『演技と身体』Vol.53 世阿弥『能作書(三道)』を読み解く
世阿弥『能作書(三道)』を読み解く
『能作書』(あるいは『三道』)は、世阿弥の中期の書で、風姿花伝の第六 花修で述べられていた書き手の心得をさらに具体的に書き記したものである。(花修の内容はVol.27世阿弥『風姿花伝』を読み解く② 実用編を参照)
主に書き手向けのものと思われるが、書き手だけでなく役者が留意すべきことも読み取れるのではないかと思う。基本的には能の場面展開を前提とした内容ではあるが一般化して、演技や脚本全般に言えそうな点を主に紹介して、自分の考えと紐づけて説明していきたいと思う。
三道とは
この伝書の別名ともなっている三道とは何を指すものか。
三道とは種・作・書のことである。
種とは、作品の素材となる話や人物であり、いわばネタである。能の作品の多くは平家物語や源氏物語などの登場人物を主人公としている。しかし、原作をそのままなぞるのではなく、あくまで素材としながらオリジナルの話を作り上げていく。これは新古今和歌集などで多く見られる“本歌取り”に近いのではないかと思う。(というのも、世阿弥は、新古今調の代表とも言える藤原定家の幽玄を引き継いだ二条良基の庇護を受けており、その影響の下流にいるものと思われるからである。)
話のネタは自身の体験であったり、見聞きした事件であったり、社会問題であったり、小説や古典であっても良いだろう。いずれにしても作り手は同時代だけでなく過去や未来にも広く通じているのが望ましい。そんなことは世阿弥に言われなくてもわかっていよう。しかし、世阿弥はなんでも良いとは言っていない。
どんなに有名な古人や名将であっても能にふさわしくなければ、その人物をネタにするべきではないという。ネタそのものの面白さが即映画としての面白さとなるわけではない。能では舞歌の二曲と言っているが、映画で言えば広い意味でのアクションと感情の動きが備わっていなければ、映画としては面白くならないということだろう。最近のハリウッド映画なんかはネタは面白いが感情の描き方がチープな作品も多い。(日本の映画はネタすらもチープなものが多い。)その点で言えばやはり黒沢明の作品は、ネタの面白さにアクションと感情がちゃんと伴っているのがわかる。すごい。
作とは、求めた種(ネタ)を作品として構成してゆく作業のことだ。
「序・破・急の三体を五段に作りなして」とあるが、五段とは〈序・破ノ一段・破ノ二段・破ノ三段・急〉のことだ。
序破急については、『風姿花伝』や『花鏡』という伝書に詳しいので、ここではあまり踏み込まないことにする。
そして、書とは、具体的な台詞や動きを実際に書く段のことだ。ただ思いつくままに書くのではなく、描く人物にどのような響きの言葉や言い回しがふさわしいかよく考えながら言葉を当てていくのである。
本説とは種(ネタ)の典拠のことであるが、その本説にまつわる名歌や名句を破ノ三段の要所で書き入れるべきだと書かれている。さらに、その名歌・名句は主人公に言わせなくてはいけないのだという。
やや雑だが、これを一般化して考えてみよう。本説にまつわる名歌・名句というのをざっくりと決め台詞あるいは作品のテーマや主張を表すような台詞ということにしておこう。僕がポイントだと思うのは、これを急の段ではなく破ノ三段におくべきだとする所だ。そしてそれは主人公が言わなければいけないのだという。
これが常に正しいとも限らないだろうが、確かに心当たりがある。今年日本で公開されたグレタ・ガーウィグ監督『バービー』は全体的に痛快で面白い作品ではあったが、終盤で急に登場した老女が「ありのままのあなたでいいのよ」という感じの「名セリフ」で雑にまとめて映画が終わったのには少し冷めるところがあった。(この映画は‘男女’という二元論を乗り越えない限り問題が解決しないと思うのだが、「ありのままのあなた」は完全に問題をすり替えるものだった。一方その直後に見た世阿弥作の能『山姥』は善悪の二元論を見事に調停していた。)
