見出し画像

拙作語り㊲『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』<Ⅲ>

一次創作、古代中国風伝奇ファンタジー小説『群雄列伝』。
内容その他の詳しいところは過去記事(拙作語り㉟)を見て下さいという話ですが、そのうちの『下天の章・三 群雄割拠譚』は、中央政権が衰退し地方の有力氏族が帝都と天下を窺うようになった群雄割拠の人間界が舞台。
今回は篇ノ三の前半部を再掲します。

毎度の断り書き。
R指定まではいかないのですが、PG-12くらいはあっていいのかなと筆者的には思っています。
更には、やはり15年とか前の筆なので、当世のあれこれに抵触するような表現もあるかと思いますけれども、基本「原文ママ」を通したことを念のためお断りしておきます
古代中国風の興亡史=戦記ということもあり、多少残虐・悲惨なシーンが入るかと思われます。今回・次回と掲載の篇ノ三は、そういう場面が多めかなと筆者的にも感じます。
どうしても残酷なのはダメ、という方は読み進めないほうが良いです。 
以上、よろしくお願いいたします。

『群雄割拠譚』本編

篇ノ三

北方の遊牧民族と、西方の有力氏族・リョウ家とその領土の民らにより綴られた、支配と兵乱の記録。
(ノヤン・しん河北かほく河西かせい掩哀帝エンアイテイ六年~玉輅亡欠ぎょくろぼうけつ二年)

<前半部>

西方にのぼる烽火〈ほうか〉

 掩哀帝エンアイテイ六年の秋。中央より遥か北の草原に位置する『さまよう都』・ノヤンでは、慌しく出陣の準備が進められていた。南への進出を狙う首長アルハがシャマンのすまいを訪ねる。
「アルハ殿ですかな」
 顔も手足も皺だらけの盲目の老人が、物音に気付いてゲル〈※モンゴル人など遊牧民が住む、饅頭形の組み立て式の家〉の入り口のほうへ顔を向ける。
「そうだ。何故ここへ来たか分かるな?」
「…ええ。しかしながら、我はこうも老いさらばえた身。シャマンを退くことにいたしました。これからは、かれを介して伺いを立ててくだされ」
「かれ、とな?」
 老人が奥に見えぬ目をやると、一人の少女が現れる。
「かれに襲名させます。どうか、宜しくお聞き届けを」
 どこを見ているのか分からない、しかしめくらというわけでもないらしい。不思議な雰囲気を持つ少女だ。もっとも、この老人の言うことに今まで間違いは無かった。その彼が選んだ人物ならば信用しても良いだろう…
「娘よ。こやつが選んだくらいなら、改めて訊かれなくとも分かるな?どこへ向かうべきか、聞かせて貰いたい」
 少女は何も言わずに手に小石を取り、地に敷いた紙の上に転がした。そして、静かに指で石を追う動作を繰り返す。
(口がきけないのか?この娘は…)
 アルハがいぶかるのを感じてか、老人が言う。
「アルハ殿…かれは声を出しません。敷物と石を、よく見て下さい」
 これを聞いて、はっとした。紙のしわが大きな河川に、紙の上に散らばった石が主要都市に重なる。何気ない動作で、彼女は地図を描いていたのだ。食い入るように見つめ始めたアルハに気付いたのか、少女は改めて石を追う。まず、草色の石の上で手を止める。
(…これが、ここノヤンか)
 一度小さくうなずいてから、彼女は手を右へと動かす。紙の右端にある白い石のところで、その華奢な指が止まった。アルハから見れば、左手…新たにシャマンとなった少女の座っている奥側が北、自分から見て手前が南であるから、西の都市―位置的にはしんを落とせということになる。しかも、五色のうちに西に配される白ときた。実際、帝都・河南かなんの位置には黄色味の強い小石(中央―黄)、東の河下かかには蒼い石(東―青)、南の江沿こうえんに赤玉(南―赤)、北の河北かほく河西かせいには黒い石(北―黒)が並んでいる。
 この北胡ほっこと呼ばれる人々の中で五行思想を意識して使う者は、胡城こじょうの南ほど多くない。偶然にしては出来すぎている感じもしたが、そんなことは構わない。『天高く馬肥ゆる秋』が来たのだ、騎馬隊の馬たちも今が一番いい時期なのだから。とにかく、草原でない世界へ攻め込むのに早いに越したことは無い。本当のところ、今回ばかりはシャマンがどこと答えようと構わなかった。
「分かった」
 それだけ言い残し、アルハは さっさとその場を立ち去った。
  * *
「ボルテ」
 青年が、草原に立つ少女に声をかける。
『「ボルテ」は止めてね。もう、わたしは「シャマン」だから』
「『シャマン』かぁ…なんだか、違う感じだな」
 困ったようにつぶやく青年を見て、少女は小さく笑った。
『でも、二人の時は今までのように呼んで』
 青年がうなずく。
 咽喉のどに障害がある訳でもないのに、何故か昔から口をきかない少女だった。しかし、長く付き合っているうちに彼女の声が聞こえてきたのだから、おかしなことだ。今では、心で聴くという経路も使って、彼女と会話出来るようになった。
「ひとつ訊いていい?」
『なに?』
「どうして河北じゃなくて秦って言ったの」
『…耳が早いのね』
「そりゃ、首長の息子だからぁ」
 しかし息子と言っても、顕示欲・物欲が強く専横的でもあるアルハから見ればあまりにも似ていない。聡明で礼儀正しく、我を強く出し過ぎないよう上手く調整している為、人当たりが良い。とはいえ、この青年もいい意味での貪欲さは持っている。
『わたしが考えたことじゃないもの…分からないわ』
「ああ、そうだったっけね」
 それにしても、と青年が続ける。
「親父、明日にも出ていきかねない勢いだ…。俺は正直気が進まないんだけど」
『どうして?』
「南の世界が、そんないいもんにも映らないからさ。昔も今も、たまに不作で飢饉となると『垣根』を越えてこっちにやってくる人間がいるんだし…。でも、このところめっきり減ったような気はする」
 南の世界で胡城と言われている城壁を、彼は『垣根』と呼んでいる。「胡」自体が蔑称でしかないからなのだが。
『そうね。南のほうの権力者たちがいい政治いい政治って頑張っているからなのかも』
 南では、中央政府の権力が弱っているという。それで、地方の有力氏族は自らの領土と権限は自分で守らねばならなくなり、あわよくば我こそが次の王朝を打ちたてんと懸命なのだろう。
『でも…南の世界を見てみたら、こっちに帰ってきたくなくなるかもしれないわ』
「そんなことないさ!」
 心外そうに青年が声を上げるが、
『昔、そういう人が居たということよ…』
 少女は青年から目線をそらし、遠くを見やる。
「昔、か…」
 かつて南で大乱が起こったとき、驚いたことにこのノヤンに単身援軍を要請しにやってきた人間がいた。当時の首長も、何を思ったのか五十騎とはいえ選り抜きの騎馬隊を送り出し、協力させた。陥落した河北から救出され、この北方の草原で育った青年が、騎馬隊を率いて胡城を南へと越えて行った。しかし、その兵士にじって南の世界にあこがれていた首長の姪も国境を越え…戦いが終わり、他の者たちが帰還しても彼女は戻ってこなかった。青年が次期首長に述べたところによれば、由緒正しき氏族の夫人としてつつがなく過ごしているという。もとより、その青年も数年ほどで姿を消したそうだが。なにぶん、百年は昔の物語だ。
『わたしは考えようだと思うわ。…行ってらっしゃい、ヤッサ』
「うん…土産話の一つも出来ればいいけどな」
 背を向けて歩き出す、青年・ヤッサ。
『気をつけて』
 彼女の言葉に、彼は振り向かずに手だけ振って応えた。
 
 当時、秦では実に穏やかな時が流れ、上から下まで平和の歓びを謳歌していた。まさか西方の秦が北胡の標的にされるとは思っていなかったのであろう。軍備はあれど北方の荒くれ騎馬軍団に到底対抗できるはずもない程度だったのだから、南下してきた北胡軍が西に進路をとったと聞いて、秦の領主・梁鋪リョウホも臣民も恐怖に震えた。
「戦うにも勝ち目はない。しかし、降伏しても奴らのことだ。この西方から何かといって様々なものを根こそぎ奪い去っていくに違いない。援軍を要請するにも、皆自分の領土のことばかり…隣近所全て敵だとは」
 深い嘆きと今まで備えを怠った後悔とでうなだれて顔を覆う梁鋪の隣で、一人の少女が涙をこぼした。
「泣くでない、琇娜ユウナ
 梁鋪は、愛らしい顔を涙で濡らす娘の肩に手を置いた。
 西方一の美女と名を馳せる少女…彼らの手に渡ればどんな酷い扱いを受けることか。しかし、まだ将来のある彼女に自分やこの国と運命を共にさせるのも哀れでならない。この娘は守らねばなるまい――
 父の思いを読み取ったのか、琇娜は薄紅色の頬を流れ落ちる涙を拭いもせずに言った。
「お父様。琇娜、覚悟はできております…後悔はいたしません。何もかもが北胡の者たちの思い通りにならないことを示し、この秦の梁家の者として恥ずかしくない最期を遂げてみせます」
 梁鋪は息の詰まる思いで、声を押し殺しつつ涙する愛娘を見つめていた。
  * *
 戦いと呼べるほど仰々しいものも無く、北胡の騎馬隊は秦の軍を壊滅させてしまった。梁家の者たちは邸に火を放ち、その内で皆自刃して、あるいは互いに刺し違えて果てた。
 アルハが数人の供を連れて、その凄惨な梁家の邸の燃え跡を見歩き、検分を終えてつぶやいた。
「…ちきしょうめ」
 彼らは、あくまで北胡に西方一の美女を引き渡すどころか拝ませるつもりも無かったのだとアルハには思えた。こうも黒焦げの遺体となっては、男女や年齢の判別すら容易ではない。
「こちらの機嫌をとらせておけば良かったのだと後悔させてやろう…。まぁ、もっとも、後悔するのは生き残った民百姓ばかりだがな」

