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わからなさと共に生きる

わかりたい vs わかったことにしたい

多かれ少なかれ人間にとって「わからないこと」はモヤモヤ、ソワソワするもので、「わかった」と思うとなんだか気持ちがいいし安心します。大昔から人が宗教や神話を信じてきたのも、悪天候や災害を神の怒りということにしてきたのも、何かそこに物語や因果関係の説明が欲しかったからではないでしょうか。

「わかりたい」は人類を前進させてきた源泉であり、そういう意味では美徳と言えます。

しかし、わかりたい気持ちは、「(手っ取り早く)わかったことにしたい」という願望と隣り合わせです。人が陰謀論にハマるのも、池上彰さんの解説を聞いてなるほどと言いたくなるのも、どちらも同じ種類の誘惑があるのかもしれません。何かを「わかった」と思うことには快感が伴うものです。

判断しようとするスタンス

人が「これはこういうものだ」「あの人はアレだ」と判断(ジャッジ)したくなるのも「わかったことにしたい」願望から来ているものだと思います。あなたもやってませんか?私はよくやってます。(この文章もたぶんその類のものです。)

何かを「わかろうとすること」と「判断しようとすること」は同じではありません。「わかろうとすること」は興味・探求の気持ちであり、対象に向かっていく姿勢のことだと思います。どこまで行っても完全にわかることはないので、わからなさ・不思議さと共に居ることでもあります。それに対して「判断しようとすること」は物事を自分の思考の枠に引き寄せ、当てはめることであり、対象そのものをあまり見ていません。

ここで言う”判断”は、物事に対する1つの見方や推測を事実に違いないと断定する態度を指しています。日々物事や隣人に接するスタンスとして「判断しようとする心」は、なんとなく遊び心やサービス精神がなくて楽しめない感じがしませんか。

「わかった」という幻想

そもそも人間の認知は案外雑で、歪みや偏り(バイアス)があることが知られています。確証バイアスもその一つです。

仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと

https://ja.wikipedia.org/wiki/確証バイアス

一度「こうだ」と判断してしまうと、それがその人にとって現実だと思う気持ちはどんどん強固になっていき、そこから抜け出るのが難しくなります。

また、インドには「群盲ゾウを撫でる」という寓話があります。数人の盲人がゾウの鼻や牙など別々の一部分だけを触り、ゾウとはこういう動物だと感想を語り合うお話です。何かを判断するということは多かれ少なかれこれに似たことであり、どんな理解も現実の一部を特定の視点から切り取って単純化したものです。

こうしてみると私達が「なるほどわかった」「つまりこういうことか」と思うときには、そこには多かれ少なかれ誤解が含まれていそうです。特に人と人とのコミュニケーションなんて、穴だらけの思考から発せられた穴だらけの言葉を、穴だらけの脳みそで判断しようとするわけで、そこにトンチンカンな意味を見出してしまうのはそう不思議ではありません。

自分は物事を正しく理解できるという感覚があるとしたらそれはたぶん錯覚で、多くの場合わかった気になっているだけです。

単純化された世界観の代償

「これはこういうものだ」と判断した瞬間に、それはその人の中では片付いたことになります。「東京人は冷たい」「あの子は清楚で純粋だ」「こっちの道は失敗だった」「餅の食べ方は安倍川餅に限る」。わかったことにするとなんだかスッキリしますが、そのシンプルな結論に引き寄せられて現実の見え方も変わってきます。

それが単に趣味嗜好の話なら誰も困りませんし、ポジティブな判断なら問題になることはないでしょう。しかし、あなたがネガティブな思考をしやすい人なら、物事のマイナスな側面を切り取って判断してしまい、様々なことに腹を立てたり、諦めや絶望を感じたり、人や世界を敬遠したりするでしょう。私の経験上、こういう気持ちになりやすい人は判断するのが非常に早いです。下手をすれば経験する前に判断してしまいます。安易に結論に飛びつくので、偏った受け止め方をしがちです。「すぐ結論を出したがる癖」と「ネガティブ思考」はとにかく相性が最悪です。

人生の結論を保留する

私は抽象化したがりな上に心配性な気質であり、どちらかというとこういった罠にハマりやすい条件を持っていると思います。このような判断はほとんどクセになっているので自動的に出てきます。

大事なのは、そういった判断は自分の脳みそで理解できる範疇で物事を単純化して捉えた上での仮説に過ぎず、現実そのものではないと心の片隅で自覚しておくことだと思います。また、わかりやすい結論に飛びつく前に、他の可能性も一旦考えてみるようにするのも役に立つかもしれません。

これは結論を保留するというスタンスです。「こうだ」と思っても、それは現時点での仮説・仮定であり、完全にわかったことにはせず、訂正に対して開いています。結論を保留する力は、ワンちゃんの「待て」に似ていて、訓練により身につけられるものだと思います。

人生で経験することの意味や解釈に決して結論を出さないと決めると、なんとなく気が楽になります。よく考えてみると心配性な私達が恐れているのは、何かをやった結果「何をやっても駄目だ」「私には価値がない」「もうだめだおしまいだ」などの怖い結論を出してしまうことだったのではないでしょうか。あなたはあなたの下す判断によって傷つき、行き詰まるのです。

結論を保留することは優柔不断になるということではなく、むしろ逆で、自分がこれからやることの過程や結果に何も結論付ける必要はないと知っているからこそ恐れず進めるのだと思います。人生の結論は死ぬまでわかりませんし、たぶん死んでもわかりません。

すべては仮決め

「わかった」が幻想だとすると、私達はわからない中でもわからないなりに決めて、行動することになります。この文章も「わからないけど」「知らんけど」一旦書いてみたものです。特にビジネスでは問題を解決するために迅速な判断が求められます。しかしその判断を唯一の答えと思い込み、わかった気になってしまうところに罠があります。思考という道具は役立つように使うべきで、道具によって苦しくなってはいけません。

便宜上判断するけど、気持ちとしては何事も仮決めだと思うくらいでちょうど良いのではないでしょうか。

そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。わかろうとするけどいつまでたってもわからない。それでいいんだと思います。

「答えは風の中」 by ボブ・ディラン


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