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拙作語り㊵『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』<Ⅵ>
一次創作、古代中国風伝奇ファンタジー小説『群雄列伝』。
内容その他の詳しいところは過去記事(拙作語り㉟)を見て下さいという話ですが、そのうちの『下天の章・三 群雄割拠譚』は、中央政権が衰退し地方の有力氏族が帝都と天下を窺うようになった群雄割拠の人間界が舞台。
今回から三回に分けて篇ノ四の前半部を再掲します。
毎度の断り書き。
R指定まではいかないのですが、PG-12くらいはあっていいのかなと筆者的には思っています。
更には、やはり15年とか前の筆なので、当世のあれこれに抵触するような表現もあるかと思いますけれども、基本「原文ママ」を通したことを念のためお断りしておきます。
古代中国風の興亡史=戦記ということもあり、多少残虐・悲惨なシーンが入るかと思われます。
どうしても残酷なのはダメ、という方は読み進めないほうが良いです。
以上、よろしくお願いいたします。
『群雄割拠譚』本編
篇ノ四
秋の声と共に、複数の勢力が次々と対峙する緊迫の時が幕を開ける。
(玉輅亡欠三年)
<序>目覚めの時
丁未〈ひのとひつじ〉、すなわち玉輅亡欠三年の早春。北方の草原に、親子とおぼしき二つの影があった。ふと、子供が座り込み、何かを拾って立ち上がる。
小さな手のひらが、微かに震える一羽の野鳥を包み込んでいた。生命が再び息を吹き返すかのような春がもうじき訪れようとしているのに、この小さな命はそれを見ることなく絶えようとしている。
生きる者には必ず、最後の時が訪れる。せめて、安らかに旅立たせてやろうという心なのだろうか…。
背の高い影が、子に呼びかける。
「委順…」
諭すように語りかけた若い男の声が、不意に起こった羽音に途切れる。子供の手の内で小鳥は羽根をはばたかせ、ほどなく元気に空へと舞い飛んでいった。
(そんな…はずが…)
死にかけていた命が、息を吹き返した。その信じがたい事実を前にし、男は何も言えず立ち尽くす。
『水を操り、治癒の才を併せ持つ…それこそが、彼女が天竜の血をひく者である証。天竜の一族が受け継ぐチカラです』
頭上からの声に振り仰ぐと、青い空には昼の白い月が浮かんでいた。
(太陰君…。では…彼女もまた、彼のように…)
それは、百年ほど時をさかのぼり、下天が後に『撥乱反正の戦役』と呼ばれる兵乱に包まれていた頃。この男・薊軻は、政道を誤った皇帝を倒すべく起った氏族たちが組織する連合軍の中に在った。いま太陰君と呼ばれる彼女もまた、謀士・偃月として陣中に居り、その夫君が『彼』だった。叛乱軍が中庸界から持ち出された特殊な術具により炎に包まれ「万事休すか」と思われたときに突如として空に現れ、雲を呼び雨を降らせて炎をかき消し、将兵を救った竜こそ、『彼』こと下天の将軍と天界の竜女の間に生まれた男児・黄洸であった。
『いいえ。あの子がその小さな体に宿すチカラは、彼の比ではありません。だからこそ案じているのです、下天が彼女に何を求めているのか…そして、これから繰り広げられるであろう戦いの中で、あなたのような存在が再び生まれてしまいやしないかと』
(私のような、存在…)
あの時からおよそ百年の時が経つのに、老いることもなく今も変わらない姿のまま生き続けている理由――それは、前線で流された天竜の血をはからずも口にしたことにあった。
肩に毒矢を受けたが留まろうとする黄洸を無理やり退却させ、矢を抜き毒を吸い出して吐き捨て、その場で出来うる処置をして本陣に帰還した。だが、偃月は負傷した夫よりも、彼を連れて戻った薊軻の口許にほんの少し残った血の跡を見て愕然としたのであった。これを境に、彼女の薊軻に対する視線が明らかに変わった。以降、深い悲哀の目を向け続けるようになったのである。兵乱が終結し、乳母や幼なじみの待つノヤンに発つ直前、彼は思い切って尋ねた。
「なぜ、あなたはいつも私を憐れむような目で見るのでしょうか。確かに、私は幼くして父母を亡くし、北方の異郷で育ちました。ですが、そんな己の境遇を嘆いたことなどありません」
彼を静かに見つめていた偃月は、しばしの沈黙のあとで彼に語りかける。
「あなたは聡い人ですね。そして、情に厚くて優しい人。けれど、あなたは見届けなければならない。この戦役で手をたずさえ協力してきた家系の者たちが、後に天下の覇をかけて相争う姿を。私には、中原と北方との…各地の氏族との板挟みになって苦悩するあなたの姿が見えてしまうのです」
「それは、どういう…」
「あなたは自分では知らないうちに『延命の種』を呑んでしまった。下天に在りながら他の者たちよりも遥かに長く生き、全て見届ける運命を背負ったのです」
「『延命の種』…?」
「黄洸が毒矢を受けたとき…傍に居たあなたは逆らう彼を強引に退却させ、その傷の手当をしたのでしょう」
「はい、ですが…」
そもそも黄洸は、偃月がこの戦いのために自身が彼の花嫁となることと引き換えに将軍として迎え入れた、元々は大河の支流で漁師をしていた若者だという。だが…
「彼は、天界の竜王の妹を母、永王朝開基・興穏帝と共に易姓革命の戦いを駆け抜け『太祖の剣』と呼ばれた将軍を父とする者…。彼の持つ天竜の血が、あなたの身体に入ってしまったということです」
あまりのことに口もきけない薊軻に、偃月は尚も続ける。
「今しばらくは何事もないでしょう。ただ、年を追うごとにその威力を痛感することになると思います」
そして、更に言葉をかけた。
「でも、忘れないでください。 あなたは、その重さに押しつぶされるほど弱くないことも…」
飲み下した、手指や口許に付いた血の量など、ほんの少量であったはず。それでも、この有様である。
(もし…)
飛び去る鳥を見送る幼女へと向ける視線が、厳しさを増す。
「…爸々〈※父の呼称。お父さん〉、なあに?」
何も知らない無邪気な幼子が彼へと振り向き、小首をかしげる。
今の世でも不老不死などというあだなる夢を求める者が居るかもしれない。そのような人物に、自身や彼女の存在が知れたらどうなるか。何より…
(自分ばかりが老いることも死ぬこともなく、親しい者達が逝くのをただ幾度となく見送り、果てには都市や山河さえその様相を変える…。だが、不老不死などどんなに虚しく悲しいものかに気付かぬ愚かな輩は、おそらくはどんなに時代が変わろうとも尽きることは無いだろう)
こんな思いをする、運命の戯れに翻弄される人間は自分一人で充分だ――
薊軻は思い切り、笑顔を作って幼女に一歩近付く。
「いや、何でもないよ…。行こう、委順」
「はい」
各地の氏族の、帝都を―そして次なる王朝を立てる者となる栄誉をかけた戦いが、もうじき始まろうとしている。彼らが正面からぶつかり合えば、幾人もの将兵が命を落とし、山や川、野や林が赤に染まり、その家族の嘆きに世界が満ちる。今、誰よりもそれを避けたいと願う。火難を退ける水瓶と、雷撃にも耐えうる肉体を持つ自分だ。各地の氏族の、互いに痛手ばかりを残すような潰し合いを避けさせることは不可能ではない。だが…
(この子をも陣中に置くことは出来ない…いや、してはならないだろう。しかし…)
既に眠っている時間も減り、自分自身の考えをしっかりと持ち始める年頃まで育った娘である。今までのように、黙って太陰君に預かられてくれれば良いのだが、そうもいかない予感があった。
「ねえ、爸々」
「何だろう」
不意に呼ばれ、問い返す。
「わたしをどこかへ置いて行ってしまったりしないわよね?ずっと一緒よね…?」
胸中を見透かされていたようで、薊軻は苦笑するよりほかない。
「…もちろんだよ」
彼は幼い娘の小さな背を押し、歩きだした。
<前>(1/3)
再びの旅立ち
さて、仕えていた掩哀帝の死によって帝都・河南を去り鄙に身を隠した毀棄と洪洵とに話は移る。既に、皇帝が世を去っておよそ二年の歳月が流れていた。その間、新たに帝都に入った東の伝晟を倒した者たちはお互い覇権をかけて争ううちに大半が自滅していった。唯一生き長らえたと言えるのは、賢明にも争いが起こるのを感じて早々に西へと去って行った営論という将軍だけだった。この営論とは優れた人物だったらしく、逃れた西方地域で北胡の恐怖支配に苦しむ民の心をとらえ、やがて北胡と対戦し、西方からその勢力を駆逐するのに成功した。その顛末は、篇ノ三で既に語ったところである。