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 西方にのぼる烽火

 ※註:烽火ほうか=のろし、戦争・兵乱

委順〈イジュン〉~流れるままに

 日が傾き、夕闇迫る頃。北胡の騎馬軍隊が怒涛のように駆け去っていった草原をさ迷い歩く、一つの影があった。大きなボロ布で頭から足先までを覆い、しきりに地面を舐めるように見つめている。と、影はかがみ込んで何かを拾い上げた。
「…凄いことだ。軍馬に踏みしだかれもせず無傷でいるなんて」
 彼の腕の中では、布でくるまれた幼い子供が眠っている。気配を感じて顔を上げると、そこには背に金色の翼を持ち立派な鎧を身にまとった青年が立っていた。
鳥王チョウオウ様…」
「その子は見事に三度の試練をくぐり抜けたようだね、薊軻ケイカ
「はい」
 鳥王・金翅コンジは、裁断の言葉を待つ薊軻にうなずいて見せ、
「少なくとも、この世界においては『生きよ』ということなのだろう。…あとは君に任せよう」
「本当ですか?」
 しかし鳥王はこれには答えず、
「正直のところ、あの時、君が止めてくれて良かったと思っている。下天がその子を助け続けてくれたことも。面倒なことを頼まれたと思うだろうが…」
「いいえ、これも何かの縁だと感じていますから」
「そう言ってもらえるとありがたいよ」
 翼を広げて一度羽ばたかせ、そう言い残して鳥王は姿を消した。残された薊軻は穏やかに眠る幼な子に目を落とし、『あの時』のことを思い返していた。
  * * *
 ある晩、川の傍にでも居るような水の音で目が覚めた。辺りを見回すと知らない景色がどこまでも広がっている。やけに現実的な夢だなと思いつつ川べりを歩いていたところ、二つの人影が目に入った。
きたる世に、幸を得て生まれ来られるように」
 祈りにも似た言葉が聞こえてきた。誰かの亡骸を水葬にでもするのかと思ってそちらに目をやって、彼は気付いた。一人が長い剣を持っていて、もう一人の抱える小さな籠に突き立てようとしているではないか。赤ん坊一人が入るほどの籠…その中には、まだ息のある嬰児が眠っているのでは――
「待ちなさい!」
 止めに入って、彼はまた驚いた。
偃月エンゲツ…いや、太陰君タイインクン…どうして」
「薊軻…?あなたこそ、どうしてここに」
 しかし、やはり彼の思ったように籠の中では赤子がクウ、クウと可愛らしい寝息を立てていた。我が身に降りかからんとする恐ろしい事態も知らずに…。
 偃月の手から籠を奪い取り、彼は尋ねた。
「何故あなたがたは、こんなに小さな子供を手にかけようとなさるのですか?」
 偃月が、もう一つの影と顔を見合わせる。
「私が話そう」
 先ほど剣を構えていた者が、剣を収めて口を開いた。
  * *
 あるとき、天界の鳥王・金翅の許を突然訪ねてきた者があった。来客を見るなり、彼は訊いた。
「お前が僕に何の用だ」
「これを一思いにその剣で葬ってやってくれ」
 そう言って、生まれてあまり経たない赤ん坊を差し出されたもので、さすがの彼も声を荒らげた。
「当てつけもいいとこだな。僕に、こんな子供を殺せと言うのか!同族同士の血を見る争いを見続けてきた僕が、本来なら剣など持ちたくないのを知っているんだろう!?」
 しかし、客人は苦渋の色を浮かべ、
「いいや…これが哀れだからこそ、苦しまずに逝けるようにしてやりたいだけなんだ。いかな身体が頑丈で寿命の長い我ら竜族でも、その鳥王の剣にかかればひとたまりもない。どうか、早く解き放って楽にしてあげて欲しい」
 切々とかきくどかれ、彼も何か深い事情でもあるのかと思えてきた。
「ならば訊くが、この子供が一体何をしたというのだ?」
「知れば、聞き届けてくれるか」
「事情が事情ならば、考えてもいい」
 こうなることは分かっていたのだろうが、客が語り始めるまでしばらく沈黙が漂った。
「身内の恥話になるが…彼女は、夫や息子と無理に引き離されてこっちの世界へ戻された。その衝撃は相当大きかったらしく、彼らの存在自体忘れてしまっていた。だが…その息子が父親そっくりの偉丈夫に成長して現れた。…母と実の子との間に生まれたのが、これだ」
「そうか…」
 もう何も言えなかった。金翅は嬰児を受け取り、立ち去る客を黙って見送った。今まで、憎いと思いこそすれ同情する心を抱くことなど出来ない間柄だった竜王とその係累の者たちが、何とも悲しく映った。
  *
 しかし、ただ静かに眠っている子を見るにつけ、彼女自身には何ら罪は無いのではないかと思えてきて踏ん切りがつかない。彼は、誰かに意見を求めてみようと思い立って宮城を後にした。
 まず死者を裁くのを職務とする夜摩王ヤマオウの許へ赴いて尋ねてみた。だが、生きた者は裁けないと言われて帰されてしまった。次に、地母たる竜女・誾耶ギンヤに会いに行き伺いを立てるが、彼女もはっきりとした返事をくれない。
「ですが、太母様。あなたとて、この御子を…」
「確かに、今全てを決められて、またわたくしの許へ戻されるのも不憫ではあります。しかしながら、わたくしにも正直のところ、どうするべきかは分かりかねます」
 途方に暮れて歩いていると、呼びかけてくる者があった。
「鳥王様」
「君は…」
 月が我が身を削って下天のある夫婦に与えた娘は、のちに中庸界ちゅうようかいを経て天界へと昇った。「戻ってきた」と言うほうが正しいのかもしれない。彼女は、くだんの竜王の甥の連れ合いとも聞いていた。
「あなたさまのところへ行ったのですね」
「知っているのですか…このことを」
「係わり合いの無いことではありませんので、存じております」
 下天で高名な占者として名を馳せていたという彼女にも、彼は訊いてみることにした。
「あなたは、どう思いますか」
「それが、この子はこれからどんな道を歩むのか…私にも全く見えません。ただ…」
「『ただ』?」
「三界をつなぐ天河まで行ってみれば、何か得られるかもしれません。かつて天界を追われた方々の中には、下天で過ごすよう定められ、『償い』を終えて戻られた御方もおられると。天界で生きることを否定されても、中庸界か下天ならば、もしかしたら…」
  * *
「そして彼女とやってきた先がここで、折しも君が現れた。これも何かの巡り合わせだろう。君ならばどうするか、聞かせてもらいたい」
 天界にて生まれながらのとがを負ったこの子供を彼らの納得のいく形で助ける手立てが無いものか、薊軻は考えた。
「では、その世界に受け入れられるのか…世界がこの子を生かそうとするのか試してください」
 危険な目に遭わせてみて、助かったならば命を奪わずにおこうということだ。賭けではあった。だが、この幼い娘は何かを内に秘めている。竜族の血をひくだけが理由でもないように思われた。
「なるほど」
  * * *
 強風吹きすさぶ切り立った岩山に置き去りにされた時には、風のほうが止んでしまった。薄氷の張る湖の上に置かれたときには、沢山の水鳥が飛んできて、彼女を安全な岸へと運び去った。そして、地面など見ずに猛々しく駆け抜けていく騎馬隊の通り道に、目立つことのない粗末な草色の布にくるまれて取り残された今回も、彼女は傷一つ負わなかった。
「少なくとも、こちらの世界では生きよということなのだね…」
 ここにきて、薊軻はあることに気付いた。呼ぼうにも名前が分からない。
「薊軻」
 顔を上げると、既に日は落ちて月が昇っていた。そして、自分の傍に立つ見知った者の姿を認めた。
「太陰君…」
「下天は、これからより大きく動き出すでしょう。あなたはそれと無関係でいられないとは思っていましたが、まさかこんな形で私たちとも関わり続けることになるとまでは…」
 この百年余り、彼は下天に普通の人間の摂理を狂わされたまま生きてきた。中庸界に入ったでも天界に昇ったでもないのに、姿かたちは二十歳前後のままなのだ。まるで彼の上でだけ時が止まったかのようだが…
 苦しげに少し眉をひそめ、太陰君は言う。
「恨んでもいいのだよ?私や…彼を」
「恨んではいません…そんなこと無意味です」
 変わらず穏やかな調子で答える薊軻。
「薊軻、これを」
「…これは?」
 太陰君が差し出したものを不思議そうに眺める。
「この水瓶すいびょうがあれば、火難を避けることが出来ます。それから、この薬壷には創傷に効く薬…まあ、あなたには必要ないかと思いますが…」
 それぞれについて説明する太陰君に、薊軻が尋ねる。
「…どうしたことです?」
 すると、「そんなことを何故訊くのか」といった困ったような笑みを浮かべて彼女は語った。
「何かの役に立つかと思ったものだから…。かつての戦友として、そして、あなたをこんな運命に駆り立てた私たちからの、せめてものはなむけだと思ってください」
「そうですか…」
 ありがたく頂戴致しますと言ったあとで、彼が再び尋ねた。
「この子には、名は無いのでしょうか」
「名、ですか…」
 もっとも、最初から生きることを否定されていた彼女に名前も何もあったものではない。酷いことを訊いてしまったかと謝りかけたとき、太陰君が先に口を開いた。
「では…『委順イジュン』と」
 自然に任せること、成り行きに任せること…偶然にも見える数々の幸運―それはもはや必然の域ではあったが―に救われてきた彼女にはふさわしい名かもしれない。去り際、彼はつぶやくように告げた。
「彼は元気にしていますか…きっと、そうですね」
 小さくうなずく彼女の姿は、月の光の中に静かに消えた。
 薊軻は再び空を見上げ、つぶやいた。
輔竜王ホリュウオウ天昴テンボウ黄洸コウコウ…君にも会っておきたかった気はするがな」
 今となっては昔のことだが、かつて不老不死を追い求めて暴君へと豹変した皇帝が居た。彼は全く知らなかったのだ。不老不死とまでは言わないが、不老長生の妙薬が叛乱軍の中に在ったということを。自分も、その底知れぬ威力を知ったのは数十年が経った頃からだったのだが…。
 恨んでなどいない――心の中で、彼は何度も繰り返していた。
 
