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拙作語り㊺『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』<Ⅸ>

一次創作、古代中国風伝奇ファンタジー小説『群雄列伝』。
内容その他の詳しいところは過去記事(拙作語り㉟)を見て下さいという話ですが、そのうちの『下天の章・三 群雄割拠譚』は、中央政権が衰退し地方の有力氏族が帝都と天下を窺うようになった群雄割拠の人間界が舞台。
 
今回は、下天の章・第三部にも登場する人物たちの過去というか、第三部以前の物語とでもいうべき外伝を再掲します。

茉莉花の咲くころ

 下天が丙午へいご〈ひのえ うま〉の年の本格的な夏へと向かう頃、中庸界の雷響洞らいきょうどうそばに建つ庵の前に、小さな花束が置かれていた。それに気付いた呉燎ゴリョウが、拾って中に入る。
不空フクウ様。これが、外に…」
 不空は彼が持つ花を見ると嬉しげに目を細めた。
「そうか…きっと景瑛ケイエイが持って来てくれたんだね。もうそんな季節が来たのか…また」
 どこか寂しげでもある彼の笑顔に、呉燎は少し首をかしげる。
「どうかなさいましたか」
「いや、ちょっとね…この花には色々と想い出があるものだから」
「これは…?」
「お前は知らないかな。茉莉まつりの花と言うんだ。江沿こうえんでも咲くのだろうけど、もっと南のほうが、盛んに花開いていることだろう」
「そうなんですか…。すごくいい…でも、なんだか不思議な香りがしますよね」
 不空はうなずき、
「妻が好きだった花なんだ。まるで『わたしを忘れないでいてね』とでも言うように、夏がめぐり来るたびに咲き誇る…」
「不空様の、奥様…。ぼくの、遠いご先祖様でもある御方ですね」
「ああ、そうだね」
 茉莉の花の香りが三百年ほどの歳月をさかのぼらせ、彼の胸の奥に在る遠い日の出来事の扉を開く。

* * * * *

 帝都・河南かなんの王宮に、白い喪服を着て泣き続ける婦人の姿がある。
「陛下…」
 婦人の前に一人の少年が現れて言う。
「いつまでも泣いていては駄目だよ、故瑚ココ
 婦人は少年のほうへと振り返る。
永震エイシン…」
ケイだって、そんな泣いてばかりのお母さんなんて見たくないはずだよ」
 イン王朝を打ち倒し、新たに永王朝を立てた永初エイショこと興穏帝コウオンテイは、二十二歳という若さでその生涯を閉じた。これを受けて、わずか四歳の皇太子・永継エイケイが即位した。易姓革命えきせいかくめいを先帝の許で戦い抜いた者達は、この一国の憂事に際し一致団結して幼帝を助け支えることを決意し、それぞれの形で援助の手を差し伸べてきた。興穏帝のただ一人の実弟である永震もまた、在地である江沿こうえんから帝都へ急ぎ駆けつけ、しばらくの間ここに逗留することを決めたのだった。
 興穏帝の正妃であり新帝の生母、更に自身も易姓革命えきせいかくめいの戦いに加わった烈女・趙皇太后チョウ コウタイゴウの嘆きの深さは、夫への愛情の深さでもある――それが痛いほどに分かる永震は辛かった。
 彼女の父・趙継チョウケイは胤王朝に仕えていたが離反して永家軍にくだり、帝都へ入る直前の峡関きょうかんでの激しい戦いの中、討死した。興穏帝は自らの嫡子に、彼の名を付けようとした。
 亡き父の名を我が子に、しかも次に皇位を継ぐ男児に付けてくれるのは非常に嬉しい。だが、父は激戦から生きて戻ることが出来なかった将軍だ。皇后・故瑚は渋ったが、
「素晴らしい名じゃないか。君の父上のように勇敢で義理と人情に厚い、優しいおとこになってもらえたらと願っている」
 皇帝のその言葉で、彼女は心を動かされたのだった。
「ねえ、故瑚…。ぼくだって、本当はこんなきついこと言いたくないんだ。君が兄上を本当に好きだったこと、よく分かってるから…。でもね、その兄上の思いがあるから言わせて。君がそんな姿を晒していたら、兄上は悲しむよ」
「分かってるわよ、わたしだって。でも、あまりにも早すぎるもの…」
 話さずにおこうと思っていたことだったが、抜け殻のようになってしまった彼女を前にし、永震は兄が世を去る直前に自身に語った真実を明かす決心をした。
「当然なんだ。兄上は、天命よりも早くに旅立たれることを選んだのだから」
 皇太后が、驚いて顔を上げる。
「え…!?どういうことなの!?」
「兄上は、あのとき…胤王朝最後の日に、傾国の后妃が呪詛を遺したことを知っていた。それに引きずられるように、あの場で共に戦った将軍たちが、次々と…それこそ櫛の歯が欠けていくように年を追うごとに思いがけないほどの速さで消えていくということも」
「……」
「兄上はね、継が大きくなるのにせめて片親だけでも傍にずっと居てあげられたらと願ったんだ。自分自身と君と、与えられた『残り時間』は、共にあの時から数えて八年間…それが、兄上の『見た』未来だった。まだ七歳の子が両親を相次いで失ったならどんなに悲しいだろう。だが、父の顔も知らずに育つのもまた不憫だと、兄上は考えた。だから、天界に戻る飛鷹ヒヨウ様…鳥王に、『己の残命の半分を、妃に譲り渡したい』と夜摩王ヤマオウにお願いしてくれるよう頼んだ。夜摩王は、兄上の下天での労をねぎらう形で、これを受け入れた…。年数に多少の誤差は生じたようだけど、その結果なんだよ」
「そんな…!それなら、わたしが…!」
 止まりかけていた涙が、再び彼女の頬を流れ落ちる。
「故瑚!」
 普段決して怒鳴り声など上げない彼の厳しい口調に、皇太后はびくっと肩を震わせる。
「お願いだから、現実を受け止めて。君は皇太后…しっかりしてもらわなきゃ、皆も困る。継もどうしていいか分からないだろう。君なら大丈夫だ…兄上が皇后に…幼帝の母となるに選んだ女性ひとなのだから」
 こらえきれず嗚咽おえつを洩らすあによめに、彼は更に言葉をかける。
「泣いてもいいよ…。でも、それは今日までにして。ね…」
 しばしの時をおいて、彼女が微かにうなずいた。
  *
 翌日、顔を合わせた皇太后は前日までとは別人のように気を取り直し、背筋を伸ばしていた。
『新帝のため、先帝のため。そして、わたしたちを支えてくれる「戦友」たちのために。わたしは、もう泣かない…』
 彼女の決意を見て取ると、永震は在地へと発ったのである。
  * *
「故瑚、落ち込んでたでしょう…?」
 戻り来た彼を迎えたのは、この江沿を中心として南方の地域を支配してきた家の遺児・莉於リオ。彼の婚約者でもあった。
「うん、でももう平気だよ。悲しくても、乗り越えていかなくちゃならないって分かってくれたみたいだから」
「へえ…故瑚は強いひとだね。わたしは駄目そう」
 彼女もまた易姓革命の戦いに加わり、自身の父をはじめとした親類縁者を謀略により死に追いやった胤王朝の皇帝を倒した将軍――すなわち、同じく大禍星の呪詛を受けた者の一人であった。
「永震よ、儂も先が見えてきた。雷響洞を任せられるのは、お前しか無いと思っている…。もちろん、今すぐにとは言わん。考えてはもらえないか」
 育ての親でもある中庸界の方士・老爺ラウエに乞われてもいた。中庸界へ入り、下天から籍を移す――それが大禍星が遺した死を早める呪縛から逃れる一つの術であることも知っていた。
 永家軍の陣中には、胤王朝最後の皇帝の寵妃が負っていた破滅の凶星と相対する『興起の吉星』を受けてこの下天に生まれた娘が在った。彼女の真の姿は天界の冬を司る漆黒の竜女で、天父・遍照ヘンジョウの養女でもあった。しかし、そんな彼女の力を以ってしても、大禍星の災禍を全て退けることは出来なかったのである。
「ごめんなさい、永初…。あたしには、これが精一杯…。みんなみんな、これからなのに…本当に申し訳なくて…。皆に合わせる顔が無いよ…。あたし、どうしたらいいの…何をすれば許されるの…」
 彼女が兄に泣きながら詫びる姿を、永震は目にしていた。そして、兄が彼女に優しく言葉をかけたのも。
琉瑠ルル…いや、氷晶公主ヒョウショウ コウシュ。あなたの『精一杯』が今、僕たちを生かしている。長く生きることが必ずしも幸福ではなく、早くに命を終えることが必ずしも不幸ではない…大切なのは、どう生きるか、限られた時の中で何が出来るかだと思うから…。だから、あなたは飛鷹ヒヨウ様と…鳥王と共に、天界へ。そして、あなたの在るべき場所から僕たちを見守ってください」
(中庸界に入る――その道を選んだなら、皆が居なくなっても、ぼくが継を…永王朝を…皆が遺したものを見守ることが出来る。天界に戻られた鳥王や公主のように…)
 いつかそう遠くない未来、自身と彼女にも永遠の別れがやってくる――永震は莉於を前にして思った。
  * *
 ある夏の日暮れ迫る頃、
「ねえ。早く来て、永震!」
 廊に立って夕暮れを眺めていると、莉於が駆けてきて手招きした。その表情はとても嬉しげだ。
「どうしたんだい?」
「茉莉の花よ。ここでも…江沿でも咲いたの!」
 彼女は偶然が重なり追捕の手を逃れ、江沿よりも更に南の湖南こなんの小さな村で生まれ育った。そんな彼女にとって茉莉花は特別な思い入れがある花らしく、この江沿の宮殿にも植えて世話をしていたのだった。
 彼女に手を引かれ庭園へ来てみると、夕闇に沈みゆく中で白い花がいくつか開いている。異国にでも足を踏み入れたかのような、甘く強い香気が立ちこめていた。
「とてもいい香りでしょ。明け方には朝もやの中でもっとたくさんの花が開いて、神秘的な景色になってるかもしれないわ」
「ふうん…」
「懐かしいな…あの頃が」
 庶民に交じって、水を汲みに桶を抱えて川との道を往復したような生活でも、彼女にとっては懐かしい思い出なのだろう。自身をかくまい、本当の孫のように慈しみ養ってくれた老臣・垣由エンユウを思い出しながら、
「明日、太陽が昇ったら、じいのお墓に手向けてこようと思うの…花が閉じないうちに、急いで」
 彼女は白い花の一つにそっと手をやり、ひとりごとのように言った。
  