しかし、そんなことも知らずに毀棄は来る日も来る日も畑を耕して汗する生活を送っていた。洪洵は、昼はたいてい一番近い町へ出る。近いといっても、子供の足では結構な距離だ。しかし、彼は嫌な顔も見せず毎日歩いて町へ向かうのであった。畑から得られないものは、彼が町で手に入れてきた。
* *
仲秋〈※旧暦八月〉のある朝、毀棄は庭先の奇妙な変化に気付いた。
「洪洵…」
「なあに?哥々〈※兄・お兄さん〉」
「こんな所に、樫の木なんてあったっけ?」
「…知らない」
「あったら気付くと思うんだよな、小さいものじゃないんだから」
「じゃあ、最初からあったんじゃないの?」
そう考えたほうが自然なのかもしれない。
「うん…やっぱり気のせいか」
いつものように洪洵が町へ出掛けると、毀棄は畑に出た。
*
昼になったので一休みしようかと家へ戻る途中、彼は庭先に見知らぬ人間の姿を見た。十五歳ほどの少女がかがみこんで、せっせと土いじりをしている。怒鳴り付けてやろうとも思ったが、それにしてはおかしな様子なので、黙って見ていることにした。先程から素手で土を触っているのに、その娘の手ばかりか、衣服も全く汚れていない。しかし、やはり気味が悪いので、注意しようと声をかけた。
「人の庭で何をやっているんですか」
「あら、もうお戻りになりましたの」
振り返って立ち上がる少女を見て、毀棄も驚きを隠せない。沈魚落雁・羞月閉花の容貌とは、正にこれを言うのだと思えた。その美しさに魚は水の中に沈み、空を飛ぶ雁も落ちる。月もはじらい、花も閉じるのである。確かにまだあどけなさは残っているが、それにしてもまぶしいくらいだ。
「申し訳ありません、ご迷惑をお掛けするつもりは無かったのに」
これほどの愛らしい娘に丁寧に謝られると、なんだか自分のほうが悪いことをしたのではないかという気にすらなってくる。
「謝るより、何をしていたか教えてください」
「はい。ここに牡丹を植えていました」
「…どうして」
「家の中心からみて、ちょうどここは坤〈ひつじさる〉…裏鬼門〈※八方位で言えば南西〉にあたります。未申〈南西〉の方位を吉相にすれば、家庭・職業運が付きますわ。坤に牡丹は吉ですの」
「…職業運って…」
毀棄は、ふと思い当たって訊いてみた。
「それでは、乾〈戌亥:いぬい、北西〉に樫の木は…吉相ですか」
「ええ!その通りですわ」
力を得たかのように少女はにっこり微笑んで、
「戌亥は、地位・社会運を司る方位です。これを良くすれば、運が向いてきますわ」
「これで分かりました。あの樫の木を植えたのも、あなたなのですね」
「まあ、ご名答」
そう言って、笑顔で小さく手を叩く。可愛いというのは狡いもので、何をやってもサマになる。
「余計なことをしないで下さい。僕には、もう仕官するつもりなんて全くありません。職業運にしろ、社会運にしろ…そんなもの、向いてこなくても一向に構わないのですから」
「さようですか…。わたしったら、とんだおせっかいを」
今度は、がっくりと肩を落として目を伏せる。誰かが見ていたら、「そんないい娘っ子を苛めるなんて」と大いに非難を浴びるに違いない。
「けれど、樫や牡丹を抜いてしまわないで下さい。せっかく根付いたのに」
「ええっ!?樫はともかく…牡丹はさっき植えたばかりじゃないですか」
「でも、かれはここが気に入ったから、ここに根を張るのだと言っています」
「…『かれ』?」
植物の気持ちが分かるとでも言うのだろうか。とにかく、変わり者であることに間違いはないらしい。
「申し遅れました、わたしは姜景瑛。普段は中庸界の養寿庵にて鼎俎奶々のお手伝いをしています」
「キョウケイエイ…長い名前ですね」
「いえ。名は景瑛で、姜は姓ですわ」
毀棄は面食らってしまった。年頃の女性が、自分の姓を独身男に気安く教えるというのは…やっぱりおかしい。
「それはいいのですが…やたらと姓名で名乗るのは誤解を招くもとになりますよ。僕は…」
「存じておりますわ、毀棄様…でしょう?」
彼女は再び晴れやかな笑みを浮かべて、
「またどこかでお会いすることがあるかもしれません。その時は、よろしくお願いいたしますわね」
こう言い残して、姿を消した。
*
夕方になって戻った洪洵は、庭に牡丹が新たに植えられていることに気付いたようだ。
「哥々…あれ、どうしたの」
「どっかのお嬢さんが、勝手に植えて去って行ったのさ」
「何それ。全然面白くないよ。近所のおじさんおばさんから貰ったんでしょ。最初からそう言ってよ」
半ば呆れたように背を向けて夕餉の支度を始める洪洵に、毀棄はムッとして、
「お前は、僕がウソをついてるって言うのか?」
「だってねぇ…こんな所に『お嬢さん』なんて来るはずないじゃん」
「来たんだよ、沈魚落雁・羞月閉花の…」
洪洵が、手を止めてつかつかと毀棄に歩み寄り、自分と彼の額に手を当てる。
「哥々…熱あるんじゃないの?」
* *
しかし、珍客はこれに留まらなかった。更に数日後、いつも通りに毀棄が一人畑を耕していると、
「おやおや…」
頭上から、人の声が降ってきた。振り仰ぐと、道服をまとった青年が宙に浮いた椅子に掛けるような姿で自分を見ている。
「天界の創草王のご子息が、このような所で野良仕事とは…」
天界の創草王、と言った。彼は自分のことを知っている。しかし、自分は彼を知らない。
「あの…僕をご存知のようですが、あなたは?」
青年は丁寧に尋ねる毀棄の謙虚さに満足したように笑って、
「なーるほど。師傅のおっしゃっていた通りだ」
そして地に静かに降り立った。
「『師傅〈※先生〉』?」
「そう、柳擶師傅」
「ああ…柳擶様のお弟子さまなのですか」
「ま、そんなとこです。私は鄒頌。鄙での暮らしはいかがですかな?」
「けっこう楽しいですよ。…大変なときもありますけど」
毀棄は手を休めて、にこやかに答える。しかし、
「…そうっスかぁ~?」
思いきり白けた顔をして、鄒頌が声を上げた。
「今、情勢は目まぐるしく変わっていますよ。当主の徳と国力の拮抗する勢力が乱立していますからね。打って出るなら今しか…」
だが、真顔で淡々と話す彼の前から、毀棄はとっくの昔に居なくなっていた。はるか向こうで鍬をふるっている。
「オイ、ちょっと!聞けよ、人の話!!」
後方から怒鳴る鄒頌に、毀棄は振り返らずに告げる。
「僕には関係のないことです。もう仕官するつもりもありませんから」
その冷めた口調に、鄒頌はからからと笑って指を鳴らした。
「ははは、またオセッカイしちゃったよ」
まるで落ち着きのない子供だ。柳擶も、こんな弟子を持ったのでは苦労しただろう…などと同情しながら、それでも毀棄は無言のまま地を耕す。黙々と畑に向かう彼を眺めて、鄒頌がつぶやく。
「しかし、それにしても…お一人でその調子では、まだまだかかりそうですなあ」
同時に右手をスッと上げる。
「土地を耕すというのはですね…こうでないと!」
彼がそう発した次の瞬間、大地がグモグモと振動を始めた。異変に気付いた毀棄が鄒頌を振り返る。
「な、何を!?」
だが、その声は地下で何かが爆発したかのような衝撃と轟音、舞い上がる土煙とに掻き消されてしまった。
土ぼこりが去ってみると、尻餅をついたまま痛そうに目をこする毀棄の姿が在った。
「これで耕す手間が省けたというものです。あとは種を蒔くも良し、苗を植えるも良し…ご自由にどうぞ」
満足げに鄒頌が告げるが、毀棄は恨みのこもった調子で小さく洩らした。
「…目に入った」
「はい?…そんなもの、泣けば落ちますよ」
鄒頌は至って無関心そうに言ってみせる。
「それでは。師傅には元気にしておられたとお伝えしときます」
「あっ、ちょっと!」
引き留めようと毀棄が手を伸ばしたときにはもう、彼の姿はどこにも無かった。
行き場のなくなった腕を下ろして大きく息をつき、
「一体…今のは何だったんだろう」
正に理解不能としか、言いようがない。
周囲を改めて見回すが、鄒頌の言葉―「これで耕す手間が省けたというものです」―は嘘ではなかった。
「せっかくだから、今日のうちに済ませとこう…」
彼はまた野良仕事を始めた。
*
「ただいまー」
夕刻になって帰ってきた洪洵は、満面笑みで言った。
「哥々、すごいじゃん。あれ…畑、全部やったんでしょ?今日は嬉しいこと多いなぁ、イキのいい魚も手に入ったんだ~。すぐごはんにするからね」
そして、鼻歌交じりで夕餉の支度を始める。
だが、毀棄はかなり浮かない顔をしている。
「…いいや。耕してくれたのは『小人の靴屋さん』…」
「へ?」
「だから、『小人の靴屋さん』が…」
またか、とばかりに洪洵が、
「ちょっとちょっと。どうして『小人』の『靴屋』が畑耕すの。せめてさ、牛とか馬とか…巨人とかがやってくれたって言ってよ」
