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拙作語り㉟『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』<Ⅰ>

概説

拙作、古代中国風伝奇ファンタジー小説『群雄列伝』。
始まりは、かれこれ大学時代ですから三昔前(=30年前:滝汗)。
過去記事にも書いているのですが、大学時代、仏像というか仏尊とくに天部の仏にハマっていた頃があり、その頃に主に天部の仏からオリジナルの半神キャラクターを描きおこしたのが、そもそもの始まりで。
以降、大学を卒業してからかと思いますけど、小説版の『封神演義』を読んで(WJ・フジリュー先生の漫画版が出るよりも前だもの;墓穴)、人間界での戦記ものへと拡張し。
一番分量を書いたのが、こちらの下天の章第三部にあたる『群雄割拠譚』だろうと。
第一部『易姓革命譚えきせいかくめいたん』は、タイトルの通り殷から周へと変わる時代、つまりは『封神演義』とだいぶ重複する部分があって、今はもう色々不安で出せなくて(嗚呼)。
第二部『撥乱反正譚はつらんはんせいたん』は、第一部より200年ほどの後、荒廃から中興への物語。こちらは政道を誤った悪帝の姪にあたる女児が主人公となり、タイトル通り「乱れし世をおさめ 正にかえし」た後に自ら女帝として即位、共に戦った有力氏族の一人である年近い少年を後年夫に迎えた・・・という筋立て。
第三部は、第二部より更に百年ほど後の物語となり、中央政権が衰退し、地方の有力氏族が帝都と天下を窺うようになった世の中・・・
そして物語の幕が開きます。
 
・・・これもというか、自分で考えて書き始めたはずが、やはり途中からツラくなってしまい、完結出来ないままンン年経ち…以降も何年経とうとも最終話まで書ける気などありませんが(嗚呼)、書いたところまでは出してみようと。ちなみに篇ノ四の前半部までは書きましたけど、これでも折り返しにも至ってないと(滝のような汗)。
どうしてツラくなったかといえば、何より群雄割拠時代の戦記ということで最後まで生き残れる氏族というのは限られてしまい、それこそバッタバッタと皆お亡くなりになっていくのがしんどくて(嘆)。。…自分で考えたくせにね…(おおいに墓穴)
古代中国風の興亡史=戦記ということもあり、多少残虐・悲惨なシーンが入るかと思われます。どうしても残酷なのはダメ、という方は読み進めないほうが良いです
 
これを個人サイト@ネット上で公開してた一昔以上前にはHTMLで表示が出来なかった難しい漢字も、今では表記可能になったようなので、再掲してみようという気になった・・・という事情もあります。。
 
それから…これもR指定まではいかないのですが、PG-12くらいはあっていいのかなと筆者的には思っています。更には、やはり15年とか前の筆なので、当世のあれこれに抵触するような表現もあるかと思いますけれども、基本「原文ママ」を通したことを念のためお断りしておきます

最低限の予備知識

■三元世界
 天界・中庸界ちゅうようかい下天げてんより成る世界。この物語自体は下天の章・三とあるように、下天が舞台の中心となる。イメージ的には古代中国が大いに影響を与えているが、考証の真面目なところといい加減なところが極端でもある。天界には主に神々の末裔たる半神が、中庸界には下天の多くの人間には無い奇抜な能力を持つ者たちが(元々下天の住人だった者、あるいは何かが長い年月を経て人間の姿をとった者などが多い)、下天には普通の人間たちが住まう。

■使用用語解説
 あくまでこの話の中だけでの定義で、実際のところとはズレがある語句や概念について。
 
方術ほうじゅつ
 不老長生や神仙を目指す技術で、具体的に言うと祈祷・呪術・占星や占いが含まれる。この話の中でも、内容的には変化なし。ただし、これの使い手である方士の定義は結構違う。後掲。
方士ほうし
 基本的には方術の使い手という言い方でいいのか(困)。道士との違いは出家しているかいないかの問題という話もあった気がする。しかし、このストーリーに関して言えば、「中庸界の方士」と言われている点からしても、「方士と言えば中庸界に住んでいる、呪術や占いを得意とする超能力者」という定義が適当な気がする。女性版方士はあまり出てこないが、女道士は道姑と言うらしいのを踏まえて方姑ほうこと書いている。
 
遁甲とんこう
 言葉としては篇ノ四「再びの旅立ち」で登場するが、それ以前にもそれ以降も、特に中庸界の住人たちが使う一種の瞬間移動法(ワープ)。
 実際のところは、鄒頌スウショウが言うように色々なものにより姿を隠す術という説明もある。しかし、本によって結構まちまち。奇門遁甲として「この術を用いれば敵を容易に破ることが出来ると言われ、軍師たちがこぞって身につけようとした」と解説付けてる本もあるようだ。
 ちなみに、五行(木遁・火遁・土遁・金遁・水遁)のほか、霧遁・風遁・虫遁・人遁・魚遁・獣遁・禽遁もある。しかし、金遁ってどんななのか。この中で一番掴みにくいと私は思う。
 
・名前の構成と呼称
 実際とは色々と異なりますが、この話ではこういうことで。
 男性の場合。姓・名それぞれ漢字一文字で、姓名合わせて漢字二字。姓、名の順に並んでいる。名前を呼ぶときは、同姓(つまりは家族とか)の場合は名だけで呼ぶ(本文中の事例で言えば、伝渥テンアクのことを、身内である伝諒テンリョウ伝晏テンアンは「渥」と呼んだが、家臣などは姓名で呼んでいる)。    
 女性の場合。姓は漢字一文字、名は二文字。しかし、女性にとって姓は結婚にも関わる重要事項で、これを付けて名乗ることはあまりない。基本、身内もそうでない人も名で呼ぶ。
 ちなみに、天界や中庸界の人達は以上のような法則とは無関係な名前だったりする。ただし、下天から中庸界に入った者の中には下天時代の姓名をそのまま名乗っている者もいる(つまり、男性なら姓一字・名一字)。
 天界サイドに関して付け加えておくと、住人全てではないが、名前以外に「○○王」という称号みたいなものを持っている者もある。下天の皇帝は「○○帝」で、そういう区別を一応している。
 
・成人年齢
 年齢の数え方は、出生時一歳で、あとは正月ごとに年をとる「数え年」方式です。
 歴史上でいけば、男性は二十歳、女性は十五歳で一人前とされたらしく…。笄年けいねんは女子が十五歳になってはじめてかんざしをつける年であり、成年に達したことも指すようだ。ちなみに、こうがい自体は男女とも束ねた髪を安定させるのに使う。「かんざし」なら「簪」という漢字があるが、とりあえず髪に挿すものは簪ではなく笄と書いた。実際と合っているかはともかく(オイ)
 そんなわけで、この話でも基本は「男性二十歳、女性十五歳で成人」なのですが、男性も十五過ぎると準・成人というか…髪型や服装変えたりするみたいです(おい)