 二人は年頃を迎え、晴れて夫婦となった。
 季節はこれまでと同様に移り変わりを繰り返したが、歳月が流れるとともに、更にあちこちから戦友の訃報が舞い込んできた。
伝威テンイが…旅に出て立ち寄った村で洪水に呑まれて安否が知れなくなった…?」
「うん…河下かかから、伝徳テントクが手紙をくれたの」
 永震は、兄の死の折の彼の様子を思い返す。
「馬鹿野郎…。お前、早く死にすぎだよ!美人薄命なんて気取ってんじゃねぇ!この、根性無し!」
 愛馬で昼夜駆け通して帝都の王宮に飛び込んできた彼は、やり場のない怒りと悲しみ、悔しさから、仕舞う時を待つばかりとなっていた先帝の亡骸に向かって叫んだ。
 歳も近く、恋についても語り合うほど親しい友同士であった男の早すぎる死に、声を上げて泣きたいほどだ。だが、自分は武家のおとこ、太祖の剣と呼ばれた将軍。人前で泣くわけにはいかない…
 そんな彼の心の内を知るからこそ、永震をはじめ誰一人として彼の暴言を咎めなかったのであった。
「俺には女なんて必要無え。この剣が俺の女房だ」
 かつて命を救われた天界の竜王の妹から戴いたという一振の剣を握り締めて、熱く語っていたものだった。
 その彼も、河下の城下に現れた可愛らしい女性絵師と夫婦になり、一児をもうけたと伝え聞いていた。しかし妻が子を置いたまま何者かに連れ去られるがごとくに姿を消し、彼女を捜して旅に出…天災に巻き込まれてしまった。
(伝威までもが…。彼女に残された時間も、刻一刻と減っていく…)
 肩を落として伝威の弟である伝徳からの文を畳む莉於の姿を眺めながら、しかし永震は覚悟を決めかねていた。
 