小人の靴屋も巨人も大差ないような気はしたが、
「…まあ、そりゃそうだよね…」
毀棄は、もうこの件に関しては何も言うまいと思ったのであった。
同じ頃、發は久方ぶりに人里を回り、帰り道を急いでいた。さかのぼること四年前の七夕、中庸界の桂思君によって西岳に連れ出された維家当主・玉鈴と出会い、夫婦の契りを交わした青年である。
途中、彼が小さな橋にさしかかると、一人の老婆がたたずんでいた。
「真に事を構えんと欲さば、蘇の鄙にある貴子を訪ねるがよい。…大望を心に抱く、柳皇室の末裔よ」
すれ違いざま、嫗が言った。發は心臓が飛び出すかと思うほど驚愕した。
「なぜ、私のことを…」
色を失って尋ねる彼に、嫗は続ける。
「天はすべてお見通しぞ。お前が、胤王朝に敗れた歴史を気にして本当の姓を明かしたがらないことならば、私でも知っている。玉璽〈※皇帝の印綬〉の申し子ということも然り」
元来信心深い彼は、すぐに嫗の前にひざまずいて深々と頭を下げる。
「では、お教えください。私に、どれほどのことが出来るのか」
「まずは、先にも言ったように蘇の鄙へ赴け。そこに隠れている天界の貴子と共に行動せよ」
「天界の、貴子…?」
「さよう。かれは、天界の創草王の後継者にあたる…。天界でもかれに温情をかける者は多く、中庸界にもかれに親しみを持つ者が少なからずある。敵にまわすことだけは誰もが避けたいはず。味方に出来るなら、これほど心強い存在もおるまい」
「お待ち下さい。私ふぜいがお尋ねする権利などありませんでしょうが、何故天界の創草王の後継者という偉い御方がこの下天…しかも鄙におられるのでしょうか」
「その通りだ。かれはただ、己の能力に全く気付いていないがゆえにこの世界に置かれている…憐れにもな。お前には、共に在る者の力を引き出す資質も備わっていると私は見た。かれだけではない、一緒に暮らしている子供も何か秘めたる力を持っている。お前にとって大きな輔けとなろう」
「はい…」
發―いや、姓が明かされた今、柳發と呼ぶべきか―には、この嫗にとって自分はダシでしか無いのだろうと感じられた。彼女にとってこの下天の覇権云々はどうでもよく、その創草王の後継者が自身の能力に目覚めてくれることだけが願いであり問題なのだ。しかし、全く嫌な気がしなかった。
「分かりました。早速にも出立いたします…少姐」
嫗がピクリと反応する。老婆に対しての呼びかけに、少姐は使わない。若い女性に使うのだから、お世辞にしても酷すぎる。つまり、可能性は一つだと気付いたのだ。
立ち上がって歩き出し、彼女と再びすれ違う。そして橋を渡り切って振り向くと、
「お前…人間にしては鋭い目を持っているな」
老女などどこにも居ない。橋に立っているのは天衣に鎧をまとい、空色の長い髪を風になびかせる若い女性が一人きりだった。
「ならば…誰に教えられるまでもなく、出会うことが叶えば即座に『彼こそが天界の貴子』と悟るであろう」
その言葉だけを残し、彼女の姿は風に巻かれて消えた。
天災は忘れた頃にやってくる、という言葉がある。だが十日も経つと、毀棄は珍客が間をおかず二度もやってきたことを忘れてしまった。
またいつものように彼が畑仕事をしていると、自分と年齢があまり変わらないと思われる若者がやってきた。しかし、今度はどこからどう見ても普通の人間だったので、彼もあまり警戒しなかった。
「はじめまして、こんにちは」
人間の表と裏に関しては、かつて帝都に居た頃に嫌というほど見てきた。これは演技ではない、地だと彼は直感した。にこやかに話しかける様子も、見ていて非常に気持ちのよい好青年だ。こちらもついつい笑顔になる。
「こんにちは」
手を止めて答える。
「僕に何か?」
「ええ、ぜひ手を貸していただきたく思いまして」
反射的に毀棄が退く。
「申し訳ありませんが、僕は働きに出るつもりは…」
「誰にでも頼めることではないのです。周囲で話を聞いたら、あなたほどの適材も無いと」
しかし、余計に毀棄は退く。
「実は、我が家の蔵書の整理をしたいと思いまして。多くの人を雇うほどの財力もありませんが、量がかなりありますし。何より書物といえど紙より竹簡ばかりですので、分類と運搬の両方をこなせる人だと非常にありがたくて」
なんだ、人に仕えるのとは違うのか…それと知ったら気持ちが軽くなった。元々読書は好きだし、人助けだと思えば良いものだ。
「ああ…流出してましたか。黙っててくださいよって、お願いしておいたのに」
自分より年少の洪洵にばかり生計を頼るのが申し訳なく、毀棄は彼には内緒で県令長〈※県の長官。地方官〉から文書の代筆や書写を時折請け負っていたのであった。元々読み書きに堪能な教養ある人物はそう多くない世の中である。帝都から離れたこのような地では、尚のことだ。洪洵が留守にしている間にその邸を『売り込み』に訪ねたときにも、疑いの目を向けられたものだった。その場で実際に筆を取って書いて見せ、ようやく納得して貰えた。 本来は皇帝から任命されてこその県令であるが、永王朝が倒れて以降は自ら武装し周囲の有力者と繋がりを持ち、自身の権限と生活とを守ろうとしていた。この鄙には珍しい達筆でもあったので、何かと重宝されたのも事実なのだった。
「汚いところですが、家で詳しいことをお聞かせいただけませんか?」
青年がうなずく。
そういえばこの青年、誰かに似ている気がするのだが…誰なのかは思い出せなかった。
*
「どうぞ」
中に通されて、青年がまず名乗った。
「申し遅れましたが、私は柳發。西岳に住んでいます。あなたは毀棄さんですね」
「はい…あっ」
毀棄は思わず、はたと手を打った。一目で分かる程にそっくりではないが、持ち合わせた雰囲気や物腰が中庸界の柳擶とどことなく重なる。そう多くない姓であるだけに、遠くても親戚同士になるのだろう。
「何か?」
「ああ、いえ…ちょっと」
軽く咳払いして、
「蔵書の整理とおっしゃいましたね。僕は読書が好きなので、喜んでお引き受けしたいと思います。ただ…」
「気がかりなことでもありますか?」
「ええ。西岳というと、ここから距離がありますから僕一人だけ行くわけには…。今は町へ行って留守にしていますけど、洪洵という弟分みたいな奴と一緒なんです。彼は楽府〈※ここでは歌曲の意〉の書くらいしか読めませんし」
しかし柳發は笑って答えた。
「構いませんよ。楽府もいくつかあったと思いますから、そちらを見てもらえば」
「それは良かった。ありがたいことです」
こうして話はまとまり、ここを引き払う処理などが済み次第西岳へ向かうことを毀棄が伝えると、ひとまず柳發は地図を預けて帰っていった。
* *
夕方になって荷物を背負って帰ってきた洪洵に、開口一番で毀棄は言った。
「今度、西岳に引越しするから。身の回り片付けとくようにな」
当然、洪洵は声を荒らげて訊く。
「どうして!西岳に何があるの!まさか、ボクとの約束破って仕官しようだなんて思ってるの?」
「お山に仕官も何もないと思わないか?蔵書の整理のお手伝いだよ」
「…そっか、そうだったんだ。妙に外のほうとか片付いてると思ったけど、そういうことだったんだ」
数ヶ月でさえ手を入れずに放っておけば、田畑は荒れて復旧にも難儀する。相応の教育を受けていることが周囲に知れ渡っているのも気まずく、毀棄はこれを機に当地を去ることを決めたのだった。
しかし、それはそれと理解しながらも、疑いを捨てきれない様子で洪洵が更に尋ねる。
「でも…ここ、売っちゃうことないじゃん。そのつもりなんでしょ?哥々…。帰ってくるつもり、無いの?そもそも、その整理ってどのくらいの期限なわけ?」
猜疑心の塊と化している彼を見て、
「とにかく、『兄』を信じなさい。すごく感じのいい人だからね、お前もお会いすれば疑いなんて一気に吹き飛ぶさ」
「信じろ、って…そりゃ、信じてるよ。けど、最近おかしな幻ばっか見てるでしょ?哥々は」
この一言には少々カチンときて、毀棄は預けられた地図を広げて見せた。
「これ見ろ。これが証拠だ」
確かに、こんな地図は今までこの家で見たことは無かった。
「…うん、分かった。もう何も言わないよ…ついていきますよ、ついて」
諦めたように、洪洵が一つため息をついた。
早々にあばら家と畑を引き払い、近隣の人々に別れの挨拶を済ませて、二人は蘇の鄙を後にする。
「あっれぇ~?どうしたんですか、あんなに『仕官なんてしない』って言っていたのに」
毀棄には聞き覚えのある声が、また空から降ってきた。
「あなたは…鄒、頌さん…?」
「覚えていてくれたんですか。感激ですな」
鄒頌は地上に降り、彼らの正面に立つ。
