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拙作語り㉔~ミズモちゃん@『Secret Base』

色々あって全文再掲は難しい現代学園短編連作小説『Secret Base』(過去記事「拙作語り⑫~Secret Base」他、参照)より、サイエンスクラブ二代目顧問・水本みずもと教諭に関わる箇所を抜き出してみようと思います。

水本教諭が初めて登場するのは、以下のくだり。
だいぶ後のほうで、少しだけ出てきます。

 今年のゴールデンウィーク明けは、5月7日。
 長期休暇明けで結局一日調子が乗らず、そのまま放課後を迎えてしまったことに ため息をつきながら、第一理科室脇の準備室で岸浪教諭が机の上に のびていると、不意にドアが開く。
「あの、先生」
 顔を上げて見れば、放課後の第一理科室を活動拠点とするサイエンスクラブの部長であるラザフォードこと三年生の男子生徒・宇内那由多うだい なゆただった。
 ラザフォードとは中心核をもつ原子モデルを提唱したイギリスの物理学者だが、那由多のクラブうちでの呼び名である。他の部員も同様に、偉大な業績を遺した科学者からいただいたニックネームを持っている。
「なんだ?」
「連休も終わりましたし、また去年と同じように そろそろ今年の文化祭の相談をするのかなと思ったので…一つお願いが」
「はあー…。そうだな、そんな時期だっけ」
 教諭は体を起こして一度伸びをし、挙げた腕を頭の上で組む。
「ええ。大体のイメージはあるんですけど、詳細を決めるのに あの虎の巻を貸して下さい」
「ああ…化学実験の手引き書ね」
 机右下の引き出しから一冊の本を取り、彼に手渡す。
「ありがとうございます」
「お前は、もう何やるか決まってるのか」
「はい。おれが取り組むテーマはアレしか無いですから」
「アレって…また炎色反応やるのか?」
 花火が大好きで、夏が近づいてくると何故かそわそわし出す生徒である。このサイエンスクラブに所属するに至ったのも、化学の教科書のカラーページに掲載されていた炎色反応の写真に興味を持って 話を聞きにこの理科準備室を訪れたのがきっかけなのだ。
 教諭は不満げに続ける。
「去年と全く同じってのは俺が許さないからな。怪我して入院したせいで2回4年生をやった先輩は、入院したのが冬で大方卒論は出来てたハズだが、あと一年やるなら内容増やせ・発展させろって教官陣に云われてそうしてたんだぞ」
「そこはご心配なく。展示の仕方は変えますよ。ですから、この虎の巻なんです」
 実に爽やかな笑顔で、ラザフォードは先程受け取った本を掲げて見せる。
「じゃ、文化祭の打ち合わせは1週間くらい置いて来週半ば頃で。皆にもそう伝えておきます」
 軽く会釈して理科室へ戻りかけた彼に、教諭が言う。
「いやあ、部長がしっかりした働き者だと顧問は楽できていいな。感謝するぞ、ラザ」
「いえいえ、こちらこそ。これ、お借りしますね」
  * * *
 かくして昨年同様、ゴールデンウィークも明けた翌週に、秋の秀嶺祭しゅうれいさいこと この つくばね秀栄高校の文化祭に向けた会合が始まる。
「今日は まず、先週話した通り 文化祭の発表内容とその計画について、皆の考えを聞こうという会から始めるよ」
 部員たちを教卓そばの机に集め、部長ラザフォードが話を進める。
「えと、今年も去年と同じく、各自テーマを決めて発表・展示する形式。おれは、去年に引き続き『炎色反応に関して』で」
 教卓の前の椅子に座り、黙って聞いている顧問をちらりと見、彼が続ける。
「でも、去年とは展示の仕方を変える。ただ、今回選んだ演示実験は有毒ガスが出る兼ね合いもあって、メンデのビデオカメラで録画したものを流すことにして。実演には、同じ『金属と色』の繋がりで呈色反応をやる予定。多分、銅イオンとアンモニウムイオンの組み合わせで錯体を作って見せる実験になるかな」
 彼が説明し終えると、教諭は軽くうなずき、
「ほー、そうきたか。なるほど」
 そして、メンデレーエフこと二年生の男子生徒・有田啓人ありた けいとへ視線を向け、
「メンデ。お前、今年もあのカメラ貸し出すの?」
「ええ。オレ個人の所有物ですから」
「高校二年生が、自分のデジタルビデオカメラ持ってるのがすごいですよね」
 彼の左隣に座るベイツ=一年生の男子生徒・祝部斎ほうり いつきが、さりげなく会話に加わる。
 ベイツは従姉いとこであるサイエンスクラブOG・ノーベルこと神足魅羽こうたり みうの紹介で このクラブの存在を知り、入部した生徒だ。それゆえに彼女から過去の活動状況などもいくつか聞いている。昨年の文化祭、前もってメンデレーエフのビデオカメラで録画した実験・実演映像を当日に流したことも、である。
「ま、くだらないものとか卑猥なもん撮るのに使われるくらいなら、カメラも こうアカデミックなものを撮影してもらったほうが冥利に尽きるだろうしな」
「ちょっと先生、それは聞き捨てならないですね。こんな健全安全な模範生徒が、どんな卑猥な映像を撮るんですか」
「冗談だよ。あまり気にすんな。だがなあ、模範生徒は言い過ぎだな。もっと模範的な生徒が他にいくらでも居る」
 教諭に何か言おうとしたメンデレーエフに「そろそろ脱線は終わりにしろよ」と目配せし、ラザフォードが話を戻す。
「じゃ、次は副部長の計画を聞こうか。キュリーは何をやるの?」
 部長に訊かれ、もう一人の三年生であるキュリーこと橿原万希かしはら まきが答える。
「もしかしたら去年買ってくれた人がまた来てくれるかもしれないし、もう一度石けんと草木染めをやろうと思ってるの。石けんのほうはノーベル先輩から情報提供してもらって。もちろん、去年の内容に何か更にプラスして」
 このキュリーの発言に、教諭は たしなめるように、
「お前、三年生だろ。受験生なんだぞ?しかも、家事と勉学の二足ワラジ。どっちも結構な分量なのに、二つも出来るはずないだろ」
 彼女は現在父子家庭で、父親と中学生の妹の分も合わせて三人分の炊事・洗濯を毎日、掃除は週に一、二度だがそれをほぼ一人でこなしている。だが学業のほうも手を抜かない、勤勉な生徒だ。
「もちろん分かってます。一人でやるとは言ってませんよ」
「は?」
「オレも同件です。ま、共同研究…共作ってことですかね」
 示し合わせたように、彼女の隣に座っていたメンデレーエフが名乗りを上げる。
「メンデ、どうした風の吹き回しだ?」
「売り子がしたいんだよね、メンデは」
 キュリーが言うと、彼は 大きくうなずく。
「だがなあ…草木染めは男性の染物師だって居るんだからともかく、男が石けん作って売ってる姿は見たくないな、俺。買うほうだって退くぞ、多分」
 教諭が正直な感想を述べると、
「それも了解済みですよ、先生。ま、作戦というかは考えてます」
「はあー。にしても、ノーベルかあ…。今頃どうしてんのかね、卒業生は」
「わたし、ノーベル先輩と先月の20日頃会いましたよ。相変わらずでした」
「俺は連休中に魅羽姉に会いましたけど」
 何気ないつぶやきに返答してきたキュリーとベイツのほうへ一度視線を向けてから、教諭は首をかしげる。
「ノーベルの目撃談ばかりだな。大学行ってもハッブルは影薄いのか」
「オレ自身の話じゃないですけど、うちのクラスの森嶋が二人を見たらしいですよ。イオンモール水戸内原で、仲良さげに並んでるとこ」
「ほぉー…」
 と、突然教諭は身を乗り出し、
「って、二人一緒にショッピングモールをお散歩かよ?それ、世間一般にはデートって云うよな」
「言いますよ。だから奴は連休明けから大騒ぎしてたんです」
 メンデレーエフが冷めた口調で返し、ベイツが後に続ける。
「そうそう。この前うちに来た時も、カレシとの『のろけ話』ばかり聞かされて…疲れました」
 この春 高校を巣立った、サイエンスクラブに所属していた卒業生は二人。先程からよく話題にのぼる女子生徒・ノーベル(魅羽)と、もう一人はハッブルこと五十嵐飛鳥いがらし あすか。『飛鳥』などという女の子のような名だが、身長181cmの教諭よりも更に背の高い男子である。
「ふーん…そうだったんだ」
 今初めて知ったような様子で、ラザフォードが ぽつりと言う。そんな彼を一瞥し、メンデレーエフは何故か肩を落として大きな ため息をつく。
(こいつ…自分のことだけじゃなくて周囲の恋愛模様にも鈍いっつうか疎いのかよ。あんだけあれこれとアプローチしてるのに気付いて貰えなくて、つくづく憐れだな…キュリーが)
 そして、自身の隣に座るキュリーを横目で見やる。
 軽く咳払いし、ラザフォードは何事も無かったかのように話題を再び文化祭の件に戻す。
「じゃ、次は一年生に行こうか。ベイツはどんなテーマを選んだ?」
 紙飛行機を机の下から取り出しながら、ベイツが答える。
「俺はコレをメインに」
「…それだけ?」
 教諭が気の抜けたように訊くと、
「それだけとは失礼ですね、先生。この折り方、航空力学も考慮されてる形なんです」
「はあ、航空力学…いきなり大きく出たな」
「そんな大仰なもんじゃないですけど。自分で折った紙飛行機が、予想以上に飛んだら楽しいでしょ。普通の紙飛行機だけじゃなく、『実際に羽ばたくように飛ぶ鳥型』も折って紹介しようと思います。もちろん、飛行機が何故飛べるのかという理屈についても、パネルか何かで出すつもりです」
 彼の説明に、教諭も突っ込みどころを見付けられない。
「さすがは今年度首席入学者…抜かりなしってことか。気象関係にいくかと俺的には思ってたが」
「それは来年以降にとっておきます」
 話が一段落したのを見届けて、ラザフォードは今までほとんど口を挟まずに座っていたデル・リオこと一年生の女子生徒・石動咲良いするぎ さくらに尋ねる。
「デル・リオは何をやろうと思ってるの?さっきから大人しくしてるのと何か関係があるのかな」
「え?いつも『おしとやか』じゃないですか、あたし」
「嘘こけ、この蓮っ葉ドジ娘が」
「先生、そういうのは今いいですから。彼女の話を聞きましょう」
 ラザフォードが教諭を たしなめる。デル・リオは一つ息をついてから、
「えと、あたしは『ミニミニ鉱石標本館』みたいな感じでやってみたいなと」
「標本館、か」
「はい。今までに集めたやつと、これからまたいくつか入手してきて、説明と一緒に並べてみるつもりで」
「ほーお」
「…で、先生。一つ相談なんですけど」
「何だ」
「今までのは、博物館とかストーンショップで買ったのが大半なんですよ。でも、今後ぶんに関しては、出来ることなら自分で採掘してきたくて」
「…は?」
「いえ、購入するお金が惜しいばかりじゃないんです。色々と実感が…。だから、そういうネタ。何か無いですかね?どこに行けば、こんなの出るよ…とか」
 この彼女の言葉に、教諭は軽く腕を組む。
「残念だけど、俺は物質・分子工学専攻で地質系のそんな情報はさすがに…」
と、腕をほどいて はたと手を打つ。
「そうだ。樋口先生なら何か持ってるかもしれんな」
「え?樋口先生?」
「そっ、地学の先生。理学部地質学科卒だって聞いた気がするから。あとで訊いてみれば」
「はい、そうします」
 メンバーの顔をひととおり見回し、ラザフォードが告げる。
「これで全員出揃ったね。また違ったジャンルが並んで面白くなりそうだ。ちゃんと計画を立てて、後で慌てないで済むように進めてよ」
 そこで一度言葉を切り、教諭のほうへ顔を向けて、
「先生には去年同様、皆の相談に乗ってくれるようにお願いします」
「はいはい。分かってます」
 こうして、平成20年秀栄祭 サイエンスクラブ発表展示計画打ち合わせ会は、お開きとなった。
  * * *
 翌日の放課後。咲良は第一理科室へと向かう前に職員室を訪ねて地学教諭・樋口いすみ に声をかけ、事情を説明した。
「ふーん…文化祭でねえ」
「はい。どこに行くと こんなの採れるとか…何か、いいネタがあれば」
「そっか。なら、ちょっと知り合いに訊いてみようか?」
「知り合い?」
「うん。同輩の一人が、大学で助手やってるの。…私は四年で出ちゃったんだけどね。だから、私は地質学科出の理学学士どまり」
 ふと咲良は背後から流れてくる、何とも表現しがたい空気に気付く。
「…あの、先生。何か、ねばつくような視線を感じませんか?」
「あ、そういえば」
 二人が振り返ると、昨年の春定年退職した安西教諭と入れ替わりでやってきた物理教師・水本淳哉みずもと あつやがこちらをじっと見ていた。
「なんですか?水本先生」
「いやあ、なんだか楽しそうな相談してるなあって。いいなあ、僕も そんなのやってみたいなあ」
 三十代半ばで妻子持ち。教師としての手腕は確からしいが、大人になることを拒み通し夢を追い続ける少年のような教諭である。
「じゃあ、先生も入部しますか?サイエンスクラブ」
「うーん…嬉しい提案だけど、僕も色々忙しくて。子供に掛かりっきりの かみさんに怒られちゃう。また来年辺り、誘ってくれる?」
「ああ、はい。忘れなければ」
 咲良が答えると、水本教諭は荷物をまとめて笑顔で立ち上がる。
「それじゃ。お先に失礼します」
「あ、お疲れ様でした」
 職員室を後にする背中を見送りつつ、咲良は樋口教諭に話しかける。
「なんだか奇妙な人ですね、水本先生って」
「そうねぇ。悪い人じゃないんだけど、変わってるよね。私も良く分からないの。…で、何の話だったっけ?」
「忘れないで下さいよー。知り合いの大学助手に、どこで何が採掘できるかの情報をあたってくれるって言ってくれたじゃないですかー!」
「ああ、そうだった。ごめんごめん。大丈夫、ちゃんと話しておくから。また来週辺り、声かけて」
「はい、分かりました。お願いします」

