 2018年、〇月△日。三年前の日付。

 その型落ちしたスマートフォンのディスプレイは、昔の待受を同時に映し出す。洗面所に行き、顔を洗う。鏡を見ると、僅かばかり皺の減った自分と目が合った。

 僕はこの日、彼女と運命的な出会いをする。

 劇の脚本を読むために喫茶店を訪れると、満席の関係で彼女と相席になる。
 間もなく彼女は席を立つが、飲みかけのアイスコーヒーを倒し、僕のシャツが黒色に染まる。その後強引にも連絡先を渡され、彼女との関係が始まる。

 雑誌社に勤める彼女は、役者と関わる機会も多いようで、僕の仕事にリスペクトを表してくれた。
 しかしその反面、売れない役者の厳しさも良く理解していた。

 いつかは結婚の話になる事はわかっていた。彼女には、強い家庭願望があった。別れて役者を続けるのか、結婚のために就職するのか。

 僕は後者を選んだ。こんなどうしようもない自分を好きになってくれた事、そして支えてくれた事。
 彼女が僕に与えてくれたものは、あまりにも多かった。

 僕は彼女に何をしてあげられただろう。何も与えられないまま、時間だけが過ぎてしまっていた。

 夢を諦めるのは苦しい決断だった。
 しかし、彼女の柔らかい喋り方や、美しく靡く長い髪、時を止めんばかりの清廉な瞳。
 そのどれもが、変わらず愛おしかった。

 あの出会いを省略したおかげで、今の僕がある。役者としてひとり生活するには、十分な金を稼げるようになった。
 彼女に結婚を迫られる事も、将来の子供のために就職させられる事もない。僕は僕だけのために生きる事が許されている。

 彼女を思い出す日がないと言えば嘘になるが、かと言って後悔もない。せめて一言彼女に伝えられるなら、夢を捨てた悔恨に日々取り憑かれていた事実を謝りたい。

 彼女には感謝している。

 僕がいない人生でも、きっと彼女は幸せな筈だ。

 2025年、〇月△日。

 いつかと同じ座席に座り、コーヒーを啜る。あの日一度しか訪れた事のない喫茶店だが、内観をしっかりと覚えている。

 約束の時間から、既に30分が経過している。
 程なくして、入り口の押し扉が鈴を鳴らして開いた。

 「ごめんなさい、遅れてしまって。」

 これも運命の悪戯なのだろうか。薄々そんな気はしていたが、小走りでこちらにやってくる女性記者は、紛れもなく彼女だった。

 上下に揺れる長い髪が、窓からの光をキラキラと反射させた。左手の薬指には、僕の渡したものよりもずっと上品な、美しい銀色のリングが嵌められている。

 席に着いた彼女の目は、うっすらと赤く腫れていた。
 呼吸を一度整えてから、彼女はポツリと声を漏らした。

 「おめでとう。夢、叶ったんだね。」

 息を飲む。言葉の意味を考える。

 店員が程なくして、頼んでおいた彼女のアイスコーヒーを持ってくる。

 それを横目に見た彼女は、その柔らかな唇から、言葉を紡いだ。

 「あの時はコーヒー溢しちゃって、ごめんね。」

 僕を見つめる一対の瞳が、時を止めようとする。

 賑やかな店内の話し声や、有線で流れる小洒落たBGMが、遠くの方へ離れて行く。

 そうか。

 記憶があるのが自分だけだと、僕はなぜ思ってしまっていたのだろう。

 もしかするとあの日、彼女はこの喫茶店で待ってくれていたのかもしれない。

 もう一度、僕と生きる道を選択してくれていたのかもしれない。

 もしもそうなら、彼女は僕が来なかった事をどう思っただろう。結局、僕は彼女に何もしてあげられないままだ。

 光る薬指のリングが、一つの物語の終わりを告げているようだった。

 「ごめんなさい、独り言です。本日は雑誌のインタビュー、宜しくお願いします。」

 言い終わる前に、彼女の手に触れていた。

 少し驚いた様子の彼女だったが、瞼を薄くして、控えめに微笑んでくれた。

 「あの時はごめん。君と生きる道を選べなくて、ごめん。」

 僕の手を、彼女の手が優しく包む。その温かな息遣いが、指を通して伝わってくる。

 僕たちはこの先も、別々の人生を歩んでいく。それでもこの一瞬だけは、あの頃を思い返す事が許される気がした。

 どこか遠く、グラスの中の氷が溶ける音がする。

 ニ人の間を、懐かしいコーヒーの香りが抜けて行った。


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