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自由とは

「自由」とは何か。

この言葉は人々の心を動かし、守り、ときに戦う原動力ともなる。希望に溢れた言葉だ。 この自由を阻害する存在に、強制、支配、拘束がある。これらから逃れることで、果たして意志のある自由は手に入れられるのだろうか。

僕が使うカメラのレンズはどれも単焦点。画角が拘束されている。被写体に近づきたければ自分の足を動かさねばならない。それと同時に相手の息遣いをも感じとる。50mm単焦点レンズで蛙のこの悟りの表情を撮ろうとするのなら、蛙の日常を脅かさないように、敬意をもってカメラを構えなければならない。

つまり、画角が自由に変えられるレンズを使うときとは何が違うのか。それは相手への配慮の度合いだ。自由とは、他者への配慮の上に成り立つものなのかもしれない。

自由とは何か。

自由はひとりきりで手に入れられるものではない。他者との関係性において意義を発揮するものなのだ。その他者との関係性には、ポジティブな側面だけでなく、ネガティブな側面も存在する。このネガティブな側面が、冒頭にも述べた強制、支配、拘束である。できることなら避けていたい。しかし、一筋縄にはいかないものだ。さらに、これらから単に逃れるという行為は、他者との関係性の断絶ともなりかねない。そうなると、「自由」と「逃避」が混合してくる。

「自由」と見せかけた「逃避」。側から見ても、それが自由なのか、もしくは逃避なのかは判断がつきにくい。当人のみぞ知る事実である。しかし場合によっては、その当人にも判断がつかなくなっていることもあるだろう。

「自由」とは何か。

考えてみたが、捉え方は思っていたより多様なのかもしれない。立場によって、様々な捉え方があっていい。ということは「自由とはこうである。あなたの自由は間違っている」という一見自由な主張は、自由を阻害する強制そのものになりかねない。恐ろしいパラドックスだ。 今日僕が明確に主張したいことは、「自由の捉え方は自由であるべき」だということ。しばらくしたらまた考えてみようと思う。









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