白衣を脱ぐ日。—臨床医を辞め、研究者へ転向する理由—

3月いっぱいで内科研修を中断し、4月から某公益財団法人の巨大研究所へ転職することになった。自分なりに適性を考えて悩んだ結果だった。夏からずいぶんと考え続けたが、今のところの最適解であると思う(部分最適か全体最適かは、これから明らかになるだろう)。

臨床医を辞めるに至った理由を挙げてみると、よくもまあ少なくとも4年間この仕事を続けてきたなと自分を褒めてあげたい。

1. ストレスで史上最低の健康状態になった。

2年目の頃、初診外来をしていると若い人の胸痛が結構いて、心電図や血液検査も問題なく「あー、はいはいGERDね」とプロトンポンプ阻害剤を処方していたのだが、いざ自分がなってみると、このGERDの胸痛というのがもうこの世の終わりかと思うくらいしんどかった。もともと自分に厳しい完璧主義者な自分が「失敗の許されない」臨床現場で働くとここまで身体に出てしまうものかと驚いた。いわゆる「主治医ストレス」で、初めて自分が全責任を負う医療者となってから、朝も夜も胸痛と冷汗に悩まされた。

さらに、病院からいつ電話がかかってくるか分からないという重圧から、いつも携帯電話のバイブレーションが鳴っている気がして、夜何度も中途覚醒するという睡眠障害にも悩まされた(これは現在進行形で悩まされている)。

不幸なことにインフルエンザA型感染症を発症し、それを機に一気にメンタルが壊れてしまった。何とか職場へは行けたものの、毎朝真っ白な顔をして出勤していた。年末には他科の医師から謎の八つ当たり説教を受け(ひたすら謝って受け止めていたら逆に「理解者」となって今や仲良くなった)、患者の急変もあり12月〜1月は本当にメンタルが終わっていた。大正義・第一三共(学生時代にボストンへ留学したとき、ぼくのお世話をしてくれた研究者が第一三共の方だった)の有力商品、ネキシウムを用法用量を無視して飲みまくる毎日を過ごしていた。

臨床医ってsensitiveじゃダメなのではないかと気がついた。ある程度鈍感というか、割り切れる人じゃないと続けられない。あまりに患者やその家族に感情移入して、自分の出来る最高の努力をし続けるんだと意気込みすぎると、曖昧さと正解のない臨床現場では心が壊れてしまう。そりゃあ、「自分の父親が死にそうになって毎日付き添っています」みたいな心理状態を担当患者全員に対して持ち続けていたらしんどいよな、と。

実際、職場ではすごく良く評価してもらって、いろいろな他部署のスタッフからも「先生の病状説明は丁寧でわかりやすい」「記録が細かくて何を考えているのかよく分かる」「全く波がない、いつ電話しても優しく対応してくれる」「人生48回目でしょ」などと言われている。患者さんからも泣きながら感謝されたり、ご家族から手紙をいただいたり、外来の数分の診察で「主治医あの先生に変えて!イケメン!」など言われたりもしている(ネタのようなマジな話)。会ったこともない施設のケアマネージャさんからも「あぁ、あの先生なら安心よね!」とまで言われているらしい。

こういうことが続くので、自分でも「自分はコミュニケーション能力の高い人間」という自己評価をしていたのだが、実は内向的な自分が一生懸命スキルを身につけて頑張っているだけで、CP(コミュニケーションポイント)の上限値が少ないのでHPを削ってそちらに回していただけ、というRPGでいう命を削って最強魔法を繰り出すような、そんな毎日を過ごしていたことに気がついた。

あー、このままだと死ぬ。本当に死ぬ。と思ったのが12月下旬。適性からかけ離れたことを、勘違いして続けている自分を認識したのだった。

2. 当直勤務が自分に合わなかった。

これはもう臨床医でいる限り、どの科に行こうと逃れられない。ロングスリーパーで毎日8時間寝ないとパフォーマンスが半分以下になる私。朝から内科系ER当番をこなして、当直をして翌朝そのまま初診外来に突入するとか、本当に狂気の沙汰としか思えなかった。体力があれば良いのだけれど、そもそも体力のない自分には無理な芸当だった。なんでみんな夜中に平然と働けるんだ。。大学の同期の中では何連直もして無敵みたいな麻酔科専攻医や外科専攻医がいるのだが、もう尊敬どころか違う生き物なんじゃないかと思い始めている。身体に気をつけてね、、、日本の医療を守っているのは君たちだ。。。

3. 仕事へコミットできなかった。

これが一番しんどかった。臨床医の仕事に楽しさや、やりがいを見出すことができなかった。もちろん、自分の診断が正しかったときや、治療が上手くいって患者さんが元気になったとき、感謝されたときに感じる達成感はすごく大きかった。しかし、それ以上に「間違えていたらどうしよう」「方針が決まらなかったらどうしよう」と言った不安が思考の大半を占めていた。だから自ずと丁寧な仕事になり、評価されることになったのだが、不安ドリブンで仕事をしていると命が日々削られていくようだった。しかも、この超心配性はもはや自分の小さい頃からの特性なので今更変えることもできなかった。

