こはくらと巨樹巨木⑦~マツ、人間の業を垣間見る木
はじめに
イチョウやケヤキなどは、出来れば葉がある春~秋に訪ねたい私。
ゆえに、落葉樹が冬姿になって以降、ここ数ヶ月は巨樹巡りも休んでいる状況ですが。
ただ、スギやカヤ、シイなどといった常緑樹は季節を問わず緑の葉をつけているわけで、訪問時期を必要以上に考えるべくもなく、冬でも行ける(爆)。
今回は、常緑樹である松をまとめてみようと思います。しかし見返してみると冬以外の季節の訪問ばかりだった…(のっけから墓穴)
松といえば、これまでにたびたび「松枯れ」が起こり、とくに(私個人の印象としては)昭和の時代、松くい虫による被害の「松枯れ」は規模が大きく、昭和に枯死したマツの名木古木が本当に多い(嘆)。
なので、令和の今にも生きるマツの名木古木は運の強さも併せ持っていると言えるのではないかと。
枯死伐採の跡地に二代目の松が植えられている事例も複数あり。
それにしても、マツというのは防風林・防砂林として浜辺に植えられたり、あるいは庭園に植栽されたり盆栽に使われたりと、あまり大々的に食用にはならないものの(「松の実」というのは本当にマツの実、種子の一部らしいが、どんな種類のマツでも食用に適すわけじゃないらしく)人間との関わりが深い樹種の一つではないかと。
とりわけ庭園植栽や盆栽の場合、人間の手があちこちに幾度も加わり、「こう在れ」と樹形が形作られていき。結果、「人間の業が垣間見える」という印象になる次第です。。
以降、主に現地案内板情報を参照しつつ紹介していきます。
(巨樹巨木を訪ねたら、巨樹巨木自体を撮影するのはもちろんだけども、案内板があったら、それも撮る。寺社ならば、山門や鳥居、境内の風景も何枚かは撮る。そうすると後で色々と助かるので←おい;)
現地を訪ねたマツ巨木
まずは、東京都江戸川区の善養寺に立つ「影向のマツ」(国指定天然記念物)。
推定樹齢600年余、根本付近の幹周約4.5m、主幹の樹高8m。
この数値だけでは「大したことないじゃないか」となるかもしれないが。
人間の手が加わった植栽松の凄さは、やはり枝張の数値を出さなければ伝わらない。
東西方向、約31m。南北方向、約28m。
いくら後ろに引いてカメラを構えても、全貌が収まらない(切実)。
昭和56(1981)年に真覚寺の岡野マツ(香川県大川郡志度町※現・さぬき市)と日本一を争い、当時の大相撲立行司・木村庄之助氏によって東西横綱に引き分けられ、「東の横綱松」に。西の横綱・岡野マツはその後枯死し、以降一人横綱の名松(ちなみに岡野マツは枯死前に採られた枝から接ぎ木で苗木が育てられ、5本が真覚寺へ「里帰り」を果たしたという:Wikipeidaを参照)。
境内に横綱山という恐らく人工の小山があり(富士塚の一つじゃないのかなと個人的には思うのだけど、ネットで検索してもちょっと確証が見付からなかった;)、そこから撮影した写真も掲載します。これでも全体が収めきれてない;
こちらの正式名称は、星住山地蔵院善養寺。過去記事「お寺の掲示板」でも書いております。
江戸時代に街道が整備されたこともあるのでしょうか、街道沿いの「松並木」が残る場所が各地にあると思います。
その一つであろう、「東根の松並木跡」(山形県東根市)。
柵に囲われ、大きな松が一本だけ立っていました。
東根市といえば、単木ケヤキとしてはおそらく唯一の国指定特別天然記念物である「東根の大ケヤキ」がある所。東根小学校の敷地内ですが、一般の見学者な自分も「どうぞ、中で見ていってください」と入れてもらえました…教職員の方々も、周辺住民の方々も、子供たちも、あまりにも一般見学者に慣れすぎていて驚いた…有難いんだけど。。
昭和の松枯れがあったせいか、本当に樹齢数百年の松の木に出会うこと、それ自体がなかなか難しい(困)。