「…だれ?この人」
自分の後ろに回りつつ尋ねる洪洵に、毀棄が言う。
「この間、畑を耕してくれた『小人の靴屋さん』…」
「…へ?」
「だから、この前の畑はこの人が…」
延々と二人だけで押し問答をしているもので、鄒頌も呆れたらしい。
「あのですねぇ…畑耕すだけが私の能じゃないんですけど。しかしながら、疑われるのもしゃくですしね、ここで見せてやっても良いですよ?」
「やってみやがれ」と言いかけた洪洵を取り押さえて、毀棄が答える。
「…いいです、やめといてください」
「あなたがそうおっしゃるのなら、やめましょう。しかし…」
また何か企んでいる。
毀棄は直感したが、とにかく次にどんな行動に出るのかが読めない。
「西岳まで、ここからどれくらいあるか分かってます?ここはだいぶ東の外れで、目的地は帝都より更に西の先。直線距離でも五千里はカタいでしょう?つまり、一日に千里を行くという名馬でさえ単純に計算しても五日かかるんですよ?人間の足だったら、何日かかると思います?」
「…かなりかかるでしょうね」
鄒頌は、正直に答える毀棄の目の前に人差し指を突き付けて、
「そんなこったろうと思いましたよ。私もちょうど手持ち無沙汰でぶらぶらしてた所ですから、送って差し上げましょう」
危機感を持った毀棄が真っ先に問う。
「また怪しい術を使うのですか?」
「何ですと?」
心外そうに鄒頌が口をとがらせる。
「『怪しい術』だなんて…由緒正しきものですよ、これは。遁甲をご存知ですか?まあ、知らないでしょうけど…ぶっちゃけて言えば様々なものによって姿を隠す術でして。一歩進めて、そのまま転移というか空間を移動するのに我々などは重宝がってます。柳師傅も使っておられたでしょう?」
確かに彼の言う通りだ。掩哀帝が自決して果てたあの時、柳擶は河南の霊廟から陵丘へ一瞬で自分たちまで一緒に移動させたのだから。しかし…
「師傅は五行では土の専門屋ですから、きっと土遁だったかと思います。他にも、木・火・金・水等々沢山ありますよ~。どれがいいですか?」
変ににこにこ笑いながら尋ねる鄒頌に、毀棄は首をかしげて訊き返す。
「お弟子様、でしたよね…鄒頌さん」
彼にしてみれば、師匠よりこなせる芸が多いのも疑問だったので、正直に訊いてみただけだったのだが、
「積もる話は今は抜きにしときましょ。…お、風が出てきましたね」
鄒頌はあっさりかわして、折しも吹いてきた風に乗せて何かを『使った』。
我に返った毀棄と洪洵が周囲を見回すと、景観もまるで違う所になっていた。
「哥々。山ん中だよ、山ん中」
「はいはい。ここが西岳ですよ」
鄒頌は毀棄が柳發から貰った地図を開かせて、
「現在地はここです。この距離なら、どんなにチンタラ歩いていっても日暮れまでには余裕で着けますね。じゃ、私はこれで」
去りかけた鄒頌に、毀棄が告げる。
「柳擶様に宜しくお伝えください、鄒頌さん」
「…宜しく、ですね。承りました」
去り際に何故か彼が苦虫を噛み潰したような表情になったのを、毀棄は見逃さなかった。だが、その理由を詮索する権利も義務も自分たちには無いのだと思い、考えるのを打ち切った。
* *
「…早かったですねぇ…」
思ったより遥かに早く二人が到着したもので、柳發は傍から見てもおかしなくらいにびっくりした様子だ。
「実は、私もここに戻ってからあまり日にちが経っていなくて…片付いてませんのでお恥ずかしい限りですけど、とりあえず中へどうぞ」
彼の後ろを歩きながら、洪洵が小声で毀棄に話しかける。
「ボク、哥々の言ってた意味が分かった気がするよ」
「そうだろ、そうだろ」
洪洵にうなずいて見せてから、
「柳發さん。来て早々で申し訳ありませんけど、書庫を覗かせてもらってもよろしいですか?」
「え?構いませんけど…熱心なのですね。一休みなされば良いのに。お疲れでしょう?」
不思議そうに柳發が口にするが、
「…いいえ、それが全然」
「うん」
二人が互いにうなずきあっているので、彼も信じるしか無かった。
*
書庫に入って、毀棄は目を丸くした。
「書庫というより…物置」
心の中で言ったつもりが、口をついて出てしまっていたらしい。柳發が苦笑しつつ、
「だから言ったでしょう。紙が無い時代のものが多いです、って。まあ、それだけではありません。歴史的に価値があると思われる工芸品などもここに置いていますから、どうしてもこうなります」
興味津々なふうできょろきょろと棚を見回していた洪洵が、何かを見付けた。
「この木箱、なに?」
そして手を伸ばそうとしたので、毀棄が止める。
「勝手に触るなって」
「ああ、それですか。かれこれ数百年は昔の扇が入ってます」
柳發がやって来て答えると、
「へえ、扇…。大きさから言って、巻物かなと思いましたが」
「数百年前の?古いんだねぇ。虫とか食ってないの?」
洪洵が、箱を好奇心で一杯の顔で上から下から眺めているので、
「大丈夫、保管状態はとても良いですからね。開けてみますか」
そっと柳發は箱を開いた。すると…
「また箱だ」
ため息交じりの洪洵を見て、柳發はちょっと笑い、
「更にこの中です」
一回り小さな木箱を取り出して、それも開いて見せた。
「扇…には見えないよ」
「どう見ても笄ですね…しかも女性もの」
二人の視線は当然、柳發に注がれる。
「これは…」
しかし、柳發は笄を取り上げるとしげしげと見つめ、
「…そうか、あれは夢ではなかったのか」
ようやくそれだけつぶやいて、感慨深げに目を閉じた。
「どうしたんだろう」
「さぁ…」
毀棄と洪洵は訳も分からず突っ立っていたが、
「すみません、私はすぐに河西へ行かねばならなくなりました」
大事そうに笄を箱にしまい直して柳發が突然言ったもので、二人は余計に訳が分からなくなった。
「どういうことですか?」
「話せば長くなりますが…果たさなければならない約束があるのです」
「ちょっと待ってください。僕らはどうすれば良いのですか?」
困惑しながら尋ねる毀棄に、
「あなたがたにも同行してもらいます」
拒絶は許さない強い口調で柳發が告げる。
中庸界の坤元洞そばにある庵でつれづれに書物を読んでいた柳擶が、意外な来客に嫌味なまでの笑顔で話しかける。
「鄒頌じゃないか。珍しいね、お前がここに来るなんて」
「仕方ありませんよ。創草王のご子息に『宜しくお伝え下さい』なんて言伝を承ってしまったんですから」
渋々やって来たのを全身から漂わせる彼の姿に、柳擶は吹き出した。
「『宜しくお伝え下さい』は社交辞令だろう。本当に面と向かって伝える、それだけの為にわざわざ…。お前、狡猾なようで実は正直者だな」
「へ…そうなんですか」
あまりにもザマが悪いので、鄒頌はとりあえず話題を変えた。
「そういえば、驚きましたよ。創草王のご子息、あなたの遠い親戚に仕えることになりそうです」
「本当か」
「ええ、まあ。遠目から見ただけですけど、ちょっと似た感じがしました」
柳擶が、窓の外へ視線を移す。
「…また、動き出しそうだな」
「ええ…」
同じように外へと目を向け、鄒頌はうなずいた。
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織女の許へ
慌しく旅支度を整える柳發の目が届かないところで、毀棄と洪洵の二人が話している。
「ねぇ…どうして言わないの?ボクら、旅のお供をするのにここまで来たんじゃないでしょ?」
「そりゃそうだけど…」
「何だよぅ。煮え切らないんだから、哥々は」
「なら、お前が言えばいいじゃないか」
「やだ」
「どうして?」
「言っちゃいけない気がするんだもん」
「僕だって同じだ…。理由もなんだか訊きにくいし」
「でも、哥々のほうが大きいんだよ?ここは年長者としてさぁ…」
「そうやって、自分がイヤなことを押し付けようってんだな。お前は」
足音が近づいてきたので、二人は顔を上げる。
「明日にでも出ますよ。大丈夫ですか?」
洪洵は無言の圧力に屈したように黙ったままうなずいたが、毀棄はせめて何か一つくらい解決させようと尋ねた。
「柳發さん。僕たちは蔵書の整理の手伝いに来たんです。あなたが留守にしているのに勝手なことも出来ませんが、かといって一緒に河西へ行かねばならない理由もありませんよ」
「ええ、その通りです」
「何故、突然河西へ行くだなんておっしゃるのです?」
まさか、最初から自分たちを何らかの目的で河西へ連れて行くつもりで呼んだのではないだろう。あの笄を見たときの、彼の驚きようは作ったものではない。
「織女を訪ねる…と言ったら笑いますか」
「へ?」
拍子抜けしたような声を上げる洪洵。
(あれの持ち主が、河西に…?)