(『Secret Base』May-2008 より)

そして番外にも……

 7月も中旬を迎えた木曜日。
 いつものように放課後の第一理科室にやってきたサイエンスクラブ部員の一人、メンデレーエフこと二年生の有田啓人ありた けいとが、その時ちょうどドアを開け準備室に入ろうとしていた顧問の岸浪きしなみ教諭を見付けて声をかけた。
「あ、先生」
「何だ?」
「…コネとかカネとか、なんですか?先生も」
 このところO県での教員採用にからむ汚職事件がニュースになっているせいで、彼もまた生徒に疑われたらしかった。
「『先生も』って何だ、『も』って!お前、しばくぞマジで!俺は自力だ、100%自力合格!!」
「そうですか。ならいいんですけど」
「まだ疑うか?俺ん家は電気工事請負の自営業。親父もおふくろも、工務店やら不動産屋ならともかく、役所とか教育委員会にパイプなんて持ってねえし…そもそも、息子の就職の世話してもらう為に袖の下貢ぐような金も心意気も無えよ。自由主義つうか放任主義だからな…俺は次男だし余計と」
「でもぉ、メンデ先輩が訊きたくなる気持ち分かりますよ。あたしも」
 音もなく引き戸を開けて現れたデル・リオこと一年生の石動咲良いするぎ さくらが話に加わる。
「先生、気分屋なとこあって、たまに教師らしからぬ暴言吐くしぃ…基本的に口悪いですもん。よく採用試験の面接パスしたなと思えますよ、正直」
「まあ、口が悪いのは自分でも分かってるし、否定しないがさ…」
 教諭は一度言葉を切り、またすぐ続けて、
「ああいう一件が明るみに出ると、こういう真面目にやってきた人間たちまで肩身の狭い思いをする。嫌だね、全く…」
 そう言い残すと隣の理科準備室へと去って行った。
 ドアが閉まり、理科室に静寂が訪れる。
「悪いこと言ったかなあ…」
 気まずげに独りごとのように問いかけてくるメンデレーエフに、デル・リオが笑顔で返す。
「先輩が黙ってこらえたとしても、誰かが絶対訊きますって。あたしもチョット思ったし…。でも、後で何かのついでに謝りに行きましょうか」
「ああ、そうだな」
 二人、それぞれ自分がバッグを置いた机に戻る。
 ほどなく、次々と他の部員が現れる。この理科室に五人全員が揃い、あとはいつものように各自秋の文化祭へ向けた発表・展示内容準備のため作業に入るのだった。
  * * *
 翌、金曜日の朝。
 職員室で出勤報告をつけてから第一理科室隣の準備室にやって来てドアを開けた岸浪教諭は、先客が居たことにまず驚いた。
 そして、それが朝の第一理科準備室に時折顔を出している地学の樋口教諭でなかったことに二度驚いたのだった。
 この つくばね秀栄高校の理科教師には、職員室以外にも理科準備室に机が用意されている。しかし、着任して以降職員室ばかりに居て、ここに来ることは数える程度。そんな『彼』が朝からこの理科準備室の机に座っているのを、岸浪教諭は初めて目にした。
「…おはようございます。水本先生」
「あ。おはようございます、岸浪先生。早いですね」
 昨年4月に赴任してきた物理教諭・水本淳哉みずもと あつやが 広げた新聞から顔を上げ、にっこり笑う。
「先生も結構早いですよ。それに…どうしたんですか?こんなとこで」
「ごめんね。このところ息子の『朝から一人運動会』がますます過熱してて…落ち着いて新聞も読めないものだから」
「はあ、そうですか。小さいお子さんがいると大変ですね」
 岸浪教諭は、ふと これまで一度も本人から聞いたことがない話を訊いてみようと思い立った。
「水本先生。こんなこと訊いたら失礼に決まってますけど…先生は独力ですか?」
「何が?」
「いや…ほら、今色々話題になってるじゃないですか。『頼まなきゃ・積まなきゃ教員試験に通らない』とか…」
 水本教諭が黙り込むので、慌てて続ける。
「すみません。実は昨日、『コネとかカネとか、なんですか?』ってクラブの生徒に訊かれて…やや凹みで」
「…ああ、その話ね。結論から言うと、僕はどこにも誰にも頼んでないよ。だって、僕の本籍は東北の山ん中だし、こっちに来てからそう長くなくて。どこの誰に頼めばいいのかなんて知らなかったから、素直に勉強して普通に試験受けて。もっとも、頼むにしてもそんな貯金も無かったけど」
「…それで受かったんですか。相当優秀なんですね」
 人伝に聞いた話では、水本教諭はT北大出の工学修士。学生時代にはアメリカに留学もしていたという。一度は某大手機器メーカーに入社したが数年で退職し、高校教諭を目指したのだとか。
(さすがT北大の院卒…学校離れてからのブランクがあっても生え抜きイバラキアンはカタなしか)
 生まれてから今現在までずっと茨城県南在住で、最終学歴も地元T波大大学院の修士。意味なく水本教諭をライバル視しかけた岸浪教諭であった。しかし水本教諭は全く気付かぬ様子で穏やかに返す。
「優秀ってほどでもないだろうけど」
 こうして面と向かって話をしてみると、つくづく不思議な人物だ。純粋な少年のような目に眼鏡をかけた、自身より十歳ほど年上の『先輩』。自分と同じく、おそらく六尺〈※約180cm〉超はあろうかと思われる長身ながら、何故かそれを感じさせない。
「あくまでも噂で、証拠を見たわけじゃないですが…この辺でもそういう話は昔からあって。そういう、公務員つうか…自治体職員の就職がらみのコネばなしは。俺はずっと実家住まいですから」
 神妙そうに、また どこか申し訳なさげに再び語り出す彼に、水本教諭がにこやかに言う。
「別に珍しいことじゃないでしょ。僕も学生時代の同輩に久し振りで会ったらば、いきなりで愚痴聞かされたし。
『俺、真面目に勉強して試験に通って市の職員になったのにさ…「誰に頼んだの?」なんて訊かれたんだぜ!?もうー!酷く気分悪い』
だなんて。地方ならば大なり小なりそういう話はあると思うよ」
 そこまで言って、
「でも、岸浪先生も『コネなし枠』なんじゃないの?」
「ええ、一応は…」
 確かに、彼は「コネを使って教員に採用されたとおぼしき人物が居るのは事実。しかし、コネなしで教員になっている人も ちゃんと居る」という噂を信じて、「成績優秀なら…上から3番以内くらいに入ってりゃ文句無えだろう!!」とばかりに夢中で勉強し、面接ではハッタリをかまして合格を勝ち取ったのだった。
「なら、先生も優秀なんだ。僕なんて、とてもとても」
 この低姿勢は何の計略なのだろうか。岸浪教諭はつい、水本教諭を前に構えてしまう。
 そんな彼の様子を気にも留めず、水本教諭は新聞を畳んで机に置き、パンフレットを手に取り開く。
「…演劇ですか」
「うん。ミュージカルとか大好きなの。本場ブロードウェイで英語版を見たい・聞きたいって気持ちもあるけど、今当分は四季劇場かな」
 たまに語尾にオネエ系が入る辺りからしても、ますます正体が分からない。
(でも、こういう人が採用されるんなら…ここの教育委員会も捨てたもんじゃないのかもしれないな)
 岸浪教諭は自身の机に着き、一つ息をついて笑みを浮かべた。
  * *
 同日、放課後。
 いつものように第一理科室に部員たちが集まってくる。
 キュリーこと三年生の女子生徒・橿原万希かしはら まきが教科書を入れて持ち歩くのとは別のサブバッグからラッピングされた箱を取り出したのを、メンデレーエフは目敏めざとく見付け、
「キュリー、それ何」
「あ、これ?明日がね、クラスの友達の誕生日だからって昨日ケーキ作ったんだけど、一緒に焼いたやつ。先生もカノジョも、甘いもの好きだって言うし…ついでにね」
 メンデレーエフは図鑑を広げようとしたデル・リオに目配せする。
「オレ、届けてやるよ」
 そして彼女の返事を待たずに箱を手に取り、理科準備室へと歩き出す。
「え?ええ…別にいいけど」
「あたしも行きます、先輩ー!」
 彼の後をデル・リオが追う。二人がドアをノックして準備室に入っていくのを、キュリーは首をかしげつつ眺めていた。
  *
 好都合なことに、準備室には岸浪教諭一人だけだった。
「先生」
「何だよ」
「これ…」
 言いながら、先程の箱を差し出す。
「だから何だって」
「キュリー先輩からです。ケーキらしいですよ」
「キュリーが?」
 デル・リオの説明を聞くと教諭は笑顔になって箱を受け取り、鼻を近づけた。
「んー。腹が減りそうな…コーヒーか紅茶が欲しくなるいい匂いだー。だが、どうして本人じゃなくてお前らが…」
「あの、先生…」
 メンデレーエフはデル・リオと顔を見合わせ、揃って頭を下げる。
「昨日はすみませんでした。今更ですみません、何だかタイミングが掴めなくて」
「ああ…もう済んだことだし、別にいいけど。但し、他の先生にも同じこと訊くのは止めとけよ」
「はい、もちろんです。でも、正直安心したっていうか…嬉しかったですよ」
 彼のななめ後ろから、デル・リオも うんうんと何度もうなずく。
「でさ、この中身って何なの?」
「そこまでは聞いてないんで、分かりません」
 教諭に訊かれて、デル・リオが正直に答える。
「やっぱ本人を呼んできたほうがいいですかね…じゃ、オレたちは失礼します」
 あとは二人並んで、そそくさと理科室へ戻っていく。
 彼らの後姿がドアの向こうに消えると、教諭は ふっと笑った。
 あきらめかけたこともあったが、教師を目指して― そしてこの二年と数ケ月、教師を続けてきて良かったと思えた一日となった。

(『Secret Base』Jul-2008 =SIDE STORY <teachers' room>= より)

次に水本教諭が本編に登場するのは、2009年春。他の先生の会話の中で…

 平成21年度入学式は、例年通りの4月7日。昨年の台風がやってきたかのような大荒れの天気とは対照的な、実に穏やかな晴れた春の日だった。
 式は滞りなく終り、教師たちも帰り仕度をする職員室。新入生の名簿を手に微笑む1-A担任の英語教師・染谷そめや教諭に、地学担当の樋口教諭が声をかける。
「どうしましたか?染谷先生」
「あ、樋口先生。あのね、うちのクラスに橿原かしはらさんって子が居て…先月卒業した橿原さんの妹さんじゃないかと思うのね」
「え?」
 染谷教諭は、中肉中背で目尻のやや下がった実に温厚そうな容貌ながら『母強し』を地で行く、高校生と中学生という二児の母。昨年度までは順に遡って3-B、2-B、1-Bを担任していた。つまり、一年・二年の万希まきの担任であった。
「へぇ…姉妹が入れ替わるように同じ高校ですか。確か橿原さんってサイエンスクラブ入ってましたよね、特進ばかりが集まってしまうという…。昨年度Dクラだった石動いするぎさんも、なんだかんだで今年度からはBクラだそうですし」
  *
 樋口教諭は、前年度の末に咲良らくら本人からその報告を受けた。
「へえ。石動さん、頑張ったんだね」
「はい!佐伯さえきさんの弟子になるべくS州大を目指そうと決めましたから。自分で言うのも何ですけど、頑張りましたよ!」
 文化祭の発表がらみの相談を受け、同期の大学助手である佐伯女史を紹介した彼女としては、素質はあるらしいが勉学に励む様子のない一人の生徒が姿勢を変えてくれたことが嬉しかった。
「もっとも、あたし一人の力じゃなくて、スーパー専属教師のお陰でもあるんですけど」
「…専属教師?」
「はい。同じクラブの祝部ほうりに勉強のアレコレを伝授してもらって」
「…へえ。Aクラの首席入学者だよね、祝部くんって」
「そうなんです。さすがに違いますよね。神社の一人息子だから仕方ないのかもしれないけど、神主じゃなくて先生になればいいのにって思っちゃう」
 二人は笑い、
「でも、DクラからBクラに移動ってことは、クラスメートに何か言われたんじゃない?」
「ええ、まあ。特に親しくもない子から『石動ぃ。何をどうやってそんな成績のびたの!?教えてよぉ、そのスーパー専属教師とやらを紹介してよぉ。友達でしょお?』とか。都合のいいときばかり友達呼ばわりで、嫌になっちゃう」
  *
「サイエンスクラブねえ…」
 そんなことを思い返していた樋口教諭に、染谷教諭が問いかける。
「今年度からはどうなるのかしらね、岸浪先生は他校に行ってしまったし」
「水本先生が引き受けたらしいですよ。私がやっても良かったんですけど、既にしてバド部の顧問なもんで難しくて」
「へえ、水本先生が…。『子供がまだ小さいから、そういうのは勘弁して』って逃げまくってたのよね、彼」
「はい…」
 女同士、話しだすとどうも次から次へと話題が尽きることはなく止まらない。
「何の話をしてたんでしたっけ」
「…あ、そうそう。橿原さんのことよ」
 染谷教諭は笑い、
「同じ高校で二人とも特進、か…。頑張ってるのねぇ」
 丁寧に名簿を閉じて、机の上に置いた。