そんな中、茨城県内に残る「江戸時代からの松」が、ひたちなか市の「湊御殿の松」(市指定天然記念物)。水戸藩二代藩主・徳川光圀公が建てた別邸・夤賓閣の庭に須磨明石〈現在の兵庫県明石市〉から取り寄せ植えられた黒松で、当時のものが12本残るという。樹齢は300年以上。
光圀公は、俗に言う「水戸の黄門様」。諸国漫遊はフィクションだが、領内は結構巡回なさったようで、各地に逸話が残っており、巨樹巨木そしてそれが立つ寺社等にまつわるものも幾つもあります。なお、光圀公は義公とも呼ばれ、偕楽園近くの常磐神社に九代藩主・斉昭公(烈公:最後の将軍・慶喜公の父君でもある)と共にお祀りされております。
広島県広島市安佐南区、蓮光寺境内にあるのが、長束の蓮華松(県指定天然記念物)。広島県教育委員会ホームページ内「広島県の文化財」記事には「寛永7(1630)年の植樹といわれ」とあり、ここから樹齢を計算すると、400年弱。(※教委ホームページ内で「寛政7年」とあったのだけど何かおかしいと調べてみたら、やっぱり寛永の誤記かなあと。教育委員会のほうにも「間違ってますよ」と送っておいた;)
樹形を美しく整え作られた松であり、造園技術を伝える資料でもあるそう。
日本三景・宮島(広島県廿日市市)、五重塔のほど近くに、横へと枝が長く伸びた松があります。その名は、龍髯の松。
西暦1800年頃に植えられたそうで、樹齢を算出すれば220年ほど。
現地で購入したポストカードに記載の情報では、この名が付けられたのは大正時代で、当時の厳島神社宮司により龍の頬のひげに似ているところから命名された、とのことです。
昨年夏、新潟へ行ったとき。
月潟から青山を経由し、新潟駅へ戻る途中、バス車内から「うぉ!なんだ、あのデカい松の木は!?」と思ったのだけれど、もう日暮れも近づいており下車するのは無理で…バスの中から頑張って写真を撮ったのが、こちら。
帰宅後調べてみたら、新潟市役所の旧正門前に立ち、推定樹齢800年という「市役所の大松」と判明…。
二代目・三代目~後継の松
初代が枯死・伐採の後で、同じ場所に二代目が(さらには三代目が)植えられて生育している事例。
茨城県行方市、霞ケ浦湖岸のほど近く。
「高須の一本松」は、前九年の役平定へ向かう途中で当地を訪れた源義家、さらには水戸藩二代藩主・光圀公、九代藩主・斉昭公にもゆかりの銘木といい、枯死直前の樹齢は900年余、根周り8m、樹高7mの県指定天然記念物であったと。
昭和55(1980)年に文化財指定を解除されたが、一本松の実生が残っており、跡地に二代目として植えられたのだそう。
<以下、後日訂正>現地案内板の日付(一本松の実生が二代目として植えられていた当時)が平成10年。写真右の小さな松の木が植えられたのは平成29年…この小松は二代目よりも後、三代目あるいは四代目なようです。ともあれ、撮影時から5年ほど経ちました…大きくなったことでしょう。
茨城県取手市、銭湯・かたらいの郷から交差点を渡り、反対側の道路脇にはお地蔵さまが並び、松が植えられています。
『取手市の巨木と名木』(取手市 緑化推進委員会 発行、2010年)によれば、かつてここには推定樹齢300年、幹周5mの黒松があり、「城根の一本松」「長兵衛新田の開墾松」と言ったのだと。
倉持長兵衛という人が新田開発の記念に承応3(1654)年に植えた松は、後に枯死し、昭和55(1980)年に伐採されたとのことです。
しかし、『この松が枯れたら再び松を植えよ』との先祖代々の申し伝えのとおり、同じ場所に二代目の松が植えられ、育っているのだと。
『取手市の巨木と名木』発行から10年ほどおいて訪ねることとなりましたが、本に掲載の写真では傍の一番背の高いお地蔵さんを縦に2つ重ねた程度の丈だったのが、こんな感じに何倍にもなっており。成長していることが良く分かりました。