まじまじと見ていた訳でもないが、簡素なようでいて凝った作りのかなり高級な笄だった。相応の身分ある人のものと思われる。しかし、その『織女』は何者で、彼とは一体どういう間柄なのか…
無言で考え込む毀棄の耳に、洪洵と柳發の会話が入ってくる。
「なに?柳發さんは牽牛ってこと?」
「そんなとこです」
「…ボクら、メチャメチャお邪魔虫じゃん。いいのぉ?」
まだ好奇心いっぱいの年頃ゆえだろうか、洪洵は既に河西という土地や、くだんの『織女』に興味を持ち始めているようだ。まんざらでもないような口ぶりになっていた。柳發が笑顔でうなずくと、洪洵は目を輝かせた。
(さっきまで、あんなに不満そうにしてたのに…もうそれか)
呆れたように洪洵を眺める毀棄に、柳發が尋ねる。
「了解してもらえますか、毀棄さん」
諦めたように肩をすくめて、
「分かりました。蘇の家は処分してしまったし、今となっては帰るアテもないですからね…。用が済んで戻ったら、その時こそは蔵書の整理をやらせて下さいね」
「勿論です」
* *
だが、西岳から河西まで二千里以上ある。蘇から西岳までの比ではないにしても、かなりの距離だ。明朝の出立を前にして、二人も早々に床についたが…
「あのお兄さん、また出てこないかなぁ…。ねぇ、哥々」
「って、誰」
「あの人だよ、ホラ…」
鄒頌のことを言っているらしい。
「しっ。ウワサをすれば影って言うだろ」
「何イヤがってるのさぁ。こういう時こそ頼るのが賢いってもんでしょ。呼んでみてよ、哥々」
しかし、毀棄は顔を引きつらせて、
「冗談じゃないよ…」
「なんで、そんなイヤそうな顔するの。仲良さそうだったじゃん」
「誰がだ」
彼らが、この自分たちの他愛もない会話に聞き耳を立てる人物が居たことに気付くはずもなかった。
* * *
満天の星の下、黙々と神経を尖らせて水晶柱を見つめる人影が西岳の断崖にあった。背後から忍び笑いが聞こえてきたので、彼も我に返る。
「親切にしてやった割には嫌われてるようだな、鄒頌」
「そうみたいです。心外だな~」
つまらなそうにつぶやく鄒頌に、話しかけたほうの青年が告げる。
「オセッカイは程々にしとくがいい。何せ、相手は次に創草王の号を継ぐ御方だからな…じきにお前など軽く超えられてしまう。お前も本当は分かっているんだろう?」
「ええっ?」
「『足』としてのお役御免も近い。だからと言って彼の覚醒の邪魔はしないようにな…これは忠告だ」
いまいち納得しがたい表情の彼に、青年の連れが言う。
「あの御方の姉上様が、かなりに気丈なようでしてね…不空にしても圧力かけられてて辛そうなんですよ。あなたは知らないでしょうけどね」
「そういう訳だから、あまり余計な手出しはしないが吉だぞ。柳擶の親戚とかいうアレも何か一癖ありそうだしな」
「『一癖』?何スか?」
「陽炎王自らが、弟君を預けるのに選んだのが彼らしい。何も無いワケがない」
甲喜と皓黔が立ち去り、また一人となる。
高貴な生まれの割に偉ぶらないところといい、完璧とか聖人君子といった言葉と程遠い、ひどく人間臭さを感じさせる性格や言動といい、どうも彼には惹かれる部分が多かった。だが、決定的なのは肉親に見捨てられた過去があることだ。
「『親の心、子知らず』とは、このこと…。お前など、どこへなりとお行きなさい!」
中庸界へと去った母に後事を託され、自分たちきょうだいの親代わりとなっていた叔母の、その言葉が今も耳に残っている。
(もっとも、俺の場合は自分が悪いんだけどさ…)
ため息をついて思う。
だからこそ、本人が直接悪さをしたでもないのに惨めな生活を送っている彼に寄せる同情は他の誰より深いと言える。それなのに、甲喜に釘を刺されてしまった。
「あぁ~あ、どうしたもんかねぇ」
季節は秋、夜の冷え込みも徐々に厳しくなっている。両手を頭の後ろで組んでため息をつき、鄒頌は中庸界の寝ぐらへ戻るべく姿を消した。
動き出す黒と青
中庸界の水晶宮に戻った鄒頌は、既に訪ね来て自身を待っていた客に驚いた顔を見せる。
「桂思君…。どうしましたか」
彼女は朗らかに笑い、
「気付いてたくせに。わたくしがここに来ていること」
「ええ、まあ。でも、何用で?」
問われて彼女は真顔になって声を落とし、
「お前は察知しているはずでしょう。北方の黒き狼と、東方の青き竜とが動き出そうとしているのを」
彼女の言葉に、彼は小さく肩をすくめる。
「北胡の王と伝家の当主が、遠からず軍を率いて在地を発つ…そういうことですよね。分かってますけど、だとしたら何ですか?」
「…どうする?お前は」
「どうするって…別に。今回のことは下天に全て任せ置くというのが天界の御意であり、俺も地母ほか天界の方々から何処の誰に手を貸せとも仰せつかってませんから」
「それで良いの?お前が慕っている創草王のご子息も、師である柳擶さまの遠縁にあたる青年も…そして、おそらくはお前が『お届けにあがる』と約束した河伯の息女も、河西の維家と浅からぬ繋がりを持つことになるでしょう?」
「…お一人では事を起こすのが不安ですか。道連れが欲しいのですか?桂思君」
しばしの間をおいて鄒頌が言うと、彼女は不満げに、
「道連れ、だなんて」
「でも、そういうことでしょう?あなたは、両軍が帝都・河南を目指したとき通るであろう維領を…その都・河西に在る『愛児』を守りたいだけだ。違いますか?」
心中を見透かされ、返す言葉も無く桂思君は黙り込む。
「ですが、ここで…母上の前であなたにそう願われては、俺も無下に断れませんね」
沈黙を破るように、彼が部屋の奥にある卓に据え置かれた水晶球に視線を移しながら告げる。
「いいでしょう。乗りますよ、その話」
桂思君も水晶球を見遣り、
「ふふ…そうね。ありがとう、鄒頌」
* *
自身の住まいへと戻る桂思君を見送ったあと、鄒頌は母晶と呼ばれる巨大な水晶柱の安置された間へ入り、扉を閉める。
「さて…何をどうしたもんかねぇ」
奥へと進み、彼が水晶柱に手をかざす。ほのかに光を発したのち、水晶柱が何かを映し始める。
*
新月の宵。ゲルと呼ばれる北方の民が暮らす家の前で、月のない星ばかりの夜空を見上げる二つの影がある。年若い男女のようだ。
「…話って何だよ、ボルテ」
「ノヤンの若き王よ。『上弦月の日の太陽が地平に隠れる前に滂水を渡れたならば、そのまま南進し帝都へ入ることも叶おう』と伝えて、五日が経った。出陣の準備は整ったか」
娘が、その姿には見合わぬ老人のような声で青年に問いかける。
青年はハッと目を見開くが、
「ああ、明日にでもここを発てる…。だが、『この出兵は本当に必要なものなのか』という疑問が残ったままだ」
「なにゆえじゃ」
「滂水とその周辺はどこの誰も領有を宣言していない場所で、河北も河西も監視の兵馬なんぞ置いてない。なのに何故、『渡れたならば』という仮定形なのか…。そもそも、『垣根』の南に軍を進める理由が分からない」
「何を愚かな。怖気づいたか?誇り高き騎馬の民を統べる王たる者が」
「そんなんじゃない。だが、己が欲に任せて南の連中に戦を吹っ掛けること…それにどれほどの意義があるのかと言いたいだけさ。争ってまで、何を手に入れたいのか。正直、俺個人としては南の世界に欲しいものなど何もない」
娘は目を細めて鼻を鳴らし、
「なるほど。父親とは全く違う、無欲な男ぞな…そなた。南にある、豊かな実りをもたらす土地も壮麗なる建物も、珍しき宝物も美しい女も要らぬと申すか」
「ああ、そんなもの要らない」
汚らわしいものでも払いのけるように彼が手を振ると、
「…ならば、『名誉のため』というのはどうじゃ」
「名誉…?」
「さよう。そなたも知っていよう…南に住まう者どもは、我らを野蛮な輩と…犬畜生にも劣るとすら罵倒していることを。悔しくはないのか?捨て置いてよいのか?」
「だが、下手に軍を動かせば余計にそう思われるじゃないか」
「聡いのう。だが、躊躇うことは無い。地上を一にまとめ上げ、それを統べる大王となり、南方の臣民の前で信義に満ちた堅実なる政を執って見せれば良い…ただ、それだけじゃ」
青年は黙ったままうなずき、娘に背を向けて歩き出す。だが、一、二歩進んだところでハッとして立ち止まり、振り向く。
「ボルテ…」
一足近付き、顔を伏せ首を横に振る彼女の肩に手を添えて、
「別に、お前が悪いんじゃない。『これ』が、お前の任務なんだろうから」
『でも…嫌。わたし、本当は…戦うなんて、してほしくない』
その姿に似つかわしい、愛らしい女の声が、彼の胸に響く。
*
「…ははぁ、なるほど」
鄒頌は水晶柱の前で右手を振り、何も映らなくなった水晶柱から目をそらして天井を見上げる。
今日は晦日〈※みそか、毎月の最終日〉。ごく近い未来の出来事―すなわち、明日を先取りして『見た』ことになる。