(『Secret Base』Apr-2009 <4>二人姉妹 より)

岸浪教諭の異動により、サイエンスクラブ顧問を引き継いだ水本教諭。
二人の一年生を新入部員に迎え、新たなスタートをきったクラブであったが……

 4月のとある休み時間、啓人けいとは突然見知らぬ三年生の女子生徒に教室前の廊下へ呼び出された。
「オレに何か?つうか、君…どこの誰?」
 彼女はひどく不機嫌な様子で言う。
「あたしは3-Cの茂木郁美もぎ いくみ、吹奏楽部の部長。…どうでもいいから、橿原さん返してよ」
「…は?」
「だから!1-Aの橿原さん!彼女、中学時代に吹奏楽部でクラリネットやってたって聞いたから、絶対もうウチに来てくれるって思ってたのに。どんなあくどい手を使ったの?あんた」
「知るかよ。ウチに入部の申請出したのは本人の意思だぞ。オレは一切関知してない。むしろ止めたけど聞いてもらえなかったんだ。あとは本人にアピールしろよ」
 悔しげな表情を浮かべながらも、彼女は自分の教室に戻って行った。
 しかし…
 翌日、啓人は再び見知らぬ同学年の生徒から呼び出された。今度は男子生徒だったが…
「ホント、なんだよ?お前も吹奏楽部?」
「違ぇよ。スポーツ系クラブの代表として、意見させてもらいたいだけだ」
「何を?」
「津久井を手放せ」
「…は?」
「ヤツは身長こそ低いが、スポーツ万能でスゲぇって言うんだよ。親の転勤に付いて回りながら、ご当地スポーツをやりまくってたらしくってなあ…器械体操やら球技、陸上だけじゃなくて、変わったとこではフィギュアスケートとかホッケーもやってたとか…」
「へーぇ、初めて聞いた」
「だから!そんなヤツなんだから文系クラブには不適合だって言ってるんだよ」
 ここは進学校でもあり、学校方針として部活動にさほど力を入れておらず、本気で甲子園や花園を目指す生徒は居ない。だが、どうせ運動するならば手応えある『デキる』者を仲間にして、練習や試合をやりたいという気持ちもあるようだった。
「あのなぁ。入部の申請は受理したけど、あれはオレがどうこうしたわけじゃなくて、純粋に本人の意思なんだってば。そもそも、なんで本人とか顧問じゃなくてオレんとこに直訴すんだよ。そこからして間違ってるだろうが」
 本人に直接言わないのは、強引に勧誘してしつこさで嫌われるのを恐れるためかもしれない。しかし、顧問に対しては…
「だって、水本先生が言ってたぞ。『クラブのことは、創部以来の在籍者である部長・有田くんに一任してるから』って」
(ああぁ…要するに、厄介なことは丸投げかよ)
 人の良さそうな笑みを浮かべる、眼鏡をかけた男性教諭。しかし、その外見では測り得ない、調子のいい策略家であるに違いない。男子生徒が去ってから、啓人は人知れず嘆息を洩らした。
  *
 渋々ながら、啓人は放課後になって第一理科室にやってきた一年生二人に事情を説明し、くだんの三年生に話をしてくれるよう頼んだ。
「仕方ないんですってば。おれは今、おおっぴらに運動出来ない体なんで。体育の授業は仕方ないからやりますけど」
「…は?」
「体中の関節が痛くなるんですよ。でも病院行っても、おそらく急激に身長が伸びる成長期に時として起こるケースで、レントゲンとか見てもおかしいとこ何もないから、ホントに痛いときは鎮痛剤でも飲んで我慢するしか無いって言われて」
「…フーン。じゃあ、ウチへの入部は腰掛けな心つもりか」
「そんなことありません!理科、好きですから」
  *
「お疲れ様でしたー。お先、失礼します」
 啓人、続いて千賀ちかが理科室を去ったあと。咲良が、自分も帰宅すべく荷物をまとめ立ち上がった聡介そうすけに話しかける。
「ねえ、津久井くん。サイエンスクラブを選んだ理由…他にもあるんでしょ?」
「え?何だっていうんですか。運動しにくい現況と海洋学に関心があるって、それだけで充分でしょ?」
「充分だけど…ね。海と同じくらい、千賀ちゃんにも関心がある…出来たらお近づきになりたいな、だなんて希望的観測もあった。図星でしょ」
 途端、聡介は顔を背けて黙り込むが、
「橿原さんには…有田先輩や水本先生には黙っててください、石動先輩!」
 手を合わせて懇願され、咲良は肩をすくめて息をつく。
「言わないよ、そんなこと。部員が五人居なきゃ部活動として認可されないし、文化祭に発表も出来ないもん。そんなんなったら、卒業してった先輩がたに申し訳ないじゃん」
「ありがとうッス!」
 聡介がほっとしたように笑顔を見せたところで、いつきが加わり、
「意地悪だね、咲良ちゃんは。気付かないふりしてあげればいいのに」
 彼の言葉に、再び聡介の顔色が変わる。
「そ、そんなにバレてるんですか?見え見えですか!?」
「いや、別に津久井が悪いわけじゃなくて…気持は分からないでもないから。千賀ちゃんはお姉さん…橿原先輩並み、いやそれ以上かもな一年生うちでの華みたいだし」
「…ねえねえ。それはそうと、あたしたちも帰ろうよぉ」
 自分から話を振っておきながら面倒くさそうに咲良が言い、かばんを持つと昇降口へと歩き出した。
  * *
 かくして、本来のクラブ運営にも、その他の部分にも一抹の不安を残しながら、新生サイエンスクラブは活動を開始することとなるのであった。

(『Secret Base』Apr-2009 <7> とばっちりは全て彼に より)

