こほら
コロナ、五輪、在り方。 五輪があってもなくても、けっこうみんな限界を感じていて、なんたって年単位でいろんな人に会えないってのは、いくらボッチだったりヒッキーだったりしても、なかなかのダメージで。 ただ五輪の空気感が、今の重い空気をかき消して悪い方の軽さへいざなったのは否めないとおもう。別に五輪やれてんだからいいでしょ、なんて気持ちすらなく、ふわっと警戒度がゆるんだというか。 最悪なのは、デルタ株ラムダ株といった、いわゆる「水疱瘡並み」の感染力をもつ、もう別のもんじゃね
新曲すごくよかった。そういうことじゃないのかもしれないけど、一連のmoumoonの(YUKAさんの)気持ちなんじゃないかとか邪推しちゃう。 柾さんの概日性リズム障害の話から 2019年3月 NEWMOON 「私たちは、光を選ぼう」 わたしたちは一緒だけど、別の道をえらんだよね、というかんじ。 表にでないよとなり(2019/5) 2019秋中秋 「愛はつづくよどこまでも」 そうであっても、いつまでも一緒にいたかった、という気持ち。 Avexをはなれ(2
そうそう、最近おもったのが、前回メモした次元の違いというのとはまた別に、1枚のカードに人との距離を描きこんでいくのか、この件についての関係性というかんじでカードを複数もってて、それを必要に応じて手前にもってきたりしている(切り替えている)というかんじでもあるのかなあと。 この件についての距離感、というのと、全部を同列にしちゃうというか。「海と山どっちが好き?」→山、「肉と魚どっちが好き?」→肉、「じゃ、山と肉どっちが好き?」??というかんじ? そりゃ比べられんでしょ、という
デジタルファンフェスを楽しめるひとと、楽しめない人の差はどこにあるんだろう。 コンテンツをコンテンツとして楽しんでいるかどうかとかなのかな。コンテンツをその人と楽しんでいることが楽しいというだけじゃだめなのかな。 14じゃなくてもいい人と、14がいいひとと? その二択じゃないんだよね、そもそも。 あと、きらきらした大人をみるとつらいのは、今の自分のありかたを肯定しきれてないからかな。 アーチストがきらきらしているのはいいんだ、別世界の人だからと割り切れる。 「サラリーマン
そう、ふと思ったんで書いておくんだけど、距離感というもの。自分にとってはどうしても、近い/遠いを平面(二次元)でみているんだなと。 でも、きっと立体的(3次元的)な距離感というのもあって、絶対的な距離はもちろんいろいろだけど、その関係性をある点からみれば、同じ絶対的な距離感でも、近く見えるとか。 うまくいえないけど。そのひとを中心とした球体的な距離感というか。半径10cmの球。真横からみると、座標(0,0,10)にいるひとは、10離れているはずなのに、重なっているように
「光のお父さん」?だっけか。というくらい、流行りものにみえて、すごくいいときいても、興味を示すことができなかった。 それは、「流行りものだから」という理由もあるけど、何よりも、「そこまで楽しんでいる人がいる」という現実に、うらやましさが過ぎてみることができないということだった。自分はもやもやしながら楽しんでるのに、そんなに充実して楽しんでる人がいるのか、それは自分がぐじぐじしているのを突き付けられることだったから。 その人のこちらでの世界は終わってしまった。ツイッターの
自分の心性について結局のところ信じていない。自分が人に評価されるとしたら、能力とか使い勝手とか便利とか、そういう利便性においてなんじゃないかなと漠然と思って生きてきているので、そういうものが発揮できないことになると、とたんに不安になる。 いわゆる自己肯定感という点においては、そういう自分でいいとおもっているので、そんなに悲観的じゃない。自分の心性はそれほどあてにならず人にひどいこともできて、それについては「外」に置くことでとらわれすぎずに生きていける、ということについて
今日はじめてVCであそんだ。ゲーム内の付き合いはそこそこ長かったけど、なかなかに緊張するもので。 でも、やってみたら、とても楽しかった。まあ、毎回こう楽しいわけじゃないのかもしれないけど、とにかく今日は楽しかった。 ということを記録しておきたいことと、こういう楽しいことがある、ということが、それ以外の大きなイメージとしての毎日にいい影響があるんだろうなとも思った。いかに最近たのしいことを感じずに生きていたのかという。 楽しいことがあるということは、本当に人生にとって、生