■暦法および紀年法
 基本的に旧暦(太陰暦)です。なので、現在の暦とは季節感覚などにズレがあります。大体、現在の暦よりも1か月遅い感じです。仙台の七夕祭りが8月に行われる辺りを思い出してください。
 大まかな表を一応付けておきますが、詳細なものはWebサイト「こよみのページ」にてどうぞ。。
 ※ちなみに、この「こよみのページ」は月齢とその呼び名、月が昇ったり沈んだりする時間などの参考にもしています。
以下、季節・月名(旧暦)・月の別名の順に記述。
春/一月:初春・初月
  二月:仲春・令月
  三月:晩春・花月
夏/四月:初夏・余月
  五月:仲夏・雨月
  六月:晩夏・焦月
秋/七月:初秋・蘭月
  八月:仲秋・桂月
  九月:晩秋・詠月
冬/十月:初冬・坤月
  十一月:仲冬・章月
  十二月:晩冬・除月
  (参考文献:「旧暦スローライフ」 吉岡安之 著 幻冬舎)
 紀年法については、「皇帝の名前と即位からの年数での記述」と「干支紀年法(甲子~癸亥で一巡六十年)」の二つを併用するようにしました(汗)。本文中および略年表〈※後日掲載予定;〉を参照ください。

■度量衡
 目下のところで特に問題になるのは距離を表すに必要な「長さ」になろうか。以下に挙げるのは周~春秋戦国時代頃の長さ(度)
 一里=三○○歩=一八○○尺=四○五メートル
  これより一歩=六尺=一・三五メートル、
  一尺=二二・五センチメートル。
これをもとに、江沿こうえんから河下かかまでやから西岳せいがくまでの距離を換算してみると、他の都市間の距離も地図から概算できる…ハズ。
ここで、物語上の地図を掲載しておきます。↓
ゴシック体は地名(都市名)、正楷書体は河川名、隷書体は氏族名…という識別で、地名は主に河川との位置関係から付いているようです。

群雄下天・三 略地図

■歴史的背景
下天での、本章までに起こった事象に関する略年表。
 
 天地開闢のあと、人間がその下天に住まうこととなる。やがて、力あるものが人々をまとめ、クニと王の概念を打ちたてて即位する。河南を中心としてここに最初に中央集権国家が興った。初代・リュウ王朝である。
 名君の子孫が常に名君であるとは限らない。時が経ち、下天の権威は柳王朝からイン王朝へと移る。しかし、胤王朝も幕翻帝バクハンテイの御世に二百六十年ほどの歴史に幕を下ろす。天子としての道を誤った幕翻帝を打ち破り次に王朝を打ちたてたのは、西方を領地とする有力氏族から出たエイ家である。この王朝交替の戦記は易姓革命譚として語られる〈下天の章・一〉。初代の興穏帝コウオンテイは、物語の中では永初エイショという本来の氏名で登場する。
 
 それより時代が下り、永王朝十四代皇帝・令宣帝レイセンテイが立つ。賢帝と呼ばれた彼であったが、あるとき一人の老人に出会ったことで不老不死への夢にとりつかれ、一転、暴君と化す。これにより乱れた世をおさめ、下天に平和を取り戻す中心となったのが、のちに十五代皇帝・戒謙帝カイケンテイとして即位した永芳薫エイ ホウクン(永は母方の姓)である。史上初の女帝として、彼女は伯父にあたる令宣帝の失政で揺らいでいた永王朝を、戦友である各地の有力氏族や異母兄(宰相となって終生妹を支えた)の力も得て立て直した。この一連の記録は撥乱反正譚〈下天の章・二〉と呼ばれる。
 
 そして戒謙帝の即位より百年が過ぎようとする頃。中央の永皇室は衰微し、逆に各地の有力氏族が勢力をのばしていた。「群雄割拠」譚の始まりである……

『群雄割拠譚』本編

いざないの詞〈ことば〉

群雄割拠の世、その幕開けのときは静かに近づいていた。

 太祖たいそは知っておられた…この大乱を。そして、しばしの平穏の後に来る、群雄割拠の時代をも……
 
 あなたは聡い人ですね。そして、情に厚くて優しい人。
 けれど、あなたは見届けなければならない。この戦役で手をたずさえ、協力してきた家系の者たちが、後に天下の覇をかけて相争う姿を。
 でも、忘れないでください。
 あなたは、その重さに押しつぶされるほど弱くないことも……

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』いざないの詞 序

鄙〈ひな〉の少年

「鄙の少年」挿画。幼少期の毀棄と、姉である陽炎王・水月。

 ひなびた村外れ。身なりも貧しい少年が、一人でぽつんと立っている。
 少年の髪を、吹く風がなでていく。風が止むと、彼の目の前には空色の長い髪と瞳の、天衣に鎧をまとった貴人がいた。
「――かわいそうな子」
 貴人は、見るも痛々しげな、つらく悲しそうな表情でぽつりとそう言った。
 首をかしげる少年に、更に続ける。
「育ちが悪いからといって下天げてんに棄てるなんて、父上も酷い御方だわ。…でも、私はお前が不出来とは思わない」
少姐シャオチェ〈※若い女性への呼びかけ〉…」
 なぜ、こんなに立派で人間離れしたひとが、自分にそんなことを言うのか。『育ちが悪い』『下天に棄てる』『父上』『不出来』…訳が分からず、少年は貴人の言葉を遮るように呼びかけた。すると、彼女は少し笑って、
「少姐なんて年齢としじゃないわよ」
 彼の肩に手を添えて、まっすぐに彼の目を見つめながら、彼女は優しくもあったが強い語調でこう告げた。
「見返してやりなさい。下天も、中庸界ちゅうようかいも。そして、天界も。私は、お前の味方よ」
 驚いた顔で、少年が改めて貴人を見上げる。
「大姐《ターチェ》〈※若くない女性への呼びかけ〉…あなたはどうしてボクの味方なの?」
 背を向けかけていた貴人は少年に向き直り、
「お前が…私の数少ない『弟』だからよ」
 今度は哀れむような目ではない。慈しみと懐かしさをたたえた優しい目で、彼女は少年を見つめている。
「私は、天界の陽炎王カゲロウオウ水月スイゲツ…お前の姉」
 父は『第二の目〈※透視力・千里眼〉』の持主。どんなに自分が日月の光も隠す才があり、彼を隠して天界に連れて戻っても露見するだろう。それに…
「信じているから。皆が見捨てても、姉さんはお前を信じているから。だから、負けないで」
 創造神の末裔たる創草王ソウソウオウ初禅ショゼンは、風神の流れをくむ婦人との間に陽炎王・水月、前鳥王チョウオウの姪にあたる有翼種の娘との間に鳥王・金翅コンジというように、確かに優れた子供をもうけている。だが、創草王の特質とも言うべき『無から有を生み出すチカラ』を受け継いだ子はまだいない。そのような状況のなか、初禅は新たに一人の男児を授かったのである。
 しかし、その子は非常に育ちが悪く、生まれて一年経ち二年経ちしてもなかなか足が立たず、歩き始めるのも遅くたどたどしいものだった。手を動かすのも口をきくのも、並の子供よりはるかに遅かった。どこか悪いのだろうかと心配もしたのだが、全く悪いところもない健康児だと天界の名医たる薬壷王ヤッコオウが診たもので、初禅も諦めた。そして、三歳になってあまり経たない幼児を最終的には下天に棄ててしまったのだった。「毀棄キキ」という、ひどい名だけつけて。
 だが、水月は彼こそが父の後継者だと信じていた。
(父上は、第二の目は持っている。けれど、『第三の目』…未来をしかと見る目…は持っていないもの)
 不安そうに自身を見上げる少年・毀棄。
「大姐が信じてくれるなら、ボクも信じていいんだね?」
「もちろんよ」
 必ず、父自らこの息子に詫びて天界へ連れ戻す日が来る…その日は、必ず来るのだ。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』いざないの詞 鄙の少年