 早々にノヤンに帰還したヤッサに、ボルテが歩み寄る。
『おかえりなさい、ヤッサ』
「イヤな戦いだったよ。でも、戦よりもその後がもっと嫌だった。見るに耐えないから、さっさと帰還隊を率いる役を仰せつかって戻ってきたわけ」
 戦争に勝った者の権利として掠奪に走っているであろうことは想像に難くない。正義感の強い彼には、目にすることすらはばかられるのだろう。ボルテは軽くうなずいて、
『そう…。でも、残念だったわね』
「何が?」
 おかしなことを聞いたとでも言いたげに、ヤッサが尋ねる。
『西方一の美女のこと』
 しかし、彼は至って無関心げに、
「別にぃ」
『本当?』
「どんな美人だって、三日も見てれば飽きるんだろ」
 ボルテが笑い出す。
「何かおかしいか」
『ううん…でも』
 彼女は真顔に戻って、
『じゃあ、ヤッサは月をどう思う?』
「月…」
 まだ日も暮れない空を見上げる。
「いつ見ても、どきっとする…かな。たまに、赤く見えたりする時とか。でも、何ていうか、凛としてて綺麗だなと思うことが多い…」
『三日で飽きた?』
「いいや…ええっ?」
 ボルテが、また笑顔になった。
『月もきっと笑ってるわね。…本当に美しいものって、きっとそんなもんよ』
  * * 
 ここぞとばかりにやりたい放題の北胡への不信感と怒りは、秦とその周辺で当然のように高まっていった。だが、まとめる者が居なかった。単発的に繰り返される反乱、暴動…それらは、あっという間に鎮圧され、反乱分子はその度に徹底的に潰されていった。
「もうこれ以上、わたしだけこのような所に隠れて安穏と暮らしていることに耐えられません。わたしは行きます…北胡の都へ」
 毅然と告げる少女の周囲を取り囲む者たちが、彼女を止める。
「いけません、琇娜ユウナ様!」
「あなたさま一人に何が出来るというのですか!」
「確かに、わたしには大した取り柄もありません。けれど、皆が虐げられ、苦しんでいるのです。わたしが行って、ご機嫌を取り結んでおけば少しは…」
 この少女の悲壮な覚悟を聞いて、すぐ傍に居た老夫婦が強い語調で言った。
「いいえ、決してそんなことはさせません」
「我らは梁鋪リョウホ様より姫様を任されたのです。そして、梁家と秦との未来をも!どうしても行かれるというのなら、我らをこの場で斬って、屍を越えていきなさいませ」
 老人に剣を押し付けられるが、心優しい彼女に今までよく世話してくれた老い先短い家臣である班業ハンギョウ寧楽ネイラク夫妻を手討ちに出来るはずもなかった。琇娜はその場に泣き崩れる。
 どうして自分はこんなに非力なのだろう――
 今は、北胡よりも何も出来ない自分に怒りがこみ上げてきてならなかった。
「琇娜様…このような言葉がございます。『車の中をめぐる水が尽きないように、いつしか春は必ず廻り来る』と」
 しかし、『春』は一体いつ来るのだろう?春が来る前に皆死に絶えてしまっては、何の意味もないだろうに。だが、彼女に出来ることといえば、その『春』が秦の民百姓が疲弊しきってほろび去る前に訪れるよう祈ることだけだったのだ。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 委順~流れるままに

背反〈はいはん〉の旗手 来たる

河南かなんの都とも、おさらばか…」
「言うな、墨薈ボクカイ
 帝都・河南を振り返る供に向けて、駿馬にまたがった青年が言う。
「心ない主君とはいえ、我々は大それた陰謀に荷担したのだ。これ以上の禍は避けねばならん」
「でも、あのまま残ってれば、うまくしたら栄耀栄華が転がり込んできたんじゃあ…」
「そうは行くまい。どのみち皆、腹の中は同じだ」
 主人の言葉を受けて、もう一人の供は自身の見解を述べる。
「ええ。皮肉なことですが、今回のことで協力した者たちがお互いを牽制し合うようになると、たやすく予想がつきます…。ついには血を見る争いになるでしょう」
「分かったように言うなぁ、お前は」
「当然だ。『国家の頂点に自分が立つ』ことへのあこがれや野心というのは、それだけ強力にして…さながら人の心に潜む猛獣か魔物なのだろうから」
 青年は従者の意見に同意するように小さくうなずく。
「俺は、鄭欽テイキンの言うところの、そんな目に見えないモノに命をほろうのは御免だからな」
「なるほど…それはオレも同感だ」
 乙巳おつし〈※きのと み〉の年、掩哀帝エンアイテイが退位・自決しておよそ一月の晩秋ばんしゅう〈※陰暦九月〉も終わる頃。家臣への態度にあまりにも差が開きがちなことで一部から大いに反感を買っていた、東方の有力氏族・伝家の当主である伝晟テンセイは刺客の手にかかり、枯井戸に放り込まれた上におびただしい石を落とされ隠滅されてしまった。この一件に、彼らは関わっていた。
「だけど、どこへ行くっていうんだ?」
河下かかには…東には戻れませんでしょうね。となると…」
「では、天地に尋ねてみようか」
 青年が、傍に立っていた木の枝を折る。
「この、葉の付いたほうが向いた先に行こう」
 そう言って、空に放り投げた。ちょうど吹いて来た風に舞い上げられ、枝はくるくると回って地面に落ちる。
「…西、と出たようですが。営論エイリン様」
「ここから西!?数年前から北胡ほっこの勢力下になったっていうじゃないか…」
 怪訝な表情の鄭欽や驚きを隠せない様子の墨薈とは対照的に、営論と呼ばれた彼ら三人のうちで中心というべき青年は平然としたまま、
「あの枝切れに任せると決めたことだ。今更、曲げるつもりは無い」
 そんな彼に、墨薈は肩をすくめて小さく笑い、
「ああ、そうか。そうか。…お前らしいや」
 鄭欽もうなずいて、
「ならば、行くとしましょう」
 三人は、馬の向きを西へ変えると走り去っていった。
  *
陽炎王カゲロウオウがお前を煙たく思し召しになるのも無理ないことだな、不空フクウ
 切り立った崖の上から三人を見下ろしていた青年が振り返る。
甲喜コウキ…」
 白地に黒と灰のまだらの獣を促して彼に近付くように高度を下げ、中庸界の方士・甲喜が言う。
「自分の出生地をあそこまで荒らされるのは、さぞかし気分が悪いことなんだろうねえ」
「甲喜様、またそんな…言い過ぎですよ」
 下からいつものように晧黔コウケンが主人に小声で注意する。
「ともあれ、賭けだな。あれがどれほどの人物か…まぁ、面白くなりそうだが」
 それだけ言い残すと、一人と一匹はまたどこへともなく飛び去った。
 自分一人以外は誰も居なくなった、河南から西方地域への門・峡関きょうかんへ続く街道そばの断崖。不空は静かに空を振り仰いだ。
(私のしていることは間違っているのだろうか?利己的なだけか、それとも偽善なのか。けれど、人である以上は逆らえないものがあった…。自分はそれに従っているだけだ)
 自己弁護をいくら並べてみても、後ろめたさが残る。吹っ切れないまま、彼は中庸界のすまいへと戻った。
 
