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#50 日々は、意外と濃密。

こんにちは、最中のコーヨーです。

先日より、鹿児島県の長島で「つきひ」という惣菜屋も始めたユーヤがnoteで日報を書き出した。年下ではあるけれど同世代として彼も同様、自分のやりたい・みてみたい世界があって、日々のことをこなしながら発信をしてる姿に喝を勝手に自分に打った。

SNS(Facebook、Twitter、Instagramなど)は、それぞれに異なる性質があるが故に、どれだけの顔を持ってやるか考えて進めなければならないけれど、Facebookは日々のことを日報として定期的に載せていこうと思う。

「服を作ってる」というだけで、不思議と煌びやかな印象を与えるし、Instagramでは雰囲気よいものを載せるので錯覚されてしまう。それは服を最大限に見てもらう展示といった目に触れる機会の話で、日常は至って地味極まりないのだ。

今後、SNSを使い分ける。
・Instagram=最中/sanakaの世界観
・Facebook=最中/sanakaの日報
・Twitter=瞬間的に感じたこと
・note=感じたことを纏める
これで、しばらく進めてみたいと思う。

◯ 20210601_日報「日々は、意外と濃密」
めずらしく薪に火がつきづらかったので、いつまでもお風呂に入れず、諦めた前の晩。起きてすぐに気晴らしに温泉に行った。

そのときに考えていたのは、義足ランナーの可能性について。

健常者ランナーの記録が脅かされ始めると「技術のドーピングだ」のような批評に変わる。めがねが必要な人とどう違うのか。これまで自身より弱い者と何処かで思っていたのではないか?でなければ、平等のこわさが生まれる筈がない。

例えば、足を切断しなければならない状況になったとして、選択する未来がひとつ増えるのならば、いろんな意見があっても張り切って走り去って欲しいなどと考えていた。

それから、解いた着物を一枚づつ洗う。着物は、身頃・袖・襟・おくみが二枚づつあって、それぞれ一枚づつ洗う。四枚分の着物を洗い終えた。それから、着物を一枚だけ解いた。

そのときに考えていたことは、「服」のコミュニティーについて。
どうしても「服」は他者からの〝お洒落〟とか〝かっこいい/かわいい〟とかがくっついてきてしまう。

ぼくは、静電気でくっついたくらいに興味がない。

その人自身がその服を選び、その人自身がその服が好きであること/かっこいい/かわいいと感じていること/お洒落だと思っていることは、興味がある。ブランドもその範疇にある。

現在もファストが中心となっているのには、服そのものが長い年月の間、「トップダウン」の中にあるからだと考える。(改めて、深堀りして書く。)

1871年、明治天皇が「服制更改」を下した。

簡単にいうと式典以外で着物を着なくていいお触れ。それから、着物という文化は衰退し始めたと考えている。皇族が着なくなって、戦争もあってアメリカから「ニュールック」が入ってきて、映画俳優女優からトップダウンが生まれ、アパレル企業からのトップダウンが生まれ、今は、何処からのトップダウンが生まれているのか。

そろそろ、自分たちが自分たちで服を考えて楽しんで身に纏う本当の時代が来ていいんじゃないか。それは対話からじゃないと変わっていかないと思うので、小さなコミュニティを作ろうかなあと考えていました。

あ、未来クルーズの高校生のプレゼンも聞いた。みんな、とっても可愛かった。あ、あと20歳の頃に書いたブランドコンセプトの文章がUSBに入っていました。恥ずかしいですが、ご覧ください。

ブランドコンセプト 2

大きく変わってないし、月に到達するくらいの歓喜をぼくは得たかったんだなあと思うとにっこりしました。

おわり

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