昨日、叔父の通夜にいってきた。幼いころによくいった本家の。よく遊んでもらったお姉ちゃんとお兄ちゃんもいて。たぶん40年弱ぶりに会ったんだと思う。 でも、すぐにわかった。そしてお互い当然にして年をとっているんだけど、それを当たり前のように吸収して会話がはじまる。ひさしぶりね、というかんじ。 もちろん大人どおしなので多少のバッファ付きとしても、ああ、こういうことかと。めぐまれた血縁というのは、「無条件」で存在できるのかもなと。 また、通夜という「儀式」を改めて経験すると、字
愚痴は吐き出さないとしんどいのもよくわかる。でも、その仕事をしている以上起こりうることにたいして、ぐだぐだ言われると、辟易してしまう。その「起こりうること」の認識が違うんだろうけど、それは仕事として消化してといってしまいそうになる。言っちゃだめ気もするので、結果、言葉がなくなる。 やみくもに現実を受け入れて手を動かせということではなく、いかに「やっぱそうなっちゃったかー」とか「あー災難だわあ」といいながら、向かい合えるといいな。 ただただ、愚痴になって「こんなことが降って
なんか支援してる感じじゃない。 あと、優先順位がよくわからない、その基準もわからない。 生活介護という枠組みと施設の方針があるから、もう少しスッキリしてもよさそうなんだけど。 仕事の勝手がもう少しわかれば、腑に落ちるのかな。
昨日は懇親会だった。 あたらしい事業所での初めてのそういう席。まあわかっていたけど、あからさまな様子をみてがっかりすることも。 辞めていった職員を平気でディスる、女性職員がミニスカートだったからといって、立ってまわってみてと、冗談でもいってしまう。どこからでてくるお金かわからないけど、今日は会費いらないからというようなことをいう。 まあ、その程度の管理者なんだなということをあらためておもう。うすっぺらいし寒々しい。
備忘録的に。 職員の受け身感がはんぱない。個々には一所懸命やってるんだろうけど、いかんせんやらされている感がはんぱない。 管理者のちぐはぐさが気になる。自立しろといいながら、すべてを管理したがっているように見える。 事業所をまたぐ話は、管理者どおしじゃないとしちゃいけないというかんじ。自分としては、担当者どおしが話をするけど、その話が事業所の意思(管理者が承認している)であればいいとおもっていたけど、そうじゃないっぽい。話をうけたら、管理者に相談して管理者が返答しているよ
きっとセンチメンタルな気持ちになっているから。いろいろ書きたいことがでてくる。人事発令を明日に控え、残していく自分のチームのことを考えると。 自分のできることを、やりたいことを、そのときにやれる限りでやってきたとは思う。正しかったこと間違ったこと、その時の評価と、あとになっての評価と。いろいろあるけど、ほぼすべて自分が選び自分ですすめてきたことだから、そのこと自体に後悔はない。もちろん、ああしておけばよかったという気持ちはあるけど、あのときはそれしかなかったとも思える。
ひとには、たぶん、意識しているいないは別として、「大切にしていること」「譲れないこと」があるとおもう。 それがほかの人とぶつかっちゃうと、ん?って気分になる。特に、それを意識していない場合は、なんで?という原因すら思いつかず、なおさらもやもやしちゃう。 「私の大切なもの」を踏みにじられたら、それは不快だし怒りとなる。そう、当然だよね。でも、相手にとってそれは「大切なもの」でなかったら、相手からしたら、なんで?てなる。じゃ、泣き寝入り?というとそういうことではなく。 たぶん伝
今日はふたつ、伝えた。 ひとつは、仕事関連。内示がでて、今週末に人事公開なので、直接的に影響をあたえるふたりに伝えた。 実際はひとりはすでに知っていたので、初めて聞いたのはひとり。びっくりしていたし、こまっていた。 「ずっといるとおもっていたので」というのは偽らざる言葉だとおもう。この後にのしかかってくる辛さを想像すれば、言葉も失うよね。 ただ、ふりかえってみると、自分の傲慢さを思い出すというか、自分の上司がいなくなるということに、あまり不安を感じなかった気がする。い