例年5月の連休明けに秋の文化祭の相談を行うのだが、この年は……

 ゴールデンウィークが明けた翌日。つくばね秀栄高校も、どこか けだるい雰囲気に包まれていた。昼休みが半ばを過ぎた頃、サイエンスクラブの部長である3-Aの有田啓人ありた けいとは職員室を訪ね、顧問の水本みずもと教諭に声をかける。教諭は、昼食を済ませて一息つき、演劇のパンフレットを手に取ったところだった。
「先生」
「なに、有田くん」
「来週の金曜日、部員全員で今年の文化祭の発表についての打ち合わせをしますんで。先生もちゃんと来てください」
 例年文化の日前後の金曜日に開催される秀嶺祭しゅうれいさいこと高校の文化祭に、彼らサイエンスクラブも発表・展示で参加する。それゆえの連絡であった。
 教諭は、いかにも事務的に告げる啓人に苦笑し、
「そんな。いつも出席してるでしょ」
「顧問というより一部員に成り下がってるようにしか見えませんけど」
 彼が言うのも もっともで、なるほどクラブの活動場所でもある第一理科室にたびたび様子を見に来るのだが、部員が図鑑を開いていれば一緒になって図鑑を読み始め、何かの実験をしていれば さり気なく加わって歓声を上げている顧問なのである。
 啓人は小さく肩を落として ため息をつき、
「ともかく。顧問らしくビシッと意見と監督のほう、お願いしますよ」
「分かってますよ」
 軽く胸を張って返事をし、パンフのページをめくる水本教諭。
(…たぶん分かってない…)
 めまいを覚えそうになりつつ、お辞儀だけして職員室を後にする。
(あーあ。結局、オレがしっかりするしか無いのかぁ…)
 そんなことを考えると、先程弁当を食べたばかりなのに、また腹が減る啓人だった。
  * *
 かくして、一週間ほどのちの金曜日放課後。第一理科室に部員が全て揃ったところで、啓人が教卓の前に立ち、すぐ近くの机に集まる面々に言う。
「さて、5月の連休明け恒例の、今年度文化祭計画の打ち合わせだ。『一昨年・昨年と同様、各自テーマを決めて展示・発表という形式にするから、自分が何をやるか考えてこい』って伝えといたけど…皆、ちゃんと構想は まとめてきたよな?」
 うなずく一同を眺めてほっとしたが、ふと気付く。
「あれ?水本先生は?」
(全く…ちゃんと来てくれって言ったのに、呼びに行かないとダメかよ。どこまで世話の焼ける顧問なんだか…)
 ぶつぶつと愚痴をこぼしながら理科室隣の理科準備室に向かいかけた彼の視界の端に、手を挙げる白衣姿の人物が映った。
「有田くーん。僕なら、ここに居るんだけど」
 啓人は思わず大声を上げた。
「先生!なに、生徒の中に馴染んでるんですか!!」
 六尺超の身長を誇るはずの教諭が、部員たちと一緒の机に澄ました顔をして座っていた。わざわざ椅子の高さを最大限まで下げたらしい。
「お前たちもお前たちだ。なに、かくまってんだよ」
 つい、今日は相談会だというのに教諭に倣って白衣を着た上に知らんぷりしていた下級生たちに目を怒らせる。
「別に、かくまったわけじゃないですよ」
 部員の中でも冷静でチャラチャラしたところのない二年生男子・祝部斎ほうり いつきがキッパリ言ったため、ここは啓人も大人になって話を変える。
「じゃあ、先生は監督者なんですから、こっち来てくださいよ」
 そして教卓のほうへと手招きするが、
「いやぁ。僕、こっちがいいの」
「はあ?なんです、それ」
「僕もブース出していい?いいよね?」
 啓人は誇張でも何でもなくズッこけた。それこそ、吉本新喜劇ばりのコケをかました。
「せ、先輩!」
 一年生の女子生徒・橿原千賀かしはら ちかが慌てて立ち上がって駆け寄り、助け起こして席に戻る。
「何を言い出すんですか、先生」
 したたか打った後ろ半身をさすりつつ訊き返すと、
「えー?そのままじゃない。僕も発表やりたいって」
「だから、何を…!」
 啓人を遮るように、もう一人の二年生・石動咲良いするぎ さくらが自らの意見を述べる。
「いいんじゃないですか。皆とテーマが かぶらないなら、賑やかになるし」
「おれも、左に同じです」
 便乗する形で、一年生の津久井聡介つくい そうすけが小さく手を挙げた。異論を唱える者は無い。頼みの綱の斎も、頬杖をついて窓の外を眺めている。啓人は半ばあきらめ調子で話を戻す。
「…じゃ、とりあえずこの話は置いといて。皆の設定したテーマと概要を聞いてこう。そうだな…まず、津久井」
「おれから?ここは、部長からでしょ?有田先輩」
「主役は最後って決まってんだよ。一年生なんだから、お前から」
 二人がどちらから先に言うかで譲り合い、もとい押し付け合いを続けていると、
「あ。じゃあ、わたしが一番手で」
 千賀が椅子から立ち、話し始める。もめていた啓人と聡介も口をつぐんだ。
「わたしは、今まで長々と音楽関係の部活とかやってたんで。ここは、音…音波をテーマに据えてやろうと思います」
 小学校時代は児童楽団、中学校では吹奏楽部でクラリネットを担当していたという『クラリーネ』は、科学クラブに加入した今もなお音楽に対する関心を失っていないと見える。
「ふーん、音か。分かりやすい部分もあるけど、目に見えない部分もあるし。どんなことやるの?」
 啓人が訊くと、
「そこなんです。目に見えないから普段耳で聞くことで感じている『音』を、いかに目に見える形で表現するかを考えながら、音波の原理や基本性質についてディスプレイしたいなと」
「アグレッシブな感じで素敵。知恵なら貸しますよ、僕ってば物理教師だものね」
 水本教諭がそう申し出たので、千賀は笑顔で頭を下げる。
「おねがいします」
 その様子を多少面白くなく思いながら、啓人は千賀が席に着いたのを見届けると聡介へ視線を向けて、
「じゃあ、次こそ津久井」
「はいはい。…おれは、海です」
 4月に入部の動機を訊かれたときに「海が好きです」と答えただけあって、やはり予想通りのテーマを出してきた聡介だった。
「なんだよ、それ。I am the sea. じゃ英文としても意味不明だぞ」
「違いますよ、テーマが海ってことです。そのへんは推測で補足してくださいよ」
「あー、そう。でもさあ、海って一言で言ってもフォローする範囲がデカすぎるだろ。具体的にどうしたいの?お前」
「地学的・環境学的なとこじゃなくて、生物学的な切り口で…主にタイドプールの調査・観察なんか紹介したいなと」
「タイドプールというと、潮だまりだね。それぞれがちょっとした生態系になってて、ミニ水族館が出来るとか評される…」
(うお、先生が先生らしいことを言った)
 啓人は素直に驚いた。
「はい、そうなんです。夏休みもありますし、やりたいことは色々と」
「…なるほどね。じゃ、次は二年生。祝部は今年どうすんの?」
 部長の問いに斎が答え、
「今年は気象をやります」
「ほーぉ。去年の飛行機からだいぶ路線が変わるな。地学分野になるのか?」
「ええ、そうなりますね。でも、空という共通項であることには変わりないですよ」
「まあ、そうだけど」
 『昨年度の首席入学者』との看板をさげた斎は科学全般に造詣が深いが、特に幼い頃より興味関心を持ち続けているのが、鳥類、昆虫、航空機、気象など『空』に関わるものであるという。
「具体的には?」
「『朝虹に川越すな』とか言うじゃないですか。そういうことわざや言い伝えの、気象学的見地からの検証とかを」
 水本教諭がうなずいたのを見て、啓人は咲良のほうを向き、
「石動は?」
「あたしはですね…ほら、去年は出来てるのを集めて並べたわけですけど、今年は自作してみようじゃないかと」
「何を?」
「鉱物というか、結晶をです」
「…つうと、地学から化学へ転換するワケ?」
「ええ、まあ。おそらくは」
 すると、咲良は おもむろにクリアファイルを取り出してコピー用紙を机上に並べ、
「見て下さいよ。学校の理科室でも出来るようなダイヤモンド合成の実験ですって。これ、イイと思いません?」
「え?ダイヤモンドですか?」
 さすがに千賀は女の子だ。更に彼女は4月生まれなので、自身の誕生石でもあるせいか、その言葉に目を輝かせてコピーを興味深げに覗きこむ。
「うん。まあ、売ってるような大きいのはムリで、顕微鏡で見るようなもんらしいけど。でも、ロマンじゃない?」
 女子二人が、笑顔でうんうんとうなずき合う。しかし啓人は咲良が出した実験の説明に目を通して、可燃性気体である水素を用い、また8アンペアという結構な電流を流すものと知り、正直な思いを口にする。
「大丈夫なの?オマエ」
 何せ、休日に昼食を作りながら誤って自分の髪をガスコンロで焦がした女子高生だ。ついつい不安を感じて訊いてしまったが、
「ダイジョーブ!祝部センセーが付いてまっす。ねー?」
 確かに、これまでも咲良一人では何かと危なっかしいので、彼女が実験をするという時には斎が傍について見ていたのだ。即座に肯定もしないが否定をする様子もない彼に、
「祝部。お前、まだこいつのお守してんのかよ…人が良すぎ。たまには断るとか、謝礼を貰えば」
「いや、この実験については俺も関心が無いわけじゃないですから」
 本人が納得しているなら自分があれこれ言うのもおかしな話だと、啓人は大きく一つ息をつく。
「有田先輩は何やるんですか?」
 可愛らしく微笑んで尋ねくる千賀に、
「オレ?三年間の集大成と、これまで無かったジャンルの開拓とで電磁気学分野にドーンと踏み込むぜ!」
「すげー。さすが三年生」
 聡介にも持ち上げられて、啓人は会心の笑みでブイサインなど出して見せるが、
「あたし知ってるよー?有田先輩、また一昨年と同じ路線に戻るんだよ」
 珍しく冷ややかに、咲良が言う。
「一昨年と同じ?」
 首をかしげる千賀に返して、
「ウン、食い気路線。一昨年はカルメ焼だったっていうけど、今度は電気パン」
「電気パン…ってのは」
「オーブンとか電子レンジじゃなくて、電極入れて電気を流してパンっつうかケーキ生地を焼くのね」
「そう。まあ電気と熱という観点からすれば電磁気学でもあるんだろうけど、エネルギーの分野でもあるし、それより何よりイオン電流が絡むから化学かも」
 咲良と同じく冷めた口調で斎が淡々と説明すると、啓人は頭を抱えて声を上げた。
「うおぉー!せっかく黙っておいたのに!なんでお前ら知ってんだよ!」
「だって、ここ何日も机の上に本広げて、どっか行ってたじゃないですか」
「覗き見しちゃイヤン!」
「ヒミツにしておきたいなら、ネタ本は閉じてバッグにしまっておかなきゃー」
「もう済んだ話ですよ。過去のことは あきらめて、未来を見て行かなきゃ」
 二人の二年生の言葉は いちいちもっともで、胸にサクサクと突き刺さる。気まずい雰囲気を振り払うかのように、啓人は一度パンと手を叩き、
「…よし、これで全員テーマの発表したよな」
 話をまとめて終わろうとしたのに、挙手し遮る者がある。
「有田くん。僕まだ」
「だ・か・らぁ、いいでしょ。先生は」
「いやいや。聞いてみてよ」
(…まあ、他の誰かと かぶってたら却下すればいいんだし…)
 物理・化学・生物・地学。ひととおり四分野が揃ったので、気持ちを軽くして啓人は尋ねた。
「ああ、もう仕方ないなあ。じゃあ、先生は何をするつもりですか」
「僕はね、中生代」
「…はい?」
 中生代とは、地質時代の大きな区分の一つで、恐竜が生息していた時期にほぼ対応する。
「端的に言えば、恐竜をアートするってとこ」
「…何なんですか、それは」
「ほら。恐竜図鑑とかのイラストってのは、想像図の域を出ないって言うじゃない。色素の分かる皮膚が無くて骨ばかりだから仕方ないんだけど。例えば、ウシの骨格だけあったとするよ。それだけ見て、ホルスタインのあの白黒まだらな毛色まで描ける?体の小さめな恐竜骨格の中に紛れてたら、原始的哺乳類偶蹄目みたいなスゴイ生物に描いちゃうでしょ?多分」
「あー…それ、分かるなあ」
 聡介が大きくうなずく。
「だからね、もっと自由に恐竜の姿を想像してみようという話」
「…それって、塗り絵みたいな…」
「まあ、そうとも言う?でも、いいんじゃない。『科学は難しくない、楽しい』って思ってもらうのが一番の目的でしょ」
「わぁ、それは新しい。面白そうですね!あたし、水玉柄に塗ってもいいですか?草間弥生くさま やよいばりに」
 咲良の発言に、教諭ほか皆が揃って笑う。啓人も、つられて笑ってしまった。
「…こ、これで本当に全員計画表明したよな」
 打ち合わせを終わらせるべく、啓人は水本教諭に向かい、
「じゃあ、先生は顧問として皆の発表展示における相談に乗って適宜アドバイスを…」
「いやいや。僕、あくまで物理教師だから。その道の専門家に…それぞれの科目担当の先生に訊いたほうが、断然いい知恵が出るよ」
「ちょっとー!責任逃れは止めて下さいよ!自分だって、中生代なんて地学とか生物学なテーマやるって言うくせに!!」
「やだ、責任逃れだなんて言葉が悪い。僕は本当のこと言っただけ」
「…うーん。まあ、それもそうかも。あたしも去年、地学の樋口ひぐち先生に訊いてみたからこそ入手の上で展示できたブツもあるし」
 咲良がひとりごとのように言うと、
「あー。なら、おれは柿崎かきざき先生んとこ行って話してみよ」
 まず聡介、そして斎も、
「俺は樋口先生に相談かな。咲良ちゃんは大坪おおつぼ先生に?」
「うん、もちろん。でも、樋口先生にも訊いてみるつもり」
「ちょっと、お前らー!先生方、こんな相談乗ってくれんのかよ?」
「大丈夫じゃないですか。ほら、柿崎先生って妙齢の女性よりも動植物萌えみたいな感じだし?大坪先生も、こういうの嫌いじゃなさそう」
 一昨年の春にやって来た、三十路半ばで妻と息子一人の水本教諭は物理担当。この春異動のため他校へ去った前顧問・岸浪きしなみ教諭と入れ代わる形で赴任してきた、五十路間近のおじさん教師が、化学の大坪教諭。アラフォーことアラウンド・フォーティーにかかろうというのに昆虫採集に駆け回る少年の心が抜けない独身貴族な、生物の柿崎教諭。そして、女の大厄・三十三を通り過ぎた紅一点の奥様教師こと、地学の樋口教諭。これが今現在の、つくばね秀栄高校の理科教員陣である。
「いいよ、いいよ。そういうことにしときましょうよ。でも、先生方がのってくれなかったら水本先生が責任とってくださいよ!中高理科の教員は、四科目全部単位とってるハズなんでしたよね?」
「…ああ、うん。もちろん」
 鼻息荒く意見する啓人に、水本教諭が実に穏やかにうなずき返す。とりあえず、これでその場はお開きとなった。
  * *
 啓人は理科教員陣の誰か一人くらいは ごねて断ると思っていたのだが、予想に反して皆快く相談に乗ってくれたという。
「見てくださいよ、先輩。大坪センセが、実験の手引き貸してくれたんですよー」
 翌週。ニコニコしながら放課後の理科室にやってきて借り物の本を大事そうに掲げて見せる咲良とは対照的に、啓人は深々と ため息をつく。
「何ですか、『ため息を一つつくと、幸せが一つ逃げる』って言うのに。ハッピーな出来事、大脱走じゃないですか」
「オレも誰かに知恵を借りたぁい…」
 そして机に突っ伏す。
「家庭一般の人見ひとみ先生に訊いてくればいいんじゃないですか。おいしくなる生地の配合について」
 斎の提案に、居合わせた後輩たちが一斉に笑った。
 既に5月も半ばを過ぎ、昼間の時間ものびて季節は夏へ向かう。東校舎の第一理科室は、いつもながらに賑やかだった。

(『Secret Base』May-2009 より)