 易姓革命の戦いが終結してより十一年目の正月、永震は帝都・河南に上り、自身のあによめである皇太后と甥にあたる永継こと承平帝ショウヘイテイとに拝謁した。
 皇太后は彼と二人、庭園の池のきわに立つ楼閣へと登る。
「永震…。先帝…永初様が予期した年を迎えたわね」
「うん…」
 八年の残命のうち、三年を彼女に譲り渡して崩御ほうぎょ〈※天皇・太皇太后・皇太后・皇后の死を敬って言う〉した興穏帝。彼女に元々残されていた年数と合わせると、十一年…。
「継も十歳になったわ。歳並み以上にしっかりして、わたしが何か小言を口にすることも無くなった…。ねえ、永震。わたしは、永初様の思いにお応えすることが出来たかしら」
「もちろんだよ、故瑚。兄上も、きっと『よく頑張ったね』って言ってくれてる」
「そうだと…いいわね」
「そうだよ、そうに決まってる」
 最愛の夫を失って以降、幼い息子を支え、皇太后という重責を負いながら無我夢中で六年の歳月を一人駆け抜けた女性。その労苦が報われないのならば、悲しすぎる。
 皇太后は微笑み、
「永初様が見た、あなたの未来は…どうだったのかしら」
「中庸界に入り、向こう数百年の全てを見届けるだろう…と」
「じゃあ…わたしが居なくなった後の、継のこと…お願いできる?」
 大きくうなずいた彼を見、皇太后は安堵したように息をついた。
 そしてこの年の春、梅や桃の花が咲くのを待たずして皇太后は崩御したのであった。
 
 更に年月は流れ、永震は莉於との間に二男一女を授かり、三児の父となっていた。
 そんな時、突如として彼の前に師であり育ての親でもある中庸界の方士・老爺ラウエが現れる。
「すまぬ、永震。儂に残された時間もあとわずかとなり、これ以上は待てぬ。…お前や彼女のそれもまた同じだ。どうか聞き届けてはくれまいか」
 来るべき時が来てしまった――永震は唇を噛む。
「…分かりました」
 苦しい胸の内で受諾の返答をする。
「では、雷響洞で待っておるぞ」
 老爺は安堵したように笑みを浮かべ、手にしていた杖を振り上げる。時を同じくして沸き起こった風に巻かれ、その姿は江沿の王宮から消えた。
  *
「莉於…」
「なあに?そんな深刻な顔をして」
 もうじき生まれて丸一年を迎える次男・呉秀ゴシュウをあやす妻に、話を切り出す。
「以前話したことだけれど…老爺から『もうこれ以上は待てない』と…」
 彼女はいつものように微笑んで、
「そう…。なら、仕方ないわよね。行ってらっしゃい、あなた」
「でも…」
「大丈夫よ、後のことは何も心配しなくて。わたしに全部任せておいて」
「子供たちは…」
「わたしから話しておくわ。あなたがしようとしていることは…あなたが負おうとしている使命は、誰にでも出来るものじゃないもの…。今は無理でも、きっと分かってくれる時が来るって信じてるから」
 永震は彼女に深く頭を下げる。
「ありがとう。本当に済まない」
「どうしたの?そんな改まって…。これが永遠の別れになるわけじゃないのに」
 不思議そうに尋ねる彼女に、何と返していいのか分からない。
「…ああ、そうだよね。ごめん」
 はぐらかすように言うと、彼は江沿の宮殿を後にし、中庸界の雷響洞へ向かった。
 * *
 この世に生を受けてより少年時代までをかの地で過ごした彼は、既に相当の方術を習得し、中庸界についての知識もあった。改めて修行などするまでもなく、老爺亡きあと雷響洞を引き継ぐ方士として、中庸界に籍を入れることがほどなく叶ったのであった。
 これに安心したのか、老爺の心身の衰えは目に見えて進むようになる。強健な頃の彼を知る永震には、ただ力なく寝台に横たわるその姿が信じられなかった。
「老爺…しっかりなさって下さい」
 老人は一つ息をつき、
「予想以上に早くて、儂も驚いておるわい…。ああ、この手で…あの杖を…運命の御子に渡したい…」
「あの…杖を?」
 かつて易姓革命の折、自身が手に戦った、風と雷との威力が込められた杖。永震が、庵廬あんろの片隅に立てかけられた杖に目をやる。
 老爺は小さくうなずき、
「永王朝中興を成し遂げる、その子に、この手で…」
 父から予知の力を受け継いでいた兄の、最期の言葉を思い出す。
『永王朝は三百二十九年続く。その半ばに暴君が現れ、下天は大いに揺れる…。だが辛酉しんゆう〈かのと とり〉の年に帝都より西に生まれた子が、乱れた世を正すことだろう』
「のお、永震。儂の最後の願いだと思って、聞いてはくれぬか」
「最後だなんて…。しかし、一体何を?」
「しばしの眠りにつこうと思う…。まあ、お前も知るように、これもって『賭け』でしか無いのだが…」
 時の流れを完全に止めることは、天界の天父や地母にすら不可能である。しかし、遅らせる力ならば一部の者に与えられている。彼は、自分自身の時を眠りの中で遅らせ、結果として目指す時までの延命を望むのだ。しかし、『時』に介入せんとする呪術はその代償も大きく、自分自身に修する点でも多大な負荷がかかるのは容易に想像できた。
「おそらくは危険な賭けですよ?それでも…」
「分かっておる。だが、ほんの少しでも可能性があるなら、すがりたい」
 彼の覚悟を感じ、永震も黙り込む。
「だが、もし事が上手く回り、その時まで生きることが叶い目覚めたとしても、儂に残された時間が長くなるわけではない。今このときを以って、お前がこの雷響洞の主じゃ」
 どれほどの沈黙が続いたか。永震は、ようやくの思いで口を開く。
「承知いたしました、もうお止めしません。それで老爺のお気が済むのなら」
「…ありがとう」
 かくして、老爺は近くの横穴の奥にひつぎを据え、そこで眠りについた。
 下天に残してきた妻・莉於もまた体調を崩し、寝込むことが増えていた。
(いっそ、時が止まってくれたなら…)
 しかし、彼の願いが聞き届けられることは無い。『その時』は静かに近づいてくるばかりだった。
 
