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拙作語り㊱『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』<Ⅱ>

一次創作、古代中国風伝奇ファンタジー小説『群雄列伝』。
経緯は過去記事(拙作語り㉟)を見て下さいという話ですが、そのうち最も分量を書いた『下天の章・三 群雄割拠譚』は、中央政権が衰退し地方の有力氏族が帝都と天下を窺うようになった群雄割拠の人間界が舞台です。
今回は篇ノ二を再掲します。
 
今回も断り書きを。
R指定まではいかないのですが、PG-12くらいはあっていいのかなと筆者的には思っています。更には、やはり15年とか前の筆なので、当世のあれこれに抵触するような表現もあるかと思いますけれども、基本「原文ママ」を通したことを念のためお断りしておきます

『群雄割拠譚』本編

篇ノ二

北方の有力氏族・家にまつわる出来事。
河西かせい西岳せいがく掩哀帝エンアイテイ二~九年)

北に小女帝立つ

 さて、時は永王朝最後の皇帝・掩哀帝が退位するよりも七年ほど前にさかのぼる。
 この頃、既に各地の有力氏族が次なる天下の覇たらんとして、それこそ虎視眈々と帝都を狙っていた。しかし河西の維家は少々違った。
維敦イトン様。他の氏族たちは帝都を窺い、着々と都へ上る準備を進めているというではありませんか。この維家が遅れをとってどうするのです」
 側にはべる女は力を込めて語るが、この当主・維敦は気のない様子である。
「またその話か…。何度も言うが、都に上ったところでどうなる?栄えるものは、いつしか滅びる。我はこの河西に生まれ、この地を深く愛して止まない。骨を埋めるのもまた、ここと決めているのだ」
「まあ、なんて志の低いこと!」
 至極不満げに女が声を上げる。
「あなたさまは、帝都がどれほどの所かご存知ないから、そんなことが言えるのです!」
「何だ、お前とて河南の地を踏んだことが無いではないか」
「踏んだことはございません。しかしながら、心をくすぐる楽しい噂はこの辺鄙な土地までも届くのですよ」
「辺鄙と!?」
 維敦が眉をひそめる。だが、女は強硬な態度を崩さない。
「ええ、その通りにございます。悔しく思われるなら、早々に軍を整え、あたくしを連れて帝都に上ってご覧あそばせ!」
 そう言い放つと、足音と鼻息も荒く退出していった。
 取り残された彼は、
阿媚アビの奴も、あれさえ無ければ…」
 一人密かにため息を洩らすのだった。
  * *
「何度申し上げてみたところで、いっこうにその気にならぬ。何て使えない男なんだろう」
 阿媚は思っていたことを正直に吐き出した。
 その時、部屋の外で物音がした。誰かに聞かれたかと青ざめながら、そろそろと戸を開ける。すると、廊には誰もおらず、ただ片手で持つには少々大きい紙の包みが一つあるだけだった。拾い上げて部屋に戻り、注意深く開いてみると、中には粉薬らしきものが包み自体の大きさに見合わないほどの少量だけ入っていた。
 ほどなく、彼女はこれが毒薬かもしれないという結論に辿り着く。
(これは天のお恵みかもしれない。次にもっと単純な男を当主に立てれば、あたくしの夢も叶うというもの…)
 愛らしい緋色の唇の端に、不遜な笑みが浮かぶ。
 
 夜な夜な人目を避けて河西の城から離れた草原で密談する影があった。主家の行く末を懸念する、維家の臣・甘侑カンユウ馬宗バソウの二人である。
「城内ではとても言えないが、維敦様は駄目だな…先が思いやられることこの上ない」
「同感だよ。あの程度の妾を寵愛しているようでは。まだ言いなりになったり政務を放棄しないだけマシだがな」
 彼らの為にも断っておくが、これは悪口や愚痴とは少々次元が違う。
「このままでは、永王朝が倒れる前に潰されてしまうかもしれん」
「それだけは何としても回避せねばならない」
 二人は額を突き合わせたまま腕を組み、小さく唸った。
「有徳の者を新たに当主に立てるがよいでしょう」
「うむ、やはりそれしか無いか…」
「しかし、誰がおられるだろう…。そもそも、有徳というのはちと抽象的すぎやしないか?」
「徳と一言で言いましても、色々ありますから」
「ええと、仁・義・礼・知・信…他には…」
「その五つだって、全部を併せ持つだけの人物といったら探すに苦労するぞ?この河西に居るか?」
「問題はそこだ…難しいな」
「仁・義・礼・知・信…翡翠ひすいに在るとされる五徳ですね。維家の直系男子だけに限って見ていれば難しいかもしれません」
「なに?傍系になら誰かふさわしい者が居るのか?」
「…ちょっと待て」
 何か、おかしい。
「なあ、馬宗…お前か?さっきから何かと核心を突くようなことを言っているのは」
「いいや、俺じゃないぞ。お前だろう?」
「違うから訊いてるんじゃないか」
「じゃあ誰だ!?」
「そんなはずが…。我ら以外にこの場所を知る者など…」
 焦って周囲を見回すが、人影はおろか、動くものの気配すら無い。
「おかしいな、一体だれが…」
「空耳にしてはおかしいか、俺ら二人とも聞いているし」
と、折しも吹いてきた風で岩だとばかり思っていた塊が揺れた。ひらひらと広幅の布がなびく。
「申し訳ありません、つい口を挟んでしまいました」
 立ち上がって布のかぶりを取り、均整のとれた体躯と顔立ちをした青年が彼らに近づく。
「お前、全部聞いていたのか!?」
 馬宗が凄みをきかせた声で尋ねる。
「聞いていたとしたら何でしょう?」
 青年は悪びれるでもなく訊き返す。
「このまま帰すわけにはいかん」
 言うより早く馬宗はげきを構えるが、甘侑が彼を制した。
「早まるな」
 そして青年に向き直り、
「あなたは何者なのですか?このような所におられるのには何か訳があるのでは」
「訳ですか…人が多く集まるところは苦手なんです」
 拍子抜けな返事に馬宗はムッとしたようだが、やはり甘侑に止められて黙る。
「人にはあまり知られたくないところがあるのですね…我々、けっこう似た者かもしれませんよ」
 笑顔で甘侑が言う。青年も少し笑った。
「あなた、なかなかに知恵のある御方と見ました。先程の続きをいたしましょう」
「構わないですよ」
 合点が行かなそうな顔をしていた馬宗も、甘侑がまた真剣に話し出すと目の色を変えた。
「翡翠に在る五徳と言いましたね」
「はい」
「翡翠…ぎょくか」
 馬宗は何気なく言い換えてみただけなのだが、甘侑には思い当たることがあったようだ。
「直系男子だけに限らず…玉…。そういえば…」
「なんだ甘侑。どなたかふさわしいお人が居たか?」
 期待のこもった眼差しで、馬宗が彼の答えを待つ。
「うちの家内が目をかけている玉鈴ギョクレイ様さ」
 予想だにしなかった人物が出てきたので、危うく馬宗は引っくり返りそうになった。
「維敦様の側室様のことか?何言うかと思えば…」
「いいえ、笑っている場合じゃありませんよ」
 青年が変わらず落ち着いた口調で注意する。
「そうだ、馬宗。非常に聡いし人徳があって、皆の信望を集めるだけの下地はある。何せ、『その才知と多芸多能ぶりが面白くなくて維敦様は近寄らない』という噂もあるくらいだ」
「だがなぁ…」
「良いではありませんか、他とは違った国を作るのも。女性の当主は、その指針の素晴らしい象徴になります」
「う、うーむ…そりゃそうだ、それでも…」
 尚も納得しがたい様子の馬宗の背を、甘侑が叩く。
「お前も考えが古いな」
「さようですかなあ…俺ってもう古いのかなあ…」
 二人を見て、青年は笑顔になった。
 思い出したように、甘侑が青年に尋ねる。
「そういえば、お名前も伺っておりませんでした。それがしは甘侑、これは…」
「馬宗だ」
 自分で名乗った馬宗に一度視線を移し、また青年を見据えて、
「あなたさまのお名前は何と?」
 本当のことを答えよ、という無言の圧力が感じられる。
「…薊軻ケイカ、です」
「薊…?元々は河北かほくの方なのですか」
「ええ」
 空を見上げて馬宗が、
「だいぶ月も西に傾いたな。そろそろ城下に帰ろう」
「ああ」
 それに答えてうなずいてから甘侑は薊軻に向き直り、
「では、我らはこの辺で。今宵のことは内密にお願いいたします」
「俺らばかりじゃない、親類縁者に罰が及ぶのは辛いでな。他言無用!分かったな?若いの!!」
「分かっています。私たちを見ていたあの十四夜の月に誓って、他言はいたしません」
 頭を深々と下げて、薊軻は言った。
 二人が馬に乗り、いざ駆け出そうとした時。
「あなたがたが手を汚す必要も無く、内患は消えるでしょう。新たな当主様の下でお励み下さい。ご活躍とご多幸をお祈りしています」
 見送る彼がそう告げた。二人は不思議に思ったが、時間も時間なので深く考えず走り去った。
 