篇ノ一

エイ王朝が倒れ、各地の氏族の天下の覇をめぐる駆け引きは更に激しさを増していく。
河南かなん河下かか江沿こうえん掩哀帝エンアイテイ九年・玉輅亡欠ぎょくろぼうけつ元年)

哀歌

 姉である陽炎王・水月との出会いから十余年。毀棄は幸いにも「これは利発そうな子だね」と旅行中という初老にさしかかったほどの学者に拾われ、彼に付いてその手伝いをしながら各地を回り、見聞を広め知識を増やした。そして帝都・河南にやって来たときに、一人の青年を紹介された。
「非常に残念ではある…。しかし、もうじき家族と約束した帰宅の年限が来てしまう。大した財産も無い家だが、お前が一緒だといさかいの種になりかねん。学問を好まれるこの御方ならば、決してお前を悪いようにはしないだろう。今まで本当に有難う」
「いいえ、老師ラオシー〈※先生〉。僕こそ、今まで本当にありがとうございました。老師に出会わなかったら、こんな賑やかな都に来ることなど叶わず、今も辺境の野鄙やひ〈※ここでは田舎のこと〉で埋もれていました」
 こうして毀棄は育ての親とも言うべき老人と別れ、その青年に仕えるようになった。しかし、彼こそが時の皇帝と知るにはしばしの時を要した。
 初めて出会ったのは、河南の宮城北部に位置する王宮と外壁を隔てて南東側に建つ旧迎賓館の一室。暮らしているのは王宮であり、また身にまとう装束も華美過ぎはしないが最上等のもの。だが、史書に綴られていた『皇帝』像とはあまりにかけ離れた人物であり、生活であったからだ。
 このとき既に下天の三代目にあたる皇帝家・永皇室はすっかり衰微していた。皇臣たちも勝手を極め、まともに皇帝の意思をうけて働く者もほとんど居ない。地方では有力氏族がめきめきと力をつけ、帝都を窺う有様だ。目を覆いたくなる、戦場とは違った意味でこれもまた惨状であった。
  
 乙巳いっし〈きのと み〉の年の仲秋〈※旧暦八月〉に入ったある日、毀棄は刑場に連れて行かれる罪人の中に子供が一人混じっているのを見付けて不思議に思い、廷尉ていい〈※司法官〉の管尚カンショウに訊いてみた。彼は真面目に職務を遂行している数少ない皇臣で、また親切だった。小間使い同然の毀棄に、丁寧に応じてくれたのだ。
「そりゃ、処刑なんて無いに越したことは無い。相手が悪人だろうが、人を害することに変わりないからね。心臓には悪いよ」
「あの子供、何をしたのですか?」
「何をしたというか…窃盗だな。小さいものなんだが、見逃してやってもすぐまた繰り返すもんだから。『またやったら刑場に送るぞ』と脅したのに、まんまと捕まってきたのでね」
「そんな…何か理由があるのではないですか?」
「無いから本当に刑場送りにしたんじゃないか。調べたところ、生活のための盗みではないと分かったし」
 管尚は言ったら必ずやる人だ。自身の非力さを思い、毀棄は目を閉じた。
  * *
 執行人が疲れてきたところで、管尚が言った。
「やれやれ、刑の執行も楽じゃない。そこのお前、気晴らしに何か芸でもして見せろ」
 お役目に真面目な彼がこんなことを言うとは何事なのだろうと、彼を知る者たちは怪訝けげんな顔をした。しかし、突然命令された少年も、腹をくくったらしい。
「歌います!」
 初め笑って見ていた一同であったが、やがてすっかり少年の歌声に聞き入ってしまった。
「小川のせせらぎのような…聞いているだけで心がすがすがしくなる、良い声だ」
「『泥の中から蓮が咲く』とは、このことを言うのですかな」
「これは驚いた!わっはっは」
 拍手喝采が刑場を包み、非日常の象徴ともいうべき場所には不似合な雰囲気になった。
「管尚様…」
「おや毀棄、来てたのか」
 管尚は笑って、見事な歌声を披露した少年に、
「それだけのいい歌声の出せるノドを斬るのは勿体ない。首をねるのは、やめにしてやろう」
「ありがとうございます」
 自分が助かったことで何か得をしたとも思えない青年が、気まぐれにしても自分の首を繋げておいてくれた官吏に何度も頭を下げている姿を、少年は物珍しそうに眺めていた。
 あとで私自らたんまりお説教してやるからな、と言い残し、管尚はこの洪洵コウシュンと名乗った少年を期限付きで毀棄に預けて去っていった。
 * *
 顔色を窺いながら訊かれたことにだけボソボソと答える洪洵に、毀棄はつとめて穏やかに話しかける。だが。
「どうして、こんなことしたんだい?」
 そう訊かれた途端、彼は黙ってしまった。
「言いにくいことかい?」
 無理しなくてもいいよ、と毀棄が優しく言葉をかけると、
「皆、ボクのこと軽く見るからさ。アハハって笑うからさ。『そんなハズないさ、バカだなあ』って言うからさ。…だから、ホントに軽くて笑われっぱなしのバカ…はみ出し者でいるしかなくなっちゃった」
 洪洵は自嘲するようにつぶやいて、ため息をついた。
 まだ小さいのに、だいぶ悟った表情をしている少年が、どことなく昔の自分に重なる。
「僕はお前のこと軽く見ないよ。笑わないし、どんな荒唐無稽なことを言ったって『バカだなあ』って決め付けない。それなら、もうはみ出し者の演技をしなくていいと思うけど…どうかな」
 大姐ターチェ〈※ここでは一番上の姉〉が自分を信じてくれたことが、一つの大きな支えになった。自分が、今度はその支えになれるなら…。まだまだ自分はものの数にも入らない、小人物ではあるけれど。
 洪洵がぽかんとしている。毀棄は大それたことを言ってしまったかと反省した。
「ごめんな。こんな小者の僕一人じゃ力不足だよね」
 行こう、と毀棄は洪洵を促した。
「ねえ」
 洪洵が、毀棄の袖を引く。
「何だい?」
「…哥々コーコ〈※お兄さん〉って、呼んでいい?」
「『哥々』?」
「…いや?」
 戸惑いながら、どこか恐る恐る尋ねる洪洵に、毀棄は一番の笑顔で応えた。
「構わないよ」
 二人を隔てていた壁が消えてきた。
「どこ行くの」
「陛下のところ」
「ヘイカ…って、偉いの?」
 毀棄の表情に翳りがさす。
「素晴らしい御方だ。とてもお優しくて、博識で」
 なのに、と言いかけて口ごもる。
「…哥々、泣いてるの?」
 不思議そうに彼を見上げる洪洵。
「泣いてはいないよ…」
「そうだよね。ボクよりそんなに大きいんだもん、泣かないよね。哥々」
「ああ」
 * *
「戻ったかい、毀棄」
 その部屋には、品格はあるが権威は感じられない、線の細い感じの青年が待っていた。現皇帝その人である。
 本来なら、数千・数万いや数十・数百万の臣民が畏敬の念を持ってその前にひざまずくはずの『皇帝陛下』だ。しかし…
(本当に気を許せる、信頼できる人間がこんな僕くらいだなんて…)
 つらい気持ちを押し隠す毀棄に気付いているのかいないのか、皇帝は安堵したような表情を浮かべて彼を招き入れる。と、彼の陰に隠れる子供に目を止め、
「その子はどうしたのだ?雇った…ではないよな」
 どこか申し訳なさそうに尋ねる。
「廷尉の管尚様から、期限付きで預かった者です」
「廷尉の?」
「はい、期限が切れたら管尚様直々のお説教という極刑を受けることになりましょう」
 冗談めかした毀棄の答えに、皇帝も笑顔を見せる。
「そうだな、彼の説教は子供には尚辛いだろう」
 毀棄が、後ろから様子を窺う洪洵に言う。
「こちらが陛下だよ」
 毀棄に背を押されておずおずと前に進み出ると、
「はじめまして、洪洵と申します」
 取って付けたように挨拶する。慣れない敬語を無理して使っているのが、よく分かる。
「そのようにかしこまることはない。肩が凝るだろう?」
 皇帝がにこやかに話すので、洪洵も少しほっとしたようだった。
 ああ、そうでした…と毀棄は口を開く。
「この子、なかなかの歌い手なのです。陛下にもお聞かせしたいと思いまして…」
「歌か…良いね。聞かせておくれ」
 洪洵が、元気に返事をして歌い出す。
 老父に代わって男装して従軍し、大功を立てながらも高位を望まず、駿馬を駆って故郷へ帰り、また娘に戻ったという少女の伝説を謡ったものだ。
 …雄兔ゆうとあし撲朔ぼくさくたり
  雌兔しとまなこ迷離めいりたり
  双兔そうと 地にうて走れば
  いずくんぞく我れの是れゆうかを弁ぜん…
 歌い終えた洪洵に、皇帝は心からの拍手を送る。
「洪洵、他にも覚えてみないか?楽府がふ〈※ここでは、役所でなく歌曲の意〉の書なら、いくらでもあるから」
 書はある。だが、目に留めて歌い奏でる人間が居ないのだ。じきに永王朝は倒れ、また覇をかけて争乱が起こるのでは…皆、心の中ではそう思っている。歌ったり曲を弾いたり踊ったり。そんな心の余裕も、きっとどこかへ行ってしまった…。
「はい!あっ、でも…覚えられるかな」
 最後は不安げなつぶやきになってしまったが、
「大丈夫、わたくしが付いて教えよう」
 皇帝が励ましたこともあって、洪洵は大きくうなずいた。
 * *
 洪洵が書物を覗きながら歌う傍で、皇帝が琴を弾く。とても穏やかに時間は流れる。
(大姐…今のままでもいい、この時間が僕にはすごくありがたい…)
 二人をぼんやり見つめながら、毀棄は思った。
  