書き手としては、物語の終盤になって「まとめなきゃ!」という気持ちになるのはよくわかる。しかし、そこで急に「いいこと」を言わせてみてもきっと言葉が浮いてしまうのだろう。世阿弥はむしろ、クライマックスは動きで魅せろと言っているのではないかと思う。いい台詞は中盤の見せ場で聞かせておいて、最後にはそれを身体で表現する(この時、中盤での名セリフがある意味でクライマックスの動きの説明になっているのが非常に上手いところだ。だから、終盤は説明しなくても動きだけで伝わるのだ)。世阿弥が目指していたのは「妙所」という言葉で表せない感動の境地である。「言葉ではないものを表現する」のだとはよく聞く言葉だが、では言葉ではないものをどうやって表現して伝えるのか、ここまで具体的に考えているのは世阿弥の本当にすごいところだ。
三体作書条々
さてここからは老体・女体・軍体・放下・砕動風に分けて、細々と能の構成について書かれている部分である。現代劇を書く上でも非常に役にたつところもたくさんあるのだがいささか煩雑でもあるので、共通して世阿弥が気にかけているであろう点だけを抽出してみたい。
僕が特に注目したのは、どこに見せ場を持っていくかということ以上に、軽々と書くべき箇所が入念に指示されている点である。作り手や演じ手としては全てのシーンに力を入れたくなるし、意識としては当然ながら見せ場となるシーンをどうするかということばかり考えたくなる。
しかし、実はどの場面を軽く描くべきかということの方が大事なのかもしれない。なぜならどこを軽くするか考えることはどこを引き立てるか考えることだからだ。重要なシーンそれ自体を入念に考えるのは当たり前のことであり、特段注意するまでもないことだ。しかし、軽いシーンをどこでどう軽くするかを考えるには、客観的な視点が必要であり、技術が必要だ。能作においても世阿弥は離見の見を持ち合わせているのだ。
このことは役者にとっても重要であり、作品全体の中で軽々と演じなくてはいけない箇所がある。常に役に没入して目一杯演じるだけでは、作品の中で流れが生まれないのだ。
開聞・開眼
そして、読んでいて思わず声が漏れたのが「開聞・開眼」の項だ。
まず開聞について。二聞一感とは、理(ことわり)と曲が融合するような聞かせどころのことである。理とは、主人公に対する心理的な共感を表す台詞を指し、曲とは音曲的な美しさのことである。つまり、破・急の間の見せ場において、主人公の心理的な共感を呼ぶ台詞を美しい曲調に乗せて謡わせるべしと言っているのだ。これは非常に奥が深い。能に感動したことのある人ならわかると思うが、能の中で作品全体をたった一言で言い表したような象徴的な台詞に出会うことがある。そのたった一言によって作品全体が深く理解されるように思えるのだ。そして、世阿弥はそのような台詞の配置を完全に計算して置いているのだ。これには恐れ入った。
現代劇を作る上では謡はないので、曲聞(音曲的な美しさ)というものをどのように表現するかは工夫が必要である。単にBGMを流せば良い場合もあるだろうし、台詞の言い方や響かせ方をよく考える必要もある。ともかく。いい言葉だからといってただ喋ればいい台詞になるなどとは考えないことだ。
次に開眼である。開聞が聞かせ所なら開眼は見せ所となる。見る人があっと感心するような舞働きを作品の中に配置せよということだ。これは開聞の視覚バージョンだと思えば簡単に理解できる。
さて、ここまでを総合すると、世阿弥がいかに緻密に能作をしていたかが見えてくる。
まず、軽々と演じるべき所を細かに指示していたことを思い出そう。そして名セリフはクライマックスではなく中盤の詰め(破ノ三段)に配置しておくことで、クライマックスは言葉による説明を排して動きで魅せるべきだと言っていた。
そこに開聞・開眼の事を重ねて考えてみれば、開聞は破ノ三段に置くべき名セリフのことだとわかるし、開眼とは急の段で言葉を超えた妙所の動きのことだとわかる。そして、それらの見せ場を引き立てるためには、どこを軽く描くべきかまで設計されているのだ。
世阿弥の理論は部分的な理論と全体論が相即相入し合っており、理論的な美しさが際立つ。
しかし、わかってはいても実際にこうした離見の見で脚本を書くのは非常に困難なことである。精進しなければ。