【短編】「夜と朝をつなぐ青」
老人はベランダから通りを眺めていた。
妻のいなくなった家は足腰の弱い老体にとっては途方もなく広く、今から一年前に家を引き払って、この古い小さなアパートの2階に越して来たのだった。
しかし、2階を選んだのは間違いだったかもしれない。老人の足腰は日に日に歩き方や立ち上がり方を忘れてゆき、階段を上り下りしようものなら、半日もかかってしまうのだった。
外への用事はすべて家政婦に任せて老人は一日を部屋で過ごした。
だが、年老いた目では読書も億劫だし、テレビの中の出来事はこの部屋から出られない老人にとってはどれもこれも関係のないことだった。
そこで毎日老人はベランダから通りを眺めて一日を過ごすようにしていた。
朝焼けや流れる雲を見たり、登下校する小学生を眺めたり、或は、うたた寝をしたり、遠くの国で暮らす娘や孫たちのことを考えたりして一日を過ごした。
しかし、老人は何も待ってはいなかった。
朝焼けの代わりに雨雲が来ても老人は気にしなかった。いつも夕方ごろ散歩で通りかかる大型犬が来なくても、そんなことには気付きもしなかった。遠い外国で結婚した娘や孫とももう一生会えないだろう。じゃあ死を待っているのかといえば、そうでもなかった。ただ通りを眺めているだけだった。
ある夜、深夜に目が覚めた老人は、毛布にくるまってベランダに出た。通りには誰もおらずただ時間が機械的に流れているだけだったが、老人はかまわなかった。
夜と朝をつなぐ青色が空を覆い始めたころ、通りに足音が響いた。ムチで打ったような甲高くて鋭い足音だった。慌てて走っているようだ。
老人は風の音を聞くようにその音に耳を傾けた。
やがて青白い影が通りを走って来るのが見えた。若い男のようであるが、はっきりとはわからない。
その影がちょうど老人の真下を過ぎようとした時、何かが落ちた。何か穏やかでない物音だった。老人が、墓石のようにそこに居座ろうとする腰をやっとのことで持ち上げて下を覗き込むと、街灯が置き去りにされた包丁を照らしていた。気付いた男がすぐに戻って来て包丁を拾い上げた。その時、男と目が合った。
見知っている顔だった。毎日夕方になると大きな犬を連れて散歩をする若い男だ。男のシャツの半分が血で赤黒くに染まっていた。
わずかだが重い沈黙がそこに淀んだ。老人は腰を抜かして、また元のように椅子に収まった。
「じじい、殺してやるからな。待ってろ。」
と、男の声が聞こえると、足音は遠ざかって行った。
翌日、老人はベランダに出るのをやめた。
男が自分を殺しに来る。警察に知らせるなんてことは頭にも浮かばなかった。ただ恐怖とも覚悟ともつかないぐらぐらした気もちで老人はその時が来るのを待った。
しかし、その日男は現れなかった。
次第に恐怖は薄れ、老人は再びベランダに出て、男が自分を殺しに来るのを待った。
夜が更け、鋭い足音が近づいてくるのを。
来る日も来る日も待ったが、男は現れなかった。
老人が望んでいたものは何だったのだろうか。
やはり死だったろうか。いや、そうではない。むしろ生だ。
生きることは待つことなのだ。
もう男はやって来ないのではないだろうか。老人はそう思ったが、それでも毎日ベランダに出て男がやってくるのを待っていた。
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