 しかし、毀棄の願いが破られる日が来る。
「毀棄、洪洵…もう、ここに居ることもない。いずこへなりと行くがよい」
 突然の宣告であった。
「どうして、陛下!」
「何故です!?」
 何も思い当たることがないだけに、二人とも口々に尋ねる。彼らのすがるような表情に、皇帝も苦渋の色を浮かべる。
「お前たちを巻き込みたくはない。どこかで平和に暮らしてほしい」
 訳が分からない苛立ちに、毀棄の語気が強まる。
「それでは分かりません!陛下がお望みなら、どこへでも行きます!ですが、その前に僕らにも分かるように訳をお話しください!!」
 皇帝は苦しげに眉をひそめていたが、観念したかのように重い口を開いた。
「じきに、わたくしは帝位を追われる。だが、その後も時代は孤を生かしてはおくまい。この河南に入るのに孤を担げばいい大義名分になるのだから、これほど危険な存在も居ない…」
「そんな…!!」
 洪洵が、悲鳴にも似た声を上げる。
「逃げましょう、陛下!どこまででもお供いたします。ですから…」
 しかし、哀願するような毀棄に皇帝は毅然と言う。
「孤はどこへも逃げない。孤はほろびのときを見届けなければならない。それが、孤の最期の誇りになろうが…それで良いのだ」
「良くない!!」
 今にも泣き出しそうな顔で洪洵が叫ぶ。
「洪洵…後生だから聞き分けてくれ」
 すがりついて離さない少年を、皇帝はいつまでも悲しげに見つめていた。
 河下かかから東のテン家当主・伝晟テンセイが八万に届こうかという選り抜きの軍勢を伴って河南へ入り、皇帝に退位を迫ったのは、それから十日も経たない―毀棄が洪洵を連れて皇帝の許へ戻ったあの日から、ほんの一月ほど後のことだった。
 * *
「陛下…陛下!!」
 数日が過ぎた朝、皇帝―いや、既に帝位を退き先帝となっているが―の姿が見えず、毀棄は言い知れぬ不安を覚えて必死でその姿を捜した。
(まさか…)
 皇室の祖霊を祠る廟へ急ぐ。
 扉を力任せに開け放った彼がそこに見たものは…
「陛下…」
 梁から延びる五色の垂布が束ねられたその先に、力なく人形のように吊り下がる先帝の物言わぬ骸であった。
「陛下!!」
 後ろから悲鳴が上がった。洪洵だった。亡骸に駆け寄り、へなへなとしゃがみ込んで泣きじゃくる。
「陛下、陛下あ!!どうして、どうしてえ!!」
 思えば、陛下という言葉を覚え使うようになって、あまりにも短い洪洵である。それが更に憐れを誘う。
 * 
 こうして、太祖・興穏帝コウオンテイすなわち永初エイショに始まり、十四代目の令宣帝レイセンテイで政道を誤るが十五代目にして史上初の女帝・戒謙帝カイケンテイの治世で建て直され、以降も八代続いた永王朝は興起から三百二十九年目にして遂に滅びた。毀棄の仕えた二十三代皇帝は、のちに掩哀帝エンアイテイとおくり名された。哀しみをおおう、帝。彼は、誰の手にもかからずに自らの手で、自らの一生に幕を引いたのであった…その死を看取る者も無いままに。彼が自決した廟は、新たに天下に号令せんとする伝晟が入った宮殿と同じ河南の宮城にあったというのに、顧みる者すら無かったのだ…たった二人を除いては。
 *
「…おとないいたします」
 先帝の遺骸を石畳にそっと下ろし、その安らか過ぎるほどの死に顔を見てより一層深い哀しみに沈む二人の前に、一人の方士が現れる。
「先帝陛下を、太母の許へ…大地へ還しましょう」
 そう告げて、持っていた杖を静かに振り上げる。突如舞い上がった土煙に目を覆い、我に返るとそこは河南の廟ではなく眼下に川を望む小高い丘だった。
「ここは…」
陵丘りょうきゅう…はるか昔の皇帝たちが眠る地です。下を流れているのは、北の大河たいがに並ぶ南の大江たいこうへ続く川となっています」
 送る者が三人しかいない、先帝の葬儀にしては侘しすぎるものであった。洪洵はまだぐずぐずと鼻をすすりつつ泣いている。
 ようやく落ち着いて周りが見えるようになってきた様子の毀棄に、方士が話しかける。
「申し遅れましたが、私は中庸界の柳擶リュウセンという者。以後、お見知りおき下さいませ」
 丁寧にお辞儀するこの高貴な雰囲気漂う青年の姿をした方士に、毀棄は焦って、
「やめて下さい。何故あなたほどの御方が僕にそれほどの礼をとられるのですか?頭を下げるのは僕のほうです」
 柳擶は嬉しげに微笑み、
「なるほど謙虚な御方ですね…兄君によく似ておいでだ」
「えっ…『兄君』?」
 おかしな言葉を聞いたとでもいうように、毀棄が反応する。
「はい。かれこれ三百年よりも昔になりますが、あなたの兄君と共に胤王朝から永王朝への易姓革命を見届けたものですから…」
 懐かしげな表情で話す柳擶の横顔を毀棄は黙って見つめていたが、思い切って尋ねることにした。
「あの…申し訳ありませんけれど、僕は兄のことは知りません。兄上とは、どんな御方なのですか?」
「ご存知でなかったのですか」
 毀棄のほうを向いて、柳擶が続ける。
「あなたの兄君は、天界の鳥王様なのです。そんな偉い御方なのに、私にも敬語を使っておいででした。下天にやってこられて戦乱戦乱で苦労されることを選ばれた本当の理由は、結局うやむやのままでお帰りになってしまわれましたが…全くもって欲が無いというか。そして、普段は至極柔和なのに剛なる面も持っておられる。外見も物腰も、中身と同じく穏やかで優しそうな御方でしたね。どことなくあなたと面ざしも似ておいでです」
 洪洵が泣き止んだのに気付いて、柳擶は毀棄に問う。
「これから、いかがされますか」
 少しうつむいて思案し、
「どこかで平和に暮らしてほしい、というのが陛下のご遺志でした。どこかに身を隠そうかと思います」
と毀棄が答えると、
「そうですか。私に何か出来ることがあれば」
「いいえ、大丈夫です。お気持ちだけ頂いておきます」
「…分かりました。お元気で」
 しかし、柳擶は感じていた。彼らには、先帝が望んだようにどこかに隠れて人知れず平和に暮らすことなど出来ないであろうと。
 * *
 柳擶が去り、丘には二人だけが残された。
「さて、どこへ行こうかね」
 ひとりごとのようにつぶやく毀棄に向かい、洪洵が言う。
「哥々…」
「何だい?」
 意を決したように、彼を真顔で見上げて続ける。
「もう、誰かにお仕えしようなんて思わないで!哥々一人くらい、ボクが食べさせていけるから…だから、仕官なんてしようと思わないで!!」
 すがるような彼に、毀棄は力なく笑った。
「…そうか。…そうだね…」
 そして、遠くを見やった。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ一 哀歌