 それから数日後の朝。維敦が自室で頓死しているのが発見された。
「ああ、維敦様…!!」
 阿媚はこの訃報を聞いて卒倒した。意識を取り戻して事実と知ると、大声を上げて泣いた。
 甘侑と馬宗は思わず顔を見合わせる。
「薊軻が言ってたのは、このことだったのか?」
「そうかもしれん…まあ、一つ手間が省けたのは良かったとするか」
「お前のほうは進んでいるのか?玉鈴様への根回しは」
「どうだろうな、家内に任せているから」
「おい!」
 咎めるように馬宗が声を荒らげる。
「ああ、けれど維繋イケイ様のほうは手を打っておいた。玉鈴様の才能を早くから認めて、不幸な境遇を憐れんでおられた方だから、すぐ首を縦に振ってくれたよ」
「重鎮殿を引き込んだか…さすがだな」
 世間一般ではすっかりお歳を召されたヨボヨボ爺さんほどの年齢の維繋は、維敦の祖父のいとこに当たる。テン家の後見役である伝諒テンリョウが、若き当主・伝晟テンセイからみて祖父の弟―つまり大叔父なのを考えると、それだけ遠い縁者が発言力を持っているのも奇妙に映る。これはひとえに維繋の人間的な凄さなのだろう。とうに七十を越したはずなのに背筋が曲がることもなく、今なお若者が束になってもかなわないほどの武芸の腕前を披露している。学問にも通じ、度量が大きい。公平ではあるが、「弱きを助け強きをくじく」といった義侠的なところも持っている。怒らせようものなら大変だとか…。
  * *
 かくして、後継者を決める集まりが開かれる。
「阿媚様、あなたが何故ここに?」
 甘侑は追い返そうとするが、
「あたくしは妾とはいえ前当主の寵愛を一身に集めていました。お前ふぜいに出席を拒まれるいわれなどありません」
 いまいち筋の通った論とは言いにくい。だが、甘侑も放っておくことにした。
「お好きになさいませ」
  * *
「さて…」
 予想通り、維繋が仕切ることになった。
「今、河南の永王朝は衰微し、これより激動の時代を迎えるであろう。皆も知っての通り、敦にはその時代を生き抜く『当主』という重い任務に耐えうるだけの子弟が無い。そこで、わしは考えた…」
 一同の視線が維繋に集中する。彼が一体誰を指名するのか…それで大方決まるからだ。
「問題なのは為政者としての手腕であり、人間的な魅力である。血筋などがどうこう言うのも愚かしい。…違うか?」
 否定する者は誰もいない。更に続ける。
「儂は、玉鈴こそ次の当主にふさわしいと思う」
 皆、一斉に驚きの声を上げた。
「た、確かに玉鈴様は女にしておくのが惜しいほどの優れた御方ではあります。しかし…」
「その通りです。女性を当主としたという先例などありません」
 家臣たちの狼狽ぶりが伝わってくる。
 あつかましくこの場に入り込んだ阿媚も、はじめは呆然としていたが、立ち上がって自己主張を始める。
「女が当主になって良いものなら、あたくしが立っても構わないではありませんか」
「黙れ!!」
 維繋が一言発した途端、一同が口をつぐみ、水を打ったように静かになる。正に、鶴の一声だ。
「我が維家としての先例は無い。しかし、史上初の女帝として立たれた戒謙帝カイケンテイがおられる。先例先例と言って昔にしがみついて何が楽しい?新しいことを始めるには、このくらいしてみるものだ」
「ですが…当の玉鈴様は了解しておられるのでしょうか?」
 おずおずと尋ねる者があった。ここでも維繋はぴしゃりと言う。
「辞退されても、引っ張ってきて無理にでも当主の座に坐らせるくらいの気概がなくてどうする?馬鹿者が」
「は、はい…」
 しかし、以降も納得しかねると意見する臣が数名出た。維繋が甘侑に視線を移す。
「それでは、こうしたらいかがでしょう。年限を決めて、玉鈴様が本当に当主となるにふさわしいか見極めるというのは…」
 最終的には、この甘侑の意見が通されることとなった。
  * *
 一方、当の玉鈴は儀礼ながらも喪服をまとっている。着付けを手伝いながら、謹悌キンテイが話しかける。
「お嬢様、お考え頂けましたか?例の件は…」
「考えるも何も…とても正気の沙汰とは思えません。何故わたくしなのでしょう。皆が納得してくれるはずが…」
 玉鈴は伏し目がちで答えるが、
「いいえ、大丈夫です。婢子わたし〈※本来は「ひし」と読み、女性が自身をへりくだって言う語。この物語では侍女等の自称として使う時あり〉の夫らを信じてあげてくださいませ」
 謹悌は、甘侑の妻である。夫から色々と聞かされていて、当然協力を要請されている。
「甘侑にも迷惑がかかります。それでは、あなたとて大変な思いをするでしょう?」
 これを聞いて、謹悌がうれしそうに微笑む。
「お嬢様はお優しいのですね。婢子わたしたちなど、たかが地方の一文官の家に過ぎませんのに」
 一度言葉を切るが、更に続ける。
「ですが、ご心配は無用です。維繋様もついておられます」
「繋おじい様まで…」
 玉鈴と維繋とは直接の血縁関係には無い。ただ、維家の直系よりややそれた筋の出ということは共通している。
「それはもう、維繋様は乗り気だとか。お嬢様なら、きっとこの河西をもっと素晴らしい地に変える事が出来る…婢子わたしどもは信じております。そのように弱気なことはおっしゃらないでください」
  * *
 時をおかず、親族・家臣での会議の結果が正式に彼女に届く。もはや、否とは言える状況に無い。
 こうして、維家が河西を任されてからの歴史の中で初めて、女性当主が誕生することとなった。
 