 久しぶりに『戻った』江沿の宮殿。間近に迫る死の時を待つばかりとなった妻に一目会いたいと、永震は宮殿の一室の前に立ち、扉に手をかけようとした。しかし、不意に現れた幼女が両手を広げて立ちはだかった。
「母様のところへは行かせないわ!」
芳郁ホウイク…」
「父様、知ってたんでしょ!母様が体調を崩しがちになったのは、つい今日このごろのことじゃない。何年も前からよ…。それなのに、どうして今頃!」
「やめろよ、芳郁」
 声を聞きつけ、少年が姿を見せる。
エイ兄様…。でも…!」
「お前のそれは、父様に去られた寂しさからの仕返しでしかない。僕たちの前では決して口には出さなかったけど、母様は父様にお会いしたいと、ずっと思ってた。叶えてあげようよ」
「なによ、兄様は分かってないのよ!」
「つまらない意地を張るな!」
 言い争う幼い兄妹を前に、永震は何も言えずにいた。
「やめて!」
 涙声で二人を止めに入ったのは、更に年少の男児だった。
「みんながケンカしてるのが、母様いちばん悲しむよ!」
 居合わせた一同が、廊に立ち尽くしたまま黙り込む。
「父様。母様、待ってるよ」
 最後に現れた末子・呉秀が父の手を取り、引いた。
  *
 部屋の奥に据え置かれた寝台には、別れた時よりもやつれた彼女が横になっていた。
「永震…来てくれたんだ」
「許してくれ、莉於。君がこんなにも早く逝ってしまうのを、ただ見ていることしか出来ない…」
「謝るのは、わたしのほうよ。あのとき、『大丈夫。後のことは、みんなわたしに任せておいて』なんて偉そうなこと言ったのに…果たせそうになくて」
 永震は寝台の傍にひざまずいて彼女の手を取り、頬に押し当てる。
「いいんだ…君は充分すぎるほど頑張った。もう、いいんだ…」
 彼女は父を知らない。彼女の父は、江沿の当主・呉柁ゴダの長子・呉融ゴユウ。弓聖とまで呼ばれた青年であるが、正妻よりも側女を愛し、嫉妬深い正妻から我が子を身籠った側女を守るべく託す先を探していた。そして、湖南に一人隠棲して晴耕雨読の生活をするのだという老臣・垣由が引き受けることとなり、彼女は湖南の村で産声を上げた。
 彼女が生まれてすぐ、胤王朝最後の皇帝となる幕翻帝バクハンテイから謀反の嫌疑をかけられ、呉家は当主以下、一族郎党に至るまでことごとく処刑された。呉融もまた、この事件で若くして無念の死を遂げたのである。この訃報に接した彼女の母は嘆き悲しみ、垣由の懸命の看病も虚しく、ようやく乳離れしたほどの彼女を残して亡くなった。
 自身の親族も犠牲となった一件だが、垣由には涙に暮れる暇などなく、この幼い呉家の遺児を守り育てていくことで歳月が過ぎて行った。
『親族の仇を討ち江沿の地を回復するために、永家軍が駐留する河交かこうの地へ向かえ』と天界の南方天王ナンポウテンオウ衛戍エイジュに啓示を受け、その言葉に従って彼女は垣由に伴われ、太陽の鳥・火烏かうに導かれて河交の城砦に現れた。六、七歳ほどで兵乱の前線に身を置くことになるとは不幸な少女だ、と永震は思った。
 彼女には、こんなところに居てほしくない――何度も願ったが、運命はそれを許さなかった。父から受け継いだものか、彼女は幼いながらも驚異の命中率を誇り敵の将兵を射倒す〈いしゆみ〉の名手として戦い続けることとなるのであった。
 永家軍を率いてきた総大将・永初は、胤王朝を滅ぼし新たに永王朝を立て即位すると、江沿とその周辺の南方地域の領主として、彼女に呉家の再興を許した。但し、自身の実弟である永震を婿とし、間に生まれた男児に跡を継がせるという条件であった。同年で互いによく知る間柄ではあったが、永震は彼女がこの兄の提案を二つ返事で受け入れたことに驚いた。易姓革命の兵乱が終結したとき、共にまだ九歳。
「莉於、本当にいいの?これから、ぼくなんかよりもっと立派な男性ひとに出会えるかもしれないのに…」
「それは、あなたも同じことでしょう?わたしなんかより、もっと素敵な女性ひとが現れるかもしれないのに」
 彼女が明るい笑顔で返すもので、言葉に詰まった。
 江沿の臣民の思いを受け、それを叶えるのと引き換えに自身の生きたいように生きる道を捨てた彼女であった。そんな彼女だから、幸せになって欲しかった。だが…
(私は、彼女の為に何かしてあげられただろうか…。結局は苦労ばかりかけて、何も…)
 自分自身も生後すぐ親許を離れ、幼くして父を失っている。彼女が、陣中に在った伝家の当主・伝獅テンシに「父上」と駆け寄る、伝威や伝徳ら彼の子息たちをうらやましげに見つめていたのも知っていた。
(もし彼女が私ではなく彼らに嫁いでいたならば、心の広く勇猛な義父や義兄弟たちを得ていたはず…)
 沈黙が続く。
「…泣いてるの?あなた」
 彼女の言葉に、はっとする。
「泣いてなんか…」
 誤魔化しても無駄だった。こぼれ落ちた涙が、彼女の指を伝っていた。
「男の人は、そんな簡単に泣いちゃ駄目よ。まして、あなたは父親であり、長ければ一千年もの時を見守ることになる中庸界の方士じゃない…」
 彼女の震える指が、彼の頬を流れる涙を拭う。
「お別れは言わないわ…。また、いつか、どこかで会える…わよね?永震…」
「ああ…きっと…」
 彼女の手を、強く握る。涙が止まることは無い。
  * *
 永王朝が興ってより、十六年後の秋。江沿では下々の者たちまでが白衣をまとい、喪に服した。江沿の城の若き女主たる呉家の婦人・莉於は、まだ二十五歳だった。その早すぎる死に、皆が哀悼の意を表したのであった。
  * * *
 悲しみに暮れながら、永震は中庸界に戻る。そして、無理を承知で天界の西方天王セイホウテンオウ文綜ブンソウに伺いを立てた。
「…向こう十年間、この雷響洞を留守にしたい、と?」
「はい。十年あれば我が長子は十八、甥も二十五歳となり…全て彼らに任せられると思いまして」
「それほどまでに、下天のことが気がかりですか?」
「もちろんです」
「けれども、この雷響洞を方士がそうも長い年月を『不在』にしたことなど、これまでありませんが」
「承知しております。しかしながら、私には今現在の状況で彼らを…下天を、ただここから見ていることは耐えきれないのです」
 天界からこの中庸界の雷響洞へと赴いてきた西方天王は、しばし口をつぐんだまま考えていたが、
「…分かりました。十年どころか、向こう百年二百年ほどは下天に大きな動きも無いでしょうから、お前の心情を汲んで特例として認めましょう。わたくしのほうから陛下に申し上げておきます」
「ありがとうございます。どうか、雷夏王ライカオウにも宜しくお伝えくださいますよう」
 彼は、天界の半神の前に膝をつき、深々と頭を下げた。
  *
 これ以降、彼は永震の名を捨て『不空』を名乗るようになる。空とは、すなわち実体を持たず虚ろな、『我』無きもの。それを『不』で打ち消し、流れゆく世界に在って敢えて自身というものを確立させんとする彼の思いでもあったのかもしれない。
 不空は西方天王との約束通り、十年を下天で自身の子女や甥らと共に過ごした後に中庸界へと戻った。
 