秋の文化祭準備期間には、こんなことも……

 秀嶺祭こと つくばね秀栄高校の文化祭を月末に控え、文化部として発表展示で参加するサイエンスクラブの面々は、その準備に追われつつ秋の日の放課後を東校舎の第一理科室で過ごしている。
「あー、腹減ったなあ。今日も今日とで作るかー」
 今年度の部長である三年生の男子生徒・有田啓人ありた けいとは、そうつぶやきながら隣の理科準備室へと入って行き、牛乳パックや電流計などが入った段ボール箱を抱えて戻って来た。
「あのー、先輩。おやつの時間みたいになってますけど、それ本当に研究の一環なんですか」
 呆れ顔で問いかけたのは、二年生の祝部斎ほうり いつき。一年半ほど前、入学式で新入生代表として宣誓に立った男子生徒だ。
「あたりき車力の車曳きよぉ。この電流計が何よりの証拠だ」
 答えながら、啓人は牛乳パックの上のほうをカッターで切り、パックの横幅に合わせ作った二枚のステンレスの板を内に はめ込む。そして、箱からホットケーキミックスを取り出して紙コップに入れ、理科準備室で汲んできた浄水器の水で溶く。
「先輩ー、今日は何でいくんですか。『レモはち』試してみません?なんか電気が良く流れそうじゃないですか?」
 青枠の名札の女子生徒が、作業を進める啓人に声をかけてきた。二年生の石動咲良いするぎ さくらだ。前のクラブ顧問も手を焼いた『蓮っ葉』でもある。彼女が お弁当用の手提げバッグからレモン汁と蜂蜜の小さなパックを出して見せると、
「その程度入ったとこで、大して変わんねーよ。でもまあ、試してみるか。くるみとかチョコチップ、補充してないしな」
「そうこなくっちゃ!」
 咲良は笑顔でそれらを手渡すが、
「ときに、先輩」
「何だよ」
「材料提供者ということで、一割くらいおすそわけ希望です」
「…別にイイけど」
「じゃ、進めてください。あたしもやることあるんで」
 用件を済ますと、さっさと自分の席に戻って行く。
 啓人は受け取った蜂蜜とレモン汁を混ぜてから生地を牛乳パックに流し、交流電源に繋いだ二又コードの先のクリップをそれぞれステンレス板の片方と電流計の赤の入力端子に挟む。さらに別のクリップコードでもう一方のステンレス板と黒の入力端子を接続して回路を作り、電源スイッチを入れる。ほどなく、ホットケーキ蒸しパンのような匂いが立ち昇り始める。
 これは、いわゆる「電気パン」と呼ばれる実験である。食塩水に直流電流を流すと、陽極(+極)からは塩素ガス、陰極(-極)からは水素ガスが発生する。このような、自発的には起こらない化学反応が電気エネルギーによって引き起こされる過程は「電気分解」と呼ばれる。ところが、家庭用電源などに代表される交流電流を流すと、電気分解は起こらずイオン電流が流れて、電気抵抗による熱へと変わる。この電流により生じる熱はジュール熱と呼ばれ、調理用や暖房用などの電化製品にも使われている。このごろは炊飯器もコンロもIH(インダクション・ヒーティング、電磁誘導加熱)を利用するものがだいぶ増えて事情が変わってきた感は否めないが…。
 話を戻すと、市販のホットケーキミックスの中には食塩や生地をふくらませるための重曹(炭酸水素ナトリウム、NaHCO3)など、水に溶けると電離してイオンとなる化合物が配合されているので、交流電流によりイオン電流が生じ、熱が発生して結果としてその熱でパンが「焼ける」というわけだ。天火でコンガリ、とはいかないが…。
「その電流計で『電磁気学ムード』を付けてるんでしょうけど…千賀ちかちゃんのやってることのほうが、よっぽど電磁気学っぽく見えますよ。テーマが『音波』と思えないほど」
 斎が率直な感想を述べると、咲良も請け合う。
「あたしも同感」
「あー、オレもそれは思う。でもさ、彼女の場合は先生がちゃんと指導してくれるからだよ。オレなんて放置されてるのに」
「まあ、イオンに関しては物理というより化学ですからね。大坪先生にヘルプしてみればいいんじゃないですか?先輩も」
 今年度文化祭もまた、部員それぞれがテーマを決め、各自ブースを設けて発表・展示を行うスタイルだ。鉱物好きな咲良だが、今年の発表は趣向を変えて地学よりも化学的な観点で進めている。顧問である水本教諭が「やっぱり、その道の専門家に訊いたほうがいいと思う」と言うので、部員たちはそれぞれ自らの研究テーマに合った科目担当の理科教諭の許へ相談に行ったのである。海と磯の生物についてのブースを出す一年生の男子生徒・津久井聡介つくい そうすけは、生物の柿崎教諭と地学の樋口教諭に。昨年から路線を変更し、気象にテーマを置いた斎も、樋口教諭にアドバイスを求めた。咲良もまた、樋口教諭だけでなく化学の大坪教諭にも知恵を借りていた。物理分野の音波をテーマに据えた一年生の橿原千賀かしはら ちかは、そのまま物理担当の水本教諭が指導している…という訳だ。
「でもなあ、電流とかジュール熱、エネルギーは物理だろ。それに、中高の理科教師って全科目修めてるはずだよな?やっぱ、オレだけ放置プレイなんだ」
「先輩のそれは学問というより食い気な匂いがしますから、俺も知らないふりしたい心境になりますよ」
 斎がきつい一言を投げたとほぼ同時に引き戸が開き、女子生徒が顔を出す。
「こんにちはー」
 遅れて現れたのは千賀だった。「噂をすれば影が差す」のタイミングとは、これを言うのであろう。入学半年で学園の華的な存在となっている、良い意味で目立つ少女だ。先程話題にのぼったが、音波をテーマに発表の準備を進めている。
「あ、千賀ちゃん。今日はチョット遅かったね」
 一つ上の先輩である咲良に言われ、
「いやぁ。クラスメートにコレを振る舞ってみたら想像以上に好評で」
 千賀は苦笑いしながら、バッグから透明の密閉容器を取り出し、蓋を開ける。
「うわ、なんかイイ匂い」
 引き戸より距離をおいた席に座っていたはずの部員たちも、集まってきた。
「何?これ」
「スイートポテトと、スイートパンプキンです。親戚から山のようにサツマイモ貰っちゃって…でも、おかずにはならないし。こっちはハロウィンも近いし、ついでに作ってみました。カボチャも甘辛しょうゆ味の煮付け以外ネタが無くて、1/4個で買っても余らせちゃうんで」
 彼女は現在、父親との二人暮らし。余計に減らないだろうと推察される。
「えー、そう?」
「サツマイモもね、豚肉とか鶏肉と味噌炒めにすると御飯が進むおかずになるよ。あとは、サツマイモご飯にするとか…。でも、これ単品じゃ食が進まないのが難点なんだよねぇ」
「そうそう。鶏の唐揚げとか、しっかり味のおかずが欲しくなる」
 斎の丁寧なアドバイスに補足をしたあとで、咲良は ため息をつき、
「秋、だよねー…。お腹も空くわ。でもさあ」
「何?」
「なんかさー、秋の味覚って見方によってはエロいよね?きのことか、栗とか…ぶどうとかもさ。あ、サンマなんかも」
 途端、微妙な空気が漂いだす。
「…そういうものをエロいと見るほうが、相当エロいだろ。お前、欲求不満なの?金山神社にでも行ってくりゃいいんだよ」
 冷めた口調で啓人が返すと、更に何とも評しがたいおかしな雰囲気になってゆく。
 ご存知ない方のために、はばかりながらも説明を加えておくと、金山神社とは神奈川県川崎市にある若宮八幡宮の境内社で、鉱山や鍛冶そして性の神である金山比古神かなやまひこのかみ金山比売神かなやまひめのかみの二柱を祭神として祀っている。御神体が金属製のナニというのも驚くが、例年四月に行われる奇祭・「かなまら祭」は更に凄い。男性のソレが乗った神輿が近隣の商店街などを練り歩く光景は外国人観光客をも惹きつけるという……諸々の事情により、この程度にしか解説できないのが申し訳ない。
「あー、それですか。おとんの実家が伊豆なもんで、どんつく神社になら行ったことあるんですけど、そっちはまだですねぇ。ご配慮ありがとうございます。でも、別に不足してるわけじゃないですよ」
 またか、と思われる向きもあるだろうが…東伊豆町にあるどんつく神社でも、六月の祭りの際には御神体のアレ形の神輿が稲取の温泉街を練り歩くという。信仰というものは自然崇拝と性崇拝に発し、そして人間は根底で助平すけべいなのだろうと思わされる話ではある。
 このような話題を得意としない斎と千賀が対応に困り果てた、そのとき。突如として引き戸が再び開かれた。今度はだいぶ威勢がいい。
「ちわっーす!ああ、なんかダブルでうまそうな匂いするんですけど」
「聡ちゃん」
 一年生の男子生徒・聡介であった。これで部員五名全員揃ったことになる。彼の登場により、理科室の雰囲気も元に戻ったようだ。
「あ、先輩。もう電源落としていいんじゃないですか」
 斎に指摘され、啓人が慌てて持ち場に引き返し、電源を切って駆け戻る。
「橿原さん、それ何?イイ匂いするよ?育ち盛りの腹減り青少年は、今猛烈に『おあずけ』をくらった犬状態だよ?」
「育ち盛りかあ。まあ、もう少し育たないと困るよな」
 啓人が子供にするように頭をなでるもので、聡介は不機嫌そうに眉をひそめる。高校一年生の今現在に至っても身長155cmを超えない彼には痛い一言ではある。
「うんうん。お腹、空いてるよね。またどこかの運動部の練習試合に駆り出されてたんでしょ。聡ちゃんも人がいいんだから」
「そう、その通り!」
 聡介は抜群に運動神経が良く、入学時も運動部の勧誘を受けたらしい。ただ、時折ひどい関節痛に悩まされることがあり、体育系のクラブへの入部を取りやめたのだった。その関節痛が、「急激に身長が伸びる成長期にたまに見られる現象かも」と医師から言われたとかで、彼は希望を失うことなく『その日』を待っている。
「…手は洗った?」
「ハイ、外の水道で」
「じゃあ、どうぞ」
 同学年であっても、千賀のほうが半年ほど生まれが早い。実に、姉と弟のような会話になっていた。
「あ、先輩たちも。わたしが作ったものなんで、お店みたいにはいかないですけど」
「じゃ、お言葉に甘えて」
 一つの容器めがけ、複数の手がいちどきに伸ばされる。当然ながら、大渋滞と接触事故が起きた。
「いただきまーす」
 若者たちは、食べることに専心するがゆえに急に無口になる。
 不意に、音も立てず理科準備室のドアを開け、眼鏡をかけた白衣の男性教師が入ってくる。
「…水本先生」
 現在のクラブ顧問である物理教諭・水本淳哉みずもと あつやは、「放課後とはいえ、何やってる!」などと注意し咎めるでもなく、黙ったまま生徒たちを眺めている。
「あ、先生も一ついかがですか。小腹が空く時間でしょう?」
 千賀が無邪気な笑顔で歩み寄り、自作の菓子を差し出すと、
「いいよね、甘いものって。ごちそうさま」
 教諭は嬉しげに一つずつ取り、にこやかに準備室へと戻っていく。
(…なんだよ、あれだけ?相変わらず、訳分からない人だな…)
 啓人は大きく一つ ため息をつき、肩を落とす。
(それより凄いのは、千賀ちゃんだ)
 自分も同類になってしまえば、「こんな所で・こんな時間におやつにするな」などと注意もしづらかろう。平然と教諭を取り込んで収めてしまった彼女に、啓人は『賄賂を贈って活路を見出せ』という兵法の教え(六韜の一つ・豹韜)を見た思いで密かに舌を巻いたのであった。
 半ば存在を忘れ去られていた電気パンも提供され、腹ごしらえをする部員たちの背後で、再び理科準備室のドアが開く。
「ねえ、橿原さん」
「何でしょうか?水本先生」
「さっきのなんだけど…まだ余ってたら幾つかくれない?」
「え?どうしてまた」
「かみさんと子供にもあげたいの。いいですかねえ」
「ええ、もちろん」
 千賀は嫌な顔一つせずにスイートポテトとスイートパンプキンを三個ずつラップで包んで渡す。
「これって、難しいのかしら」
「いえいえ、そんなことないですよ。柔らかく煮てつぶして、砂糖とバターと卵黄を混ぜて、丸くまとめて照りつけの卵黄を塗ってオーブンで焼くだけです。数が少なければ、オーブントースターでも大丈夫ですよ」
「そうなの。でも、なんかミルキーな感じ」
「お水じゃなくて砂糖を入れた牛乳で煮て、水分飛ばしてまとめるからかもです」
「へえ、それなら僕にも出来そう。あとで詳しいレシピとか教えてくれる?」
「分かりました。来週には」
「ありがとう。じゃ、よろしくね」
 それだけ言い残し、教諭は鼻歌を歌いながら準備室へと去って行った。
 理科室に静寂が訪れる。
「ヘンな人ですよねぇ…あれで先生ってのが、ちょっとビックリ。しかも、あれ『ライオン・キング』の曲じゃ。まるで一人四季劇場」
 聡介が正直な感想を述べると、咲良もうなずいて、
「訳もなくオネエ言葉が出るよね。でも、奥さんも子供も居るらしいし、『そっちの人』ではないみたい。ちなみにさ、奥さんは奈央子さん、息子さんは湧哉ゆうやくんって言うらしいけど、普段は『ナオナオ』『ユウちゃん』って呼んでるらしいよ。また聞きなんだけどね」
 またも一同が沈黙する。
「でもさ、そんなこと言えるのは先生の授業受けてないからだと思うよ。俺の印象は、物理教師としてはスゴく『できる人』」
 昨年の首席入学者である斎が言うと、非常に説得力がある。
「それはそうと、『秋の日はつるべ落とし』だし、もう10月なんだし。お腹もふくれたところで、文化祭の準備やろうよ」
 斎の一言で、皆が動き出す。
「有田先輩、部長らしいとこ何もなーい」
 咲良に嫌味を言われ、啓人は残っていた電気パンのひとかけを口に放り込み、紙パックのコーヒー牛乳を飲み干して返す。
「いいんだ、そんな肩書きは。お祭りは楽しむのが大事なんだから」
 そして、各部員がめいめい作業を進める机へと戻り、発表展示の準備を再開する。
「ご馳走になっててアレだけど…今日はサクッと切り上げ、かつ寄り道厳禁で直帰だわ」
 咲良がつぶやいたのを、近くに座っていた斎が聞きつけ、問いかける。
「なんで?」
「だって、『クートヘーデル』いただいちゃったじゃん。花も恥じらう女子高生が、校内やそこら辺の街なかでプーとかスーとか云ってたら大問題」
「…花も恥じらう女子高生って、どこの誰?」
 同じく、傍の机で発表・展示用の資料を作成する聡介が話に加わり、
「それ以前に、何ですか…その、『クートヘーデル』って」
「『食うと屁ぇ出る』、すなわち、サツマイモのことらしいですぞ」
 斎は、軽く胸を張って答えた咲良に半ば呆れつつ、
「…はあ。くだらないこと考える人が居るんだね」
「くだらないなんて!」
 当然ながら、彼女は声高に異議を唱える。
「でも、クートヘーデルならサツマイモじゃなくてもいいんじゃないの。煮豆とかでも」
「ウン、それは一理ある」
「それから…いくら食物繊維豊富な食べ物でも、食後数十分では効かないだろ。まあ、上から何か入れれば、その刺激で胃腸の動きが活発になるってのは考えられるけど。実際にブツが腸に届くまでには何時間もかかる」
 こんな話題にでも冷静に答える斎は、実に大人だと思わされる。
「何時間、って?」
「明日くらいじゃないの」
「ええぇー!しくじったら、ハズカシイぃ~!」
 芝居くさった悲鳴を上げた咲良に、後輩の聡介がキッパリと言う。
「って、先輩。明日は学校休みです」
「…あ、そっかあ」
「橿原さんは、きっとその辺まで考慮して金曜日の今日に持ってきたんじゃないかと」
「うん、なるほど。そうかもね」
 時は過ぎ、やがて西の空が夕焼けに染まり出す。
 夕焼けは晴れ――秋の天気は変わりやすく、「女心と秋の空」などと言われるが、明日も好天のようだった。

(『Secret Base』Oct-2009 より)

