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平成レトロ

大学の授業で、私の専門の昭和レトロ研究についてしゃべったところ、先生は平成レトロについてどう思うか、という質問を受けた。

平成は数年前まであったのだから、レトロと言うのはおかしい、平成ポップみたいな言い方がよいのでは、という意見がありますが、これについて先生はどう思いますか。という主旨の質問だった。

「平成レトロ」という適当さの是非

私もそのような意見をTwitterで見かけたことがあるが、呼び方についてちょっとこだわりすぎかな、という印象を受けた。呼び方なんて、もっと適当なものだと思う。

昭和レトロだって、とても適当な呼称なのである。昭和は64年間もあったのに、その一部分しか指していない。戦争中や戦後の混乱期なんかは丸ごと見なかったことにしているし、「ALWAYS 三丁目の夕日」が流行った頃は昭和30年代ばかりがもてはやされて、いまは1980年代がもてはやされている。

昭和レトロもそんな感じでつまみ食いだから、平成レトロもつまみ食いでかまわないと私は思う。初期の限られた期間しか指していないのに、平成レトロと言っちゃってもぜんぜんOKである。

そもそも、どこまでが昭和レトロでどこからが平成レトロなのか、境界線もあいまいだ。バブリーダンスの「ダンシング・ヒーロー」は昭和のヒット曲だけど、ボディコン着て羽根扇を振り回すジュリアナ東京は平成初期だし。Winkの2つの大ヒット曲は、「愛がとまらない」が昭和で「淋しい熱帯魚」が平成だし。トレンディドラマの発祥は昭和だけど、「東京ラブストーリー」は平成だし。でも柴門ふみの原作マンガは昭和の連載開始だし。

文化は流れるようにつながっているので、昭和と平成にきっちり分けることはできない。でも分けないとレトロブームが動かないから、境界線の問題を不問にしているだけだ。呼び方に中身がともなっていないのは、そんなに気にしなくてもいいと思う。

時代を正確に伝承する/しない

もちろん、平成という言葉にこだわりがあり、平成はこういう時代だったという明確なイメージがあって、それを大切にしたい人はこの言葉をちゃんと扱いたい気持ちが強くあるだろう。それは理解できる。

マクドナルドの平成バーガーキャンペーンや、その前のパフィーのパロディにけっこうな批判があったというが、平成文化がいい加減にステレオタイプ化されていくことへの反発はよく分かる。

平成文化をもっと正確に、その深さや多様性を平板化せずに語り継ぎたいと考えるのは当然だし、私も昭和文化について同じような考えを持っている。

しかし一方で、過去の文化の面白そうなところだけをつまみ食いしたり、表面的な部分だけを模倣したりするのを、レトロカルチャーの悪癖だと一概に批判するのも違うと思う。そうした適当さから、えてして新しくて自由な解釈が生まれるものだし、令和的に味つけされた昭和や平成の面白さというものも確実にある。

昭和文化や平成文化を、その奥深さや多様性を保ったまま伝承することと、むしろそれを捨象して令和文化の部品として大胆に再解釈することは、両立できればそれがいちばんだ。

そのためには、前者から後者にあるていど口出しをしなければならないが、やりすぎてはいけないし、多少の薄っぺらさには目をつぶる度量もなければいけない。

そのさじ加減が難しいなあと思う日々である。

平成レトロな空間とは

いまは平成レトロというと、アンテナ付きのケータイとか、Y2Kファッションとか、スケルトングッズといったモノが中心だけど、空間的には何が平成レトロなのだろうか。昭和レトロでいうところの、純喫茶とかデパートの大食堂みたいな存在は、平成でいうと何なのか。

赤い看板のマクドナルドなんかはそうかもしれない。Twitterやネット記事でもときどきそういう意見を見かける。

ちなみにヘッダ画像は、2009(平成21)年頃の今はなきマクドナルド茨城大学前店。

あと私が平成的だと思うのが、TSUTAYAとかブックオフのような空間。あれは、あのままのかたちで令和を生き延びなければ、平成的な空間としてレトロ扱いになっていくのではないか。

そう考えると、赤い看板のマックも、ブックオフも、そのうちなくなってしまうものばかりである。昭和レトロな空間は令和でもけっこう残っているけれども、平成レトロな空間は残りにくいのではないか。平成らしい空間であればあるほど、それは長期的な保存を前提としていない、短期間で失われることが宿命づけられた空間なのではないか。

平成のほうが昭和よりも早く消えていくなんて、センセーショナルな話だ。

いま気づいたけど引用がマックばっかり。