山口県岩国市、日本三奇橋の一・錦帯橋の傍に、横へと身を乗り出すような松があります。
これは「槍倒し松」といい、「諸大名が他藩の城下を通るとき、行列は槍を倒すのが礼儀だったにもかかわらず、岩国藩が小藩だった為に守られなかった。そこで岩国藩の武士たちは横枝の張った松を橋の頭に植え、槍を倒さないと通れないようにした」のだそうで。
現在あるのは、昭和27(1952)年に枯死した初代の松の実から自生した直系の松を吉香公園(ここからほど近くに広がる公園)から移した「三代目槍倒し松」、とのことです。
茨城県、JR常磐線の土浦駅から、稲敷郡阿見町の予科練平和記念館へ向かう道から見えるのは「大岩田の一本松」。
霞ケ浦航行の目標となり、また飛行予科練習生にも目印として親しまれ「予科練の松」とも呼ばれた樹齢300余年の初代は、昭和52(1977)年に枯死。その後植えられた二代目も枯死し、現在あるのは平成7(1995)年植栽の三代目とのこと。
予科練という語から想像されるように、当地は旧日本海軍と関わりが深い場所です。戦況の悪化により生きては帰れない特攻兵として若者たちが投入されていき、兵役についた予科練生2万4千人のうち約8割にあたる1万9千人もが戦死したのだといいます(日本一の湖のほとりにある街の話 (no1-lake.jp)より。一般的に「日本一の湖」といえば琵琶湖ですが、それは面積の話であって、周長では霞ケ浦が琵琶湖を超えて一番なのだそうです)。
戦争に呑まれ散っていった若者たちが生前見つめたであろう、一本の木。初代は枯死してしまったけれど、かれがここに在ったこと、戦争なんてもってのほかということ、それを語り継いでいかねばならないと思わされます。
附:松を失ったあと…
私は、過去記事の中の、二股の木の霊性に関する箇所にて、合体木にも霊性を認める思想があった件を書いており。その流れで自身が出会った合体木をいくつか紹介していまして…
…との事例を挙げており。
茨城県取手市、「稲のトウカエデ」(市指定保存樹木)は、かつては松と抱き合っていたが松が枯れて除去されたため、このような姿なのだと。捻れたというか身を捩ったようというか…
茨城県つくばみらい市、北山道祖神のケヤキも、数百年にわたり松の木を抱いていたのだと(『茨城の名木・巨樹』平成8年発行 参照)。
ちなみに、本『茨城の名木・巨樹』では「北山のケヤキ」となっており、北山とはここの地区名であるようです。道祖神とは塞の神、通行人や村人を災難から守る神。木の傍に祠があり、自分が訪れたときにも わらじやお茶が供えられており、今も信仰されているのが伝わってきました(旅行の神、足の神、夫婦和合の神なのだそう)。
松を抱いていた当時の写真が何処かにあるのならば、真剣に見たい。是非見たい。。
結び
完全に私事とはなりますが、私の実家には自分が物心ついたときには既に大きかったから間違いなく樹齢60年以上になる松があります。
自分が十代後半のときに家移りしましたけど、父がこの松に愛着を持っており、それこそクレーンやトラックも使って持って行き、現在地に移植しました。
以前の住まいは海に近く、あのまま元の場所にあったならば、東日本大震災時の津波を被っていたはずでした。海岸に植えられていることの多い松とはいえ、大量の海水に洗われてしまったなら危うくなる、それは岩手県陸前高田市の高田松原で唯一津波に耐え残った「奇跡の一本松」も枯死を免れなかったことからも分かります。
実家の松は、今も元気であるようです。父の「この松も持って行く」という強い意志が無ければ、もう既に――と思うたび、やはり松もまた人間を魅了する木であり、「人間の業が垣間見える木」なのだと感じる次第です。