余談ですが、語「クートヘーデル」の考案者は確か平賀源内だったかと…(典拠不明のウロ記憶;)
さて翌春、水本教諭は一年生の担任となり……

 平成22年度入学式は、例年通りの4月7日。週半ばの、肌寒い雨の日であった。式が終わり昼時に近付く職員室には、天候のせいばかりでなく湿った顔の教師が約一名。
「どうしたんですか?水本先生」
 世話好きな性分ゆえに黙って見ていられず、地学担当の樋口教諭が声をかけると、
「ああ、樋口先生。いやね、どうして物理ってのは文系を目指す生徒には受けが悪いのかなあと」
 今年、水本教諭は1-Cの担任となった。現段階では進路を細かく考慮した上でのクラス分けではないため、文系・理系、国公立・私立等、志望が異なる生徒が同居している。必然的に担任の教科である物理を一年履修することになるC組の生徒には、早々に不満を顔に出す者が居たらしい。
「うん、まあそうですねえ。国公立文系で理科も必要って場合でも一科目だし、生物や地学が多いかしら」
「そうなんです。物理っていうと理系のものって思考をされてる感じ。理屈云々知らなくても、皆ケータイとか普通に使ってるくせにね」
 樋口教諭は笑い、
「確かに。そもそも高校理科って四科目に分かれてるけど、それぞれ関係を持ってるっていうか…無関係じゃなくて。でも、なんか別個のものとか思われちゃうとこは有りますよね」
「そう!そうなんですよ。なのに、物理というだけで敷居が高く感じられて退かれちゃう」
「優劣なんて無いはずなんですけどね。難しい話ではありますよねぇ…」
 ため息をつく水本教諭に、樋口教諭は精一杯の同情を込めて返した。
  * *
 入学式翌週。既に四月も半ばを過ぎたが、取り立てて宣伝をしないサイエンスクラブに関心を持ち第一理科室を訪れる新入生は今のところ皆無である。いや、実際のところは『可愛い先輩』2-Aの橿原千賀かしはら ちかに興味があって東校舎二階まで来る一年生は居たのだが、いつの間にか彼女の背を追い越し更に身長の伸び続けている同級生・津久井聡介つくい そうすけと親しくしている様子を見て去っていったらしい。
 放課後だけが一緒に過ごす時間、では足りなかったのか。聡介は努力の成果か今年度から特進Aクラつまり千賀と同じクラスに移り、実は密かに浮かれているのである。
「あー。でも、何とかしなきゃ。五人いなきゃ、文化祭に出れないじゃん」
 最高学年であるがゆえに副部長となった石動咲良いするぎ さくらは、理科室の机に頬杖をついてため息を洩らした。
「別に一年生じゃなくてもいいんだよね?なら、君らの周囲にめぼしい生徒は居らんかね」
などと、新二年生の聡介と千賀に話を振ってみるが、
「いやー、もう無理じゃないですかね」
「そうかなあ…」
 しばしの沈黙のあとで、今年度の部長を任された3-Aの祝部斎ほうり いつきが思い出したように言う。
「水本先生って、一年生の担任だったよね」
「え?あー、うん。確か」
「なら、一人くらい見付けてきてもらっていいんじゃないの」
 彼の提案に、咲良は奇声を上げた。
「ずびーん!祝部、本気で言ってるの?ミズモちゃんは、そういうとこ岸浪センセほど頼りにゃならんよー」
 咲良が前顧問を引き合いに出して評するほどに、水本教諭は顧問としては心もとないと思われている。生徒と同じレベルで図鑑を読んだり実験を盗み見ているのだから、当然かもしれないのだが。
「…そういえば、先生は?」
 千賀が訊くと斎が答え、
「隣、理科準備室だよ。自分のクラスの生徒なのかなあ…一人呼び出したみたいで、ついさっき入ってったのを見た」
「うわ、可哀想。どんな説教されてんだろ」
「可哀想とか言いつつ、石動先輩って何か楽しそう」
 感じたことをそのまま述べた聡介に、咲良は即返す。
「津久井くんこそ、『♪心配ないさぁ~』とか聞かされてるんだろうって思ってるでしょ」
「正にそれでス」
 水本教諭は大のミュージカル好きで、学生の頃は劇団サークルに所属していたという。彼らがそんな想像をするのも当然かもしれなかった。
  *
 一方、理科室でこんな会話が交わされていることを全く知らない準備室の二人。水本教諭は、自身が受け持つ1-Cの男子生徒・来栖怜司くるす れいじに隣席・大坪教諭の机の椅子に座るよう勧める。彼が腰掛けると、自分の椅子を回して彼に向かい、
「来栖くん。学校は何をする所だろう」
「勉強するところでしょう」
「うん、その通り。でも、勉強するだけなら、最悪一人でも・家でも出来るでしょ。高校来なくても大検取って大学受験するのも可能でしょ?…あ、今は大検って言わないのか」
 真新しい制服に身を包んだ少年は眉をひそめ、
「ここは進学校でしょ。生徒は勉学に励め、って言うのが先生じゃないんですか」
 教諭は苦笑し、
「いや、もちろん勉強はしたほうがいいし、出来たほうがいい。だけど、それだけじゃない気がするんだよね。せっかく同じ年頃の同じ目標を掲げる人たちが周囲に居るのに。人間ってのは『人の間』って書くの、世の中渡って行くには協調性も必要だよ」
「プライベートまで先生にどうこう言われる筋合いは無いです」
 あくまで意固地な生徒に、水本教諭は呆れたように言う。
「君は本当に『遊び』が無い。無すぎるよ」
「無いですよ。遊んでる暇なんて無いんです。成績を上げなきゃ、行きたいとこに行って、やりたいことも出来ないんです。だから直行直帰だし、休み時間だって同輩とくだらない世間話するの馬鹿くさいんです」
「その『遊び』じゃなくて。僕が言ってるのは車のクラッチとかでいう『遊び』…要するに、ちょっとムリが加わってもすぐ壊れることのないように持たせてある『余裕』とか『ゆとり・隙間』というやつね」
「…え?」
 ぽかんとする生徒に、
「はめあいで言うと、『しまりばめ』…はめ込むのも一仕事で、一旦はめ込んだらなかなか抜けないし、力ずくで軸を抜いても損傷が残ってしまう感じ」
 案の定、来栖少年は話が見えない様子で困惑している。教諭は我に返ったふうで、
「あ、ごめんなさいね。僕、ほんの数年だけど某電気機器メーカーで働いてた時期があって、つい当時の癖でそんな喩えに」
 ひとしきり笑ったあと、
「君は楽しんで勉強三昧の生活を送っているわけではなく、義務感が主でしょ。高校生活三年間をただ大学への布石と割り切って、捨ててしまうのはもったいない…僕はそう思うけどね。どっちにしろ、何か・どこか、こう…リフレッシュできるものが無いと、すぐに辛くなるよ」
 そして、ふと壁へと視線を向ける。
「…そうだ。僕が顧問してるクラブに入ってみる?」
「ええぇ!?オレには部活してる時間が惜しいです」
 来栖少年は、すぐさまその提案に反論する。だが、教諭は態度を変えない。
「君、理科不得意でしょ」
「どうして」
「担任の僕が物理担当と知って、ものすごく嫌~な顔してた」
 ぐっと言葉に詰まる彼に、
「君が文系を目指すなら、理科なんて受験には使わないと余計にそう思うかもしれないけどさ…五教科で順位が付く校内テストでは手が抜けないの、分かる?」
 彼が渋々うなずく。
「苦手科目は、いい点数という結果が出ないから余計に『苦手』になるもの。逆に言えば、劇的に点数を伸ばせる可能性を秘めているのも苦手科目…OK?」
「まあ、その通りですけど…」
「なら、隣に行ってみようよ。先輩方に、入学時より成績下がった生徒は居ないから」
 教諭の言葉に、来栖少年は目を丸くする。
「ほんとですか?」
「入学時からAクラの二名は、それを維持。あとはBクラからAクラに移ったのと、DクラからBクラに移ったのが各一名ってとこ」
 しばしの間を置き、来栖少年が尋ねる。
「体験入部、ってのでも大丈夫ですか?無理だと思ったら辞めても」
「別にいいですよ。ムリして続けてもらってもアレだし、僕がどうこう言う前に部長が『もう来るな』って言うでしょ。ともあれ、行ってみようよ…全員隣に揃ってると思うから」
 立ち上がる教諭に、問いかける。
「部長さん…怖いんですか」
「いやいや、副部長のほうが怖いのよ。違う意味で」
 促されて、来栖少年も席を立つ。
  * *
『もしかしたら、成績アップの秘訣か何かが分かるかも』
『とにかく五人目の部員が欲しい』
 ギブ・アンド・テイクとでも言うのだろうか。双方の思惑は、完全に一致したわけではない感じだ。
 しかし、部長・副部長揃って入部志望の動機を詳しく訊きもしなかったため、来栖少年はすんなりクラブ構成員となり、放課後になると第一理科室に通う生活を始めたのである。

(『Secret Base』Apr-2010 より)

そして連休明け、部員たちに大胆な提案をする顧問……(笑)

 サイエンスクラブの秋の文化祭計画は、これまでゴールデン・ウィーク明けから一週間後ほどのミーティングで相談の上、決められてきた。
 しかし、今年は違った。誰よりも早く――そう、部長の祝部斎ほうり いつきより先に、顧問である水本教諭が動いたのだ。これまで「顧問」とは名ばかりで放任主義だとか、「六人目の部員」と呼ばれた教諭が、である。
 連休明けのボンヤリ頭の部員たちを一人ずつ次々と理科準備室へ呼び出し、文化祭の個人ブースについての企画案を聞き出す。そして二者面談を終えると「コレは部員うちにも他言無用だよ」と微笑みながら念を押すのであった。
 斎は不満半分驚き半分であったが、当日まで仲間同士も発表内容の詳細を知らないというのは面白いと思ったので、素直に従った。
(でもなあ…完璧に隠し通すなんて物理的に無理なんだけどね…。準備の大半は第一理科室つまり部室で、皆が集まる放課後にやる訳だからさ)
 多少ばれるのは仕方ない。そこでいかにシラをきるかも腕の見せどころだ。
 理科準備室から廊下へと出てきた斎に、いつからそこに居たのか、同じく三年生の石動咲良いするぎ さくらが声をかけてくる。
「ねえねえ、祝部」
「何か?」
 彼女はマイクの代わりにペンケースを握った右手を彼に向け、
「今年度の部長のテーマは?その詳しい内容は?」
「今ここで喋ったら面白さゼロだよ。準備してる様子見ながら推測しぃよ」
 斎の反応がそっけないもので、彼女は軽く眉をひそめたが、すぐさま気を取り直して右手を自分の口許へ向け、
「えーと。あたしはですねぇ…」
 聞こえていないそぶりで、部員最後の面談を終えた斎が廊下の窓越しに西の空を見やり、昇降口へと歩き始める。
「ウソ、嘘。あたしもちゃんとナイショで頑張るんだから!ぶっ飛んじゃうじょ」
 慌てて後を追う彼女に、
「去年も一昨年も、充分ぶっ飛んだ」
 振り返って一言だけ笑顔で返し、階段を降り始める。二人分の足音が、夕刻の階段に響いた。
  * *
 もとより理科好きで入部してきた二年生と三年生には迷いも悩みも無く、あっけらかんとしていたが、人付き合いの悪さと理科が不得意科目と見抜かれて、顧問であり担任でもある水本教諭に引き込まれた一年生・来栖怜司くるす れいじは苦境に在った。帰宅して自室の学習机にバッグを投げるように置き、ごろりと傍のベッドに横になって天井を見上げると、数時間前の理科準備室での顧問との面談が思い起こされてくる。
  *
「来栖くん。秋の文化祭って個人による発表・展示なんだけどさ、発表のテーマなんて思いつかないでしょ?君」
 理科準備室の空椅子に座った途端言われ、ぐっと口を結んだ。成績が落ちずむしろ上がっているという先輩たちで構成されるサイエンスクラブは、自分として何故か居心地は悪くなく、体験入部を取り下げずにいる間に大型連休に突入してしまった。しかし、理科の教科書など授業時と試験前以外は見たくないような自分が、何かに興味関心をもってテーマに据え、皆に発表出来るだけのものにまとめあげるだなんて、ありえない話だ。正直にうなずき、小声で返す。
「…はい、残念ながら…」
「やっぱりね。じゃあ、僕からこんな提案」
 その言葉を待っていたとばかり、水本教諭は机の引き出しからクリアファイルを取り、中の紙片を机上に並べた。
「ホームページのプリントアウトだから見づらいし、詳細はネットで見てねってとこだけど」
 怜司は、プリントアウトを手に取って見る。
「…サマー・サイエンスキャンプ?」
「そう。研究所や大学に実際に入って実験なり観察なりするのね。日程は二泊三日。宿泊場所と食事は主催者が面倒見てくれる。…いい話でしょ?一つや二つ、発表出来ちゃうでしょ」
 確かにいい話な上に、発表のネタを仕入れてくるには乗ってみて損のない、格好の企画だろう。だが、彼は口をつぐんだままだ。
(こんな…理科好きとか理科大得意とかいう人ばっか来るんじゃん…)
 自分には、とてもついて行けそうにない――そんな彼の胸中を見透かしたように、教諭が補足する。
「サイトを見れば書いてあるけど、参加者には文系志望の生徒さんも居るって話よ」
 沈黙が漂う。
「来栖くん」
「…はい?」
「喜劇王チャップリンは、映画『ライムライト』の中で『人生を楽しむのには、勇気と想像力と、ほんの少しのお金があればいい』と云ったそうでね。関東近辺が会場となっているテーマも沢山あるし、君に今一番足りない『勇気』を試しに行くだけでも充分価値はあると思うのよ。もし親御さんが渋るんなら、先生から話してみてもいいし」
 教諭が何故にここまで自分にこのプログラムへの参加を勧めるのかは分からなかったが、
「とにかく…親にも相談してみます」
 ぽつりと言い残し、怜司は椅子から立ち上がると形ばかり頭を下げて一礼し、準備室から出て行った。そして理科室の先輩方とは言葉を交わすことなく、さっさと自宅へ帰ってきてしまったのであった。
  *
 思い立ってベッドから起き、バッグから先程のプリントアウトを取り出して眺めれば、すぐに先輩方の顔が頭に浮かんできた。
(あー…津久井つくい先輩だったら、絶対コレとかいきそうだなあ…)
 水本教諭は、他の部員たちにもこの件を語ったのだろうか。
 明日の放課後、第一理科室に行ったら訊いてみよう――そう結論したとき、ちょうど階下から「夕食の支度が出来たから下りてきなさい」と母親の呼ぶ声がした。
  * * *
 翌日、放課後。怜司は既に第一理科室にあらかた集まっていた先輩たちに例のサイエンスキャンプについて自身の知るところを説明し、プログラムの一覧のプリントアウトを見せた。
「えー!?そんなのあったの!?」
 二年生と三年生の食いつきようは、実に餌を久しく与えられず飢えた鯉のごとく、見ていて非常に分かりやすいほどだった。
「この、『音をあやつる』っての、千賀ちかちゃんにピッタリじゃない?」
 部長の斎に言われて、「でも、一体何をやるんでしょうね」などと首をかしげる二年生の橿原千賀かしはら ちかの隣では、同じく二年生の「自他共に認める海好き」・津久井聡介つくい そうすけが、
「うーん、三陸海岸でシュノーケリングしながらキョク皮動物のサバイバルを見るか、東京湾の魚介類と水質の調査をするか。海洋研究開発機構でグローバルかつ未来まで大海を見据えてみるか。迷う。迷うなー」
「あたしは強いて言えば『地球科学』ってジャンルのとこだよね。となると、北海道か岐阜かぁ…遠いなあ。岐阜って、ちょっと交通不便なんよねぇ。祝部、行くとしたら調布航空宇宙センターのやつでしょ?」
 咲良も半ば参加決定の様相で、同輩の斎に問いかける。だが、さすがに部長は冷静だった。
「ちょっと待てよ、お前たち。プログラムの数は多いけど、募集人員は一ヶ所当たり多くて二十人ってとこだろ?ネットで募集かかってるんなら、それこそ日本全国の高校生・高専生有志が応募してくるって。申し込めば必ず参加出来る保証なんてのは…」
 しかし、聡介と咲良はもう止まらない。
「と・に・か・く!迅速に詳細を調査でスよ!隣にパソコンありましたよね?」
「ウン。少なくともミズモちゃんが私物のノートPCを持ってきてるはずだから、今借りて見てみちゃおう!」
 咲良は言い終わらぬうちに理科準備室へのドアへと駆け出し、聡介もすぐさま後に続く。ドアをノックして、返事を待たずに駆け込んでいった。
「…あーあ。熱いねぇ、彼らは」
 理科室に残された斎は ため息をついたが、
「でも…わたしもさっきのやつ、内容によっては応募だけでもしてみようかなと思ってます。三年生になったら無理そうですし」
 ひとりごとのようにつぶやく千賀に、軽くうなずいて返す。
「ああ…ちょうど場所も関東圏だしね。関西とか北海道となると遠いから難しいし」
 やはり、この第一理科室に集まる面々は結局のところ『同じ穴のムジナ』なのだ。約一名を除いては――
「でさ、来栖はどうすんの?」
 斎に話を振られて、半ば忘れられていた『そもそもの話題の提供者』はビクッとしたように肩を一瞬震わせたが、
「ええと…一応、いくつか選んで参加申込書を送るだけでもと…」
「あ、そう」
 どこかのプログラムの参加者に選ばれれば良いのだろうか。少なくとも、話を持ちかけた水本教諭はそれを願っているに違いない。全て落選するほうが『理科』がまだ好きになれず抵抗感のある彼にとっては幸せだろうが――
 おぼろげながら表裏の事情と教諭の目論見もくろみとを推測しつつ、怜司につい同情の視線を向けてしまう斎だった。