 数日を経て西方地域に辿り着いた三人を待っていたものは、荒みきった世界だった。侵入者として警戒されないよう、忍びに忍んでの道行きであったが、視界に入るもの全てに生彩が無いとでも言うのだろうか。それでなくとも慣れない旅路と身の上を伏せる工作とに神経を遣っているのに、更に追い討ちをかけられたようで、彼らもさすがに参っていた。
「…何なんだ、皆して腐った魚のような目をしてやがる」
 普段から豪気で大口ばかりの墨薈も気味悪そうに言うくらいだから、物腰も穏やかで良識的な鄭欽に至ってはすっかり色を失って、口を開いてもなかなか言葉を発するところまでいかない。
「恐ろしいことですね…」
 ようやくそれだけつぶやいたら、また黙ってしまう有様だった。
 営論は無言のまま眉をひそめ、意味のない労役を強いられて血の汗を流す人々を見つめていた。
  * *
 夜半になってから、営論は一人で肉体労働に酷使される無宿者がわずかばかり身体を休めるのにやってくる川べりに足を運んだ。どう見ても他所者よそものの彼の姿を見ても、誰も気に留めない。そのような心の余裕も無いのだろうか。
「お前たちは悔しくないのか?人間らしい扱いも受けぬまま、朝から晩までこき使われて、しまいにはボロ雑巾のように使い捨てられていくのが」
 しかし、大多数の人間たちが目は向けるものの返事の一つもせずに顔を背ける。
「どうなんだ!いい年をした大人がこれだけ集まってこのざまか。何とか言ってみろ」
 それでも、誰一人として声も出さない。営論も一緒になって口を閉ざすが、立ち去ろうとはしなかった。夜明けが迫る頃、ようやく他の二人がいる野営地に戻った。
  * *
 北胡の役人に見付からないように、昼も夜もあちこち見歩いては、民が集まるところで会話もせず共に時間を過ごすことを一月も繰り返した頃だろうか。
「悔しくないはずが無いだろう?だが、あんたはなんにも知らないから簡単にそんなことが言えるのさ」
 これに至って、ある晩ようやく一人の壮年の男が答えた。
「ああ、確かに俺はここのことなど知らない。半年も前には、ここに来ることになろうと思ってもみなかった」
 男は、北胡が侵攻してきて領主一族が滅び、反乱が勃発するも成果を見ぬまま叩き潰されたことを淡々と語った。
「なるほど」
 北胡がどれほどの者たちかは現状では計りかねる。だが、勝ち目の全く無い賭けでもないだろう。彼ら西方の民衆に欠けていたのは組織力だけだと感じていたからだ。
(反乱などもう起こらないと緩み始めている奴らになら、復興への思いや怒りの強さが民たちから消えないうちにつことが出来れば勝てる…)
 思いつめたような顔で焚き火を見つめる営論に、男がひとりごとのように告げる。
「厄介なことに巻き込まれる前に、あんたも消えたほうがいいさ」
「いいや、俺には帰るあてが無いのだ。当分はここに居座る」
「本気かい…まぁ、好きにしな」
  * *
 長丁場になると感じながらも、彼らは屋根付きの家を見付けるとか作るという努力もせずにいた。今日も今日とで雨風を何とかしのげる程度の小屋では墨薈が大口を開けて眠り、外では焚き火に薪をくべつつ鄭欽が待っていた。
「どちらへ行かれていたのですか?」
 予想はついているものの、本人の口から聞きたい彼は戻り来た主人に間髪入れず尋ねる。
 しかし営論はそれには答えず、逆に訊き返す。
「勝算はあると思うか?鄭欽」
「えっ…」
「北胡をここから掃討する、その勝算だ」
「無いはずがありません」
 聞いた事のない声が割って入った。目をやると、房や組紐などで装飾を施した道服をまとう一人の青年が立っている。
「彼らの命運は、もうじき尽きるのです。自らの欲望のままに民を痛めつけ、私腹を肥やすだけの領主など、長続きしないのが定めというもの。今ならば勝てます」
「あなたは?」
「昔、この近くで生を受けた者ですよ」
 二人は顔を見合わせる。信用しても良いものだろうか、と…。
  *
 同じ頃、中庸界の愛染宮あいぜんきゅうを訪れた人物がいた。
「あら、これは柳擶リュウセンさま」
「突然申し訳ありません、桂思君ケイシクン
「何用でしょうか?」
 挨拶も無しにいきなり尋ねられて、柳擶は苦笑しながら、
「唐突におっしゃいますね」
「当然でしょう。あなたが、用も無くここにおいでになるはずがありませんから」
 小さく肩をすくめて見せる桂思君に、
「ならば、お願いします。うちの問題児を探してください」
鄒頌スウショウを、ですか?」
「ええ、自分で探すには世界が広すぎまして。あなたの勘と占術を頼らせていただきたいのですよ」
 何かありそうだと感じたが、しつこくしても嫌がられるのはよく分かっているので、彼女は何も訊かずにすぐうなずいた。
「分かりました。それにしても…」
「何か?」
「鄒頌も酷いですね。あなたが探していることくらい気付いていそうなものなのに」
 何せ、彼は水晶精を片親に持っている。男性方士の多くが不得意とする占術や巫術にずば抜けて秀でているのだ。しかし…
「いえいえ、分かっているから出てこないのだと思います」
「まぁ…本当に困ったこと。大きくなっても変わっていませんね、あの子は」
「仕方ありません、あれでこそ彼なのですから」
  *
「不空様…気分がすぐれないのですか?」
 中庸界の、雷響洞らいきょうどう。戻り来た師の覇気ない様子に、部屋を片付けていた呉燎ゴリョウが心配そうに声をかける。
「いや」
「何があったのです?」
「お前が気に病むことではない」
 問われたことを軽くかわしてすれ違い、奥へ入る。呉燎はすぐに向き直って、彼の背に叩き付けるように言った。
「それは違います。このところ、不空様はずっとそんな調子ではないですか。ぼくだって辛いんですよ!」
 驚いて不空が振り返ると、今度は哀願するように、
「ですから、隠し事はやめて下さい…お願いします。ぼくに出来ることならば遠慮なさらず言ってください」
 中庸界へ連れてきてからまだ日も浅いというのに、この遠縁の少年はすっかり彼に懐いていた。
 だからといって、自分の家とのちに一戦を交える間柄になりかねない者たちの手助けなど、させて良いものだろうか?
 この少年に何と言えば良いのか、今回の件でこの少年をどうするべきか。不空は迷っていた。
  * *
 それから数日ほど後。琇娜ユウナが隠れ家の裏手でうなだれていると、不意に足音が近付いてきた。世話役の老夫婦にしては足取りが軽そうなので、いぶかりつつ顔を上げる。自身に歩み寄るのは、初めて見る薪売りの娘だった。
「あなたの待ちに待った季節が来るやもしれませんよ、リョウの姫様」
 娘は、琇娜をまっすぐに見据えて告げた。素姓を見破られていることに青ざめかけたが、即座にそんな場合ではないと奮い立って尋ねる。
「どういうことです?」
「じきに分かります。その時が来たら、あなたも陣頭に立たねばなりませんでしょう。あなたは、かつての戦役で遺されたこの西方の唯一の旗印なのですから。…覚悟をお決め下さいませ、姫様」
 ただの薪売りが、このようなことを言うだろうか?まさか、自分をおびき出す為の計略なのでは…
「わたくしが何者かもまた、じきに分かる日が来ます。とりあえず今回は北胡にくみしておりません。それだけは、はっきり申し上げておきましょう」
 心の内を見透かされたようで、琇娜は口を閉ざす。
 秋も終わり冬に向かい、木々も慌しく残りの葉を落として冬支度を急いでいる。落ち葉が風に舞い上がったかと思うと、薪売りの姿は消えていた。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 背反の旗手 来たる

正義は我らに

 針か剣かという鋭く切り立った山々がそそり立つ、中庸界の住人たちでもあまり足を運ばない、霧に包まれることの多い山間やまあい。退屈そうに杖を地面に立てては倒し、どの方位を向くかを試していた鄒頌スウショウの前に、突如として柳擶リュウセンが姿を見せる。
「こんな所に居たのか…。探したぞ、鄒頌」
 彼が何か企んでいることを感じた鄒頌は咄嗟とっさに逃げようとするが、すぐに阻まれる。
「師匠をなめちゃいけないよ」
 言いながら、柳擶は普段の人の良さそうな笑顔からは想像もつかない冷徹な笑みを浮かべた。一瞬凍りついたように構えを解いた鄒頌に、即座に呪力をぶつける。
「なに…」
 最後まで声にならないうちに、彼の身体は縮んでいた。いや、姿も人間のものとは程遠い。柳擶は彼をつまみ上げて自分と目線を合わせて命じた。
「さあ、親孝行に行って来い」
『どういうことですかぁ!戻してくださいよ!なんで俺がネズミにならなアカンのですか!』
 懸命の彼の主張にも、意地悪そうに目を細め、涼しい顔で返す。
「何かな?チューチューとしか聞こえないよ」
『ヒドい』
 牙むくかと思いきや、鄒頌は簡単においおい泣き出す始末である。
「お前の父親は、誰だったかな?」
『もういませんよ、草葉の陰です。母上ならともかく、はるか昔に死出の旅路に出られた父上に、今更どうやって孝行しろって言うんですか』
「分かってないな…。河源かげんを含む西方地域が北胡ほっこの手に落ちて圧政を敷かれること数年、もうじきそれが終わりを告げそうだ。父の故郷を回復する手助けをさせてやろうという、この師匠の思いやりが伝わらないのかね…お前には」
『そんなんだったら、この姿じゃなくたって…わざわざ敵の懐に出向かなくたって出来ますよ!』
「いいや。斥候せっこう〈※敵情や地形などを密かに探るために差し向ける小人数の兵〉ならば、その姿のほうがやりやすかろう?お前自身のその目でしかと確かめてこい。おそらく解放軍の陣中に不空フクウが居るだろうから、北胡の内情を探り尽くして彼の所へ行くのだ。戻り方は、彼に教えておこう。術力の全ては制限されないから安心するがいい…。まあ、その体ではいつもの水晶柱は扱えまいがな。これは私が預かっておくとしよう」
 今度は普段通りの笑顔で、水晶柱を持つ右手を傾けて見せる。それは、鄒頌が占術に用いている、母の形見とも言うべきものであり…また、柳擶にとっても長い歳月深い仲にあった女性の欠片かけらのようなものだった。
 鄒頌にしてみれば、師匠と呼びつつもないがしろにしてきた罰をまとめて受けた気分だった。人が良いと思って軽く見ていたが、それは大きな間違いだったということだ。
『ううう、早く戻りたい』
 彼が急いで任務遂行へ向かったのは言うまでもない。
  