 それより、二百年ほど時は流れる。下天は、突如不老不死を求め賢帝から暴君へと豹変した皇帝により乱れていた。
「とうとう、儂にも最後の時が訪れたようだ…。儂亡きあとの、この雷響洞を…天界の雷夏王および西方天王の意向を受け置かれた、この場所を、その御志を…下天を…頼む…」
 太祖・興穏帝の遺した予言通りに生まれてきた嬰児を隠し、密かにその成長を見守り、風雷杖ふうらいじょうを手渡して『虎賁コホン』の名と撥乱反正はつらんはんせい〈※乱れた世をおさめて、平和な世に戻すこと〉の使命を与えた老爺は、満足げな笑みを浮かべながら息を引き取った。自身にわずかばかり残された時間を必死の思いで、ただ己の宿願を果たすべく生きた、もはやその過去を知る者は誰も無くなった――中庸界の者たちでさえその本名を知らぬ老人の『死』を、不空は看取ったのであった。
 
* * * * *
 
「不空様。これにけておきましょうか」
 呉燎が、小さなかめに水を入れて持ってきた。
「そうしよう。…ありがとう、呉燎」
 花束を手にした少年が、照れくさげに笑う。そんな彼を見て、不空からも翳りのない明るい笑みがこぼれる。
『また、いつか、どこかで会える…わよね?永震…』
 茉莉花の香りは、彼女を思い起こさせる。この先何年経とうとも、夏が来るたびに、きっと――

群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚 <外伝>  茉莉花の咲くころ
「茉莉花の咲くころ」の中心となる永震(不空)と妻・莉於、イメージ画

こちらは、中庸界の方士・不空の下天時代の話となります。
ゆえに、主に下天の章 第一部・易姓革命譚の人物が登場することに。
主要人物の概説が、以下。

◆永初〈エイショ〉:太祖・興穏帝
 永震より八歳年上の兄。西将・永智〈エイチ〉の嫡男。志半ばで死去した父の跡を継いで胤王朝を倒し、新たに永王朝を立てた。永智の子女は娘ばかりで、息子は二人だけ。
 予知の力を持っていた父同様、いやそれ以上の「見通し」の力を持ち、自身が予知した将来下天に起こる様々な事件を書物に残した。この『太祖の予言書』、後に令宣帝〈レイセンテイ〉が見たり偃月〈エンゲツ〉の手に渡ったりで第二部・撥乱反正譚へ繋がるわけだが…

◆故瑚=趙故瑚〈チョウ ココ〉:趙皇后・趙皇太后
 永震より十歳年上。兄である永初こと興穏帝の正妃で、彼から見れば義姉(嫂:あによめ)。夫より二つ年嵩の「あねさん女房」。
 手裏剣その他の手投げ武器を使う美貌の女将軍として、易姓革命を戦い抜いた女傑。

◆老爺〈ラウエ〉
 生後間もない永震を引き取り、中庸界の雷響洞で育てた方士。彼からすれば、育ての親であり師匠でもある。中庸界でも相当な古株なため、この爺様の下天時代を誰も知らない。老爺とは母方の祖父の呼称だが、皆そう呼んでいて本名を知らないというお爺さん。

◆伝威〈テンイ〉
 東将・伝獅〈テンシ〉の次男。ただし胤王朝末期、東将家は大尉〈たいい:軍事を司る官職〉直属の将軍として帝都に駐留していた。永王朝が興ってから、伝家は元々の在地である河下〈かか〉へ戻ったのである。永震より八歳年上、つまり兄・永初と同年。
 竜王の妹を本気にさせた男(実話)。天界の竜女は下天に降り人間の絵師として河下の伝家に仕え、二人は夫婦となるわけだが…第二部・撥乱反正譚最強の将軍・黄洸〈コウコウ〉こと輔竜王・天昴〈ホリュウオウ・テンボウ〉の父親とは彼のこと(それは即ち、第三部・群雄割拠譚に登場する半竜の娘・委順イジュンの祖父にあたる人物とも)。

◆伝徳〈テントク〉
 東将・伝獅〈テンシ〉の三男。武将の家に生まれたものの、彼にその方面の才能は無く、武功を輝かす兄弟(※彼には四歳下の末弟が居る)に挟まれ嘆くばかりだった。しかし奏楽に打ち込み、それにより味方を癒し敵を害す力を得る。永震よりも五歳年上。第一部の天才楽師。
 争乱終結後、老いも若きも次々と逝去していく中、還暦ばかりか古希まで通りこし天寿を全うした唯一の人物。

◆琉瑠=泉琉瑠〈セン ルル〉:氷晶公主〈ヒョウショウ コウシュ〉
 胤王朝最後の皇帝の寵妃・鮮皇后〈セン コウゴウ〉こと罌粟〈ケシ〉と相対する『興起の吉星』を受け、鮮皇后より四年遅れて下天に生まれた娘。永震より八歳年上、つまり永初、伝威とタメである。本性は訳あって天界から下天に降された天父・遍照〈ヘンジョウ〉の養女で、冬を司る漆黒の竜女・氷晶公主。
 鳥王・金翅〈コンジ〉は、彼女を捜して下天にやって来て、当地の争乱に飛び込んでいき、軍師・飛鷹ヒヨウとして胤王朝が倒れるまでを戦い抜いた。
 下天・三の本編本文でも述べているように、有翼種と竜族とは昔から仲が悪く、しかし竜族も有翼種の頂点たる鳥王の持つ剣は怖いという構図がある。天父の養女ではあるが竜族の氷晶公主を誰より気にかけて下天まで行ってしまっただけでなく兵乱にまみれた後でようやく彼女を連れて天界へと戻った当代の鳥王・金翅……今頃どうなっているのだろう、的な(率直な感想:爆)。いや終章(過程を飛ばして、そこはメモがある:自爆)での彼の発言を思うに、姉・水月同様まだ独身らしいんで余計に謎。。

