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連載「やさしい生活者」一話_仄かにゆれる

あれからも生活はわりと続いている。今読んでも「やさしい生活者」は、わたしの中で響いている言葉がわりと並んでいた。そこに置いた“希望に繋がる現時点の答え”も月の満ち欠けみたく常に移ろっていくから、あれからの変遷を断片的な物語を書き足しておきたい。


1年半前の朝、突然「みんながご飯をつくって、みんなで食べて、へたっぴなギターを弾きながら腹から歌えるスナックのような、自分と向き合ったり鑑賞に訪れる神社のような場所があればいい」という言葉が降りてきたあの日より明確になった。


小難しくいえば「わたしたちが(自然の)万物の声に耳を傾けながら作用する役割であると自覚した(身体性、精神性、社会性を育む)生活様式を営む」だし、もっと感覚的にいえば「花や風と共振する生活」と言い換えてもいい。でも、やっぱり「やさしい生活者」が潔い。


以下、気付きを得たエピソード、エッセイの連載となる。この世界には共振して生きていきたい人たちがいる。でも決して数は多くないし、彼らもそう思っているに違いないから感じ合っていることを渡し合いたいのだ。


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連載「やさしい生活者」
一話_仄かにゆれる

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ある日、彼女が「近くで声がした」と言った。わたしの耳にも微かに聞こえた。外に出て家の周りを一周して粘着に観察したけれど、何の姿は無い。


それから数日過ぎて、草花や外壁もシトシトと濡れる雨上がり、仄かに蒸発するコンクリート張りの駐車場奥から小さな白いかたまりが飛び込んできた。

あの子だ。

咄嗟にわたしは「ニャー」と鳴いた。すると彼も「ニャー」と鳴いた。それを幾度も繰り返した。それから彼は軒下にやってくるようになって、わたしもご飯を用意するようになった。この交流をこのまま続けるのか、彼と一緒に暮らしていくのか、彼女と覚悟のようなものを何度も確かめ合った。

わたしたちは古い家に住んでいて、ひとつの部屋がちょうど小さな改築をしている最中で、軒下から床下を通って室内まで猫なら通れるような状況になっていた(現在、封鎖中)。夜、その部屋にご飯と空っぽの段ボールを置いて寝た。そして翌朝、彼はわたしたちをまっすぐ見上げていた。わたしたちは彼を「もなか」という愛称で呼ばせてもらった。

動物病院に行くと、生後約一ヶ月と分かった。
おそらくわたしの誕生日頃に彼は生まれたようだ。

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彼との三人の生活が始まった。
すると、次第に彼女との関係性に変化が起こり始めた。


わたしは男性。彼女は女性。社会的しるしとして夫婦形態で連れ合っている。更にふたりで生活も為事(しごと)も曖昧に「家庭」を形成していた。


(此処で「家族」と「家庭」についてわたしの解釈を示しておきたい。「族」は血のような結束でしばるもので「庭」は出入り自由な軒下みたいな場所だとしたら、わたしはやわらかい庭をつくりたい意識がある。つまりは、二人の庭に彼が迷い込んできた感覚だった。)


現代は「家族・家庭」という人間が初めて所属する最小組織について、さまざまな価値観による関係形成がなされているから、受け取り方もさまざまで構わない。人は、地球における一種の生物として、種を保存することが目的ではないとしたらどんな形でも異論はない。ただし、種を残さないことが目的になってはならないと思う。

(いつかまでのわたしは「佐藤なんて血残してたまるか」と思っていた。でもそれが目的になるのと結果的にそうなるとでは意味も豊かさも変わってくる。)


わたしたちは、未熟児で誕生して受け皿となる組織がないと生きていけないから社会を形成する。そもそも女性の役割は特別過ぎるから、男性は安心安全な環境を整えて迎え入れるのが役割だと思ってる。社会における役割を排除して、「身体性」の内外を眺めてみたら女性も男性も生物の役割が自ずとみえてくる。


「身体の内」でいえば、女性は月の動きで身体に大きな影響を受けるのだから海のように感受の波がうねるものだし、男性であるわたしは限りなく影響がないのだからどんな波が訪れても丘のようにたくましく在りたいと思ってはいるが、なんとも脆弱な丘だ。

「身体の外」でいえば、わたしにとって身体(骨と肉)の「基準」はあるようでないと考えている。小さめ・高め・細め・厚めの基準が世界人口の総和で成り立っているのだとしたら、わたしは小さくて細いはずだが、日本のみだと中くらいの厚め。軸が変われば、基準は容易に変化してしまう。なので、基本的に「基準」は、過去のあなたと今のあなただけの情報で十分で、常に今のあなたに合わせるだけ思ってて欲しいかも。sanakaの衣服のサイズはみんなが着れるようにちょっと大きめかもだけど、合わせられる。

(「め」って状態を曖昧にするから、やさしめ。)

つまり、ひとりひとりの基準論。体重65キロのわたしが腕立て伏せの形を取り、両手で自重を支えることができれば(鍛えていなくても)その程度のものを持てるってことだとして、もし仮にあなたの体重が30キロだとするなら(鍛えていなくても)その程度のものを持てるってことだと考えてみる。それぞれがそれぞれで在るならば、差は生じているけれど問題はない。でも、どちらかが自分を基準にしだすと問題が生じ始める。

平等ではない差をいかに公正であると感じ合えているのか。


人は家に住むし、道を歩く。大工や土木という重いものを中心に取り扱うと集合する人たちの属性が男性ばかりになるのは無理もないが、男性中心の主張になってしまうとつかう人たちは多種多様なのに従う形になったり、参加しづらい状況が自然と発生する。車椅子に乗って生活する人と乗らずに生活する人くらいのギャップがあらゆる場面で自然と発生している。

人は服を着るし、飯を食う。食材や布を中心に取り扱うと集合する人たちの属性には偏りはないが、部門によって偏りがあるけれど、中間が居心地がいいから、わたしは此処に属しているのだろう。

何をいいたいかというと「どんな身体をもっていて、何を易々と取り扱えるか」が重要で、あなたの基準がみえてくるとやれるべきことがみえてくる。更に何をいいたいかというと、そういえば二人の関係性が変わり始めたよって話だった。sanakaの二人の関係性に儚い存在の彼が現れたことで、わたしと彼女は少しづつ変化して新たなバランスの生活が始まったって話だった。

彼女は儚い存在に対してとっても優しく、初めての顔だった。
彼も動物としての在り様で、新たな学びをくれる。




ひとりひとりは尊くて、いなくなったら脅威に感じてしまうけれど、依存はしていない状態。それぞれに必要とし合っていると、身体性や能力性などの優位は打ち消しあって無化となる。


自分より儚いものに対する部分が本性ではないが一面ではあって、庭をつくるなら新芽が枯れてしまう毒素であれば、その毒素が誰かにとっての養分となる場所で誰かを助けることを遠くで祈っていたい。




(それが分かったとき、ふと学生時代の違和感に立ち戻った。高校三年になって部活の副キャプテンになり、部内の上下に発生する緊張関係を止めて、対等に接するようにチームに求めた。二年になった後輩たちが一年生を迎えたときの態度が信頼できるできないに値する反応に思えたことを。次回、中学生の卒業式に起こった事件から宗教観と資源について書く。)

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