 西方の有力氏族・リョウ家の息女・琇娜ユウナの前に薪売りの娘が現れてから数日の後、大量の西方地域の民が姿を消すという珍事が起こった。
 北胡がこの西方地域を支配するために設けた司政府しせい ふでは、最高責任者であるドレンが下役のシレムを怒鳴りつけている。
「何を馬鹿なことを抜かしてる!」
「いいえ、それが本当のことなんで」
「連中が逃げて身を隠す場所なんて無いはずだぞ?そうしてきたはずだろう?え?シレム、違うか?」
「ええ、おっしゃる通りでございます。だからこうして申し上げる気になったのです」
「そんなもの、いちいち俺に言うな。お前の落ち度だ」
「何をおっしゃいます、おいらの落ち度はあなたさまの落ち度に等しいのですよ」
 図星を突かれて、ドレンは面白くなさそうな顔をしながら、
「やむを得ん…。アルハ様のお耳に入る前に、草の根分けてでも探し出すのだ!」
「そうこなくては。私腹を肥やしていることが知れたら、いかなあなたさまでも罰は逃れられませんからね」
「お前も同罪なのだ、軽々しく言うな!無駄口たたいてるヒマがあったら、さっさと行け!」
 おお、怖い怖い…と嫌らしい笑いを浮かべながら、シレムが退出する。
 そんな彼らの様子を上空から面白そうに眺める者たちがあった。
「くっくっく、始まったようだな」
 癖ある髪を後ろで一つに結い上げた道服の青年が、いま自身がまたがっている白地に灰や黒の斑の獣に話しかける。
「そのようですね」
「奴ら…『アレ』を使ったか。どんな具合か、そっちも見に行くとしよう。行くぞ、晧黔コウケン
 青年が、手にした払子ほっすで連れの頭を軽く叩く。
「相変わらず人使いが荒いですよ、甲喜コウキ様。たまにはいたわってくださらないと、振り落としちゃいますからね」
 普段はおとなしい連れの『口撃こうげき』に、甲喜は苦笑しながら、
「分かった、分かった」
 額をさすられて少し機嫌が直ったのか、晧黔は背に乗せた主人・甲喜の命令に従い、司政府から『アレ』が立てられたと思われる川辺へと音もなく飛び去って行った。
  *
「いやはや、これが風幡ふうばんの威力ですか」
 川原に集まった西方の民たちを横目で見ながら、不空が感心したように言う。
「そのようですね」
 答えるのは桂思君ケイシクン。今回は薪売り娘の姿ではなく、垂らし髪に冠、そして鎧姿である。
「…そのようですね、とは?」
「だって、初めて使ったのですもの」
 快活に笑う彼女を前にして、不空は額を押さえた。
「ですが、きっと今頃大慌てでしょうね…北胡の奴らは。何せ、民たちが突然いなくなったんですから」
 結局、不空は付いて行くと言ってきかない呉燎ゴリョウを連れてきたのであった。彼の言葉にうなずきながら、
「ああ…。探し出そうと躍起になっているだろう、無駄な努力とも知らずに」
 風幡は、風をしょうとするそんを描き込んだ、四りゅう〈※旒は旗を数える語〉で一揃いの旗である。これを四隅に立てて作られた区画は、外部に居る下天の人間たちには見ることも触ることも、そして入ることも出来ない空間となる。しかし、内部に居る者には外部の物事がきちんと見える仕組みになっている。
 過酷な労役を免れたとは言っても、突然ここに集められた民たちはひどく不安げにしていた。民衆を探して駆け回る北胡の役人が通りがかると、やはり彼らは怯えたような表情を見せる。営論エイリンが皆の前に姿を現し、大音声で力強く語り出す。
「お前たちをここに集めたのは、お前たちを無益な労役から解放する為である。勿論、ここに居るだけでは一時的に北胡の支配から逃れているに過ぎない。長きに渡る自由を取り戻すには、方法は一つだ」
「蜂起、する…」
「でも、勝てるんだろうか…オレたち…」
 ざわざわと話し声が起こる。
「我々は決して敗れはしない!己の欲望がままに圧政を敷き暴力を振るう北胡と、人として生きるべき道を歩む為に武器を取りつ我々と、どちらに正義があるだろうか?」
「わしたちだ…わしたちにこそ正義がある!」
 群衆の中から、一人の老人が声高に叫ぶ。営論は大きくうなずいて、
「我々の戦いは、ただ西方の自治を取り戻す為だけの戦いではない。必ず最後に正義は勝つことを示す、聖戦でもあるのだ!我らは協力を惜しまない。共に戦おう!今度こそ、勝利を収めようではないか!」
「そうだ…そうだ!」
 皆が心を決めた。戦おう、北胡を追い出そう…そんな声が群衆から湧き起こる。
 希望と活気に満ち溢れた民たちの中に、忍び泣く娘があった。側に居た老女が、そっとその手を取る。
琇娜ユウナ様…」
「ゆ、琇娜、さまだって!?」
 近くに居た者が声を上げる。
「本当なのか!?まさか…」
「嘘ではありません、ここに在るのは確かに梁琇娜リョウ ユウナです!」
 急いで涙を拭い、娘は被っていた布を取り去ると毅然と顔を上げて言った。群衆がどよめく。意外な人物が現れたことにも営論は動ぜず、
「梁の姫君か…それならば、この西方の御旗。こちらへ御越しを」
 民たちが、その姿に揃って息を呑む。茶の瞳に黒髪という多くの中原ちゅうげんの者達とは異なる、青緑色の瞳と鳶色とびいろ〈※鳶の羽根のような焦げ茶色〉の髪。それこそが、西方の異民族から興った有力氏族・梁家の者である証だった。
 皆の前に立ち、琇娜は声の限りを尽くして告げる。
「わたしは、ずっとこの時を待っていました。もう、わたしは逃げも隠れもしません!皆と共に戦います!必ず…必ずこの西方の地を、わたしたちの手に取り戻しましょう!」
 次々に万歳の声が起こる。
 民たちの顔を見回して、営論が高らかに宣言する。
「我々の心は一つ。北胡をこの西方の地から掃討する!」
 群衆が、勇ましくエイ、エイ、オーの掛け声を上げ、拳を空へと突き上げた。
  *
 男たちは召集され、まず隊分け、次いで武器の準備とその扱いの訓練とに入っていく。こちらは営論や墨薈ボクカイ鄭欽テイキンらが見ている。女たちは炊き出しを始め、また傷病者の手当ての仕方を習う。琇娜も、庶民の中に入って忙しく動いている。子供は、女たちの手伝いを出来る範囲で懸命にやっている。年が近いせいか、子供たちは手が空くと呉燎にちょっかいを出しに来た。呉燎も、喜んでその相手をしている。
「塵も積もれば、とはよく言ったものですね。皆が持ち寄ってくれた蓄えだけで、これだけの量になるのですから」
 兵糧として集めた食料を眺めて桂思君が言うと、不空が両手に載るほどの大きさの布袋を軽く振りながら、
「ええ…ですが、備えあれば憂いなしと言います。鼎俎奶々テイソ ナイナイにこれを頂いてきて良かったですよ。子供たちにでもかせましょう」
「ちょっとお待ちください。いくら何でも、この辺りは一度耕さなくては無理では?」
 すると不空は今気付いたという様子で、
「ああ、そうでしたね…」
 その時、風幡の領域が一瞬破られた。不空と桂思君の表情に、緊張が走る。
『あああぁぁ…居た、居てくれたあぁぁぁぁ…』
 急いで駆け付けた二人の前に、ちょろちょろと小さいものが近寄ってくる。
「その声は…鄒頌スウショウか?」
 いまいち信じられなさそうに不空が訊くと、その小動物は泣く仕草をした。
『あああぁぁ…分かってくださいましたかあぁぁぁ…』
「何やってるんだ、ネズミなんかに化けたりして」
 そのあまりに冷めた口調に、鄒頌はより激しく泣き真似を繰り返す。
『化かされたんですよおぉぉぉ…』
「あら、丁度良かったですわね」
 桂思君は笑顔になって、
「鄒頌、この辺りをちょっと耕してくださいな。豆が蒔けませんで困っていたところでしたので」
『その前に戻して下さい!不空さま!』
 しかし不空は、
「戻して下さいとはどういうことだい?私は何も聞いていないよ」
『冗談はして下さいよ!だって、柳擶師傅リュウセン シフ〈※師傅=師匠・先生〉が…』
 鄒頌は必死に詰め寄るが、
「柳擶様が、どうしたって?」
 あくまで知らない振りを通すのかと鄒頌は がなる。不空は身に覚えのないことで困ってしまった。しかし、桂思君が事情を察して、不空に耳打ちした。
「きっと、柳擶さまが『彼を北胡の動きを探る斥候に使え』と送り込んでくれたのでしょう。使わない手はありませんよ、不空」
 不空は一つ息をつき、鄒頌を手に乗せて話しかける。
「今後必要となるのは、北胡の動きだけでなく組織や建物の構造、武器や食糧の蓄えもなのだよ。もう一っ走り、行って来てくれるね?ああ、もちろん豆を蒔く場所を耕してから。話は、その後でゆっくりと聞こう」
『本当ですね?』
「本当だよ」
『本当に本当ですね?』
「ああ」
『本当の本当の本当に…』
「くどい」
 怒られたので、鄒頌は仕方なく地面をさっと耕して、再び風幡の外へと出て行った。
  *
 子供たちに囲まれている呉燎を呼び寄せて、不空が豆の袋を渡す。
「あそこに、これを蒔かせなさい」
「…え?ですが…」
「大丈夫。これは一晩で芽が出て、三日もすれば豆が実る特別に育ちの早いものだから」
「はい」
 すぐに子供たちのところに戻り、何人かには水を汲みに行くよう指示を出す。
「ねぇ…でも、これがる頃にはボクらきっとうちに帰ってるよ?」
 一人が不思議そうに尋ねるが、呉燎は笑って、
「みんなで、早く芽が出ますように、豆が実りますようにって祈ると、豆も分かって頑張ってくれるんだよ」
「ほんとうに?」
 茶化すように言う子に、呉燎はうなずいて見せる。
「本当さ。ぼくは嘘をつかない」
「んじゃ、信じる」
 皆せっせと豆を蒔いて、水をかけて回った。終わる頃には日が暮れかけていた。呉燎は子供たちを呼び集めて言った。
「さあ、皆でお祈りしよう」
「早く芽が出ますように、豆が実りますように!」
 合わせたり組んだりしていた手を戻し、皆が顔を上げたのを見届けて、呉燎が子供たちの背を押した。
「明日が楽しみだね…。もうすぐ夕餉ゆうげになるよ、行こう」
  * *
 夜のとばりが下り、民たちは心穏やかに休んでいる。彼らから距離を隔てて周囲に幕を張り、営論らは今後の相談を始めた。
「こんばんは、色々と調べてきましたよ」
 折しも偵察から戻った鄒頌が現れ、語り出す。途中で柳擶と会ってゆるしを得られたのか、人間の青年の姿に戻っていた。
「北胡の役所に軍備らしいものは見受けられませんね。兵糧と呼べるもんも無し。穀倉も、北方に運び去った後なんですかね、空っぽに近かったです。兵糧攻めにしてもすぐ落ちそうですけど、そんな面倒なことしないで普通に攻めても意地汚い役人夫婦はあっさり討てるでしょう。別の蔵に金品は山とありましたけど…面白くないので、宝物の類は帝都に持って行って売り払ってきました」
 そう言って、将軍たちの前の卓に、貨幣の山を置いて見せる。
「元々この西方地域の民たちから巻き上げられたもので集められた珍宝金銭です、お返ししましょう。後は、よしなにお使いください」
 そこまで言うと、彼は向きを変えて歩き出す。
「司政府を落とすのは、たやすいこと。むしろ今のうちから熟慮すべきは、それを知って慌てて駆けつけてくる北胡の本隊です。おそらく、年明け早々にも来ると思いますよ」
 幕僚たちが集まる本陣を出、立ち去りかけた彼に不空が声をかける。
「お前がここまでしてくれるとはね…。正直、想像以上だ。感謝する」
「いえ、俺にとっても彼らの戦いは他人事ではありませんので」
「そうだった。お前の父上は、この西方地域とゆかり深い人だったね」
「ええ…。でも、俺はここまでで帰りますよ。あなたも必要以上に関わらないほうが良いでしょう。そもそも、我々中庸界に籍を置く者達が下天に介入するには限度が設けられているわけですしね」
「分かっている」
 ふと、鄒頌が思い出したように、
「あ。そうそう、言い忘れるとこでした。一つ、根回ししておきましたよ。是非有効活用してください」
「根回し…?」
「はい。あの宝物を売り払った帰りに、さる御方に協力を要請してきましてね…幸い、こちらの要求を呑んでいただけました。まあ、タダではないのですが」
「どういうことだ?」
 不空は事の詳細を問うたが、
「じきに分かります。じゃ、俺はこれで」
 言い終えるより早く、鄒頌は手にした杖で大地を打ち、立ち昇った土煙に巻かれて消えた。
 一人立ち尽くす不空の頭上から声が降る。
「教えてやろうか?奴がどんな手を打ったか」
「甲喜…!」
 甲喜を背に乗せた晧黔が、彼の目の前に降りる。
「あ、誤解するなよ。俺は、初のお蔵出しをされた『風幡』の具合を見に来ただけだ。なかなか優秀なブツなようだが…何故桂思君に預けられていたのかが不可解だな」
「甲喜様、話が逸れてますよ」
 下から晧黔に言われ、不空に尋ねられる前に甲喜が語り出す。
「奴が事を持ちかけた相手は河伯カハク。内容は、大河を増水させて北胡の軍隊をたやすく渡らせないようにすること」
「そんなことを…」
 河伯は、下天の北寄りの地域を西から東へと流れる大河の守護と統治とを天界の創草王ソウソウオウならびに水護王スイゴオウより任された、下天に在りながら半神とも言うべき存在である。
「しかし、いくら非道を犯した北胡への懲罰とはいえ、天界の御意でもないこの一件に河伯が手を貸してくれるとは」
「奴も言ってただろう?『タダではない』と。奴が返礼として提供したのは、河伯が一昔ほど前に人間達の中に社会勉強目的で放り込んで以降行方をくらましたままという、かれの息女の情報だ」
「河伯の…息女…?」
「俺も良く分からん。ただ、あいつは何か知っているらしい。『現状でもかなりのものだが、今後更に良い師匠を得、己を磨くことになりましょうから、最長あと五年お待ち下さい。私が責任を持って、必ずやお届けにあがります』と言ってた」
 水晶精を母に、中庸界に籍を置くことを拒んで下天に生きる道を選んだがために既にこの世にはない方士を父に持つ彼だけに、自分たちでは知り得ない事象をも掴んでいるのかもしれない。
 黙り込む不空に対し、
「更にご丁寧なことに、奴は平地に架かる橋はどれもこれも使用不能にし、残したのは山中に架かる橋ばかり…。ま、概ねこんなところか。つまり、奴は北胡の騎馬隊の河越えを妨害して最短距離を来られないようにした…これはひとつの時間稼ぎに過ぎんが、河沿いを大回りする道を奴らが選ばずとも、騎兵にとっての死地…自由に展開出来ずその性能を発揮することが叶わない山林に誘い入れようって寸法だろう。河伯まで巻き込んで…我ら中庸界の住人に示された介入限度を無視してるな、あいつ。なんだかんだ言っても、なかなかの孝行息子であるらしい」
 苦笑しながら告げると、甲喜は晧黔を促して空へと舞い上がる。
「兵力で劣っていようが、迎え撃つだけが戦法ではない…それに気付くかな?あの、お前がここへ呼び寄せた将軍どもは」
 そう言い残し、一人と一頭の姿が遠くの空へと消え去る。
(その通りだ…。ここで北胡の騎兵を中心とした大軍を待ち構えるより、むしろ早々に打って出、山岳地帯でその兵力を分断させ奇襲をかけて勢力を削りとるのが賢明な方策に違いない。だが、今回の私は策を授けるではなく、情報を集め伝えるのみだ)
 ややもすれば感情に引きずられそうになる。それでも不空は無心になろうと努めるのであった。
 