わたしと、あなた

 中庸界の、鬼籍宮きせききゅう。ここに住まう方士・泰衡タイコウは、下天に出掛けることは勿論のこと、鬼籍宮からも滅多なことでは外出しない。そんな彼を、ほぼ同じ頃に下天に生まれ、時を同じくして中庸界の方士となりこの世界に籍を置いた鄒頌スウショウは、
「こもり癖ってのか?どうしようもないヤツだなあ」
と、自分を棚に上げて評したものだった。
 しかし、その彼が鬼籍宮から出てきた。階段を下り、門をくぐる。
 尻尾を振りながら彼を追いかけてきたのは、白銀の毛皮をまとった犬狼だ。
「お出掛けがそんなに嬉しいのかい、冢狛チョウハク
 ハッハッと息を弾ませながら、陽気に主の後に続く。
  * *
「おぉ、来てくれたね。泰衡」
 同じく、中庸界の養寿庵ようじゅあん。彼の姿を見て、老女がにこやかに声をかける。
「ご無沙汰しております。鼎俎奶々テイソ ナイナイ
 軽く会釈しながら、挨拶を済ませる。
「すまないねえ。あたしみたいな年寄りよりも、少しでも歳の近い者のほうが、あの子も打ち解けてくれるかと思ったものだから」
「…はあ、どうでしょうか。そういうことなら鄒頌のほうが適任な気もしますけど」
「駄目、駄目。あいつにも話はしてみたが、軽く流されてしまったよ。…まあ、仕方ないかとも思うんだがね」
「…何が、です?」
「ほんと、よう似ておる子なんじゃよ。あいつの母と…姉とにね。ちと複雑な心境にはなろう」
 鄒頌の母は、中庸界の水晶宮に住まう水晶精・吉地キッチ。しかし、百年ほど前に下天の宰相・鄒玲スウレイに嫁ぎ、出産によって力を使い果たして本性に戻り、中庸界へ帰って来たのである。今は物言わぬ一個の水晶球に過ぎない。
「彼の…母と、姉…」
「お前は知らないだろう?水晶宮の佳人を。ほんに美しい女の姿をした精であったよ。いや、あたしだって若いころはそれなりに…」
 老女は一つ咳払いをし、
「まあ、あたしの武勇伝は置いとくとして…付いといで」
  *
 庵の中を覗くと、土間の隅に座り込む一人の少女が居た。
景瑛ケイエイ、こっちにおいで。優しいお兄さんを紹介してあげるよ」
 顔を上げてこちらへ振り向く少女は、つい先程まで泣いていたのか、目が真っ赤である。しかし、そんな泣きはらした顔で、年端もいかぬ幼い少女ではあったが、美しく整った容貌を持ち合わせていることは一目で分かった。驚いたように立ちつくす泰衡をちらりと見、鼎俎奶々が囁く。
「いい娘じゃろう?成人する頃にはどれほどの佳人になるかと…」
 だが、少女は戸口に立つ老婆や青年ではなく、彼が連れていた犬狼に目を止めた。
「あ、犬さん…!」
 ぎくりとして、泰衡が冢狛に視線を落とす。冢狛は一つの顔に眼光鋭い四つの目を持っている。何も知らない子供が見たら驚くことは間違いない。せっかく泣き止んだところを、また泣かせてしまうのではないか…。
「…おや」
 冢狛は器用に二つの眼をつぶり、額の毛を前足で撫でつけて隠していた。こうなれば、普通の犬か狼と外見は何ら変わりない。
 少女は駆け寄ってきて冢狛に手を伸ばした。
「よろしく…ね」
 冢狛はスッと体を地面に伏せる。そして彼女の手が触れると、ごろんと転がって腹を見せた。少女は笑い、かれの腹を小さな手で嬉しそうにさすったのだった。
  *
「いくよ、冢狛。取っておいで…ほら!」
 景瑛が投げた小枝を、冢狛が素早く追いかけて取りに行き、駆けて戻る。
 楽しく遊んでいる様子の少女と犬狼とを距離をおいて眺めながら、泰衡が鼎俎奶々に尋ねる。
「あの子は…」
「なんかね、棄てられたらしいんだよ。何かのきっかけで我を忘れることがあったみたいでね。あの人並み外れた容貌がかえって災いしたのか、誰も近寄らなくなってしまったってとこさ。だから、あたしがここに連れて来た」
「何かのきっかけで…我を忘れる?」
 老女は彼の問いに一旦はうなずくが、首を横に振る。
「あたしには良く分からないが…鄒頌が言うには、どうも過去世で戦争を経験したらしくて、その記憶が残っているんだとか…」
 再び二人は少女と犬狼とに目をやるが、不意に泰衡がひとりごとのように言う。
「それにしても…本当によく似ていますね」
「は?お前は知らぬはずだろう?吉地も、鄒頌の姉も…」
「いいえ、一度だけお会いしたことがあるのです。風尚フウショウ様…永王朝中興の女帝・戒謙帝カイケンテイに尽くした宰相・鄒玲スウレイ様の、ご息女に」