兄の背

 時は毀棄と洪洵とが主人である掩哀帝の死に接してより一月ほど戻り、ここは東の有力氏族・テン家の在地・河下かかの城。
「兄上…本当に行かれてしまうのですね」
 至極残念そうな表情で、まだ青年と呼ぶには幼さの残る少年が言う。
「そのように湿っぽい顔をするな、アク
 見た目にも強健そうでありながら高貴さというか品の良さも感じさせる青年は、笑顔で少年の肩を叩いた。
「今のままでは、北方や西方の者たちに攻め入られて中原ちゅうげん蹂躙じゅうりんされてしまう。それを阻止するために、兄は行くのだ。お前は賢いから…分かるな?」
「はい、ですが…」
 青年は困ったように少し眉をひそめて、
「そんなことでは困るぞ。河南かなんへ赴く私に代わって、この河下はお前が治めるのだ。もっとしっかりしてくれねば、私は安心して旅立てぬ」
「…申し訳ありません。そうですよね、僕もしっかりしないと」
 少年も笑顔を作った。青年がうなずく。と、思い出したように、
「ああ、そうだ。河南の方ででもとびきりの花嫁を捜してこよう。この河下近隣では知らぬ者もなく『才気煥発な上に眉目秀麗の貴公子』と名高いお前に釣り合うような、とびきりの姫をだ!楽しみに待っておれよ」
 少年が頬を赤らめる。
「花嫁なんて…僕にはまだ早いです」
「照れるな、照れるな」
 弟の肩をまた威勢よくぽんぽんと叩く。
  * *
 少年は、兄のたくましい後姿が小さくなって視界から消え去るまで、ずっと手を振って見送った。
 まさか、これが最後に見る兄の姿となろうとは…
 少年の名は伝渥テンアク、兄である青年は伝晟テンセイという。永王朝が興るより遥か昔からの名門・東の伝家の御曹司である。
 
 他の諸侯に先んじて帝都に上り、皇帝を退位させることに成功した伝晟は、朝廷の弱体化によって乱れた中原を建て直そうと、その使命に燃えていた。
  *
 河南の宮殿に入って半月が過ぎた頃。その晩はどうしても寝付けず、彼は静かに起き出した。そっと扉を開け、廊に出てすぐ、人の気配を感じた。
(…誰だ!?)
 庭に誰か居る。陰から様子を窺う。十三夜の月の光で、その姿を見ることが出来た。童女のようだが、初めて目にする者だった。しかし、何故か伝晟は笑みを洩らした。
(なかなか愛らしい娘じゃないか…。渥の隣に置いても、見劣りしない)
 宮殿で使われていた娘だろうか?まさかお手つきではなかろうな…などと勝手に想像しながら、彼は少女を目で追った。
 小さな振り子を持って、振り子と地面とを交互に見ながらゆっくりと歩いている。水脈か金脈を探しているようだ。
(こんな所に、そんなものあるのか?)
 首をかしげながら見ていると、少女が立ち止まった。
 伝晟は一歩踏み出し、
「そこの娘、名は何という?」
 こんな時分に、こんな所で何をしている?…ではなく、彼は先走ったことを尋ねた。自慢の弟の花嫁候補にこの娘もと、相当真剣に考えていたらしい。
 少女は驚くでも悪びれるでもなく答える。
姜景瑛キョウ ケイエイと申します…それが何か?」
「お前、どこの誰に仕えていた?どんな仕事をしていた?年はいくつだ?郷里はどこだ?」
 伝晟がたて続けに質問を浴びせると、
「…曲者への訊問とは、どこか違いますわね…」
と小声でつぶやく。
「ははは、ならば正直に話そうか。私には弟がいる。そろそろ妻を迎えさせたく思っているのだ」
 だが、娘の反応はそっけないもので、
「さようですか」
 それだけ言うと、また振り子を見つめ始めた。
 さすがに何をしているか気になって、伝晟が再び尋ねる。
「そういえば…先程から何をしているのだ?」
「井戸を捜しています」
「『井戸』?」
「はい。やがて、ここにも必要になるかと」
 つくづく変わった娘だ。…記憶は、そこで途切れた。
   *
 翌朝、伝晟は昨晩のことが夢かうつつか自信が持てずに庭へ出た。そして、景瑛と名乗った娘が立っていた所へ歩いていき、自分もそこに立ってみた。何かが地面から覗いている。木の芽だった。
(あれは樹精だったのだろうか?)
 不思議な気持ちのまま、屋根の下へと引き返す。
  