 そんな折、阿媚の侍女が廊で倒れているのが見付かった。既に息は無かった。
「外傷はありません。呪詛されたにしては、もがき苦しんだ形跡もないようです。何か盛られたのではないでしょうか」
 医術にも通じている臣・華弼カヒツが述べると、甘侑が尋ねる。
「何かとは…毒薬とでも言うのか」
「ええ、おそらくは」
「しかし、見たところ我々の知る即効性の毒では…こうはキレイにいかないと思うが」
「なかなかお詳しいようですね、甘侑どの」
 にっこり笑うが華弼はすぐ真顔に戻り、
「確かに、難しいところです。しかし…」
「『しかし』…何だ?」
中庸界ちゅうようかいになら、そういった意味で都合の良い薬を作れる者が居るかもしれないということです」
 思わず甘侑は吹き出してしまった。
「なんだ華弼、お前は現実主義者だと思っていたが」
「失礼な。これも現実なのですよ」
「分かった、分かった。失敬」
 少々むきになっている華弼をたしなめる。
「それにしても…」
 そうつぶやくと、甘侑は腕を組む。
「何か?」
「こういう論理的な思考を要する推理ものは駄目なのだよ、それがしは。内兄ないけい〈※妻の兄。呼称としては使わない〉なら何か分かりそうなものなのだが…しかし、内情を暴露するようなことは伝えられないし…」
「…さようですね」
 華弼が、がっかりしたように軽くため息をつく。
 彼は甘侑の義兄・管尚カンショウが帝都で司法官をしていることを聞いていた。お互いの立場や国家の情勢を考えると、相談は出来そうにない。
  * * *
奶々ナイナイ〈※本来は婦人の尊称または父方の祖母のことだが、ここでは老女の呼称として使っている〉」
 器用に縫い物の針を進めながら、少女が老婆に声をかける。
「なんだい、景瑛ケイエイ
 老女のほうは先程から薬作りに精を出しているようだが、手を止めて答える。
「あの、お届けした粉薬なんですが…」
「ああ、あれかい。お前には足労をかけたねぇ」
 愛娘を見つめるようなほくほく顔で、ねぎらいの言葉をかけられるが、景瑛と呼ばれた少女は不安げな表情のままだ。
「でも、奶々が粉の薬なんて作っているのを見たことなかったですわ…わたし。だから、いつものではないのかなと思って…」
 おずおずと尋ねる景瑛に、老女は鋭い視線をちらりと移し、
「…なるほど。お前、勘が良いねぇ」
 中庸界では鼎俎奶々テイソ ナイナイと呼ばれるこの老女は、動植物や鉱物とその薬効について造詣が深く、薬を作ることならかなりの腕前を持つ。中庸界に籍を置く女性としては比較的珍しく、下天に生を受けて自力で中庸界に入ったという経歴もあり、下々の者が病や飢えに苦しんでいたりすると何かと救いの手を差し伸べてしまう奉仕心あふれるお婆さまなのである。それもあって景瑛は「河西の城にこれを置いてきておくれ」と言われても、よくあることだとあまり気にしなかったし、いつもと同様、人目につかないよう密かに置いて逃げるように帰ってきた。だが…
「お前は知っているかい?毒にならない薬ばかりではないんだよ」
 途端、景瑛の顔から血の気が引く。
「そ、それじゃ…」
「誤解するでないよ。お前が人殺しの片棒を担いだのではないんだからね」
 しかし、景瑛は我慢ならなかったらしい。
「酷い…酷いですわ、奶々!!」
 そう言い終わらないうちに、泣きながら庵の外へ駆け出して行ってしまった。
 自分の娘同然に育ててきた、今の今までずっと従順でおとなしい少女であり続けていた彼女が初めて見せた『反抗行為』だったのかもしれない。鼎俎奶々は額を押さえて目を閉じた。
「…あたしゃ、あの子に酷いことをしたかねぇ…」
 戦乱のない平和な時代に生まれたはずの彼女だが、過去世で兵士として生死の狭間で戦った記憶を持っていた。人間が人間でなくなる極限状態を…狂気を見た記憶である。それが現世での幼い彼女をひどく不幸にした。狂人扱いされ、最後には棄てられてしまった。見かねた鼎俎奶々が小さな彼女の手を引いて、この中庸界の庵廬あんろへと連れて来た。
「…あれから、もう何年経つのだろうねぇ…」
 顔を上げて遠くを見やる。
 
 数日後、事態は意外な方向へ転換した。
 廊で死んでいた侍女が、主人である阿媚のところにあった薬を持ち出して飲んでいたことが分かったからだ。
「阿媚様ったらヒドいお方だわ、あれってきっと若さと美貌を保つ妙薬なのよ。あんなに厳重に隠しておくなんて…もう、自分ばっかり。ズルいわよねえ」
 そう、侍女仲間にこぼしていたらしい。
「なるほど。…華弼、お前は維敦様のご遺体も見たはずだな?」
「はい…あっ、そういえば…」
 甘侑と華弼は顔を見合わせて大きくうなずいた。
「あとは証拠だな!」
 突然の背後からの大音声にギクリとして彼らが振り返ると、そこには…
「馬宗!!驚かせるのはやめてくれ!」
「そうですよ、寿命が縮むと思いましたよ」
 この反応に馬宗は からからと笑って、
「いや、すまん、すまん」
 とりあえず、その場はお開きになった。
  * * 
 侍女の死により、阿媚は追い詰められて焦っていた。
「まずい、これでは何も得るものがないまま終わってしまう…」
 とにかく、ブツを処分しなくては。しかし、どこに?どのように捨てれば良いだろう?
 皮肉なことに、その焦りが彼女の破滅を早めてしまった。
「おや、阿媚様。こんな夜半にどちらへ行かれますか?」
 夜番の衛兵は、彼女が包みを持って人目を避けつつ夜中にふらふら歩いているのを見て不思議に思ったらしく声をかける。びくっと肩を震わせて包みを落としかけ、慌てて握りしめる。
「どこぞにお届けものですか。そんなものなら、どなたかに頼まれればよろしいのに。どれどれ、拙者が」
「余計なお世話です!構うでない!!」
 衛兵が伸ばす手を必死に振り払い、阿媚は駆け出した。
「どうされたのですかぁ、そのように慌てて…」
 兵士も食い下がらず追ってくる。体力が違う追いかけっこだ、勝負は見えている。ほどなく、阿媚が足をもつれさせて倒れ、包みは地面に転がった。
「これは貰って行くぞ、女狐」
 衛兵は包みを拾い上げるとひとしきり声を上げて笑い、一目散に逃げ去る。よくよく思い返せば、聞き覚えのある声だった。
(馬宗…か!?下役な衛兵のフリをして、あたくしが動くのを待っていたのか…)
 維家の武官の中でも、馬家の占める位置は大きなものがあるのだ。たかが一衛兵の証言とは箔が違う。豪胆ではあるが、あくまで謹厳実直で正義感の強い男だ。家人たちの大半が、彼の言葉を真っ先に信用するのは目に見えている。
 阿媚は自分の負けだと感じて、立ちあがろうともせずに地に膝をついたまま唇を噛んだ。
  * *
 翌日にはこれが露見し、早速に裁かれることとなる。
 だが新当主・玉鈴は、阿媚を当主に対する不敬罪ではなく、夫に対する不義罪にとどめようとした。当然ながら、厳しい裁断を望む家臣も出る。
「殺害ですよ?維領の臣民に示しがつきません、極刑に処するべきです」
 それが一人や二人ではなかったもので、玉鈴も一度評議を打ち切るしかなかった。
 彼女は、阿媚の入れられた牢屋へ赴く。
「今更、あたくしに何のご用?」
 ふてぶてしい態度の阿媚を前にしても、玉鈴は気分を害したようなそぶりを見せない。
「このままでは、あなたは不敬罪となってしまいます」
「あら、あたくしがどんな罪に問われようと、あなたは痛くも痒くもないでしょう?今や、お偉い当主様なんですもの」
 悪態をついたあと、ぷいと顔を背ける阿媚に、しかし玉鈴は心を込めて話しかける。
「仮にも同じ御方に妻妾としてお仕えしていた者同士ではありませんか。そのような…」
 これを聞くと、阿媚は声を上げて笑った。
「あんたと一緒にされちゃ、こっちが迷惑よ。結局、維敦様に一度たりともお声すらかけてもらえず、いまだに生娘のあんたなんかとはね!!」
 ここまで罵倒されても、玉鈴は何も言い返さない。寂しげに阿媚を見つめるばかりだった。彼女の後ろ手に控えていた謹悌が言う。
「馬鹿な女。折角せっかくお嬢様がお情けをかけてくださって、なんとか減刑できないかと努めていらっしゃるのに、自分からその救いの糸を断つようなことを平気で口に出すなんて」
「謹悌…」
「今、お嬢様はこの維家の当主です。当主をこれほどに口汚く罵ったことだけでも、充分不敬罪…極刑に値します。違いますか?」
「……」
「さあ、もうこのように薄汚いところに居る必要などありません。急いでお戻りになり評議を再開されるがよろしいでしょう。何なら、数の多い意見を判決として採ればよいのです。…婢子わたし、何か間違ったことを申しておりますか?お嬢様」
 小さく首を横に振り、玉鈴が答える。
「…いいえ…」
  * *
 かくして評議で多数決により、阿媚には当主への不敬罪が適応され、死刑が宣告された。
「これに、見覚えがありましょう」
 牢へ警吏と共にやってきた華弼が差し出した盆に載っていたのは、あの粉薬と水の入った杯だった。
 維敦を殺害した時には、自分でやったにもかかわらず気絶したり大声で泣いたりと名演技を通した彼女であったが、もはやそんな気力は残っていないようだ。
「ええ、大ありだわ。これを飲んで死ねって言うのね」
 自暴自棄が入った笑顔であざけるように告げる彼女を咎め、華弼は強い語調で返す。
「阿媚様。お言葉ですが、一口に死刑といっても様々です。しかるべき拷問にかけて罪の重さを味わわせてから斬首すべし、という意見もあったのですよ。それが無いだけ救いだと思っていただかないと」
 拷問と聞いて、さすがに阿媚も震えあがった。目の前にあるこの薬を盛られた維敦は、その後普段と同じように床について、二度と起き上がることは無かった。苦しんだ形跡すら全く見受けられなかった…。
「…これも、『お慈悲』ということですのね」
 彼女は謹んで盆を受け取った。
  * *
「このようなものがあれば、後々再び何かの災いの種になりかねません。ほんの少量も残さずに全て処分すべきです。その為には…」
 華弼の献策で、『中庸界の粉薬』最後の一匙は全て阿媚の許へ届けられたのであった。
 翌日、牢から遺骸が運び出されたが、それを遠くから目に涙を浮かべて見送る玉鈴の姿があった。墓に丁重に葬るなど許されるはずもない。刑場で処刑された罪人と共に、無造作に埋められることになろう。彼女は、一人密かに涙を流した。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ二 北に小女帝立つ
「北に小女帝立つ」挿画。以降各地で何度も登場することとなる薊軻〈ケイカ〉