* * * * *

 それは、七、八十年ほど前のこと。
 帝都・河南かなんの王宮の一室には、死の床にある壮年の男性と、若い娘が一人。
「風尚…羽織る衣を出してくれ」
 言われるままに娘が上着を差し出すと、男は寝台から上半身を起こす。ただそれだけの動作なのに、ひどい息のあがりようである。娘が慌てて手を貸しながら、
「父上、御無理をなされては…」
「いや、構わない。横になったままでは無礼であろうから。あとは…この髪を少し整えてはくれないか」
 父に乞われたことなので、腑に落ちない様子ながらも彼女は父の髪をくしけずり、結い直す。
「すまないな、風尚。お前ももう二十歳となろうに…娘盛りを過ぎてしまうな」
「いいえ、わたしは構いません」
「お前が構わずとも、こちらの世界では男と女が夫婦となり家庭を作ってゆくのが習いだ。いつまでも病気の父の面倒見ばかりしていては…」
「いいえ、わたしが望んだことですから」
 風尚は髪を整え終えて手を止め、
「いかがなさったのですか?父上。今上の帝であらせられる叔母様であっても『そんな気遣いは無用です』とおっしゃるでしょうに」
「妹とは別の『賓客』がお越しになられるんだ…」
 風尚が戸惑っていると、不意に部屋の戸口に蛍色の淡い光が舞い降りた。彼女が驚き、目を瞬いたあとでもう一度そこを見遣ると、一人の青年が立っている。
「ようこそお越しくださいました」
 下天の宰相・鄒玲が、現れた青年に頭を下げる。
「寝台の上よりで、申し訳ない」
「いいえ、申し訳ないのは私のほうです」
 青年は寝台へと歩み寄り、深々とお辞儀をする。
「私は鬼籍宮の方士・泰衡。あなたが中庸界に籍を置くことを放棄し下天に戻ったがゆえに空いていた椅子に座り、志半ばでの死を待つばかりだった命を繋いだ者です」
「そうか、あなたが…」
 安堵したようにため息をつく鄒玲に、彼は続けて、
夜摩王ヤマオウから、お伺いしました。『私がここの方士とならずとも、ほどなく私よりもずっと優れた者が現れることでしょう。その時まで、どうかこの職を空けておいてください』とおっしゃっていたと…」
「ああ…現実のものとなってくれたのをこうして知ることが出来て安心したよ、ありがとう。これで、この世に思い残すことが一つ減った」
 一旦言葉を切り、
「鬼籍宮の方士殿。私は…もうじき死を迎えるのでしょう」
「はい、その通りです」
 風尚が息を呑む。
「怖くはない。しかし、残される者を思うと…」
「皆、そのような思いを持ちながら旅立ってゆきます。死出の旅は我が身一つ…これは皆同じ、平等なことなのです」
「あなたは強い御方だ…。私には無理だったろう、生と死の狭間に立つ番人とすら評される鬼籍宮の方士は」
 長居すればするだけ病床の彼に負担をかけると感じ、泰衡は別れを告げる。
「お礼とお詫びとを、あなたに一目お会いして、お伝えしたかったのです…。私の願いを聞き届けてくださり、ありがとうございました。どうか、心安らかにお休みください」
 それが『永遠の眠り』を意味することを感じ取りながら、鄒玲は一つうなずき、
「そうさせていただくとします…。私こそ、あなたにお会いできて良かった。どうか、お元気で」
 言い終えて深く頭を下げたあと再び寝台に横になり、静かに目を閉じた。
  *
 別れの挨拶を済ませ部屋を出た泰衡を風尚が追い、声をかけた。
「方士様」
「何でしょうか」
「あなたにはお分かりになるでしょうか。なぜ、わたしがこの歳になってもお嫁に行かず、親許に留まっているのか」
「…ええ、何となくは…」
 泰衡は彼女へと向き直り、
「あなたもまた、父君と同じく優しい御方だ。家族を持ったなら、悲しませる者をいたずらに増やしてしまう…そう恐れておいでですね」
「その通りです。母上から受け継いだものなのでしょうか、わたしは自分が長く生きられないことを知ってしまいました。良い縁談おはなしが舞い込んでも、かたくなに拒んできました。けれど…」
「…いかがなさいましたか」
「恋をすること、殿方の許へ嫁ぐこと、母となり家庭を持つこと…あこがれが無かったと言えば嘘になります。本当は、わたしも父上と母上のように…叔母様と大公のように、心惹かれ人生を共にしたいと願う伴侶に出会いたかった。けれど、果たせぬまま終わりそうです」
「ご息女様…」
 しばし、沈黙が続く。
「ねえ、方士様。人は、もう一度やり直せるものですか」
 風尚の問いに、泰衡がうなずいて答える。
「ええ、きっと…」
 二人、廊に立ったまま言葉もなく見つめ合う。ただ、時だけが過ぎていった。
「お願いを一つ、聞いていただけませんか」
「今の私に出来ることならば何なりと」
 不意に、彼女が体を預ける。彼は驚いて彼女を受け止める。
「ほんの少しで構いませんから…わたしを恋人と思って抱き締めてください」
 二十歳の成年を迎える直前に下天では『死んだ』、官吏を目指した庶民の彼に妻女は無かった。登用試験の勉強に明け暮れ、年頃の娘に興味を持つ余裕も無かった。しかし、彼女の切なさといじらしさに胸打たれ、精一杯の誠意を込めてその背にそっと腕を回して抱き寄せた。
「ありがとうございます…良い思い出が出来ました」
 彼が腕をほどくと同時に一歩退いて距離を置き、一礼して彼女は何事も無かったように部屋へと戻ってゆく。その後姿を、黙ったまま見送った。
  * *
 ほどなく、異母妹である永王朝中興の女帝・戒謙帝を支え続けた宰相・鄒玲が薨去こうきょ〈※貴人が死ぬこと〉した。泰衡は、父の後を慌てて追いかけるかのように風尚が亡くなったのを鬼籍宮で知った。夜摩王に預けられた『過去帳』、すなわち死者の名や没した年月を記した帳簿である鬼籍の中に彼女の名を見付けてのことだった。
(風尚様…)
 彼女のどこか悲しげな笑顔と、あの時華奢なその体を抱き締めた温もりとが、つい先程のことのようによみがえる。涙の一滴も落とさぬ自分を恨めしく思った。
 それから何十年もの歳月が過ぎ去ったが、泰衡には今なお忘れ得ぬ出来事であり、風尚は忘れられない女性ひとなのであった。

* * * * *

「泰衡よ。そう長く留守にするのも考えものじゃろう。そろそろ…」
 鼎俎奶々に言われ、我に返る。
「ええ、そうですね」
 尚も楽しげに遊んでいる少女と犬狼に声をかけようと、腰掛けていた庭石から立ち上がるが、
「奶々」
「何だね」
「あの娘…ただ同情だけでここへ連れて来られたのですか?」
「どうしてだい?それじゃ不都合でもあるかい」
「いえ…。ですが、あの冢狛があそこまで彼女に従順なのは私の命令によるものではなく…かれ自身の本能によるものだと思ったからです。彼女が自身よりも遥かに強大な力を持つ者であるということをどこかで嗅ぎ取り、己よりも力あるものに服従するという、犬狼の掟にのっとって…」
 彼の言葉に老女は眉をひそめ、
「お前、甲喜コウキと同じことを言う気かい?『何かあの娘の秘めたる能力を見込み、己の後釜にするつもりで連れて来たんだろう』と」
「いいえ、決してそのような。もとより、私には未来を見る力はありませんから…死の訪れる時期は例外としても」
 彼の返答が腑に落ちない様子ではあったが、鼎俎奶々は話を変える。
「まあ、いい。あの子は、あんたが…と言うより冢狛が気に入ったみたいだから、これからもたまに顔を出してくれると有難いね」
「…承りました」
 老婆がうなずき、少女を呼ぶ。
「景瑛、おいで。そろそろ帰るそうだから、お別れの挨拶をおし」
「…はい」
 少女は犬狼の頭をなで、
「またね」
 そして泰衡を見上げながら、
「またいらして下さい…ありがとうございました」
 後ろ髪を引かれるような思いで彼は養寿庵を後にし、鬼籍宮に戻った。
  