 この十三夜の出会いから数日の後、伝晟は寝首をかかれて枯井戸に投げ込まれるという悲劇的な最期を遂げる。暗殺者がしばし彼を隠すのに必要としたのが井戸だったのだろうか?景瑛は死を告げる使者だったのだろうか?どちらも否、である。しかし、 その辺りの細かい事情が明かされるのは、またしばらく後の話である。
 
「兄上が…討たれた!?そんな…」
 急使のしらせに、伝渥は愕然と立ち尽くす。
しかし、彼の大叔父で彼ら伝家の若君たちの後見をしている伝諒テンリョウは冷静だった。
「晟は何者に討たれたのだ?河南の残党か?それとも…」
「何者とは断定しかねます。しかし、新臣〈※補注後掲〉らが結託して刺客を雇い、事を起こしたに相違ありません」
「なるほど…晟の性格を思えば十分に考えられる」
 気心を許した者にはとことん親切だが、疑いを持つ相手には非常に冷徹なところがある。自分より弱い者には大いに力を貸し支えようとするが、強い者には従順になりきれない。その性分が、こんなところに災いしたのであろう。
 とはいえ、伝渥にとって伝晟はとても頼もしく優しい兄だった。
「兄上のみならず、嫂子そうし〈※兄の妻。あによめ〉や幼い子供まで…」
 顔を伏せる伝渥に、伝諒が口調を厳しくして言う。
「泣いている場合ではないぞ、渥」
「分かっています…!この上は、兄上の…兄上たちのかたきをこの手で討ちます!!」
 今すぐにでも飛び出して行きそうな勢いなので、伝諒が慌ててたしなめようとしたとき。
「渥…早まっては駄目だ」
 廊から、か細い声が割って入った。伝渥と同じ年に生まれた弟・伝晏テンアンが、急使が来たことを聞いて無理をおして自室から出てきたのであった。
大哥ターコ〈※一番上の兄〉が討たれて、悔しいのは分かる…。けれど、早まっては駄目だ…今動けば、お前も…」
 息も絶え絶えに、やっとの思いで紡ぐその言葉が、何よりも伝渥の心に突き刺さる。
 部屋から突然いなくなった伝晏を捜していたと思われる臣たちが、騒ぎと共に駆けつけ、
「伝晏様、ご無理をなされては…」
「お部屋へお戻りになられた方がよろしゅうございます、何とぞ」
 慌しく彼を連れ戻していった。
  * *
 しばし時間をおいて、伝渥は伝晏の居室を訪ねた。弟が横になって休んでいる寝台の隣の椅子に腰掛け、そっと話しかける。
「…落ち着いたかい?」
「あ、ああ…」
 顔だけを向けてそう答えた。しかし、先程よりはだいぶ落ち着いたようではある。一安心だ。
 伝晏が、申し訳なさそうに切り出す。
「余計な心配をかけてしまったね…。もっとぼくの身体が丈夫だったら、こんな事も無いのに…」
 やるせない表情で詫びる彼を見て、伝渥も切なくなった。
 本来ならば、彼は自分より一つ年下の弟として生まれてくるはずだった。しかし、月足らずの早産で生まれ落ちてしまい、年齢としては自分と同じとなっている。だが、同じ年であるはずなのに、彼のほうが二歳も三歳も幼く見え、未だに身体が弱く病気がちなのだ。今まで生きてこられたこと自体奇跡と言われるほどでもある。
(かわいそうな晏…)
 薄っぺらい同情などではない。
 その彼が、必死で止めるのだ。もし彼の制止を振り切って出立し、仮に首尾よく兄の仇が討てたとしても、ひどく後腐れの悪い思いをするだろう。
「晏…。僕、もう少し様子を見る。そして、力を蓄えて…いつか必ず兄上の仇を討つ」
「…うん」
 伝晏は笑顔を浮かべた。だが、泣き出しそうな笑顔だった。
  *
 突然の訃報に、深く沈む河下の城。まだ年端としはもゆかず、長兄がむごい死を迎えたということがよく分からないはずの末の妹・浹媛ショウエンさえも、皆の嘆きようから何か感じ取ったのであろう。いつもなら庭で元気に遊んでいるのに、この時ばかりは屋根の下に篭ったまま、外に出ようともしなかった。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ一 兄の背

※補注
 新臣…古くからの家来である「旧臣」とは反対に、最近仕え始めた家臣を指す。辞書を引いても載っていないらしく、筆者による造語との見方が濃厚(自爆)。

雷霆〈らいてい〉の姫

 兄を失い、突然伝家の家督がまわってきてその荷を背負うことになった伝渥。彼は、かつて志を持つ賢帝たちがそうしたように、とにかく優れた人材を得ようと様々なところに配慮を重ねた。辞を低くし、仁政に努め、一方では女色を退け、斎戒して身を清め、天に加護を祈った。
「渥が一生懸命なのは、ぼくらにとっても嬉しいことだけど…それで君が身体を壊して倒れでもしたら大変だよ。無理はしないと約束して、渥…」
 その有様を耳にした伝晏が、彼に懇願する。別に無理しているつもりもなかったが、確かにこのところ気ぜわしくしていたように思えて、とりあえず二、三日くらい自分の時間として何も考えず過ごしてみようと伝渥は決めた。
  * *
 しかし、何もしないというのも苦痛だと彼が感じるようになるまで、そう時間はかからなかった。
(少しくらい忙しいほうが、むしろいいのかもしれない…身体的にも、精神的にも)
 何もしないと、余計なことばかり考えてしまう。兄のこと、自分のこと、お家のこと、これから先の国のこと…
 外の空気でも吸おうと思い立って、部屋から廊に出る。
 欄干に手を置いて、屋根の下から空を見上げる。このところ、そんな心の余裕さえ無くしていた自分にふと気付く。
 廊から階段を降りて、今度は庭から空を眺めた。すがすがしい、良く晴れた日だ。空の青さがまぶしい。
 神々しささえ感じられて、伝渥は空を振り仰いで両手を胸の前で組み、祈るように眼を閉じた。
(天界の諸尊よ…もし我が正なれば、乱世を平らげる扶助の星を我に与えたまえ…)
と、突然日が翳りだす。だが彼は動じない。大それた願をかけた罰がこれならば、雨に打たれても雷に打たれても構わないとさえ思ったからだ。伝晏が知ったら大いに嘆くだろうという、半ばやけくそな状態だった。
(逃げやしない…どんな運命だろうと、僕は受けて立つ!)
 目を見開き、強い意思がみなぎる瞳で掻き曇る空を見据える。
 その刹那。轟音と共に、稲妻が彼のすぐ前に落ちた。さすがの彼も、腕で目を覆う。
 雷光が去ってみれば、そこには一人の娘が座っていた…と言うと上品そうに聞こえるが、かしこまって座っていた訳ではなく、地面に尻餅をついた格好である。
「…あたたた…やられた」
 照れ隠しのようにちょっと頭をかきつつ、ややうつ向いたままそう小声で洩らす娘は、真紅の髪に豪華な髪飾りを挿しているところからして普通の人間ではない印象を与える。
 伝渥は呆気あっけにとられていたが、我に返って問いかける。
「…あなたは?」
 声をかけられ、娘が居住まいを正して顔を上げる。
わたくしか?妾は天界の雷夏王ライカオウが娘・桓娃カンアイと申す者」
「天…界の…?」
 しかし、彼女の言葉を疑う気にはなれなかった。髪の色だけでも充分なのに、紫の瞳に額の紋、首飾りや衣服も、とても自身の知る世界である下天では説明がつかない。それに、あつかましいというか物怖じしないというかな堂々たる態度ときている。彼女は大きくうなずいて続ける。
「お前の清清すがすがしく端整な容貌と、そのひたむきな姿に見とれて、つい降りてきてしまったのじゃ」
 そして朗らかに笑う。外見より、だいぶん中身は子供っぽいようだ。
 伝渥が桓娃を助け起こそうと手を差し出す。バタバタと騒々しい物音が近づいてくるのに気付き、二人は廊へ視線を向ける。
「おお、伝渥様。こちらに雷が落ちませんでしたか…?」
 家人たちが先程の雷を心配して様子を見に来たらしい。当然ながら、若き新当主の傍に立つ見たことの無い娘に目を止めて尋ねる。
「そちらは…どなた様でしょうか」
 桓娃が胸を張ってまたも堂々と名乗ったのは想像に難くないだろう。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ一 雷霆の姫