月下氷人~薪売りの渡した橋

 癸卯きぼう〈※みずのと う〉の年、玉鈴ギョクレイは当主となって五度目の初月しょげつ〈※旧暦一月〉を迎えた。当初の年限は二年ほどのはずだったが、水をも漏らさぬ見落としのない素晴らしい統治手腕を見せ続けたため、そんなことは一年と経たぬうちに皆忘れ去ってしまった。
 彼女を推した維繋イケイらはこの上なく満足していたが、気にかかることがあった。彼女は確かにまだ若い。しかし、その後はどうなるのだろうか?大の男でもかなわない為政者の力量を見せてしまった今、彼女の夫として釣り合う者などそうそう居ない。何より、玉鈴本人が再婚を全く望んでおらず、「次には、どなたかふさわしい人を探して全権を委譲します」と言うのだ。維繋にしてみれば残念の一言に尽きる話であった。
 
 仲春ちゅうしゅん〈※旧暦二月〉に入ったある日、河西かせいを訪れた一人の旅人があった。年の頃は十七か十八といったところの青年である。
(…ここでは、臣民がとても生き生きとしている)
 ここには、重い荷物を息を切らしそうになりながら運ぶ老人の姿が無い。若い者が進んで手伝うからである。たくさんの人々が往来する市でも、親とはぐれて泣く子が居ない。親がしっかりしているというよりも、周囲の者の配慮によるものなのだろう。市でありがちな金銭騒ぎもそうそう見受けられず、乞食とおぼしき貧しい最下層の人々が、路地裏にも見えない。青年は城下の大路を眺め歩きながらため息をつき、政庁が置かれる宮城の北方へと視線を移す。
 永王朝が危ないと言われて久しい中、彼は各地の有力氏族の治める地をまわり歩いていた。それぞれに個性あふれる政治を行い、国力を付けている。しかし、彼がもっとも惹かれたのは国内の様子もさることながら、当主が自分と五歳ほどしか違わない若い女性だという河西を核とするこの維領だった。
(これほどの行き届いた行政を敷いている女性ひと…。一体、どのような御方だろう)
 出来ることなら会ってみたい…。だが、自分はあまりに無名の小者に過ぎない。とても叶いそうにない願いだ。
 早々に思い切り、青年は城に背を向け、来た道を戻り始めた。
  * * *
ケイ
 中庸界ちゅうようかい愛染宮あいぜんきゅうで、見事に染めぬかれた糸を機織はたおりにかけている桂思君ケイシクンに呼びかける声がある。彼女はその主に答える。
赤性王セキセイオウさま。何か、わたくしに御用でしょうか?」
 真紅の髪に瞳、更に額にも第三の目を持つ天人がはたの隣に現れる。手には弓箭きゅうせん〈※弓矢〉を持っていた。
「あわれな二人の若者に、『歓び』を遣わしなさいな」
 赤性王が何を言わんとしているのか、桂思君はすぐに気付いたらしい。
「弓箭は必要ありません。それに頼らずとも、互いの力だけで惹かれ合うことになりましょう」
「…あら、そう。それじゃ、今は立場の違う…のちには肩を並べる二人が顔を合わせるお膳立ては任せるわね。桂」
 にっこり笑って軽く手を振り、赤性王は姿を消した。
 一口に天人と言っても、実に様々なのだろう。天界にて愛欲に関わる感情を司る赤性王に限って述べるのならば、かなり気軽な感じのする女性らしい。他は…よく知らない。
「こんなことしている場合ではありませんわ…『作戦』を練らなくては!」
(ええ、グッとくるような『お膳立て』を…!)
 桂思君は機織りなんて後回しとばかり、やる気満々な様子で機屋はたやを出て行った。
 