 軍備を怠った北胡の司政府。衛兵もまた、とう弓弩きゅうどの使い方など忘れているようだった。
 作戦の決行は、召集より三日後の夜明け。日が昇ると同時に、金鼓きんこ〈※鐘と太鼓。軍中の号令に用いられた〉を叩き、ときの声を上げて西方解放軍が司政府に攻め入る。
 門柱にもたれて居眠りしている衛兵めがけ、呉燎が弓を引き、矢を放つ。目前に突き立てられた矢を見て、血相を変えて衛兵が中へ転がり込む。
  *
 寝所の役人頭ドレンの妻・ハラーが騒ぎに気付き、横で惰眠をむさぼる夫を揺する。
「あんた!なんか、おかしいよ。ちょっと起きとくれよ!」
「何がおかしいんだ?」
 泰平の眠りを突如打ち切られ、不機嫌そうにドレンが訊く。と、不意に扉が乱暴に開けられ、
「た、大変でございますよ!あいつら、攻めてきやがったんですわ!」
 言い終えるより早く、シレムが廊を駆け出す。
「とんだことになった。逃げるが勝ちだ」
「待て、シレム!主人を置いて自分ばかり逃げる気か?薄情者め!」
「何を言っておるのです、命あってのモノダネでございますよ」
 振り向きざま答えた下役に不愉快げな目を向けるドレン。寝室では、事の次第を理解したハラーが金目の物を掻き集め、懐や寝巻きの袖に押し込んでいた。
「ハラー、欲をかくんじゃねえ!逃げる邪魔になるだろうが!」
「だけど、あんた!」
 なおも心残りがある様子で渋る妻の腕を掴み、部屋から廊へ引きずり出す。周囲を見回し、耳を澄ます。南方が騒がしい。
(南門…正面から攻め入ったのなら、裏手にはまだ…)
 北のほうへと廊を進む。そのたびにハラーの袖や胸元から金銀の細工物が石敷きの廊に落ち、高い音を立てる。物惜しげな視線を向けつつ、拾うことも出来ずに夫に腕を引かれ、北の裏門を目指す。門とは言うが、南の正門はもちろんのこと、東や西の通用門と比べても造りは地味で小ぶりなのが北の裏門である。だからこそ、仮に民百姓が攻めてきたとしても、ここまでは…と思っていた。門の扉は閉ざされているが、衛兵の姿は無い。自分たちより先に逃げたシレムも居ないようだった。
 いぶかりつつも、背後からは反乱分子の声が迫ってくる。ドレンは扉に手をかけ、力一杯押して開け放つ。
「…!」
 ドレンもハラーも、揃って言葉を失い立ち尽くす。武器を手にした農民たちに幾重にも取り囲まれていた。他にも、騎馬の鎧姿の軍人と見える青年から壮年の男。弓を構える少年。道服をまとう青年。若い娘の姿もある。
「北胡よりの役人頭…相違ないか」
 縄にかけられたシレムが、騎乗の鎧をまとう将軍に虚偽や黙秘を許さぬ口調で問われ、力なくうなずく。
「縄を打ち、引っ立て」
 二人共抵抗を試みるが、無駄な足掻あがきだった。瞬く間に捕らえられ、解放軍に連行されてゆく。
  * *
「この者どもを火刑に処す」
 民たちの前に引き出された二人に対して冷徹に告げるのは、一人の少女。
「可愛い顔して、とんでもねえ事を言う嬢ちゃんだ。てめえがこの襲撃劇の中核か…何者だ?」
「三年前、きさまらに滅ぼされた梁家のむすめ、琇娜」
「あたしは嫌だよ、火あぶりなんて!虫をも殺せぬ顔をしたあんたに、そんなマネが出来るのかい?相手があたしたちと言えども…!」
 髪を振り乱し命乞いをするハラーに、しかし琇娜は態度を変えず、
「圧政を敷き、我ら西方の民を人とも思わず使役し、膏血を絞るがごとく厳税を取り続けた北胡の役人頭よ…これが我らの総意。無念のなか死んでいった者たちを思えば、一思いに斬り捨てるくらいでは足りない。地獄の業火に焼かれるがごとく、最期まで苦しみながら逝くがいい」
 すぐさま二人は更に口に布を噛まされ手足を縄で縛られる。更に縄の上からわらを巻かれた。松明たいまつを持った男が音も無く彼らの背後に迫る。
 乾いた藁からは、すぐにあかい炎と煙がのぼる。二人はあまりのことに飛び上がるが、両手両足の自由がきかず、音を立てて倒れ込む。背や腹を大地にこすりつけるが、もはや火の勢いは衰えない。
 恨むべき領主ではあるが、同じ人間だ。生きながら炎に焼かれ、声にならぬうめきを発しながらのたうち回るドレンとハラーから、民たちが次々と顔を背ける。だが琇娜は目をらさなかった。涙があふれ、頬をつたっていた。
(悲しみの涙ではない。あれは怒りの涙…そして決別の涙)
 呉燎は思った。
 守られていた日々は終わりを告げる。今度は己が先に立って民を束ね率い、ほどなく押し寄せてくる北胡の本隊を打ち破り、真なる自治を取り戻さねばならない。
「そう。それがこの西方の旗印として遺された彼女に課された使命であり…宿命なのです」
 彼の隣に立つ桂思君が言う。
「宿命…」
 その言葉を繰り返す呉燎を、不空は不安げに見つめる。
「大した娘だ。さすがは領主の息女様といったところか」
 墨薈の言葉に、営論は淡々と返す。
「俺には哀れな娘に映るがな…」
「私も同じです」
 鄭欽が続けて、
「あまりにも多くの思いを託され、他のどのような生き様をも選ぶことを許されなかった姫君です…」
 しばしの沈黙ののち、
「さて…あれはどうする?」
 ガクガクと震えつつ口から泡を吹いているシレムへと、墨薈は視線を移して問う。
「己の主人のあのザマを見て、何とも思わないのかね…あれは」
 自分が話題にのぼったと気付き、シレムは地面に顔をこすりつけ懇願する。
「お願いです、命だけは!命だけはお助けを…!!」
「主の後を追うとかいう覚悟は無いのか?…ならば、良いだろう。縄を解け」
 営論の命令で、彼の縄が解かれる。
「北胡の都に、お前が今ここで見たことを報告せよ。それまで、その命は預けておく」
 もとより北胡の都・ノヤンの他には帰るべきところの無いシレムは、遥か北東の空を仰いでふらふらと歩き出した。何度も転んでは立ち上がり、よろめきながらも何かに操られるかのごとく歩き続ける。その姿はやがて遠ざかり、ついに見えなくなった。
「…いいのですか?敵の副将を逃がしたようなものですよ?」
 呉燎がたまらず営論に言うが、
「ここから北胡の都までの道程には、いくつもの河川や山脈、砂漠が横たわっている。あの有様では、無事に帰り着いたとしても、生ける屍のように成り果てているだろう…問題あるまい」
  * *
 日が傾き始めると、桂思君は川原に立てられた風幡を次々と畳み、
「もう彼らにこれは必要ありません。では、わたくしはこれで」
 風幡を抱えて立ち去ろうとした彼女に、不空が歩み寄る。
「大切なものをお貸しくださった上に、あなたまでこの下天に来ていただき…感謝しています」
「いえ、構わなくてよ。こちらの世界も嫌いではございませんから」
 気取りのない彼女の返事に、不空は思い切って願い出る。
「ならば、もう一つ…お頼み申します。呉燎のことを」
「呉燎、を…ですか?」
「はい。ここでの兵乱が終結し、私が中庸界のすまいに戻るまで、彼をお願いできませんか」
 桂思君は、いつになく他人行儀なふうで畏まる彼へ華やかな笑みを向け、
「まあ。あなたは彼をまだ子供とお思いのようね。よろしいのかしら?わたくしなんかに預けてしまって」
「まだ子供です。少なくとも、あなたに恋慕し思い余って襲い掛かるなんてことはありませんから、ご心配なく」
 彼の言葉に、くすくすとひとしきり笑ったあとで、桂思君は真顔に戻る。
「案じているのですね、あの子の行く末を」
「ええ…。戦の匂いを覚えさせたくないものですから、もうこれ以上は」
「…分かりました、話はしてみましょう。但し、彼がどうしてもあなたの許に行くと言うなら、わたくしは引き留めません」
「それでも…よろしくお願い致します」
 彼女に深々と頭を下げた後、不空は呉燎を呼び、
「桂思君が、中庸界に戻られるそうだ。風幡を持ってあげなさい」
「はい、不空様」
 彼女の手から四棹の風幡全てを預かり、呉燎が不空を振り返って言う。
「では、行ってまいります」
 桂思君が右手を高くかざすと同時に、周囲に霧が湧き起こる。霧が去った川辺には、不空一人だけがたたずんでいた。
  *
「どこに置けばよろしいですか」
 中庸界の愛染宮あいぜんきゅうに着くなり、呉燎は桂思君に尋ねる。
「とりあえず、その辺にでも立てかけておいてもらえれば…。ですが、何をそんなに慌てているのでしょうね?呉燎」
「ぼくは、不空様が気がかりですから…急いで戻りたいんです」
 にこやかに問いかけた彼女の表情が、彼の返答に翳る。
「ここ、愛染宮は…わたくしは嫌かしら?いくつか、あなたに手伝ってほしいことがあるのだけれど」
「いいえ、とんでもありません。ここは江沿こうえんの宮城にも劣らないほど、広くて壮麗な造りで…あなたも、とてもお美しい御方で…」
「なら…彼が戻るまで、うちの子におなりなさいな」
 艶やかに微笑んで告げる彼女を前に、呉燎は少し躊躇ためらったが、
「でも、やっぱり戻ります。ごめんなさい」
「そう…残念ですこと」
 今度は意地悪げな笑みを向けつつ、
「けれど、どうやってここから下天の秦へ行くつもりです?」
「大丈夫です。ぼくには、これがありますから」
 言いながら、呉燎は右耳に手をやる。不空がお守り代わりに彼に与えた〈※耳に飾る玉〉である。彼は風幡を廊の壁に立て掛けると、
「失礼いたします、桂思君」
 その言葉と共に巻き起こった風に、彼の姿は掻き消される。
 一人残された桂思君は、驚きを隠せずにいる。
(中庸界に来て、一月と経たぬはず…。まさか、ここまでとは…)
 方士が呪力を込めた装身具を持つ者は、その方士の力で護られる。しかし、実はそれだけではない。呪具を介して、それを仕立てた方士の操りうる方術を使うことが出来るのだ。勿論、誰にでも為せるわざではない。
(さすがは彼の子孫…とでも言うのでしょうか)
 あの少年にも不空に勝るとも劣らぬ方士としての資質があるという、動かぬ証拠を叩きつけられたようなものだった。
(彼があの子を案じるのも、当然かもしれない…)
 今このとき下天に在る呉家の者達の中でも、呉燎にはとりわけ『彼女』の面影が色濃く見て取れた。
(かつて、あなたの妻だった…今なお、あなたの心に生き続ける女性ひとが思い出されますものね。不空)
 遡ること三百と数十年。イン王朝最後の愚君・幕翻帝バクハンテイを倒した、エイ王朝開祖・興穏帝コウオンテイと彼の許へ集った将帥らは、最後の最後に幕翻帝の寵妃が負うていた破滅の凶星・大禍星だいかせいの遺した呪詛を受けた。そして争乱の終結後、多くの者が天寿を全うすることなく次々と亡くなっていったのだった。幼いながらも呉家の遺児としてこの戦いに加わっていた娘も、また…。
(「彼までもが、このたびの争乱のなかで無惨にも若くして命を散らすのだとしたら…それがもし避けられるものなら…」…そんなあなたの心の内が分かり過ぎて辛いですよ、わたくしも)
 桂思君は風幡を握り締め、目を伏せた。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 正義は我らに