(『Secret Base』May-2010 より)

担任かつ顧問に上手く乗せられた感の怜司だが、さっぱりとした顔で二学期を迎え……

 8月が終わり9月になれば、つくばね秀嶺高校も例にもれず、当然のように二学期が始まる。疲れ顔、そして名残惜しそうな顔の生徒が多い中、1-Cの来栖怜司くるす れいじは、妙にさっぱりとした表情で残暑厳しい中での新学期を迎えていた。
 昼休み、弁当を食べ終えると、彼はまずこの高校の理科教員たちが職員室以外に机を持つ場所である理科準備室を訪ね、自身の所属するサイエンスクラブの顧問でありクラス担任でもある水本教諭に宣言した。
「水本先生。確かに、貴重な経験させていただきました。でも、オレは違うものをテーマにして展示・発表を行いたいと思います。そう思って、サイエンスキャンプが終わってからは、そっちの計画を詰めてきました。あと二ヶ月あるから、文化祭には充分間に合います。いえ、意地で間に合わせます」
「…へえ、そう。何をやるの?」
「オレの得意分野を活かして『サイエンス』として見て楽しめる形にし、ご披露したいと思ってます」
「僕にだけは教えてもらえる?」
 渋々小声で伝えられた彼の計画に、水本教諭はうなずいて答えた。
「面白いね、楽しみにしているよ」
 第三者が耳にしたら、「それ、理科か?」と突っ込んだかもしれない。だが、教諭はサイエンスクラブの個人展示・発表テーマとして、彼が提示した案を即座に認めたのであった。
 理科準備室での談判を終えて廊下に出、1-C教室へと戻る。怜司は携帯を取り、メールを打ち始めた。
 
小日向こひなた、数日ぶりでコンチハ(笑)
 絵でそうそうメシは食えないっていうけど、オレは本っ当おぉぉエンジニアとか医者、研究者には向かないの痛感。絵だけに限定しないで、インテリアやらカラーのコーディネーターとか、デザインの提案とか…もっと広く『アート』な仕事って考えたら意外とあるじゃんって。文化祭の発表も、サイエンスクラブなのに何やってんだってくらい、自分の好きなようにやるんだぜ!顧問のOKも出たし!
 オレは順調だよ。今度は、お前の番だからな。二年半後、笑って進路を報告しあおうな^^/~~~  
 でもまたそのうちメールするんだぜ(笑)     レイジ』
 
 メールを送信し終えると携帯電話を閉じてポケットにしまい、廊下を進む。
 たまたま教諭に勧められて「まあ、応募するだけなら」と、申込書に書いた希望会場の一つの参加者に選ばれ、「サマー・サイエンスキャンプ」に参加し夏休みを終えた怜司は、どこか吹っ切れて気の持ちようが変わったように見受けられた。夏休みが始まる前、つまりサイエンスキャンプの日程が近付くにつれオドオドしていた彼は、もう居ない。
  * * *
 夏休みも終わりに近づいた、8月下旬。怜司は東海道新幹線「こだま」から浜松駅へと降り立った。
(書いてみただけのつもりだったんだけどな…)
 まさか医科大学でのサイエンスキャンプの参加者に選ばれようとは思いもしなかった。浜松といえば、楽器博物館も存在する楽器の町。そして、浜名湖まで行けばウナギとオルゴールミュージアム。「男のくせに」と笑われそうで表には出さないが、彼は幼い頃からアンティークオルゴールの音色とその箱などの意匠に心ひかれていた。出掛けた先にオルゴールミュージアムがあると、この系統のものが嫌いでない母親を言いくるめて入館してしまうのが癖なのだった。北から小樽、天童、松島、那須、箱根(残念ながら今は無い)、河口湖、清里、伊豆高原、長野諏訪、京都嵐山、長崎ハウステンボス。浜名湖は未攻略の地である。自腹で一日滞在を延ばせば、それらの場所も回れると欲をかいての選択。それが、『まさか』の結果を生んだのだ。
(医学部なんて、そもそも行けるわけないじゃん自分…。この成績だし、理科二科目必須って言われたらもう…)
 しかし、テーマの『生物が見る世界~いくつもの目といくつもの世界~』というフレーズは何故か心に響いた。
 『蜂が見た花畑の光景』を、何かのテレビ番組で目にしたことがある。そこに色とりどりの花々は無い。ただ、モノクロームの、蜜のある花の中心部だけが色濃く映る画面だった。また、世に『魚眼レンズ』なるものがある。魚眼レンズを通して見た世界イコール魚たちが見ている世界ではないらしいが、「魚には、水中がどんな風に見えているのだろうか」と興味を持ったことがあるのは事実だ。
 集合した参加者たちに目をやれば、同じ高校からの参加なのか友人同士なのか、最初から仲良さげに語り合う生徒も居り、しかも皆が理系を目指す『デキる高校生』に見えて、ひどく気後れした。
 ああ、来るんじゃなかった。もう帰りたい――楽器博物館も鰻重もオルゴールミュージアムも全て忘れ、穴があったら入りたい気持ちになったその時、不意に声をかけられた。
「君、えらい不安?おれもそう」
 聞けば、同じ一年生。なんでも、従兄がこのサイエンスキャンプに関わっているとかで、「俺がデキるってとこを見せてやる。来ぃや、べらぼうめ」「ああ、分かった。親戚中にタケ兄はヘナチョコや言いふらしたる」などと、売り言葉に買い言葉で参加申込書を送ったところ、選ばれてしまったらしい。
「おれ、そんな理科得意ちゃうねん。親戚に何人かお医者が居るけど、タケ兄がそっち進んどるし、何よりおれがアホやし」
「でも、『見る』ことと『目』に何か引っ掛かるとこがあって、このプログラムを希望欄に書いた…んだよね?」
「あ、ああ。おれ、カメラってか写真が好きやねん。せやけど、そんなん食っていかれへんから、周りは大学行ってもっとお堅い仕事に就いてほしいんや」
「そっか…」
 怜司は、共通項のある参加者の存在にほっとした。
  *
 集合が午後のため、一日目は今後の説明と予備講義がメインだ。翌日から、高校生と医大生とから成る三グループに分かれ、それぞれアプローチの異なる『動物の眼について研究するための実験』を重ねていく。最終日すなわち三日目に各グループが成果を発表し、互いに「ものの見える仕組み」を理解するというプログラムである。
 大学教員の話も実験機器も、異世界のものにしか感じられなかったが、自分一人が困る問題ではない。実験が遅れ、あるいは失敗したとなれば、それは個人ではなくチームの責任となるに違いない。「恥はかき捨て」と、詰まったときには正直にチームメイトに打ち明け、医学部生や教官に更に説明してくれるよう頼んだ。そして必死に食らいつく思いで、何とかキャンプの日程を乗り切った。最終日には、全ての参加生徒そして医学部生たちと話せるようになっていた。そして、自身の今後についての考え方も少しずつだが変わり始めていた。
  *
 閉講式を終えて大学キャンパスを後にし、向きこそ違うが同じく東海道新幹線で帰途につくという彼と浜松駅まで共に向かい、駅前で別れる。
「じゃあな、来栖」
 軽く手を振り、歩きだそうとする彼を呼び止める。
「小日向」
「何や」
「…メール、打ってもええか?」
 小日向少年は夏の太陽に負けない、どこまでも明るい、影のない笑顔で返した。
「そんなん、訊くようなことか。ええよ、友達やん」
「…サンキュー」
 彼の後姿を見送っていたが、我に返って自分も回れ右すると一歩二歩と歩きだす。
 人間の目というか視覚は、曖昧で適当な要素を含んでいる。それに、改めて気が付いた。
(そうだ、これをテーマにしよう…!)
 明日は浜名湖へ向かい、鰻重を食べて、アンティークオルゴールの奏でる天使の音色と重厚かつ格調高いオルゴールボックスの美に酔ってから自宅に帰るのだ。
 駅前のビジネスホテルでチェックインを済ませ、部屋の鍵を開けて荷物を置き、靴と靴下を脱ぎ捨ててベッドに転がる。
(家に帰ったら、あの本を借りて…ええと、何枚くらい描けば発表として格好がつくだろ?)
 思索にふける間に、眠気が襲ってきた。カーテンの隙間から見える空は、宵闇の色へと変わりつつある。
「いっけね。夕飯一食食いそびれちまう」
 慌てて本日の夕飯を見つくろうべく駅前に再び出て弁当を買い、ユニットバスで汗を流して弁当をかき込むと、ベッドに横になった。
   * * *
 それが、ほんの数日前。
 二学期が始まった今からは、自宅に帰れば予習や宿題を手早く済まし、文化祭の準備にいそしむ日々だ。
(これもサイエンスだよ…強いて言えば医学かな?)
 もはや手にするのは絵筆ではなくペンタブレットではあるのだが…それも時代というものか。
 9月に入れば、日を追うごとに日没は早まり、秋の気配が色濃くなると同時に朝夕は涼しく過ごしやすくなる。しかし、彼の中で目覚めた情熱は南半球同様に冬から春、そして夏へと向かうかのようであった。
 文月の夜―9月も初め、旧暦ではなんとまだ7月だ―は、静かに更けてゆく。

(『Secret Base』Sep-2010 より)