 月日は流れ、七夕の日暮れどき。自室の前庭に用意してもらった供え物の置かれた小さな壇を前に、玉鈴が一人夕涼みをしている。河西は他の大きな地方都市より北のほうに位置するが、それでも暑い盛りである。夕闇に沈む中運ばれるひんやりした風が、肌に心地よい。
「当主様」
 呼ばれてそちらに目をやると、見知らぬたきぎ売りの娘が立って招いている。どこから入ってここまで来たのか不思議であったが、悪い人では無い気がしたので、とりあえず尋ねてみる。
「わたくしに、何かご用ですか?」
「ここでお一人で二星をお迎えになるのですか?なんて寂しいことでしょう。さあさ、参りましょう」
 声をかけられた娘は、にこにこ笑ってそう言うと、駆け寄ってきて玉鈴の手を引いた。
「お待ちなさい。行くといっても…いったい何処へ?わたくし、明日も朝からお勤めがありますから」
 しかし、彼女はたかが薪売りの娘にも丁寧に接する女当主を離さず、
「大丈夫です、明日の夜明けには戻ってこられますから」
 娘が手を上にかざすと、瞬く間に周囲の風景が変わった。今、自身が立つのは訪れたこともない山の中。狐につままれたような気持ちで玉鈴は辺りを見回すが、先ほどの薪売りの姿はどこにも無い。
 あてもなく歩いていると、すぐに一軒の屋敷に行き当たった。その家以外に、近辺には建物らしき建物が見受けられなかった。至って質素な作りだが、機能美と越してきた年季を感じる。宮城とは比べ物にならないが、庶民の家にしては立派なものだ。しかし、それよりも彼女が目を止めたのは、邸の様子に見合わないほどに立派にしつらえられた、牽牛星と織女星の二星を迎える座であった。あの薪売りの娘は、この座を用意した者と七夕を過ごせとでも言いたかったのだろうか…玉鈴はそう考えた。
「昔からの伝統を重んじる、古風なお方が住んでおられるのでしょうか」
 ほどなく、邸から誰か出てきた。二十歳に少し届かないくらいの、なかなかに凛々しい一人の青年だ。かなりの年配者を想像していた彼女は、思い描いていたのとはあまりにかけ離れた人物が現れたことに驚いた。
 青年は、低い垣根の向こうからこちらを眺めている彼女に気付いたらしい。
「このような辺鄙なところに…。何か世を儚みたくなることでもありましたか?」
「いえ、そうではないのですが…」
 困りながら答える彼女に、
「立ち話も何です。むさい所で申し訳ありませんが、よろしければお入りください」
「…はぁ」
 どこか渋々といった感じの返事をする。悪い人には見えないのだが、思えば河西の城近辺から出たことなど今まで一度も無かっただけに、見ず知らずの庶民の家に入るのも何故かためらわれたのだ。しかし、おそらく彼はこの家の主の息子か孫だろうと思い直した。
「お気遣い、ありがとうございます。では遠慮なくお邪魔させていただきます」
  * *
 だが、入ってみると他には誰も居ないらしい。
「あの…あなたはお一人で?」
 茶を淹れて差し出す青年に尋ねてみると、
「はい、そうですが」
 間が持たない。いつまで経っても置かれた茶碗を前に固まっている彼女を見て、青年が言う。
「お茶…何も入ってませんよ」
「え?」
「いや、眠り薬とか媚薬とか…怪しい薬が入っていると思われたのかな、と」
 彼は正直に思うところを述べた。玉鈴は何と返していいか分からずに黙っている。
「仕方ないですね。こんな所に一人で住んでいる人間の家に連れ込まれて…けっこう不安でしょう?助けを呼んでも誰も来てくれなさそうで」
「はい…」
 ついうなずいてしまった玉鈴であったが、青年は聞きとがめる様子もなく話題を変えた。
「ええ、こういう所ですから、非常に不思議な気持ちです。あなたは、私をもしかしたら辺境の化け物みたいに思っているかもしれませんが、こちらも同じなのです。普段は訪ね来る人も無いもので…正直化かされている気がします」
 でも、頬をつねると痛いんですから夢ではないんですかね…とつぶやく彼を見て、玉鈴が笑顔を見せる。青年もほっとしたようだった。
  * *
 座の前に運ばれた椅子に掛け、二人は星空を眺めながら話し始めた。
「先程もお伺いしましたが、何か家出したくなるようなことでもあったのですか?」
「違いますけれど…どうしてですか?」
「そうでもなければ、とてもここまで辺鄙で俗世と隔絶されたような所までやってくる人はいないからです。だから、あなたも何らかの事情があってかと」
 首をかしげながら言う青年に、玉鈴は疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「つかぬことをお訊きしますが、ここは何処ですか」
「えっ?」
 彼は明らかに驚いた様子だ。そして深く同情したらしく、
「あなたは、さまよい歩いた挙げ句にここに辿り着かれたのですか。それとも、道中の記憶を無くされているのでしょうか…。とにかく、よほどのことがあったようですね」
 少々違うような気もしたが、強いて言えば確かにそんなものかもしれない。そう考えて、玉鈴は本当の事情を説明するのをやめた。信じてもらえなそうでもあったからだが…。
 ふと、お互い名前も明かしていないことに気付いた。
「わたくし、玉鈴と申します。あなたのお名前は、何と?」
ハツです」
「…發?」
 何せ女性の姓を知るのが婚約・結婚への第一歩という世の中なのだから、女性が名だけしか教えないのはまだ普通だが、男性が姓名で名乗らないのは非常におかしい。当然ながら、彼女は再び尋ねた。
「それでは名だけでしょう。どうして姓を隠すのですか?」
「『賊軍』の姓だからですよ」
 あきらめたようにつぶやく青年の横顔を、次の言葉を待ちながらただ見つめていた。しかし、いっこうに彼は口を開かない。
「賊軍と言っても、あなた自身の罪によるものではないとお見受け致しますが」
「ええ、その通りです。遠い昔に私の『家』は、時の覇権争いに敗れた。…賊軍となったわけです。生き残った一族の中には、姓を変える者も多くありました。我が家ばかりが取り残されたといったところでしょう」
 言いにくいことなのだろう。これ以上訊くのはやめようと、玉鈴は思った。
「あなた、玉鈴とおっしゃいましたね」
「え?ええ…」
「河西の維家の当主様も、確かそのようなお名前だったかと。何かの偶然でしょうか」
 何故か發青年がうれしそうに言うので、彼女もからかうつもりで、
「偶然でも何でもありませんよ」
「それはどういうことですか?」
「わたくしのことなのですもの」
 しかし彼は笑って、彼女を叩くような仕草をした。
「またまた、ご冗談を」
「ここで冗談を言って何か得になるというなら、わたくしも考えます。ですが、その場限りの冗談で片付けられては心外です。事実なのですから。とても黙って聞き流してはいられません」
 少々むきになっている玉鈴に、發は並の女性ではあまり知らないと思われる律法や政治思想、兵法などの質問を投げかける。
「天下は一人の天下にあらず…以下、何と続きますか?」
「すなわち、天下の天下なり。天下の利を独占しようとする者は、結局は天下の覇権を失うのです。統治者は、いついかなる時も、様々な形で、すべての目に見られていると思わなければなりません」
「衣食足りて礼節を知る、といいますね」
「はい。国が豊かになれば、民衆も豊かになります。民衆が物質的に豊かになれば、心の豊かになる下地が出来ます。明日をも知れぬぎりぎりの生活を送る者たちに、やれ仁だ礼節だと言っても、通じるはずもありませんでしょう。彼らにとっては、それどころではないのですから。それで、わたくしはとにかく国内のことだけに専心して、対外に事を構えようとせずに政を仕切ってきたつもりです」
「信賞必罰の効用はどこにあるでしょう」
「すべからく公然と行われることにより、下々の者も感化されて彼らの中にも『正しいことをすれば賞され、悪いことをすれば罰せられる』という意識が植えつけられ、悪を改めて善へ赴くようになります」
「強い軍隊の必須条件は何だと思われますか?」
「兵の道は一に過ぐるものはし。一人なら自由に行き来するのが可能ですが、軍隊となるとなかなかそうはいきません。けれど、これをあたかも『一なるもの』のように動かせればどんな事態にも即座に応じることが出来、ひいては強いということになります。軍が一つになるためには、まず指導者が信頼されていることが条件となりましょう」
「少数の兵で多数の敵を撃破するに当たって、よく言われる作戦はどのようなものでしょうか」
「基本的に、自軍の勝利を確実なものにするには、自軍に有利に・敵軍に不利に働くような条件を探してそれを利用することです。日暮れ時に深い草の中に伏して狭い道で奇襲をかけるとも言いますが、これだけにこだわる必要は無いと思われます」
 すらすらと答えられて、さすがに彼ももう疑う気を無くしてしまった。真に本人であるか、そうでなかったら学のある何物かに化かされているのだと思えた。
「どうです、まだ足りませんか?」
 余裕を見せる玉鈴に、發が言う。
「…もういいです。こちらのほうが、先にボロが出そうですから」
 彼は、改めて隣に座る玉鈴を見た。本当に彼女が河西の当主だとしたら、外見的には自分が心に描いていたより、はるかに普通の女性だ。
「何でしょう?」
 視線に気付いて彼女が問うと、
「すみません…。実は私、以前河西を訪ねたことがありまして、城下や近隣の農村の様子を見ました。なかなか行き届いた政治をなさっているな、と感じまして…ここの当主様はどんな御方なのだろうと勝手ながら想像していました…」
「どのように?」
「もっと勇ましいというか…いかめしい御方だと思っていました。ですから、驚くばかりです」
 絶世の美女というには少し足りないのかもしれないが、それでも世間一般の基準でいけば十分『佳人』で通用するだろう。持ち合わせた才気とこれまでの政治的な成功とが、彼女をますます輝かせている。そう意識したら、何となく彼女の横に掛けているのがひどく場違いに思えてきた。彼が、ふいに席を立つ。
「いかがなされましたか?」
「私ふぜいが、あなたと並んで空を見上げているなんておかしな気がして」
 どこか自信なさげな彼に、
「あなたは、わたくしを過大評価しています。周囲の者たちが理解し助けてくれるもので、何とか当主としてやっていますが…一人の人間として見るなら、全くつまらない人生だと思います」
 そして、玉鈴は過去から現在に至るまでの自分の身の上を語った。肉親を早くに失い、安定した庇護をえることが出来なくて庶民と何ら変わらない程度の生活もしていたこと。普通血族同士での婚姻はしないものなのに、立場的に仕方なく当主・維敦イトンの側室になったこと。夫に顧みられることなく年月は過ぎ、彼は帝都への野心を抱いた愛妾に殺害されたこと。当主となるまでの周囲の応援と、これまでの援助とを。
「男にとってみれば、わたくしはひどくつまらない女なのでしょう」
 あきらめ口調の彼女に、發は改めて隣に座り直して話しかけた。
「そうですね。女に学など必要ない、父や夫の言うことに『はい』『はい』とつつましく従っていればそれで良いと思っている人も居ますから。なまじ頭の良い女性は鼻につくと毛嫌いする人も」
「では、あなたはどうですか?」