(明後日にも北胡軍は動く、か…。河西の維家は、河下の伝家の動きなら警戒しているが、北胡までは気が回ってないはず…。河北も同じだ)
自分が何をどうすべきかが、少しずつ見えてきた。
鄒頌の口許に笑みが浮かんだ。
* *
愛染宮に戻った桂思君は織機の前に座る。
(吉地…)
水晶宮の本来の主である水晶精・吉地と彼女とは、それぞれ水晶球と桂樹が年を経て人間の姿を取った化生〈※形を変えて現れること、化身〉、すなわち同類と言える。それゆえに、姉妹のような、旧友のような関係を続けてきた。吉地が下天の宰相に嫁ぐと決めて中庸界を去った、あの日までは――。
(天界にて愛欲を司る赤性王さまの御意を受ける、この愛染宮に在りながら…わたくし、実は何も知らないのかもしれないわ)
杼〈※機織り機械の横糸を通す道具〉を左右へ走らせ、布を織り進めながらも、思い起こされるのは吉地のことばかりだ。
出産とは、新たな命をこの世界へと送り出す、崇高にして多大な負荷を―場合によっては母に己が命を賭すことすら要求する行為であるという。
(わたくしたちは人間でも天人でもないから、それで命を落とすなんてあり得ないけれど…この今ある人型の身体を向こう何百年も失い、『心』も持てぬまま眠り続けることになる。それは、ある意味『死』と同じ…。でも、あなたはそれを知りながら、敢えて挑んだ…。下天に生きることを選び、自らの死までの刻限を自らの手で短く断ち切った彼の子を、彼の血脈をこの世界に残す、そのために…)
彼女は手を止め、深く息をつく。
(わたくしは、それほどの覚悟をさせられるだけの殿方と出会っていない…ただ、それだけのことかしら。ねえ、吉地…)
もちろん、答えは返らない。
「やだ、こんなこと考えている場合ではないわ。何か、手を打たなくては…。あの子たちを、彼らの地を守るために」
しかし、天界の総意は『不干渉とすべし』である。いずれかの勢力にのみ明らかに優位に立つような手助けもしがたい。
「ぎりぎりのところで情報を預け、彼らに判断させましょう。間に合うかどうかは『運任せ』で。それなら言い逃れも利きますし、問題ないかと思います。何より、俺たちがしようとしてることは、少なくとも赤性王や陽炎王にとっては益となるはず。大丈夫ですよ」
鄒頌の言葉が思い出される。桂思君は口を結び、決意と共に立ち上がった。
土は水に克つ、常ならず
翌朝。日が昇ると、柳發たちは早速西岳の家を後にする。とりあえず、戸締りは抜かりない。
「徒歩ですか…」
「私だけ馬を使ったら失礼でしょう。それに、どうせ常に厩に置いているわけではありませんからね」
柳發の目を盗んで、洪洵が毀棄にせがむ。
「だから言ったじゃない、やっぱり呼んでみてよ。この際、細かいことは抜きでしょ?」
「いや、それは甘えだろ。こういう時ばかり頼っちゃいけない。それに、何か大丈夫そうな気がする」
まんまとはぐらかされた洪洵は、正直のところ面白くない。
だが、驚いたことに山裾の小さな川に馬が二頭でくつろいでいたのだ。近寄っても、逃げる様子すら見せない。
「元々どこかで飼われていたのかな…。おとなしいし、人慣れしてる」
柳發が感心したように馬の首をなでる。渡りに舟とばかり、洪洵が言う。
「じゃあ、ボクらで乗っていっちゃおうよ」
「馬鹿。それじゃ泥棒だ」
毀棄はそう返したが、
「けれど、この辺りで見たこと無いですね…こういった種類は。貰ってきた話も聞きませんし」
「駄目ですよ、癖になりますから」
他の二人を残してさっさと歩き出す毀棄を真っ先に追ったのは、意外にもその馬たちであった。彼らは、しきりに何か訴えるように、この天界よりの落とし子に鼻先や頬を押し付ける。どこか「我らの背に乗れ」と言いたげにも見えた。
「きっと『連れてって』って言ってるんだよ、哥々」
「…そうなのかな」
「近くに村があります。そこで彼らのことを訊いてみて皆が知らないというのならば、私たちにも急ぐ事情がありますから、ひとまずお借りするとしましょう」
柳發の提案に、毀棄もうなずいた。
立ち寄った村で尋ねてはみるが、彼らのことを誰も知らなかった。そこで最低限の馬具を揃え、自分で馬の手綱を持ったことのない洪洵は毀棄と二人で一頭に乗ることにした。結局、意外なところで良い足が見付かったのであった。
* *
我ながら悪趣味だと思いながらも、どうも気になって彼らを追跡していた鄒頌は、この様子を見て頬杖をついて眉をひそめ、鼻を鳴らした。
「だから言っただろう」
振り返ってその姿を確かめるべくもない。またも甲喜が現れた。
「そうですかね…。あれ、突然現れたんじゃないですよ?どっかからやってきたって感じでスよ?」
「最初はそれでも上等だと俺は思うぞ。無意識のうちに召喚してるのだからな。しかし、それより凄いと思うのは…呼び寄せる気の全く無いお前もお供同然にしていることかな?」
嫌味たっぷりの含み笑いを残したまま、甲喜は鄒頌の攻撃を避けるべく立ち去った。本気の戦闘状態に入ったならば、自分が負けるのは分かりきっているからだ。
どこか楽しげに進む一行を眺めていて、鄒頌はふと気付く。
(そういや、あの馬…どこかで…)
おもむろに水晶柱を取り出し、目を凝らす。そこに映し出されたのは、小さな村の牧場だった。二人の男が、柵と厩舎の柱にもたれながら話している。
「居なくなってしまったな、あの馬…。ちょっと惜しいことした気分だね」
「言うなって。元々、あいつは『預かりもの』だから…『真なる主が現れ、かれ自身がそれに気付いて自ら主の許へ赴く時まで』と、謝礼付きで頼まれたもんだし…」
「だがなあ…自分の子供まで連れて行くこた無いだろうにな。片親を提供したのはウチだってのに」
(そっか、思い出した。あの灰茶の馬…以前不空さまが下天から連れて来て一時雷響洞に置いてたヤツだ)
*
こうして多くの者達の知らないところで、かつて呉家の庶子・呉燎と伝家の姫・浹媛を背に乗せ、江沿から呉領と伝領との境まで駆けた若馬が、再び歴史の表舞台に現れる。
「まだ名も無い若駒であるが、数年の後に下天にその名を轟かすであろう…『晨風、ここに在り』と」
星辰宮の方士・寿考の言葉が現実のものとなる時は、着実に近付いていた。
二千里もの距離は、騎馬であっても一日で行くことは出来ない。後はただ先を急いだ結果、周囲には丈低い草と幾らかの樹木とが点々と生い茂る以外何も無い寂しいところで一行は夕暮れを迎えてしまった。渋々ながら焚き火を起こし、今夜は野宿することとなった。
* *
夜も更けた頃、洪洵は何故か目を覚ました。朝まで時間はまだあるし、また眠りにつこうとしたとき、不思議な物音が聞こえてきた。耳を澄ませば、音ではなく誰かの声ではないか。しかも、一人二人ではない。かなりの大合唱だ。
野宿だというのに至って平和そうに安眠している二人をそっとしておいて、彼はいそいそと起き出すと声の主を捜し始めた。ある池に近付くほどに、声は大きく、はっきりとしてきた。
「『土は水に克つ』、常ならず」
その言葉を、呪文のように繰り返す一団が居るらしい。意を決して水面に目をやった洪洵は腰を抜かしかけた。無数の魚たちが、口々に唱えながら輪を描いて泳いでいるのだから無理もない。一種、異様な光景だったのは確かだ。
当然、彼は気味悪くなって立ち去ろうと身構える。だが、それを察知したかのように聞こえる詩が変わった。
「土を押しのけ 水は流れる 土を押しのけ 水は涌き出る
だけど水にも力が要るさ 『土は水に克つ』からさ
それでも俺らは待っている 今じゃここでは狭いから
どんな苦労が待ってても 広い世界に出たいんだ
だから俺らは待っている 奇跡が奇跡でなくなる日… 」
すると、その声に呼応するように膝ほどまである長い髪に透かし彫りの冠をつけた豪華な身なりの娘が現れて、傍に落ちていた木の枝を拾う。そしてかがんだまま、静かに地面にすっと線を引くと同時に唱える。
「『土は水に克つ』、常ならず。土を押しのけ、大河まで汨々〈※水が絶えず流れるさま〉と流れよ」
次の瞬間、洪洵は我が目を疑った。突如、池が増水したかと思うと、彼女の付けた筋に沿って轟々と音を立てて流れる川の源となったのだ。魚たちは嬉々として今生まれたばかりの川を下って行く。
先程までの驚愕はどこへやら、彼は冷静に今目の前で起こったことを整理し始めた。そして、奇妙なことに気付いた。あれだけ豪奢な衣服を着ていながら、この少女は金物の装飾を全く身に着けていない。新月の夜ゆえに星の明かりだけが頼りなので断言は出来ないが、あの冠も金銀の細工物ではないようだ。何故彼女は……
と、魚たちがあらかた旅立ったのを見届けて、娘は背筋を伸ばして顔を上げる。思わず後ずさった洪洵の足元で、小枝が折れて乾いた高い音を立てた。