本作執筆は10年以上前なので、更に閉館してしまったオルゴールミュージアムは増えますね…(嘆)
時は流れて文化祭前日、準備が間に合わず慌てる怜司に……

 例年文化の日前後の金曜日に開催される文化祭だが、「後よりは早いほうがいい」という意見で更に前倒しの10月29日となった。従って10月も下旬に入ると、発表・展示を行うクラブはとりわけ準備に忙しくなる。
 ゴールデンウィーク明け以来、内輪でも他言無用という取り決めで各自発表の準備を進めてきたサイエンスクラブの部員たちだが、こうなってくると隠すのは難しい。だからこそ、文化祭前日には皆お互いの手の内を見せあっているような状況だった。
 にもかかわらず、自身の発表テーマを隠し通したメンバーが居る。一年生の来栖怜司くるす れいじである。活動場所である放課後の第一理科室ではなく、メインの作業は全て自宅で進めていたからこそかもしれない。だが、本番を明日に控えてブースを設置し発表・展示の準備をするとなれば、もうご披露するしかない。部員たちがあらかた去ったのを見計らい、怜司はカルトン〈※厚紙製の紙ばさみ〉から何枚もの紙を取り出し始めるが、
「急がないと間に合わないよ、来栖くん」
 ぎょっとして振り返って見れば、隣の理科準備室のドアを開けて顧問の水本教諭が顔を出していた。
「わ、分かってますよ…。超特急でやりますから、施錠は待ってください」
「いや、僕まだ帰らないけど。でもさあ、超特急と大至急って、どっちが急ぎなんだろうね?…まあいいか。ごめん、邪魔しちゃったね」
 それだけ言うと、教諭はドアを閉めた。怜司は作業に戻る。
(…でも、ホント急がないと日が暮れちゃうよ。まずい、正直まずい。オレ一人じゃ無理かも)
 しかし、教諭に助けを求めたくはなかった。この二ケ月ほどのうちに描き上げてプリントアウトした作品たちを簡単な説明を添えてパネルに貼っていくが、予想よりも時間がかかって冷や汗が出る思いだった。
(そっか。オレ、けっこうチビなんだよなあ…)
 だから高いところに絵を貼るのが手間なのだ。あまり高いところに掲示しては、見る人も大変だろうということにして下へシフトしてみるが、そうすると部員一人当たり持ち分のパネルでは足りなくなる。
(ああ、困った。困ったぞ…)
 どれかを捨てて、掲示をあきらめればいい。いや、それは我慢ならない――
 葛藤している間にも時間は過ぎ、日は西へと傾いていく。
「あ、まだ開いてた。良かったぁ」
 階段そして廊下を駆ける軽やかな足音の後で、第一理科室に現れた人影。
「…橿原先輩」
 二年生の女子生徒・橿原千賀かしはら ちかだった。
「準備も終わって下校したんじゃなかったんですか、先輩」
 怜司が尋ねると彼女は苦笑いし、
「忘れ物しちゃって…気付いて戻ってきたのね」
 理科室へ入って来て、机の下に置かれた手提げバッグを拾い上げる。
「お弁当箱。お昼に食べちゃって空っぽと言えども、明日までここに置いとくのは気が引けて」
「…几帳面なんですね」
「几帳面というか…明日は一般のお客さんもここに入るわけだし、異臭騒ぎはイヤだなあって思ったから」
 自身の事情を説明し終えると、怜司の背後にあるパネルへ目をやり、
「へぇ。来栖くん、そういう切り口でいくんだぁ」
 彼は慌ててパネルの前に立ちはだかるが、時すでに遅しである。
「自分で描いたんだよね?それ。上手じゃない」
「え?ああ…ありがとうございます。でも、他の人たちにはナイショにしてくださいよ。メールで回さないでくださいよ」
「回さないよ。どうせ明日にはお披露目なんだし」
 千賀はパネルと怜司の抱える紙束を交互に眺め、
「それ全部貼ろうと思ったら、パネル足りないでしょ。わたしの空きを貸す?」
「…いいんですか?」
「うん。でも、配置を再検討するのが先。それでも足りないなら、わたしのブースはちょうど来栖くんの隣だし、貸してあげる」
 言い終えるより早く、既にパネルに貼り込んであったプリントアウトを次々と外し、並べ直していく。
「スペースを取りたいのも分かるけど、ここらへんもっと詰めても大丈夫でしょ。…これの次は、どれが来るの?」
 テキパキと作業を進め、あっという間に彼が用意していた大半を掲示し終えてしまった。
「残りは、これだけか。なら、わたしの空き領域に貼っておしまいね」
 最後の一枚をパネルに留め、彼女は両手をパンパンと叩いて払った。
「皆に見られたくないのは分かるけど、一人で遅い時間にシフトして頑張るのは大変なんだよ、来栖くん。先生がいつまでも帰れなくなっちゃうじゃないの。わたしが来て、助かったでしょ」
「…ハイ」
 反論出来ずに怜司が小さくうなだれて答えると、
「分かったなら、それで良しよ。先生に『終わった』って報告して、帰ろ」
「は、はあ…」
 彼女は、校内の生徒たちがどうにも注目してしまう人気の女学生である。日没間近なこの時分、仲良く下校するところを誰かに見られたなら、後日一人で帰途についたときに闇討ちされかねないと恐れてしまう怜司だった。しかし、彼女は気にも留めない。理科準備室のドアをノックし、
「水本先生。明日の準備終わったんで、理科室閉めてくだすって大丈夫です。あと、お願いします」
 ドアを少し開けて伝える。すると、
「…あら。橿原さん、まだ残ってた?」
「いえ、忘れ物して。取りに戻ってきたんです」
「…そう。でも」
「何でしょう?」
「まだ下校の刻限まで時間があるし、せっかくだから発表の予行演習でもしてもらう?来栖くんに」
 怜司は危うくひっくり返りそうになった。
「な…なんでオレだけ!?」
 水本教諭が、準備室から理科室へとやって来る。
「橿原さんは去年もやってるし、ブラバン経験者だけあって、いざ本番ってときも肝がすわってるの。僕としては君が一番心配なわけよ、来栖くん」
 反論できずに困惑して立ちつくす怜司に、千賀が言う。
「他の部員さんより、わたしのほうがやりやすいでしょ。練習してみようよ。パネル見ただけじゃ分からないとこもあるし、聞いてみたいなあ」
 逃げ道は、もうどこにも無い。怜司は観念したように大きなため息を一つつき、
「…やります、やりますってば。それでいいんでしょ」
 バッグからファイルを取り出し、顔を上げた。

(『Secret Base』Oct-2010 <1> 文化祭前日、放課後 より)

かくて怜司は水本教諭と先輩・千賀を前に、ヒトの物を見る仕組みと錯覚についての発表予行をし、

「いやあ。どうなることかと思ったけど、まとまったじゃない」
 水本教諭が笑顔で拍手を送ると、怜司は深々と一つ息をついて肩を落とし、
「…それでも、やっぱ『これ理科なの?』と思われる向きもあるでしょうけど」
「来栖くん、参加することに意義があるんだってば。去年の水本先生は恐竜塗り絵でブース出してたし…わたしは『有り』だと思うけどなあ」
 もう一人のオーディエンスこと先輩の千賀に言われ、
「ならいいですけど。どうせ『無し』と言われても、今のオレにこれ以上のものは出せません」
「これだけ出せれば充分じゃないの。僕より絵も上手だし」
「お世辞はいいですよ、先生」
 ふと、水本教諭が腕時計に視線を落とし、次いで廊下の窓を見やる。既に、夜の帳は下りかけている。
「さて。本番に備えて、もう帰りましょ。戸締りはしておくからね」
 教諭は言い終えるも早く、そそくさと理科準備室へと去っていく。理科室に残された怜司は、千賀と顔を見合わせる。
「…ですって」
「そうだね。帰ろっか」
 バッグを手に颯爽と歩きだす先輩に、慌てて声を掛ける。
「先輩…お弁当箱、忘れてます」
 理科室の机上には、ランチクロスに包まれた四角い箱が入った小さな手提げバッグが一つ、置かれたままだった。
(これを取りに戻ってきたはずなのに…)
 同学年のみならず先輩や後輩からも注目されるアイドル的な女子生徒。彼女とお近づきになりたい生徒に、この暗くなりゆく空の下で連れ立って下校していく姿を見られたらと思うと、怖くて仕方がない。だが、この可愛い先輩は抜け目がないようで、妙なところで天然ボケをかましてくれる。
 結論は、「放っておけない」。
 手提げバッグを渡し、肩を並べて昇降口へと向かい、階段を降りていく。
(誰にも会いませんよーに…!)
 こっそりと祈りつつ、ため息を洩らした怜司であった。

(『Secret Base』Oct-2010 <2> 本番は明日! より)

2011年春には、卒業していく二人の三年生を、在校生と共に笑顔で見送る姿が。

 みぞれ交じりの冷たい雨が降る中での卒業式予行。
「入学式が春の嵐だっただけに、平穏には終わらないってことか」
などとつぶやく生徒も居た、2月28日。
 翌、3月1日の平成22年度卒業式は、朝から曇り空。開会の時分には雨がパラつき、卒業生や父兄の周囲に流れる空気にも、どことなく湿っぽさが増したように思われた。
 しかし何事もなく閉式の言葉を迎え、卒業生が最後のホームルームを終える頃には雨は止み、空は明るさを増して、今日この学び舎を巣立って行く生徒たちの前途を照らすように陽光が射した。
 三年前の入学式で新入生代表として宣誓に立った祝部斎ほうり いつきは、今回も卒業生代表として壇上に登った。家業である神主を継ぐため私立文系K学院大神道学科を第一志望とする彼は、国公立大を受験するはずもなく、昨年秋から冬にかけての推薦入試で合格し既に進路を確定していた。答辞を書いて読む練習をする時間は充分にあるだろうと、その役が回って来たからである。
 何とかそれらしく収めて一安心し、最後のホームルームのあと、後輩たちの待つ第一理科室へと向かう。
「祝部、卒業証書授与の総代じゃなかったんだね」
 隣のB組そして同じくサイエンスクラブ部員である石動咲良いするぎ さくらに言われ、
「ああ。だって俺、体育と芸術系科目が5じゃないし。総代は通信簿が『首席』の生徒がやるわけだから」
「…そうか。つまり、体育と芸術選択以外は5なんだ。どうせ、その二つだって4くらい取れてるくせに。この成績優秀者め」
 二人は、東校舎二階の第一理科室の扉の前で立ち止まる。
「静かだね」
「今年に限って誰も居ない…なんてことは」
「それは無いよ」
 斎がドアに手をかけ、開ける。ひときわ見慣れた特別教室には、顧問の水本教諭と在校生三人が笑顔で待っていた。
「卒業おめでとうございます!」
 花束二つを抱えた二年生の女子生徒・橿原千賀かしはら ちかが真っ先に駆け寄り、二人へ次々に手渡した。
「あんなんでも卒業できるもんなんですねぇ、石動先輩。オレ、がぜん自信が湧きました」
 素で述べた一年生・来栖怜司くるす れいじの一言に、咲良が目を吊り上げる。
「あ・ん・な?あたしは努力したんだよぉ。うんと努力したってんだよぉ?」
「でも、まだ合格発表って出ないでしょ」
「…うん、まあ。でも見てなさいよ!おちるはず無いんだから」
「何なんですか?その妙な自信は。試験問題、綺麗に埋まったんですか」
 話に加わった二年生・津久井聡介つくい そうすけに向かい、
「うーんや。でもね、『なんか絶対自分がおちるはずない』って、ヘンな直感めいたものが…」
「先輩はK都大じゃないですもんね」
「あったりまえでしょ!あたしは、そんな非常識じゃないってば。失礼も甚だしいぞ、君!」
 今年の大学入試は、試験時間中に携帯から試験問題がネット上に流出し、正解を回答として寄せたユーザも居たという。この事件はご存知のように、大学関係者のみならず世間を大いに騒がせた。後日、母子家庭の浪人生による単独犯行と明らかになったが、真剣勝負を挑んだ大部分の受験生はどんな思いでいることかと考えると、ひたすら再発防止が望まれる一件ではある。
「まあまあ…」
 どことなくピリピリしてきた雰囲気に見かね、水本教諭が間に入る。
「でもね、そういう予感みたいなものは、こういう時ほど当たるみたいよ。特に『女の勘』だから…馬鹿にしちゃいけないかもよ、津久井くん」
 後輩の胸ぐらを掴んで説教を始めかねない勢いだった咲良も、一歩退いた。
「僕の従妹なんだけどさ、試験問題解きながら『あ、ここはいけそうだな』って思ったとこは全部合格取れたっていうよ。…ま、彼女の場合はセンター試験利用とか、自分でそこの大学に行って受験しなかったやつは全部スベったらしいけどね」
「え?でも、それって逆に言うと、自分の足で大学に行って受けたのは皆パスってことですよね?それはそれで凄くないですか」
「凄いかもねえ。『早慶上智も、受けてみりゃ勢いで合格出来たかも』なんて言ってたけど」
「…で、石動先輩は進路まだ確定じゃなんですよね」
 千賀に訊かれ、
「うん、残念だけど。前期日程で決まってくれればいいんだけどさ、ダメでも後期日程がまたすぐ来るから、それ受けて…。後期の合格発表まで待つと、3月も20日…下旬になっちゃう」
「前期も後期も同じとこに出願してるんですか?」
 千賀は意外そうに言うが、
「だって、行きたいところは一つだし…後期日程のほうが募集人員多いし」
「へえ、そんな大学もあるんですか」
「少なくとも、S州大の理学部はそんな学科が多いみたい」
 話が一段落したのを見取り、水本教諭がまとめる。
「ともあれ、めでたく二人ご卒業だね。また何かあったら、顔出してくださいよ。皆待ってますから。…ね?」
 笑顔でうなずいて手を振る在校生たちに送られ、斎と咲良は三年間の放課後を過ごしたクラブの活動拠点を後にした。
 不意に、咲良が何かを口ずさむ。
 ♪最高の…思い出を…
 2005年に解散したガールズバンド・ZONEの「secret base~君がくれたもの~」だった。
「僕たちの秘密基地とも、さよならかぁ…」
「秘密、基地…?」
 咲良は斎に向き直り、
「そうでしょ?あたしたちの、『秘密基地』…」
 そして、今来た廊下を振り返る。
「第一理科室…教室よりも思い出が詰まってる場所。色んなこと企んで、失敗もして」
「…そうだね」
 斎が微かに笑う。
「先輩たちも、きっと同じ思いでこの廊下を歩いて行って…振り返ったろうね」
 時は巻き戻せない。ただ、前へと進むほかない。しかし――
 同じ場所で・同じ時を過ごした、記憶。それは財産であり宝物。いつか、心を支える柱となり、懐かしく思い返すことが出来るもの。
「今日は『終わり』じゃない。立ち止まってる時間、もったいないよ」
 二人の先には、春そして新しいスタートラインが待っている。

(『Secret Base』Mar-2011 <1> 旅立ちの日に より)

こうして追ってみると、愛称ミズモちゃんこと水本教諭は自由気ままではあるのだけれども、岸浪教諭とはまた違った指導理念と愛情のかけ方があるように感じます。
 
言ってしまうと、部員たちと初代顧問さらに彼らの家族に関しては過去の拙作『扶桑奇伝』とのキャラ設計の関連性があるのですが、水本教諭にはそれがありません。ただ、著者が何かとお世話になった実在の某様をモデルにしてる部分が色々あり、だからこそ身辺設定がやたら詳細だったりリアリティあったりするのかと思います(爆)。ちなみにご本人には内緒にしてます(爆爆)。。

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