※註:風幡ふうばんについて
 「幡」とは、旗・のぼりのこと。本来は「ハン・ホン・マン」としか…つまり「バン」とは読みません。しかし聞いた感じ納得いかないので、日本語で言うところの「上に言葉が付くと濁る」…例えば「こおり」が「かきごおり」になるような感覚で「ふうばん」と読み仮名つけてます。
 補足しておくと、旗を数える際には「さお」または「りゅう」を使うとのことです。

北胡に差す暗き影

 塀の南が騒がしくなっているという噂は届いていたものの、ヤッサは興味なさげに聞き流していた。だが、その風説を耳にしてほどないある晩。
『ヤッサ』
 寝入りばな、ボルテの声に起こされた。ゲル〈※モンゴル人など遊牧民が住む、饅頭形の組み立て式の家〉の外に出てみると、ボルテが月明かりを浴びながら立っている。
「何だよ」
『脚の骨でも折って』
「…はい?」
『とにかく、怪我するか病気になって』
「どういうことだよ」
『もうじき、また出兵することになるわ。…だからよ』
 どうも腑に落ちない様子のヤッサに詰め寄り、ボルテは真顔で彼の目を見つめる。
『信じてちょうだい、きっと負け戦なの。あなたは、これからの人なのよ。行っては駄目』
「…よく分かんないけど、分かったよ。おやすみ」
 一つ息をついてそう言うと、彼女もうなずいて自分のゲルへと戻っていった。
  * *
 翌日。負傷を狙うまでもなく、ヤッサは大してあばれ馬でもない―いや、おそらくノヤンの馬たちの中でもおとなしい部類に入るはずのルジムから振り落とされて右半身を地面に叩きつけ、腕と脚の骨を折った。
 ゲルに運ばれて手当てを受ける彼の許に、いたく気分を害した風のアルハがやってきて言った。
「何という馬鹿息子なのだ、お前ときたら。よりによって、この大事な時期にそんな怪我しおって」
「耳元で怒鳴るのは勘弁してくれよ、親父…。響いてますます痛くなってくる」
「声を上げずにいられるか!出陣の用意も整って、さあこれからだという時に!」
(出陣…?)
 初めて聞いた。自分の知らないところで、着実に事は進んでいたのだ。
「全く…。病人や怪我人を連れて行っても仕方ない。お前はナランと一緒にここの番兵でもしていろ」
「え?ナランは…」
「昨日の晩から高熱を出した。シャマンによれば、数日では熱がひきそうにないという。とても使えん」
 大して仲が良かったでもないので思い出という物も無い従妹いとこ…それがナランである。元々勝ち気で、小さい頃から男まさりでならし、今では半端な兵士よりよほど使えると言われている。
『シャマンによれば』
 その一言が、どうも気になった。これにもボルテが一枚噛んでいるのだろうか?
 *
 アルハと入れ替わるように、今度は仲の良い幼なじみであるマーニがやってきて彼を見舞った。
「お前もやるねぇ。ルジムから落ちるなんて、演技にしたって至難の業だで?」
「そう言うなよ…。自作自演だったら、もうちょっと軽傷で済むようにしてるさ」
 冗談めかした受け答えが何度か続いたあと。
「なあ、マーニ。出兵の話、あまりにも唐突だと思わないか?」
「仕方ないだろ。ドレンとハラーが討たれてさ、下役のシレムはフラフラで逃げ帰ってきて、それ告げたら倒れちまって毛布被ったまま出てこないし。今ここで西方から撤退させられたらかなわないってことなんだろうな。だけど…あれ?まさか、お前…知らなかったの?」
「いや、聞いたこと無かった」
 何故そんな重要なことが自分の耳に入ってこなかったのか不思議だった。アルハの命令で西方地域を事実上直々に仕切っているのがドレンであり、ハラーは彼の夫人である。気味が悪いほど仲むつまじい夫婦なのだ。それというのも、思考回路がほぼ同じだからなのだろうが…。
「でも、おれは仕方ないと思ったで。ここに居た頃から、ドレンもハラーも欲の皮がつっぱってるばっかだったもんな。似たもの夫婦とはよく言ったもんだよ」
「声が大きいぞ、マーニ」
「だって本当のことだろ。あーあ、おれも骨でも折ろうかなぁ」
「…そっか、お前も行かされるのか」
「勿論さ。使える人間は総動員って感じだからなぁ。何人ここに残るんだろ」
 マーニが立ち上がる。
「そんじゃ、な」
「ああ…気を付けて」
 ヤッサは、別れの挨拶を告げる彼を、その無事を願うほかは為すすべもなく見送った。
  *
 ゲルを出たところで、マーニは不意に袖を掴まれた。
「お前は…」
『気をつけて。必ず無事で帰ってきてください』
 空耳かと思って周囲を見回すが、自身のすぐ傍に立つ少女の他には誰も居ない。瞳をまっすぐに見つめくる、この娘の『声』と考えるのが自然だった。
「どういうことだ?」
 シャマンは先祖や土地、動物たちの霊などと交信するのが専門で、自分の考えとして策を授けるのではない。
『あなたは、もう一人の若きハーン。今回のことは、あなたへ与えられた試練です。どうか、くぐり抜けて見せてください。及ばずながら、このノヤンの地で、あなたと部隊の無事の帰還を祈っています』
 そして、彼女は首飾りを一つ外して差し出す。
『何かのお役に立てるでしょう。お持ち下さい』
 この北胡の地でも―いや、恐らくは南方でも、これほど金銀や美しく澄んだ輝石を使った装飾品を身につけることが出来る者は希少なはずだ。
「シャマンの首飾り…お守り代わりってことか。分かった、ありがとう」
 マーニが歩み去るのを待っていたかのように、前のシャマン・クチュ老人が現れてボルテに声をかける。
「首長殿には何も伝えぬのか」
『自ら天地と祖霊との意思を伺いに来ないような男です、何も伝えることはありません。もとより、何を言ったところでこの無益な出兵を止めるはずもない。わたしは、次代を担う者達をこのたびの兵乱から護るため、わたし自身のチカラで可能な限りを尽くすのみです』
「そうか…」
 ボルテは、見えぬ目をこちらへ向けて杖をつく老人へと振り返り、
『爺様にも見えているのでしょう?あの愚かな男の末路が』
 彼女の言葉に、老人がそっとうなずく。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 北胡に差す暗き影