 尋ねられると、彼はにこやかに答えた。
「つまらないとは思いません。持っている才能を活かしておられるし、それがより一層あなたを生き生きと輝いて見せています。私は、とても素晴らしいと感じますよ」
 二人は、しばらく寄り添って星空を眺めながら言葉を交わしていたが、
「そうだ。ここにある蔵書をご覧になりませんか」
 發がそう言ったので、再び屋根の下へと戻った。
  * *
 書庫は、邸からそん〈※たつみ、南東〉へと延びる廊の先に建っていた。
 紙燭を掲げて中に入ると、見慣れないものが沢山積み上げられている。
「驚いたでしょう?紙が発明される前の、竹簡ものが多いんです」
 小さい頃から、読む書物といったら紙に記されたものではなく、専らこちらでした…と苦笑いしながら思い出話を語る彼に、玉鈴は尋ねた。
「あなたのお家は、収集家か学者の家なのですか?」
「いいえ…ちょっと違うかと思います」
 断った上で、彼女が竹簡の一つを手に取って開く。
「書物を読むには少々暗いですね…残念なことに」
 その刹那、戸が少し開いたかと思うと、ぱっと何かが放たれた。戸口のほうが、何故か明るくなった。
「蛍…?」
 無数の蛍が書庫を飛び回り、やわらかな光に照らし出される。
「あ…読めました。けれど…かなり古いものなのですね、良く分からない言葉も多いみたいで」
「そりゃそうでしょう」
 二人は顔を見合わせて笑った。
  * *
 七日月は新月と満月のほぼ中間にあたり、上弦月。昼間に昇り始めて日没のころ天高く昇り、真夜中に沈む。
 月が西の空から消えようとしているのに気付き、發は思い出したように玉鈴に尋ねる。
「疑っているわけではありませんが…あなたは一体どうやってここまで?今、河西はどうなっているのですか?」
「え?」
「ここは帝都・河南かなんより西へ千里ほどの西岳せいがく。河西とは二千里以上の距離があります」
「そうだったのですか。実は、わたくしにも分からないのです。七夕の宵の口…ほんの数刻前に、若い薪売りの娘に連れ出されて…『明日の朝には戻ってこられますから』と。我に返ったときには、ここに来ていました」
 發は少し怪訝けげんな顔をするも更に何か訊こうとはせず、
「夜更けの山は甘く見ないほうが良いですよ。ともあれ日が昇るまで、ここでお休みください」
「ですが…」
「ご心配なく。あなたは邸の部屋をお使い下さい。私は他所で寝ますから」
「他所というのは…」
「この書庫の隅ででも。この歳の男女が一つ屋根の下で夜を明かしたなら、『何もありませんでした』だなんて言ったって誰も信じないでしょう。まあ、人里離れた山の中ですから、実際のところは知る人も居ないのですが」
 先程書庫を照らし出した沢山の蛍たちが、次々と外へ飛び出す。
 蛍の光は、短い命を恋の相手を求め燃やす炎――玉鈴は彼の本心を確かめることにした。
「『天知る、地知る、知る、我知る〈※子は二人称代名詞。「あなた」〉』と言ったところでしょう。天地、あなた、そして、わたくし。四名も知っていれば、秘密は既に『秘めごと』ではなく…やがて世間にも、という訳ですね」
「ええ、その通りです。だからこそ、やましいことが無いようにと」 
「このような冷たく堅い床の上に寝ずとも良い方法が一つありますが…いかがなものでしょう」 
 彼女の言葉に、彼は驚いたような表情を浮かべた。しかし、それはすぐ笑顔に変わる。
「本当に良いのですか?それで」
「はい、あなたに異論が無いのであれば…あなたよりも年嵩で、形ばかりとはいえ一度よその男の妻になったような女でも宜しいのなら」
「異論なんて」
 興奮気味に、つい彼女の手を取る。
「ですが、父母も居らず、月下氷人げっかひょうじん〈※月下老と氷上人、共に縁結びの神。仲人のことも言う〉も夜の山中では…」
 悪戯を企む子供のように微笑みながら玉鈴が尋ねると、
「ならば、こうしましょう」
 發は彼女の手を引き、書庫から庭に出る。そして、その傍で空高く枝を伸ばす大樹の下で足を止めた。
「天空に在り、地上をあまねく照らす父。地に在り、幾多の草木を育てる母とに、申し上げます。私は、この桂樹に仲人ちゅうにん〈※なこうど、媒酌人〉となっていただき、この女性ひとと今宵結婚致します。どうか、御承知くださいますように」
 夜空を仰ぎ、続いて大地へ視線を落とし、再び顔を上げて大木を見てそう言い終えると、
「本来は、あなたの言う『若い薪売りの娘』さんこそが仲人となるのでしょうが…何処かに行かれてしまったようですから」
 真剣そのものなのだが、言葉遊びか謎かけを楽しむような含み笑いが見て取れる。そして傍に立つ彼女に目配せした。
「なら、わたくしは…」
 なおも宵闇の中を舞い飛ぶ蛍に向かい、
「あちらの世の亡き父母たちに会ったなら、伝えてください。『玉鈴は、こうして一人の若き才子さいし〈※才能や人徳のすぐれた人〉とめぐり会い、彼と夫婦になりましたよ』と」
 玉鈴は改めて發を見上げ、
「これで二人、邸の中で夜が過ごせますね」
「ええ、ありがとうございます。普段通り、自分のしょう〈※寝台〉で眠れます」
 顔を見合せて笑い、屋根の下へと肩を並べて歩き出す。途中、ふと玉鈴は足を止めて振り返る。
(父様や母様だけでなく…敦哥〈※敦兄さん〉にも伝えてね、蛍さんがた)
「玉鈴様。維敦様があなたを遠ざけておられるのは、あなたがお嫌いだからとか、あなたが同族の娘であるからではないのです。心から、実の妹同様に思っておられてのことなのです。あなたの生活を引き受ける為とは言え、このような手段を取ったことを今でも悔やんでおられるのですよ。 …あなたは実にお美しく、賢い。魅せられない男など、そうそう居りますまい。だからこそ、避けてしまわれるのでしょう」
 顧みられることのない生活を続けている彼女に、前当主・維敦が幼い頃より守役を務めてきたからこそ彼の心の内を知る老人が、いまわの思い出話として語った言葉だ。
 月が沈み、深藍色の空に残るのは満天の星。彼女は急いで發の後を追った。
  * *
 楽しい時が過ぎるのは早いものだ。気が付けば既に東の空が朝焼けに染まりつつあった。
「お別れするのは残念ですが…わたくし、戻らなければなりませんので」
 渋々別れの挨拶を切り出す玉鈴に、
「そうですか…。では、これをお持ちください」
 發は一つの桐箱を手渡した。開いて中を見ると、古めかしいが損傷もなく品の良い一本の扇が入っていた。
納采のうさい〈※結納〉代わりと言うには些細な品ですし、事後でもありますし…。七夕の晩に出会った思い出にでも」
「ありがとうございます。わたくしからも何か…」
 髪に挿していたこうがいを抜いて、彼へと差し出しながら、
「この程度のものしかございませんが、よろしければお持ちください」
「ええ。大切にします」
 そう言って笄を丁寧に受け取り、彼は尋ねた。
「最後に一つ言わせていただいてもよろしいですか」
「構いませんが」
「あなたは確かに聡い御方だ。けれど、一つ忘れています」
「…何ですか?」
「攻撃は最大の防御である、ということです」
 血相を変えて、玉鈴が詰め寄る。
「あなた…わたくしに対外戦争を仕掛けよとおっしゃるの?」
「仕掛けよ、とは言っていません。しかし、備えの必要性はあるでしょう。昨年、北胡ほっこが河北や河西でなく西方のしんを狙って侵攻したのは、私にとって『意外』の一言でした。河北は中立地帯でもあり、北胡の猛攻にさらされたなら到底耐えきれるとは思えません。そうなったとき、次の標的となるのは河西ですよ」
 分かってはいたことだ。それが時代の流れなのだということも。
「ですが、あなたはこれまで良い政治を行って臣民の心を掴んできました。国を守るためになら、皆喜んで働くでしょう。恐れず、自信を持って進んでください」
 うなずく彼女に、更に続ける。
「もし再来年の重五ちょうご〈※五節句の一つ、五月五日〉の日に日食か月食があったならば、この下天は大きな『事件』と『争い』とに見舞われる…。心しておいたほうが良いでしょう」
「…あなたは卜者ぼくしゃ〈※占いをする人〉なのですか」
「いいえ、違います。ただ、これは過去の膨大な記録から導き出されたものです。歴史が繰り返すと言うのなら、おそらくは…」
 玉鈴は、日食が新月に、月食が満月に起こることが多いと知っていた。だからこそ、さく〈※新月〉からぼう〈※満月〉へ向かい、いくらか肥えた眉月びげつ〈※三日月〉であるはずの五日にそれらが起こるとする彼の言葉には疑問が残ったが、別のことを尋ねる。
「わたくしからも、一つよろしいでしょうか。あなたはこのように人里離れたところに在りながら、そういった情報にはとても明るいようですね。何か大望でもあるのではないですか?」
「大望…そういうものでしょうか」
 小さく息をついて、彼が続ける。
「母が、いまわの際に言いました。『お前は、玉璽ぎょくじを賜る夢を見てみごもった子。けれど、お前の重荷になるだろうと、今まで誰にも話しませんでした。今、わたしは消えゆく身ですから伝えることにしましたが…最期だと思って…《お話》だと思って許してくださいね、發』と…」
「玉璽を…」
 皇帝の印綬を賜る夢を受けて生まれた子なら、かつての歴代皇帝の誕生譚にも引けを取るまい。実際、彼にも君主としての優れた資質があると玉鈴には感じられた。
「勿論、この母の遺した話ばかりではありません。野心というのは、誰にでもあるものです」
「でも、今は不遇の中なのですね」
「ええ」
 玉鈴は少し考えていたようだったが、顔を上げると、
「それならば、三年経っても機会に恵まれないときは河西に来てわたくしを訪ねなさい。わたくしの一存ではどうにもなりませんが、あなたほどの資質があれば、きっと皆も認めてくれると思います」
「お気遣い、感謝します。…心に留めておきます」
 發が玉鈴の手を取って目を閉じる。
「さようなら。またいつか会える日まで」
 彼女は、彼の手に自分の手を添えた。
  * *
 戻り方など分からなかったが、とりあえず来た道をたどって歩き始めると、視界の端のほうにあの時の薪売りが見えた気がした。相変わらず、にこにこ笑っている。…覚えているのは、そこまでだった。
  * * *
「お嬢様…お嬢様!」
 謹悌キンテイの声で目が覚めた。気付いてみれば自分の部屋の寝台で、いつものように横になっている。
「いかがなされましたか。いつもなら日の出までにはご自分で起きられるのに、今日ときたら…」
 この言葉に焦って跳び起きて尋ねた。
「い、今…何刻なんどきですか?」
「ご安心ください。まだ政務が始まるまで時間はあります」
「そうでしたか…」
 ひとまず安心して、身支度を整えながら彼女はあれが果たして夢だったのか現実だったのかと考えた。よほど気難しい顔をしていたのだろうか、謹悌は不思議そうに見ている。
「何か、悪い夢でもご覧になりましたか?」
「いいえ…むしろ楽しい夢でしたが」
「ならば、もう少し明るいお顔をなさいませ」
「ええ…」
 謹悌が退出してから、彼女は扉から一番遠くにある几案きあん〈※机〉の上に、あの桐箱を見付けた。中を覗いてみると、見覚えのある扇がしっかりと納められている。
(夢ではなかった…)
 複雑な気持ちで箱を手に取り、そっと胸に抱いた。
 