気付かれた――洪洵の顔から血の気が失せる。ゆっくりとこちらを振り返る少女。そのとき、自分は悲鳴を上げただろうか、へたり込んでしまっただろうか、あるいは辛うじて逃げただろうか…何より、彼女の顔を見たのだろうか。どれもこれも分からなくなってしまった。
* *
「…何やってんだ、こんなとこで」
この数年間ですっかり耳に慣れた声で、彼は意識を取り戻した。
「哥々!」
かなり呆れ顔の毀棄に、反射的に泣きつく。
「恐いものでも見たのかい?洪洵」
柳發は優しく言葉をかけるが、あまりに的を射た問いであったので、また洪洵はびびってしまった。
「う、うん…恐いっていうか、実際あったら恐いもの。池で魚が大合唱しててさ、池から突然川がごうごうって流れ出して、それにのって魚がどんぶらこっこって泳いでくの」
「それは恐いねぇ」
毀棄はハナから信じていない。夢でも見ていたのだろうと言いたげな表情だ。
「夢なんかじゃないもん!ボク、見たんだよ!そこの池が…」
池というにはあまりに貧弱極まりない水溜りがあるだけだった。川が流れた形跡もどこにも見当たらない。だが、周囲の景色からすると、昨晩はここにあったはずなのだ。
*
先程毀棄よりは真面目に取り合ってくれた柳發ならばと、洪洵は駄々をこねて柳發と同乗することにしてもらった。
「洪洵、後で毀棄さんに謝らないといけないよ。本当に君のことを心配して、必死になって捜していたんだから」
柳發の言葉に、驚いて彼を見上げる。
「え…?」
「夜が明けたら君の姿が無かったわけだろう?『もう二度と会えなかったら』とでも思っているかのような顔をしていたよ、彼」
二年前の、あの日の朝の出来事が思い起こされた。先帝が自決した朝のことが。
「うん…分かった」
神妙そうな様子でうなずく彼に微笑み、柳發がにこやかに尋ねる。
「それから…何か、私に話したいことがあるんじゃないかな?だから、こちらに乗せてくれと言ったのだろう?」
「え?あ、うん…その通りだよ、柳發さん」
洪洵はあのときの魚の詩を歌って聞かせ、
「柳發さん、どう思う?」
「五行相克説によれば『土は水に克つ』はすぐ説明できるけれど…その後はどうなんだろう」
なるほど、勢いがつけば水だって土に克つことはあるのだ。何せ、『水は火に克つ』でも火の勢いが盛んで水が微量ならば屁にもならない。それこそ屁理屈と言われそうだが…。
「もしかして続きがあるんじゃないかな」
「きっと、『小さい池から大きい河に出れたんだ。奇跡が起きたぞ、嬉しいな』って続くんだよ」
「そうだね…河には河での苦労はあるだろうけど、喜びが伝わってくるようだ」
柳發は笑顔を見せた。
* *
「…これは予想以上に速いな。もう河伯の息女殿がお出ましか」
引き続き彼らをこっそり追いかけていた鄒頌がつぶやく。
(全く、何者なんだろうな…あの男は)
どことなく師に面ざしや持ち合わせた雰囲気が似ている、その男。彼の周囲では、何かが起こる。彼の傍近くに在ると、何か秘めたるチカラを呼び起こされるものらしい。
(息女殿の件だけに限らない。おそらくはあの御方も、そう遠くない未来、自らの内に宿した底知れぬチカラに気付くことになるだろう…。寂しいことだが)
鄒頌は、一人灰茶の馬を駆る毀棄の姿を遠目に見、大きくため息をついた。
父と子
その頃、河西では伝家が河下から軍を発し西へ動くとの噂で持ちきりだった。だが、これは単なる噂ではなかった。
南西の呉との国境地帯が安泰となった為、伝は他の方位へ動くだろうと予想がつく。元々、真っ先に帝都にのぼるのを実現した勢力であるだけに、欲や自尊心があるだろう。前回はこちらが徹底的に交戦を否定して黙って帝都への行進を眺めたからか、向こうからも放っておかれた。しかし、今回はどうだろう?考えようによっては、後々脅威となりかねない維にここで痛手を負わせておくのも上洛のいい手土産なのだ。かといって、こちらから戦いを仕掛けて何になるというのか――。
当主・玉鈴ほか、維家の高官たちは決断を迫られていた。
* *
「坊や」
河西の宮城の、官吏やその家族が住まう一角。邸の前を一人でぶらいついていた幼児を呼ぶ者があった。悪い人だと思わなかったのか、幼児は警戒する様子も無く、その女性に歩み寄る。
「ついておいでなさい。父様に会えますよ」
「爹々〈※父親。お父さん〉…?」
「ええ、あなたのお父様です」
躊躇いもせずに、若い薪売りの差し出す手を取る。幼子と薪売り娘の姿がすっかり遠ざかる頃、邸から一人の少女が出てくる。
「箑…もう中に入りなさい。…箑?」
血相を変えて周囲を見回すが、既に彼の姿は無い。
「箑!」
騒ぎを聞きつけて、今度は少年が現れる。
「どうしたんだ、恵貞」
「朔哥〈※サクにいさん〉!箑がいなくなっちゃったの…どうしよう…。わたしがちゃんと見てれば良かったのに」
少年は自分を責めている様子の少女をたしなめて、
「まだその辺に居るに違いない。とにかく捜してみよう」
道中多少の騒ぎはあったものの、柳發ら一行はとりあえず無事に維領に入り、途中の町で更に一夜を過ごした後で河西に辿り着いた。しかし、すぐ柳發は以前訪れたときとは違う何かを感じ取った。
「どうしました、柳發さん」
「いや…何となく」
具体的なことは分からない。だが、河西の宮城の南門をくぐって異変に気がついた。何故か皆慌てている。明らかに不穏な空気が流れているのだ。
(何かあったのだろうか…)
こうなると、悪い想像ばかりが頭をよぎる。彼女が当主の地位にないのであれば、仕官の口も無いだろう。だが、もう不遇の身の上にすっかり慣れてしまって、隠者もどきの生活も悪くないと開き直りかけていた。扇の箱の中に笄を見付けて約束を思い出したといっても、今は純粋に再会を望むだけなのに…。
ともあれ、ここまで来れば徒歩でも動けるので、宮城の大門から少し大路に入った厩舎に馬たちを預ける。治安に関してはともかく、人々の心は非常に不安定なものになっている。ついつい人通りの少ない路地に逃げ込むように足を向ける。
「だいじょうぶ?柳發さん…」
心配げに洪洵が尋ねる。毀棄にしても同じ思いだった。
その時、突然背後から子供の声が上がった。
「爹々…爹々!」
三人とも、意外な言葉に振り返る。見れば、三つ四つほどの子供が目をきらきらさせ、両手を広げて立っている。そして、少々心もとない足取りで駆け寄ってきた。
「何だ、この子」
目の前を通り過ぎかけた幼児を、洪洵が抱え上げる。まだ子供の上にどちらかといえばか細い体つきの彼にも楽に持ち上げられてしまうほどに、その子は小さかった。しかし、この幼児は最初こそ驚いて手足をじたばたさせていたが、すぐに抵抗をやめて尚も繰り返す。
「爹々…」
小さな乱入者の視線を追うと、その先にあったのは柳發だった。毀棄は冷静に二人の顔を交互に眺める。そして一つうなずくと、固まっている柳發に言った。
「柳發さん。『爹々』って言ってますよ?」
「そんな…。私には、そういう覚えは…」
『絶対に無い』とは断言出来ずにいる彼に続けて、
「でも、似てますよ?何となく」
「あ、言われてみれば」
洪洵も加わったものだから、柳發はもう困惑するばかりである。だが、彼はすぐに気を取り直して、
「きっと迷子なんだよ。家へ送り届けてこよう」
確かに、この子供の実の親がそこに居れば、彼の無実は立証される。
「ぼく、家はどこだい?」
「…あっち」
言われるままに、彼らは歩き出した。
*
「あすこ」
「…なかなかに立派な家だな」
遠回りではなかったが、かなり歩いたあとでようやくたどり着いた邸の門の前では、少年がそわそわしながら辺りを見回していた。
「達哥!」
幼児が手を振ると、少年が気付いて駆け寄ってきた。
「どこへ行ってたんだ。皆に心配かけたんだぞ、朔哥や恵貞が帰ってきたらちゃんと謝らなきゃダメだよ」
「はぁい…」
それから少年は三人に視線を移して、
「あなたがたは?」
かどわかしの犯人がわざわざ正体を明かしに戻ってくるとも思えないし、おそらくどこかで迷子になっていたところをここまで連れてきてくれたのだろうとは推測がついたが、それでも尋ねた。
「大路から少し入った路地でその子を見付けたので…」
「ありがとうございます。でも、それだけですか?」
この少年、十歳にも届かないだろうに、なかなか鋭いことを堂々と言ってくれる。
「君、その子のお兄さん?」
洪洵に訊かれて、少年は一瞬戸惑ったが、
「あなたがたに、そこまで話す理由はないです。さあ、箑。家に入ろう」
少年が渋る幼児の腕を掴んだとき、
「どうした、客か?甘達」
「あ、伯父様…」
ちょうど、職務を切り上げて戻ってきた管尚が通りかかったのであった。
「もしかして、管尚様ですか?」
「いかにもそうだが…おお、そう言うお前は!」
「ええ、毀棄です。こんな所でお会いできるとは…お久しぶりです」
「ということは、そこに居るのはあの時の…?大きくなったなぁ」
