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面白いとは何か?中空に浮く葉っぱの不思議。

きっとあなたも見たことがあるだろう。

それをある日の朝、またわたしも見たのである。なんのことはない、中空に浮く葉っぱである。見ると風で勢いよくクルクルと回転している。寝ぼけ怠けた身体に、軽やかな自然からのカウンターパンチ。そんな大袈裟なパンチではなく、知らぬ間にジャブをくらった感覚。(だからこそ後々効いてくるパンチなのだ。)何故、中空で葉が回転しているのか。その不思議さ、面白さに、ジャブを受けて心地良いというパラドックスを感じながらしばし凝視する。朝日の斜光に照らされて、それが蜘蛛の糸に吊るされた葉っぱであることが分かる。これを不思議に思わずして、なんと言えば良いのか。摩訶不思議ワールド。

これは蜘蛛の遊びか否か。
何故、一枚だけぶら下がっているのか。

時に、手が滑って器が割れることがある。ああ、器とは割れるものなのだとはっと再確認することがある。その時も一瞬時が止まったような感覚に落ちいる。その感覚と似ているようで何か違う不思議さは何と説明してよいのやら。

「何故、蜘蛛の糸で葉っぱが吊るされているのか証明せよ。完結な数式であらわせ。」と、朝から難問にぶち当たる。一瞬、頭が真っ白になる。何故なんだと。面白いとは、面が白いと書くが、面白いものに出会った時の顔、面はほんの一瞬呆気に取られて緩む、惚けた面を晒して、頭の中は真っ白なはずだ。あ、なんだか分からないけど、なんか面白い。その感覚を覚える時、人は面白いというのだろう。少しばかり理解不能に陥いる時。良いジャブをもらって、お前やるじゃねぇか!と、焦りを隠すための笑い。解けない難問を出されて、分からなすぎて笑える感覚。これからどうなるか分からないからこそ面白いのだ。

吊るされたその葉っぱだって、この後どうなるか何て誰にも分からない。その葉っぱの、一枚の葉っぱよ臨終を看取った人類は今まで1人もいないのではないかとも思える。そんな無駄な時間を費やそうと考える人間など、今までの歴史上いないと考えると、さらに面白いではないか。

その葉っぱの近くには、まだ木の枝についた無数の兄弟姉妹たちが、また風に吹かれてザワザワと音を立てている。その連なる音はは、その吊るされた一枚の葉を案ずる応援歌にも、または楽曲のコーダ(終結組曲)にもわたしは聴こえる。

350年間証明されなかったフェルマーの最終定理を、アンドリュー・ワイルズが主に屋根裏部屋で約8年の歳月を掛けて証明し、偉業を成し遂げたが、この葉っぱが何故吊るされるのかを証明するのだって、わたしにとっては永遠に解けない難問に変わりはない。誰かが蜘蛛のこんな理由で、自然のこんな理由でそうなるのだと、本当に言い切れるのだろうか。言い切れたとしても、それがわたしにとって永遠に難問なのは変わらない。(アンドリュー・ワイルズ1人の功績ではなく、日本人の谷山-志村予想を経て、また友人らや妻の助けもあって成し遂げた偉業の成り行きは、スリリングかつ、面白さの極北なのは明らか。)

私たちは、目の前の葉っぱ一枚のことも実はよく分からず、日常を暮らしている。そう考えると、目の前のあらゆる事が摩訶不思議で、面白いことこの上ない。世界は一瞬にして楽園のように面白いことで満ち溢れている。それを本当は本能的には分かっていて、紅葉狩りや森林浴などと言っては、心身の本来の姿を再確認するために、外へ出掛けるのだ。家から表へ出るのだ。読んでいる本を一旦置いて、野生へ帰る。見えないが確かにあるように感じる魂とも言うべき何か大切なものの存在を再確認するために、面白さと出会うのだ。

わたしが見たあの一枚の葉っぱは、今どこで何をしているのか分からないが、その葉っぱが生まれたおかげで、今わたしも生きていられるということは間違えない事実であり、真理だ。

ただ単に蜘蛛の糸に吊るされた葉っぱを見るだけで、わたしは一生涯面白いことに出会いっぱなしの人生だ。これを幸せと呼ばすして何を幸せと言うのかわたしは知らない。


恒星
a ri A Ru Creationz 藝術企画
星座を歩くアートクラス

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