巡りあい、そして…

 若き当主・伝晟が亡くなった哀しみも、天界から雷夏王の息女がくだったことでかなり吹き飛んだ感のある河下かか。邸に引き篭もりがちだった伝家の末娘・浹媛も、また庭に出るようになった。
 そんな時、事件は起こった。
 転がっていったまりを追って茂みの向こうへ駆けて行ったまま、いつまでも戻らない。さすがにおかしいと思った守役たちが辺りを捜すが、その姿は無い。彼女のことだからどこかに隠れて驚かそうとでもしてるのかと皆思っていたが、それにしてはいつまで経っても出てこない。やがて日暮れどきを迎えてしまった。
「誘拐された…なんてことは」
「馬鹿な。出入りする者は門兵がしっかり見ていたのだぞ」
「やはりまだお庭のどこかにおられるのでしょうか」
 皆口々に思うところを述べ合っている。
  * *
 一方その頃。見たことのない景色の中で、浹媛は一人泣いていた。
「ここ…どこなの…」
 丘の上なのだろうか、眼下に川が見える。だが、自分が折に触れ眺めてきた大河とは趣きが大きく異なる。
「道に迷ったときは、むやみに動き回ってはいけないんだよ。正しい道を知る前に、疲れ果ててしまうからね」
 そんなことを、いつか二哥アルコ〈※二番目の兄、つまり伝渥のこと〉が言っていた。木の根本にしゃがみ込んで、彼女は涙を拭った。
 しかし日は暮れかかり、丘の木立もどこか不気味に映る。鳥の鳴き声、小枝が風に揺れる音。それすら恐ろしく感じられて、小さく肩を震わせながら目を閉じる。
 と、蹄の音が近づいてくる。誰かが通りかかったのだろう。良からぬ輩かもしれないのに、浹媛はまだ疑うということを知らない。ほっとして顔を上げる。
 ほどなく、馬に乗った少年とそのお付きの者とおぼしき二人連れが現れる。少年のほうが先に浹媛に気付いて、馬を止める。
「君…こんな所でどうしたの?」
 その言葉には、何の棘も裏も無かった。
(良かった…)
 安堵したらまた涙があふれる。涙で答えられないこの少女を見て、お付きの青年が言う。
「道にでも迷ったのでしょう。もう日も暮れます。お急ぎ戻られませんと」
 少年は素っ気ない側近を睨んで、
栞駁カンハク!それじゃお前は、この子をここに置いていけと言うのか?」
 少々むきになっている少年に、青年も態度を変えた。
「それならば、とりあえず城に連れてゆかれますか」
 初めからそう言えばいいんだ、という顔で、少年は馬上から彼女に手を差し伸べた。
「おいで。ここで一人夜を明かすより、ずっといいから。朝が来たら、お家まで送るよ」
 うなずいて立ち上がり、少年の手を取る。彼は軽々と浹媛を馬上に引き上げる。
 朴念仁な側近が、その様子を目にして少し笑った。彼とて守役である。主人の我侭わがままにただ付き合ってやったとは思っていない。元々主人たるこの少年は気は優しいが年の近い娘にこんな思わせぶりに親切な態度をとったことが無い。また、この娘がなかなかいい身なりをしていたから目をつぶったまでのことだった。
 
彗孛スイハイ!」
 のこのこと戻ってきた犬ほどの一頭の獣に、老人が怒鳴り付ける。
 かったるそうに見上げる獣に、彼は更に浴びせる。
「彗孛!!お前、下天へ行って何イタズラしてきおったか!」
 別に何してきたって構わないじゃないか…という気持ちをそのまま出したような態度で、彗孛と呼ばれた獣が答える。
「河下の城に可愛い娘がいたものだから、ちょっとからかうつもりでかどわかしてみたのですが、あまりに泣くので江沿こうえんに棄ててきてしまいました」
「何じゃと~!?」
「よりによって国境を接して睨み合っているテンの本拠地がらみか…」
 冷静につぶやくのは、たまたまこの中庸界の星辰宮せいしんきゅうにやって来ていた不空フクウである。
「で、まさかその娘というのは伝家直系、現当主の実妹ではないだろうな?」
 彗孛はしばらく考えていたが、
「うーん…そうかと思います。『姫様』と呼ばれてましたし、一等いい衣服を着ていましたから」
 そう言って、後ろ足で首のあたりを掻いた。
「何ということじゃ…」
 頭を抱えて、老人がうずくまる。
「これは厄介なことになりそうですね。寿考ジュコウ、不空」
 張りのある、澄んだ女性の声が割って入る。寿考は声の主を仰ぎ見て、
「おお、桂思君ケイシクンまで…」
 水晶宮すいしょうきゅう吉地キッチがかれこれ百年近く前に下天の宰相に嫁ぎ、三人の子をもうけるのと引き替えに人型を保つ力を失って本性の水晶球に戻って以来、中庸界の佳人と言えば彼女を指す。姿ばかりか、声も凛とした所作も、そして気立ても素晴らしく美しい。正に咲き誇る大輪の華といったところか。
「ええ。呉家では各地に情報網を張っていますから、もしそうだとすればすぐに露見するでしょう」
 不空が答えると、
「まあ…まだ幼い子なのに可哀想なこと。きっと、これ以上はない良い人質だと遇されるのでしょうね…」
 桂思君は口先だけでない同情を込めて言うが、不空をちらと見て、
「あ、でも貴方には嬉しいことかしら」
「やめて下さい、桂思君」
 二人の間に険悪な雰囲気が漂い始めたのを感じておろおろする寿考を知ってか知らずか、不空は語調を強めて言い返す。
「確かに、今の呉家には私自身の血も入ってはいます。ですがもう三百年も昔の話。それに…」
「『それに』何ですか?」
「私は雷夏王の下にある老爺ラウエの弟子でありながら、天界の風老フォンラオの恩恵も受けて今在る訳ですから…動けませんよ」
 この不空の言葉に、桂思君も寿考も首をかしげる。先に尋ねたのは桂思君であった。
「雷夏王のご息女が伝家に加勢されたことは、わたくしも聞いております。ですが、風老と今回の件とはどう関係があるというのです?」
 寿考も、うんうんとうなずく。
「あなたがたはご存知ありませんか…」
 ひとつ息をついて不空が続ける。
「十数年前、創草王ソウソウオウがご子息を下天に降されたのだそうで、創草王のご息女・陽炎王 カゲロウオウは、その降された弟君を盛り立てようとしておられます。陽炎王は、風老の孫娘にあたる御方です」
 そう語りながら、不空は陽炎王と会ったときのことを思い出していた。
 突然目の前に現れた天女は、長い空色の髪を結い上げもせず、優美な天衣といかつい甲冑に身を包んでいた。そして、
「お前が中庸界の老爺が弟子だな」
と何の前触れもなく尋ね、ええそうですが、と返すや否や、
「我が末弟を阻むことは許さない。お前は、雷夏王のみならず我が祖父・風老の恩恵をも受けていること、決して忘れるではないぞ」
 それだけ言うと、風と共に消え去ってしまったのだが…
(「お前ほど厄介な人物も中庸界には居るまい」という目で私を見ておられたな…)
 確かに、どの有力氏族が出てきても手を差し伸べるだけの可能性を持っているのは自分くらいだろう。
 失笑する不空を前にし、桂思君は気がかりげに次の言を待っている。
「…ですから、今回は見守るだけですよ」
 言い終えると、彼は少し顔を伏せて深く息をついた。
  