新しいものを見出す、とか、まだわからないことを解明する、ということが好きな自分にとってはルーチン化されている業務プロセスが多くて、それもまた自分の適性とのミスマッチだったのかなと思う。あとは、チームで課題に取り組む、というプロセスが好きな自分にとって、ある意味「個人商店」的になっていた業務がしんどく感じていた。もちろんアドバイスやレビューは受けていたけれども、一緒に考える、みたいなことはなかった。

ということで、やりがいのある価値の高い仕事であることには間違いないのだが、自分の働き方への志向とか適性といったものを考えたときに、自分はコミットできなかった。それどころか苦しむばかりだったと思う。

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以上、臨床医を辞めるに至った理由。職業選択は、「社会的意義」というものも非常に大切だが、それとは別の軸で「適性」を考えるということも、それ以上に大切だということを思い知らされた。

終わりが見えている今、胃食道逆流症と睡眠障害は改善傾向にある。

次に、研究者に転向する理由を考えてみる。

1. 恩師にヘッドハントされたから。

学生時代、全く知識がないものの、分子生物学に魅せられた自分に、惜しみなく指導し続けてくれた師が、「是非来て欲しい」と何度も声をかけてくれた。異例の若さで巨大研究所の主任研究員となり、さらに異例にも巨大プロジェクトを任されることになった師。しかも、指導医・研修医という関係で一緒に当直したことすらある。安心して議論できるし、気兼ねなく物事をお願いできる。ぼくは「一番弟子」で研究者としてのトレーニングをむちゃくちゃ受けた。結果、学部学生として2報も国際雑誌に論文が通った。大学の案内パンフレットには未だにぼくの写真が載せられている。そんな恩師が声をかけてくれた。正直、この話がなくて臨床を続けていたら、山手線を止めていたかもしれない。

給与水準やポジション、学位どうするかなど、全て研究部門長と交渉してくれて、すべての要素が満額・上限回答となった。

2. ワークライフバランスが良いから。

クリエイティブな仕事をするのに、毎朝早くから毎晩遅くまで働き続けるなんて脳の処理能力を落とすだけで無駄が多すぎる、というのが少なくとも恩師とぼくの共通認識で、みんな定時で帰り、休みは休んでいる。土日祝は休みで当直はない。裁量労働制なので基本フレックスタイム。もちろん、9時5時でリズムを作っていくが、何かあった場合にも柔軟に対応できる。退勤後に電話がかかってくることは全くない。

ON-OFFがしっかりしていないと、死に直結することを学んだので、この条件は本当にありがたい。有給や夏休みも誰かと時期を外して取らないといけない、なんてことはない。自分はキリスト者なので教会の行事も優先したいし、将来家族ができたら、ちゃんと一緒に過ごす時間をたくさん取れる家庭にしたいと思っている。そう考えると臨床医としてキャリア形成していくのは、結構大変で、研究者の仕事は非常に魅力的だった。

3. 適性があるから。

人と接する仕事が向いている、と思っていたが実はそうではなくて、一人で思考・思索し、音楽を聴きながら画面に向かってプログラムを書いている時間がめちゃくちゃ楽しく、どっぷり没入している、ということに気がついた。少人数でのコミュニケーションなら体力を削らなくても上手くできるので、チームで課題をクリアしていくのはとても好きなプロセスだ。向いているか向いていないかでいうと、少なくとも学生の時に論文を出すところまでは経験しているので、向いていないことは無いと思う。大活躍する!新進気鋭の研究者になる!と意気込まなくても、普通に生活するだけのお給料を貰いながら、着実に経験を積んでいくという生き方なら、しっかりやっていくことができると思う。ある程度やって製薬会社の研究部門や管理部門に移るという選択肢もある。

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4月からは臨海地域で、いまとは全く違う仕事をすることになる。すでに助走を始めているが、職場の雰囲気も良く、とても良い感じに仕事ができそうだ。

身体や心を壊すくらいだったら、誰に何を言われようと、仕事を変えてみるのも一つの手だ。落ち着いた生活の上でこそ、充実した生活を営むことができる。極論や精神論で生きてはいけない。

ストレス因子は仕事だけではなく、他の面でも凄まじい無茶をしていた。それも止めてくれる人がいなくて、むしろ負荷をどんどんかけられたので、今回の破綻は当然の帰結だった。でも全て吹き飛ぶ前に(失踪したり自死したり)、そこそこで破綻してくれたので、良い経験になった、と言える。メンタルが一番落ちていた時は、延長コードが目に入るだけで首を吊ろうとする自分を想像していた。くわばらくわばら(実は今もあるのだが頻度がどんどん下がっている)。

今回の転職は、祖母の一言も大きかった。「小さい時から体力ないんだから、もう十分お医者さんとして頑張ったでしょ?大学生のとき好きそうにやってたんだから、そっちに行って良いじゃないの」と。ああ、そういう甘えてもいいんだよ、無理しなくていいんだよ、みたいな言葉はおばあちゃんの専売特許だよな。しみじみ。

ぼろぼろになった心と身体をゆっくり労わりながら2020年を過ごしたい。今年のテーマは”Recover”。何事も無理をせずに、自分のペースで。

今日から5日間の休暇に入ります。ゆっくり休んで、残りの仕事をしっかりこなして、新しい職場へ。さあ、前へ進みましょう。人生は続く!

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