 月日は流れ、下天での動きが慌しくなってくる。永王朝が第二十三代皇帝の退位そして死と共に終わり、次なる王朝を立てる者が決まるまでの争乱の時代が幕を開けていた。
「いらっしゃいませ、泰衡様」
 いまだに泣き虫ではあるらしいが、些細なことでも涙を零していたあの頃とは比べようもない程に大人びた少女が出迎えてくれる。この養寿庵の主・鼎俎奶々の言葉を、泰衡は思い返す。
「あの子も、もうじき笄年けいねん〈※女子の成人、十五歳〉になる…。あんたたちのような若い男衆の為にも、この世界に華を残すためにも、そろそろ正式にここの後継者として中庸界の籍に入れようかね」
 ある程度の方術を習得し方士となることは、相応の資質を持つ者になら可能である。しかし数百年、長くは一千年ほどの時をほぼ老いることなく生き続ける『方士』となるには、天界の御意を受け中庸界に置かれた地の主が記される『籍』に登記されねばならない。
(やはり奶々は、この子を自身の後継者と…)
 年を追い成長するごとに、彼女はより一層、彼の心に残る佳人に似てきた。いや、もはやそのものと言っていいほどに、その容貌は酷似していた。
 彼女は、あの御方とは違う。別人だ、あかの他人だ――分かっているはずなのに、胸中のざわめきを止めることが出来ない。
 真実を話したならば、「自分は身代わりなのか、思い出を繰り返そうとしているのか」と、彼女は嫌悪感を抱くに決まっている。しかし、彼女に惹かれ愛おしく思う気持ちは強くなるばかりだった。
「…どうか、なさいましたか?」
 不思議そうに尋ねる少女に、慌てて返す。
「いや、何でもないよ。…奶々は?」
「ええ、居られますよ。こちらへどうぞ」
 景瑛の後を歩きながら、泰衡はふと鄒頌を思った。
(彼は、どういう心境で彼女を見ているだろう…)
「景瑛」
「はい?」
「鄒頌が最近ここに来たのは、いつのことだろうね」
 声をかけられて振り返った少女は首をかしげながら、
「さあ…いつと言われても。ちょくちょくいらっしゃいます。でも…意地悪なんです、鄒頌様は」
「意地悪?」
「ええ!すぐ、わたしのことを役立たずだの出来損ないだの、お荷物だのとおっしゃるんですわ。『下天になんか、のこのこ出掛けて行くな。大したことも出来ないくせに』って…」
「…そうなんだ」
 物事を見通す目ならば、彼のほうが優れている。自分や鼎俎奶々でさえ感じている、彼女が『大いなる力』を秘めている事実を彼が見抜けぬはずは無い。
(彼は…おそらく何かを恐れて、彼女を下天の争乱から遠ざけようとしている)
 そう考えるのが自然だ。
『何かのきっかけで我を忘れることがあったみたいでね』
(きっと、彼なりに彼女を守ろうとしているのだろう…)
 彼も、彼女を愛しく思っているのだろうに――泰衡は、つい苦笑した。
「泰衡様、さっきからおかしいです」
 景瑛が素直な思いを口に出したとき。
「なんだ、来てたのか。泰衡」
 老女が庵の戸を開けて顔を出した。
(次に会ったときには言ってやろう。「お前も私も、不器用だし素直じゃないな」と)
 どこかでくしゃみをしているかもしれない鄒頌の姿を想像しながら、泰衡は養寿庵の主に頭を下げた。

群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚 <外伝>  わたしと、あなた

こちらは、第二部・撥乱反正譚と第三部・群雄割拠譚を繋ぐ、鬼籍宮の方士・泰衡と鄒家の面々との関わりを書いた外伝です。
中庸界、方士・方姑―詳しく言うと柳擶・鄒頌・泰衡・景瑛の関係が、実は色々と面倒なことになっているのだなと(大困)。才色兼備な実の姉にそっくりな景瑛に対し、遠慮なく「バーカ」と言える鄒頌の図太さな…(微笑)
 
後の構想話になりますが、篇ノ六くらいで景瑛は密かに食糧や医薬の援助をしていた城砦を呉燎(「下天に戻れば、お前は今回の兵乱の中で死ぬことになる」と不空に留められるも、中庸界の雷響洞を去ってしまう)に殲滅されて怒り嘆き。天界・中庸界として下天に在りながら方術を使い続ける呉燎に対し「これ以上は許すな」と裁断が下り、景瑛が自ら志願し彼と戦うこととなり。呉燎優位かと思いきや、景瑛の能力が暴走し本人では収められなくなり、危険を感じた泰衡が
「彼に引導を渡すのは君じゃない」
と自ら負傷しながらも身を挺して止め、そこで生じた隙をついて鄒頌が天界の創草王ソウソウオウの従者である範佐ハンサから預かっていた釧を彼女の腕に通して暴走を封じたという…(本来は創草王の子息・毀棄キキの為に用意された制御装具だが…実はこんなことに使われた)。つまりは方士二人掛かりでどうにか収めたと…。
「わたしのせいで…申し訳ないことを…」
と泣きながら傷の手当をしてくれる景瑛に、泰衡も「彼女は風尚様とは違う」と頭では理解しながらも恋慕の思いは強くなる一方、という・・・二人きりになったら危険な状態(何をもって危険というか分からないけど;←おい)。
一方、生け捕られた呉燎は伝家に引き渡され、そこで最期を迎えることに。

第二部・撥乱反正譚で反皇帝軍の軍師をつとめた鄒玲は、虎賁コホン=異母妹・永芳薫エイ ホウクンより五歳年上。実は第三部本編にも登場する偃月エンゲツ薊軻ケイカと同い歳だったりする。年齢設定に筆者自身も驚いた(自爆)。

・・・という感じで、掘れば掘るほど色々出てくる深淵世界、それが群雄っワールドであり大風呂敷であります(何気に墓穴)。
先日物置の整理をしたら二昔くらい前のワードファイルが入ったFD〈フロッピーディスク〉が出てきて(時代…orz)…しかし現状FDを読み込むハードウェアが無い(切実)。見ようと思うならばFDドライブを入手せねばならず…フリマアプリなら500円ほどからあるようだけれども…どうしようかと。見たいような、見なくてもいいような…(困)。

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