微分空間思考

最近考えていること

建物を作る際、床、壁、屋根からいろいろなパターンを組み合わせていき、空間を作ることが一般的だ。
その空間に人間が生活物を上乗せすることで初めて住まいが完成する。
これはその空間に対して、インテリアのヒエラルキーがとても高いことを意味している。住まい全ての空間を一連の身体活動に落とし込むことができておらず、常に場所に縛られ続け生活することを無意識のうちに決めてしまう。

また、果たしてそこが本当に自分の居場所なのか。冷酷な都市風景の中に取り残された自分は徐々に乖離していき、’無’であるように感じる。

最後の砦としての住空間はインテリアだけでは人は救えないし何も変わらない。もっとスケールを落とし込み落とし込み落とし込んでいく。

足の裏

ある時、大きなハンモックの遊具で遊んでいた記憶が浮かんだ。子供のときの小さい足から大人の大きな足にまとわりつくネット。ジャンプして転がったり、寝転がって空を見ていたあの光景は、今考えると建築と一体となっていた。建築と身体の境界が限りなく小さかった。

建築という大きなスケールのものをヒューマンスケールに落とし込むということは、空間や材料を皮膚に近づける必要があるのではないだろうか。
あるいはその空間がその人に対して寄り添うためには、一つ一つの材をミクロに展開していき、生活していた状況を記録していける機能が必要だ。

微分的空間思考とは、建築を構成する要素を足の裏サイズ(30-45mm)に解体し、集積することによって一つ一つの空間を作っていくことである。
それぞれに1,2ミリの段差をつけながら床を作り、シームレスに壁、天井に繋げる。

あるところはキッチンの高さまで隆起し、あるところは体を包み込むように凹んでいる。

生活していく中で自然とそのわずかな段差は削られていき、その人の癖、記録が残る。色が変わり汚れも蓄積されていく。
よく座る場所、寝っ転がる場所にはその人の骨格をトレースしたような曲面が作られる。

これは自然につくられたその人だけの場所、記録であり、生きた証でもある。汚れ、使用感が偶然的に拠り所を作っていき、自分を確立するための手立てになる。

これをやるためには紙しかないと思ってます。
建築自体が身体になっていくという考えでした。

2020/11/19