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週刊牛乳屋新聞#43(中国の古典を読んで)

どうも、牛乳屋です!

諸葛亮が記した『出師表』と並んで、「読んで泣かぬものは忠臣にあらず」と言われるだけあって、中華最強の武将の一角である楽毅の懐の深さ、情の厚さ、寛容さを垣間見ることができました。秦の白起将軍みたいに強さだけでは登り詰めることができても、どこかでほころびが出て、自分や周囲を破滅に導くんだなーと感じました。

楽毅とは、どんな人なのでしょうか?

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楽毅は、現在の河北省中部保定市周辺の「中山国」に仕えたとされています。趙に中山国が滅ぼされた後、趙(現在の山西省・河北省南部)に仕えていました。燕の昭王に実力を認められ、ヘッドハンティングされたことから燕に移ります。

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当時、中華最強国であった斉(現在の山東省)を潰すために他国をまとめた合従軍(がっしょうぐん)を率いて斉を滅亡寸前まで追い詰めます。斉は二つの城を残して、首都も含めて約70の城が奪われる結果になりました。

燕の防衛に最も貢献した武将ですが、燕の昭王の死後、息子の恵王が即位した時から風向きが変わります。恵王は、楽毅のことをよくわかっていませんでした。「斉に残された領地では楽毅が住民の命乞いを受け入れ、圧倒的な支持を集めている」と恵王は考えており、身の危険を感じた楽毅は趙への亡命を図ります。

楽毅のいない燕は、斉から奪った70余りの城が奪い返され、再び燕にとって大きな脅威となりました。そこで、恵王は楽毅を呼び戻すよう、今までの冷遇を言い訳します。そんな状況下で『報遺燕恵王書』を書きました。

どんな状況でも、楽毅は恵王を責めず、昭王への溢れる敬愛と忠誠の情を記しました。そして、恵王は楽毅への誤解が解けることになり、楽毅は趙と燕の橋渡し役となり、燕の防衛を支えました。


会社でも、部活でも、なんかのサークルでも、途中で抜けることになった時、スムーズにいかない場合がありますし、人間関係で禍根を残す場合もあります。SNSを見れば、「前職(商社や銀行)のココが変だよ!!」と書けば伸びることでしょう。ただ、それが本当に良いことなのか?そして、自分はそうなっているのかもしれない、と振り返ることができました。

中華の武将からは学ぶことが多いと思っているので、これからも気に入った文章があればシェアしたいと思います!

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