 秋が過ぎ、冬を迎える頃。主人の体調がおもわしくない本当の理由に気付いた謹悌が、周囲に誰も居ないのを確認して玉鈴に問いかける。
「お嬢様。どうして婢子わたしにまで隠し事をなさるのですか」
「隠し事などしていません」
 玉鈴は否定するが、
「いいえ、隠しておられます。事情は存じませんが、婢子わたしにも分かることが一つだけあります。父親が誰であろうと、その御子はお嬢様の子であることに違いはありません。時期も時期なだけに、伏せようとお思いになるのも当然のこと。婢子わたしが必ずや何とかしてみせます」
 謹悌には、自身の経験もあって彼女が懐妊しているのが分かったのだ。驚く彼女に、更に続ける。
「ですから、後は何も思い煩うことなく、お体を大事になさいませ。生まれ来るお子様の為にも」
 謹悌の優しく頼もしい言葉に、玉鈴も胸の内を明かす。
「…ありがとう。そして今まで黙っていたこと、ごめんなさい。あなたにも言えずにいました。父の…彼の素姓が、わたくしにも分からないので…」
「婢子はお嬢様を信じておりますから。…きっと、素晴らしい男性ひとなのでしょうね」
「ええ…。本当に、ありがとう…謹悌」
 
 父の素姓が謎のままという子を抱えた主人の為に、彼女はあちこち走り回り八方手を尽くしたようだった。その甲斐あってか、知る者もほぼ居ないまま、翌年の春に玉鈴は密かに男児を出産した。父とを結ぶ扇になぞらえてソウ〈※扇と同訓の字〉と名付けられたその赤子は、甘侑カンユウと謹悌夫妻の家で育てられることとなった。
  * *
「母様、おかえりなさい」
 長女の恵貞ケイテイが家に戻った母を出迎える。すぐに、母が抱える物に気付いて興味津々な様子で尋ねる。
「それ、なあに?」
「教えてあげるけど、タツを連れてきてからね」
「はぁい」
 そして、向こうの部屋へ消えたと思うと、ほどなく弟の甘達カンタツを引っ張ってくる。気乗りしないのに無理矢理連れてこられたらしく、少年はかなり不機嫌な様子だ。
「何だよぅ、恵貞のバカ」
「誰がバカよ!」
 にらみ合う二人の間に立ち、
「こらこら、喧嘩はやめなさい。笑われますよ」
「笑われるって、誰に?」
「ほら」
 謹悌が、抱えていた布のくるみを子供たちの前に差し出して見せた。
「あ、赤ちゃん…」
 さすがに恵貞は女の子だし、お姉さんだった。
「かわいい!どうしたの、母様」
「うちで預かることになったのよ」
「わぁ。うれしいな」
 手放しで喜ぶ恵貞とは対照的に、甘達は黙ったまま眠る赤子を見つめている。けれど、とてもうれしげな表情だ。
「達。お前も、この子を弟と思って。兄としてしっかりね」
「うん!」
 大きくうなずく彼に、謹悌は微笑んだ。
「母様。わたしにも抱っこさせて」
「ぼくが先だよ」
「わたしよ!」
「全くもう…」
 抱っこする順番でも争う姉弟を前にして、謹悌も苦笑した。しかし、温かく迎えてもらえたことに変わりはない。ほっと胸をなでおろす。
  *
 しかし、玉鈴はソウについて全てを謹悌一家に任せたわけではない。手が空くと宮殿の自身の部屋に連れて来てもらい、自ら進んで世話をした。
  