※註:ハーンについて
 漢字で書くと「汗」。音読みは「カン」、中国風に読むと「ハン」。紀元前3世紀末から紀元後1世紀末にかけてモンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族であるところの匈奴きょうどの王の称だそう。時代は下り、げんの初代・チンギス=ハンなどの「ハン」も同じなんじゃないかなと個人的には思いますけど。
 カタカナ表記と実際の発音との兼ね合いも微妙でしょうが、響き重視で「ハーン」と読みを付けました(額に汗)。「王」という字自体にはこんな読み方無いですよ多分…。
 ほぼ毎度のことですケド、この注記を書くにあたってはyahoo!辞書や@nifty辞書、新選漢和辞典(小学館)@筆者の手許などを参考にしています。

「北胡に差す暗き影」挿画。出征するマーニに首飾りを渡すシャマン・ボルテ

北方の若き勇士

 アルハはしんへ西進する前に、南下して河北かほくの城塞に迫り、矢文を射させた。
 城塞の見張り兵が気付き、取り急ぎ、この河北の宗主そうしゅ〈※中心として尊び仰がれる人〉へ届ける。
 他の大都市と異なり、ここでは一人の由緒ある家系出の領主が居るわけではない。複数の者が民たちの中から選ばれて集まり、合議の上で政務を摂っていた。
 彼らうちでも中心的人物で、大総統とも呼ばれる燕享エンキョウは、その文を見て激怒した。
「明日までに兵千人を集めて寄越せ、出来なければ当方の全八千騎をもって総攻撃する…だと!?ふざけたことを!寒さ本番で民たちも何かと男手が要るときに、なにゆえ己の失政で西方から追い出された連中に兵力など貸さねばならんのだ!」
「しかし…八千はどうだか図りかねるが、目の利く物見の者の話では、北方の草原を埋め尽くす騎馬兵だと。ここで逆らえば、この河北も秦と同じ運命を辿りかねない」
 彼より年嵩の、白いものが多く交じる髪と髭の丈夫・周恒シュウコウが告げると、一同黙り込む。
「今は止むを得ません。聞きいれたふりをして出兵しましょう」
 そう提案したのは、燕享の子息・燕律エンリツ。成人の儀からそう年月を経ず、二十歳を少しばかり過ぎたまだ若い青年だった。
「だが、律…」
「『ふりをして』だと申しているのです。奴らは明らかに焦ってます。いつか・どこかで隙が出来るに違いありません。私が一兵卒になりすまして共に参り、途中で必ずや皆を率いて戻り来ます」
「焦燥は思わぬ死角をつくる…なるほど、それは一理ある。しかし、本気かね?燕律」
「本気です」
 彼の決心に揺らぎがないのを見て取り、議士たちがうなずく。
「分かった。では、急いで近隣と合わせて千人駆り集めてこよう」
  * *
 翌日。河北を発つ前に、燕律は突如召集されて戸惑い、また立腹する男たちに語った。
「皆、本当にすまない。だが、征途必ず奴らの手から逃れ、我らは急ぎここに戻り来るのだ。どうか私に任せてほしい」
 大総統の子息が、平民に深々と頭を下げる。もはや不平を口にする者は現れなかった。
「ありがとう、感謝する」
  *
 河北の城門を出ると、そこには百にも満たない騎馬兵が居るばかりだった。
 彼らの統率者としてアルハに残されて行ったのは、生来の臆病な性分を持て余し寝込んでいたのを首長に叩き起こされ、引っ立てられるがごとく連れてこられたシレムだった。
(心細い将帥だ…騎馬兵たちの信任もそう厚くないと見える。これは予想以上に早く帰れそうだ)
 燕律は内心ほっとしたが、すぐに気を引き締める。
(いや、今は油断してはならない。自身の責務を果たすためにも…)
  * *
 やがて、隊は山間に差し掛かる。燕律は行軍が乱れた隙をみてシレムに近付き、機をとらえてげきを構え、彼の背めがけ素早く突いた。胸板を貫いたはずの一撃を運よく咄嗟にかわしたものの、あっさり落馬し、抵抗らしいことも出来ぬまま、シレムはこの河北の若き勇士に討たれてしまったのだった。
 北胡の兵士たちも望んでやって来たわけでないと見えたので、燕律は彼らに言った。
「お前たちもまた、不本意のままここへ来ているのだろう。我々が郷里に戻るのを邪魔しないでくれるなら、お前たちには何の恨みもない。好きになさい」
「そんなこと言われても…」
 北胡の兵士の一人がつぶやくが、
「でも、今ノヤンに居られるのは、話が分かるヤッサ様だ。元々アルハ様のやりくちに賛成しておられなかった御方だし、おれたちを悪いようにはしないさ」
 そう言い出す者も出て、彼らは互いにうなずき合って北方へと走り去っていった。
 彼らの後姿が見えなくなる頃、河北の兵士たちを振り返って燕律が宣言する。
「今こそ、皆との約束を果たすときだ。さあ、河北に帰ろう」
  *
 河北への帰途、燕律は思案した。
(兵士と将帥の心が束ねきれていない今の首長は、このぶんでいけば秦に攻め入ったとしても大敗を喫するだろう。だが、彼らの話からすれば、その首長倒れたあとに立つ者はなかなか賢明で人望もありそうだ。ともかく、我々も今まで通りに中立と傍観を決め込んでいる場合ではないのかもしれない。どこに付くか、どこと通じるか…考えねばならないな)

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 北方の若き勇士

以上が篇ノ三の前半部となります。
後半部では、北胡と西方解放軍とが開戦と相なります…胃が…(おい)

やりたい放題のフリーダム方士・鄒頌の身辺事情が地味に明かされてきたくだりでもあります。彼は、つくづく次の篇ノ四も込で柳擶との師弟関係が何かと謎深い……
鄒頌が「中庸界の方士になりたい、でもその為には誰かに師事しなきゃならない」となったとき、甲喜には真っ先に「資質があるのは認めるが、(師匠になるのは)俺は降りる」と言われたんだよなと…んで断り切れなかった柳擶が引き受けることになったんだっけなぁと(苦笑)。そんな柳擶には彼の母たる水晶精にして中庸界の佳人・水晶宮の吉地キッチとの関係があり、彼の父もまたかつて自身の弟子だったという事情……
その辺は外伝に書いた話でもあり、後で出せたらと。。

ちなみにですが…
「西方にのぼる烽火」中でヤッサとボルテが振り返る100年ほど昔の話というのが、下天の章・二「撥乱反正譚」の中の出来事であり。
この、単身援軍を要請しにやって来たのが、悪帝打倒を目指す虎賁コホン永芳薫エイホウクン、後の戒謙帝カイケンテイ〉に協力を約束し、その為に自ら維家の当主となった維直イチョクであり。当時のノヤン首長の姪・アランは南方の地へのあこがれから兵士に紛れて胡城を越え…ノヤンには戻らなかった、という。
維直は将来を誓い合った女性と死別し、嘆きの中で草原で孤児の少女アランと出会い伃篁ヨコウという新たな名を与え、奏楽に優れた彼女の紡ぐ音楽で癒されていった。しかし、彼は首長の姪でありながら辛い思いをしてきたアランと分かり合える部分が多く、二人の心の距離は狭まっていき、後には(ノヤンから来た)アランを妻に迎えることとなり。
そして、草原で出会ったアラン・伃篁については…やはり虎賁に協力を約し自身が当主となった東方の有力氏族・伝賢テンケンが彼女を慕うのを知っていた維直は、伃篁を伝家の本拠地である河下かかへの使者に立て、託した伝賢への書状には「伃篁を頼む。彼女の幼稚で浅はかなところも認め許してしまわず、大人の女性に育ててほしい」と記したのであった。「わたしは、おじさまの大切な女性ひとには なれなかった」と伃篁は号泣し、伝賢は「誰よりも君を必要とする者が居るんだ。ほら、君の目の前に…」と語りかけるのだけれど…
 
古い絵で恐縮ですがイメージ画として…右上から時計回りに
・偃月
 占者・謀士として撥乱反正の戦いに臨む。後の太陰君。ちなみに叛乱軍で軍師となったのは虎賁こと永芳薫の異母兄にして中庸界の柳擶の許で兵法と方術を学んだ鄒玲スウレイで、彼が鄒頌の父である。
・維直
 維家当主となり撥乱反正の戦いに臨む。
・伃篁
 維直の養女。古代中国風FTな拙作には天才楽師がよく登場するが、こちら『群雄列伝 下天の章』でも同様で、下天の章・二「撥乱反正譚」では彼女がそう。奏楽の才で防御・攻撃補助だけでなく攻撃までこなしうる。
・虎賁
 第二部「撥乱反正譚」主人公。当時の皇帝の姪〈母が皇帝の妹〉。永芳薫、後の戒謙帝。
呉遜ゴソン
 呉家の幼い当主。中庸界の方士・不空の子孫にあたり、彼の補佐を受け撥乱反正の戦いに臨む。のち戒謙帝の夫となる。
 ちなみに不空についても述べておくと、下天に居た頃の名は永震エイシンといい、永王朝初代・興穏帝コウオンテイの異母弟で、易姓革命の戦いに加わっていた〈下天の章・一〉。終戦の後、南方の呉家再興のため江沿こうえんへ下った呉家の遺児・莉於リオと結婚。子女をもうけた後で中庸界に入った。
・伝賢
 伝家当主となり撥乱反正の戦いに臨む。兵乱の終結後、伃篁を妻に迎える。
・黄洸
 上掲のとおり半人半竜の将。天界に昇るが、その後に彼に訪れた再会と悲劇は前に述べたとおり…

昔々のアナログ絵で現状直しようがなくアレなのですが…「撥乱反正譚」主要登場人物

篇ノ二で初めて登場し以降も重要な役回りを演じる謎の青年・薊軻もまた、この「撥乱反正」時代の人物であり。なので、第三部での有力氏族の先祖にあたる人物らや不空、偃月らは戦友たちなので知っているという…。
 
前述の「二人のアラン」にちなみ名付けられた石橋というのが、篇ノ四に登場する渡誼橋とぎきょうだったり・・・忘れた頃に思い出していただきたく(おい)。

出さないだけで、下天の章・一にも二にも相応に濃ゆい人間・非人間ドラマが色々あります・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?