突然の再会で思い出話に花が咲く二人を、他の面々はぽかんと眺めている。
「とりあえず、中で聞こう。ま、入ってくれ」
一つ息をついて管尚が告げ、先に立って門扉を開けた。
時はもう夕刻となっており、ほどなく箑を捜しに出ていた管朔と恵貞や、この邸の主である文官の甘侑、その妻で当主の侍女としても働く謹悌も帰宅してきた。彼らは見知らぬ人間が上がり込んでいることに驚いたが、管尚に「私の知己だ」と言われて黙った。
客間で卓を挟んで椅子に掛け、管尚が話しだす。
「しかし、こんな所でまた会うことが出来るとは思わなかった。私は、ここに妹夫婦がいたので帝都から逃れてきたのだが…」
「妹さん…ですか」
「ああ。この邸も本来は妹婿のものでな…。居候というのも申し訳なくて、早くに新たに住まいを見付けて引っ越そうとしたのだが、子供たちが一緒がいいと言うもので今に至る」
義兄の知人とはいえ、見ず知らずの男三人を屋根の下に置いてくれる家主とその家族の度量の広さに感じ入ってしまう毀棄であった。
「そうだったのですか」
「まあ、私はそんなところだ。しかし…お前たちは、どうしてここへ来たのだ?」
「それが、正直のところ僕らにも分からないのです」
なぁ、と毀棄は洪洵に話を振る。
「うん。柳發さんが、書庫にあった笄を見たら突然『河西へ行く』って言い出して。気がついたら一緒に来てたわけ」
「笄?」
「ええ。あの彫刻された飾り石は黒珊瑚…だったのかな?しみじみ見た訳ではないですが、すごく凝った細工物だなと思いました」
一息ついて、毀棄は席を外している柳發へ話題を移す。
「管尚様。僕らが訊いて良いものかどうか分かりませんが、あの幼児の親御さんはどこにいるのですか?」
「さぁ…。少なくとも、我々夫婦や妹夫婦の実子ではない。ある時、妹が連れて来たらしいのだが」
「本人が居ないから言いますが、あの子…僕らの連れを『爹々』と呼んだんですよ」
「私に言われてもなぁ…」
すると、足音と共に一人の婦人が部屋に入ってきて尋ねた。
「それは本当ですか?」
「謹悌…お前、聞いていたのか」
「えっ…ええ…すみません。つい」
非礼を兄に咎められたかと彼女は少し身をすくめるが、管尚は大きくうなずいて言う。
「なるほど。大体予想はついていたが、これで確信が持てた」
* *
風に当たろうと外に出た柳發の袖を、箑が引いた。
「おさんぽ、いこうよ」
断ることも出来ず、彼は箑に手を引かれて再び河西の城下へ出た。日没が迫る頃でもあり、先程とは打って変わって人影もまばらだ。大路へ差し掛かり、北部の役所やこの地の当主の住まいのある地域が見えてくるところまで来ると、箑は口を開いた。
「爹々、ここを歩いてて、あっちを見て媽々〈※母親、お母さん〉に会いたいって思ったの。ぼく、見てたよ。もっと小さなぼくを抱いてた月が見せてくれたよ。だから、ぼく、来たんだよ」
ぎくりとした。思い当たる節が無いわけではない。
『これほど行き届いた行政を敷いている女性…出来ることなら会ってみたい』
『わたくし、玉鈴と申します。あなたのお名前は、何と? 』
「…暗くなるから、もう戻ろう」
しばしの沈黙を破ってそれだけ言うと、柳發は首をかしげる箑を抱き上げ、もと来た道を歩き出した。
頬に箑の髪が触れる。癖のない、真っ直ぐで艶やかな髪をしている。夢の中での出来事のように思っていた記憶が、甦ってくるのを感じた。七夕の夜を共に過ごした、今も心の中で輝き続ける愛しい女性との思い出が、次々と浮かんでは消えて行く。
懐かしげに微笑む彼に、箑が問う。
「どうしたの?爹々。くすぐったいの?」
「違うよ」
本当に自分の子かどうか、そんなことはもう気にならない。ただ、この幼い子供がいとおしく思えた。
「綺麗な髪だね…私とは大違いだ」
大きな手で優しく頭をなでられて、箑はとても嬉しそうに、無邪気に笑った。
* *
「確信が持てた、って…どういうことですか、兄上」
謹悌は、兄に先程の発言の真意を問う。
「お前の行動を見るに、彼の母親はただ一人に絞られる…」
そこまで告げると、管尚は毀棄と洪洵に言う。
「ちょっと、耳を塞いでいろ」
理解しがたいというか、理由が知りたいというかな表情をしながらも、二人は素直に従う。
「箑は当主様の御子なのだろう」
どう返答していいものかと謹悌はしばし躊躇っていたようだったが、部屋の近くに子供たちがいないのを見届けてから、
「ええ、その通りです」
「やはりそうか。こいつらの連れの若者が持っていたという笄の特徴が、以前当主様が失くされたものと重なったから、つい出てきてしまったのだな」
「はい…」
「どうしたものかな。こいつらに聞かせてもいいか?この話」
彼女は表情を険しくして黙り込んでしまった。だが、この話が本当ならば自分がとるべき行動は一つではないかと言い聞かせて、
「仕方ありませんでしょう。ですが、その柳發という方が居なければ…」
「そうだな。しかし…先程から一向に戻ってこないようだが」
洪洵が、真っ先に席を立つ。
「何だか気分が優れないから、風に当たってくるって言ってたんだ。ボク、ちょっと呼んでくるよ」
しかし、彼が駆け出す前に毀棄がその腕を掴んだ。
「魂胆見え見えだぞ。お前が出る幕じゃない、座るんだ」
「でもぉ…」
「すみません、せっかく迎え入れてくださったのに席を外してしまいまして」
噂をすれば影がさすとは、このことだろう。示し合わせたかのように、柳發が箑を抱いたままで部屋に入ってきた。
「もう大丈夫なの?」
洪洵に訊かれて、柳發は笑顔で返す。
「心配かけたね。だいぶ良くなったよ」
元々あまり人見知りはしない子だが、それにしても先程出会ったばかりの柳發にすっかり懐いている様子の箑を見て、謹悌が口を開いた。
「柳發さま、とおっしゃいましたね。まずはお座りください」
まず嫂である蝉娟を呼んで箑を預けて別の部屋へ連れて行くよう頼み、彼が椅子に腰掛けて居住まいを正すのを待って話し出す。
「婢子〈※本来は「ひし」と読み、女性が自身をへりくだって言う語〉は、この維領を治める玉鈴様のお側近くの御用を仰せつかっております謹悌と申します。…おかしいと思っていたのです。あの笄は、お嬢様の母君がどんなに生活に困ろうと決して手放さずに伝えたという大切な品。お嬢様も、父君や母君のことを思って、節句には必ず髪に挿しておいででした。それが、突然になくなってしまって。婢子が尋ねても、『あら、本当ですね。どうしたのでしょう…』としかお答えいただけませんでした。それを貴方がお持ちでした訳は大体察しがつきますが、貴方の口から直接お聞かせ願いたいの。よろしいですか」
柳發はうなずき、答える。
「四年前の七夕の夜に出会い、共に過ごした思い出代わりにと、私は扇を贈りました。その返礼としていただいたのです。あの時、『このようなものしかございませんが』とおっしゃっていたけれど…そんなに大切なものだとは」
そう語る柳發の素振りから、謹悌は気付いて尋ねる。
「貴方、今その笄をお持ちですね?」
「はい…」
くるんでいた綺羅の布から取り出して見せる。声には出さなかったが、『これに間違いない』と彼女はすぐに認めた。
「貴方の言う扇も、婢子はきっと見たことがあるでしょう。お嬢様は、何故か七夕が近付いてくると古めかしい扇を開いたり閉じたりしてみては空を見上げたり南西の山々を眺めておりましたから」
一呼吸おいて、更に続ける。
「それから、もう一つお尋ねいたします。何用でこちらにお越しになったのでしょうか」
「三年経っても仕官の先が無いようなら訪ねてみて下さい、とおっしゃられていたのを今更ながら思い出して…。ですが、今はただ純粋にもう一度お会いしたいだけです」
「お会いして、その後どうなさいます?また郷里へそそくさと戻られるのですか?」
どうも謹悌の口調が刺々しくなってきたとは管尚も感じていたが、彼女の主人への気持ちが分かるだけに黙って見守ることにした。毀棄や洪洵も余計な口出しをしてはいけないと無言でじっと座っている。柳發は一度毀棄に視線を移して、
「一度は戻らねばなりません。今度は彼との約束を果たさなければいけませんから。しかし、もう山の中に隠れているわけにもいかないようです」
「では、やがてはこちらに…?」
「そう願います」
これに至って、ようやく謹悌は笑顔を見せる。
「分かりました。明朝、必ずお伝えしましょう。今夜はこちらでお休みください」
* * *
以上、篇ノ四<前>の1/3ほどを再掲しました。
全編を通しての「序」が、いつ・誰が・誰に語った言葉かが、篇ノ四・序にてようやく判明したこと、気付いていただけたでしょうか?
篇ノ四は次回へと続きます。。
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