 月日は巡り、再び七夕の夜が訪れる。昨年と同じように自室の前に設けられた壇を前にして椅子に腰掛け、玉鈴はソウを膝に乗せて空を見上げていた。恵貞の甘達の幼い姉弟は、ソウと一緒に七夕を祝うつもりだったので、ひどく残念な思いをしただろうが…。
 また、あの薪売りの娘が笑いながら現れないだろうか。そんなことを期待しながら、彼女はただ星空を眺めるばかりだった。
「牽牛と織女でさえ、晴天ならば年に一度は会えるのに…」
 ソウには、明らかに彼の面影がある。
「わたくしとあなたを隔てる天の川…今年は雨で渡れないのですね、發」
 彼女のつぶやきは、吹いてくる夕刻の涼風に流されて消えた。
 
 その翌年の秋、帝都・河南で大きな動きがあった。東の河下かかから伝晟テンセイが軍を率いて河南に入り、掩哀帝エンアイテイが退位した。その後、ほどなく伝晟は刺客に寝首をかかれて二十五歳という若さで命を落とす。刺客を差し向けた伝家の外様の臣たちは、覇権をめぐって対立し、やがて血で血を洗う争いへと発展した。
 さかのぼること二年前、發が言った「もし再来年の重五の日に日食か月食があったならば、この下天は大きな『事件』と『争い』とに見舞われる」が、多くの人に知られずに起きた部分日食と共に現実のものとなったのである。
 この事件は、河南の宮城に住まう官吏や商人とその家族の生活をも揺るがした。当初は帝都に留まり、新たな皇帝のもとでまた司法官として働こうと思っていた管尚カンショウであったが、これに及んで遂に妻子を連れて帝都から逃れた。彼が選んだ地は、妹やその夫、姪や甥たちが暮らす河西だった。
  * *
「まあ、兄上…!」
 文は貰っていたが、思ったより早い到着に謹悌が驚く。
「すまないな、謹悌。こんな時ばかり頼ってしまって」
「いいえ、このような時だからこそ頼って頂けて、妹として嬉しいです」
 管尚には息子が一人いるが、子供どうしは打ち解けるのも早い。先程会ったばかりなのに、もう一緒に遊んでいる。
「ありがたいことです、サクも弟妹が出来たみたいだと喜んでおりますし」
 感謝の言葉と共に、彼の妻・蝉娟センケンが頭を下げる。
「それで、義兄上あにうえはいかがなさるのですか?」
 甘侑に尋ねられて、管尚は答える。
「私は法律を学んで、それに関わることを務めとなしてきた。出来ることならば、ここでも司法官として働ければ…と思うのだが」
「やはりそうですよね。人事のほうに通してみます」
「何から何まで、本当にすまない」
「なに、困ったときはお互い様ですよ」
  * *
 思ったより早く着任命令が出たもので、管尚は正直なところ、からかわれているような気さえした。
「とりあえず一年ほど試用期間を置くそうですが…良かったですね」
 早く馴染んで、頑張らねば。中央で働いていたとはいえ、ここでは新参者なのだ。連日気合と共に、必死に仕事の進め方を習ううちに、一月が過ぎた。勤め出してから二ヶ月目に入ってそう経たないうちに、当主から直接召喚された。何かまずいことをしたのだろうかと不安になりながら待つが、ほどなく現れた女当主は笑顔で言った。
「こうしてお会いするのは初めてですね、管尚。何故試用期間が終わっていないのに呼ばれたのだろうと思っているでしょう?」
「はい…」
「わたくしは、この一月で見極めには十分だと考えました。あなたの仕事にかける情熱は計り知れず、司法に関わる者たちの良い刺激にもなっています。これといった落ち度も見受けられません。ただ、一つ気になることがあります」
「何でございましょう」
 どんなことを言われるのかと内心おどおどしながら管尚が尋ねると、
「ここは河南ではなく河西だということに、もう少し配慮してもらえると助かります。帝都の法律と、ここで施行されている法律とは大部分は非常に似通っていますが、地域色の入った項目もあるのです。とはいえ、わたくしは文句無しの合格点を出しますよ。これからも、職務に励みなさい」
「はっ。かしこまりました」
  * *
 まだ自分の住まいを持つに至らない管尚の一家は、甘侑の邸に居候していた。
「いやはや、ここの当主様はお顔の二つ以外にも目を持っておられるに違いない」
 帰宅するなり管尚がそんなことを言うので、謹悌は大きくうなずいて、
「ええ。そう思いたくなるでしょう、兄上。けれど、子供たちが聞いたら真に受けますから、別の喩えを考えてください」
「う、うーむ…」
 腕組みして考え込む夫を見て、蝉娟が謹悌に話しかける。
「この河西の当主様は、御年二十五歳の女性と聞きましたが…さすがに並の女とは違うのですね」
「そうですわね。外見的にはかなり普通の御方なのですけど、政務の机につくと顔つきが別人のようになります」
 ふと思い出したように、謹悌が席を立つ。夜泣きもせず全く手がかからない子なのだが、揺りかごで眠っているソウの様子をたまに見に行くのである。
「あら、笑っているようだわ」
 後ろから、蝉娟も覗き込む。
「本当に、おとなしい子。このような可愛い盛りの息子と離れて暮らさなければならない父母がいるなんて…世の中とは非情なものですね」
 蝉娟は、ソウが預かり子なのは知っていても、ここの当主の実の息子とは知らない。
「はい…」
 いつになったら、この子は本当の親許に帰れるのであろう。玉鈴には、彼の父親たる人間が現れるまでは明かすつもりが無いらしい。一体あとどれほどの時が経てば、その男は出てくるというのか。のこのこやってきたところを必ずや引っ捕まえて、お灸の一つも据えてやろう――謹悌は心に誓った。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ二 月下氷人~薪売りの渡した橋

篇ノ二は以上になります。
また世界が広まり登場人物は増え、大風呂敷感が止まりません(自爆)。
中庸界の方士と同じことを予言する人が下天にも居ました…むちゃ非凡感漂う無名の才子・發。姓を明かさないつか姓名で名乗らなかった理由というのも、後に明らかに。非凡・謎といえば、薊軻という人物も。。
取り敢えず、きちんと本編を書いた範囲内で、玉鈴と發は再会を果たしており、謹悌も主人の夫君と顔を合わせることになるのだけれど…お灸の件は…(苦笑)。それ言うと、篇ノ一での廷尉ていい管尚カンショウ洪洵コウシュンに対する「お説教の刑」も…やはり後日、この二人も再会するのだけど…(苦笑)。

今後、400字詰原稿用紙換算で80~100枚程度の分量ずつを、1ケ月半ほどの期間をかけて週1くらいのペースで再掲し続けて、篇ノ四の前編までを出していこうと思います…。
人名録とかは、その後でぼちぼち・・・という予定でおります。。

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