 丘で出会った少年らに連れられて江沿の城へ入った浹媛へと話は戻る。
「君、名前は何ていうの?」
 少年に尋ねられるが、浹媛は黙ったままだ。
 困った顔をしている少年の後ろで、先ほど栞駁と呼ばれていた従者が言った。
「あなたが失礼な訊き方をなさっているのですから、無理もありませんね」
 弾かれたように振り返り、
「どういうこと?」
 返答を急ぐ風の少年に対し、栞駁は悠々とした口調で、
「名前を尋ねるときは、まずご自分が名乗らなくてはいけません。お嬢様がお相手なら尚更です」
「あっ、そうか」
 ぱっと笑顔になって、また浹媛に向き直る。
「言うのが遅れてごめんね、ぼくは呉燎ゴリョウ。この江沿の呉家の…でも庶子だから…あまり偉くないんだ」
 一瞬、浹媛ははっとして、名乗っていいのか迷っていたようであった。だが、彼の態度が誠意と親しみに満ちていたので、思い切って口を開いた。名だけなら…
「浹媛…て、いうの」
「ふうん…きれいな名前だね」
 呉燎は笑った。しかし、二人を少し遠くから見ていた栞駁には思い当たることがあり、どうしても表情がこわばった。
(そういえば…河下の伝家にそういう名前の娘がいたような…)
  * *
「呉燎様。呉彊ゴキョウ様が、お話があるそうですので」
「父上が?」
 警戒心も薄らぎ、口数も増えてきた浹媛だが、明日になったら帰してあげなければならない。正直言って、そんな彼女と離れるのがひどく口惜しかった。父の薀蓄うんちくなどいつだって構わないとも思ったが、自分はそれが許されるだけの立場に無い。
「浹媛…ちょっと行ってくるけど、ここでゆっくりしててね」
 そう言って小さく手を振り、呉燎は部屋を出て行った。
  * *
 南方の江沿近隣を治める呉家の当主・呉彊は、不本意ながらやって来た様子の呉燎を見るなり笑顔で言った。
「燎。お前、なかなかの大物を狩ってきたようだな」
 しかし、今日は狩りに出て獲物を仕留めたわけではない。呉燎としては腑に落ちない。
「お言葉ですが、父上…ぼくは何も…」
「いいや。どういう因果かは知らんが、伝家の娘を捕えてきたのであろう?聞き及んでいるぞ」
「浹媛が…!」
「浹媛と名乗ったか。子供というのは分かりやすくて良いものだ」
 しまった、と口に手をやるが、もう遅い。
「これで北東の国境地帯はしばらく安泰だ」
「失礼します」
 顔を伏せたまま早足で退出する息子の背中を、呉彊は何も言わず見送った。
  * *
 戻った部屋に、浹媛の姿は無かった。
「呉燎様…」
 振り返れば、いつからそこに居たのか栞駁が立っている。
「栞駁!お前、知ってたのに黙ってたのか!?」
 答えない栞駁に詰め寄り、
「まさか、お前が父上に…!?」
「違います」
「じゃあ、どうして…!」
「呉彊様自身が、それだけの情報網を握っておられたということです」
 呉燎が、肩を落としてうつむく。
「それじゃ、浹媛は…」
「人質として監禁生活でしょう…お可哀想ですが」
 何故止めてくれなかったかと栞駁を責めることは出来なかった。当主の命令は絶対なのだ、取り合ってもらえるはずがない。
「そんな…そんな…!!」
 廊の石畳に泣き崩れる少年を憐れみの眼差で見つめるのは、栞駁と間もなく西へ沈もうとする細い月ばかりであった。
 * *
 これから先のことを呉彊が一人思案していると、天から降ったか地から湧いたか、道服をまとった男が突然目の前に現れて、いきなり尋ねた。
「あなたが呉彊様ですね?」
「いかにもそうだが…」
 いぶかしげに返答する呉彊に、男は告げる。
「さようですか。では、国境を平穏に保つ小鳥にふさわしい籠を差し上げましょう」
「何故それを…!」
「そのくらい、お見通しですよ」
 小さく笑うその男は、背格好も堂々としたものだが筋骨隆々というわけでもなく、麗雅さも備えた青年の姿をしている。しかし、とても普通の青年とは思えない。
「河下には雷夏王のご息女がおられる。伝家の姫君がここに在る限りはこの江沿ごと雷夏王女ライカオウジョ雷霆らいていに焼かれることは無いにしろ、王女に脅しをかけられた間者やらが救出にといつ潜り込んでくるか分かったものではありませんよ?いかにあなたが情報を多く集め把握しておられるとはいえ…刺客も一緒でしたらやはり怖いものでしょう?」
「う、うむ…それは…」
 それを心配していたのだ。呉彊が図星を突かれた格好になった。
「だからこそ籠なのです。いかんともしがたい所に入れておけば、河下も手出ししにくいはず。江沿を内から瓦解はさせられても姫君を助け出すことは叶いませんのでね。このたび新たに立たれた河下の当主様は非常にお優しい方なので、実の妹君をそのような形で見捨てることはありません。この下天はもとより、中庸界・天界すべてで見渡してもほんの一握りの者しか解けない強固な籠…ひとつ置いていきますよ」
 呉彊はただうなずくだけだった。男はにこりと笑って、
「まいど」
 それだけ言うと、名乗りもせずにどこへともなく消えてしまった。
 
 江沿からの使者が河下へやって来たのは、それから半月も経たない頃だった。
「江沿から使者が?…どうしたことだろう」
 この時点で何も知らない伝渥は、当然ながら首をかしげる。
「良からぬ予感がするのう…何か企んでおるのでは」
 桓娃が率直に思うところを述べる。
 彼女の勘は正しかった。
「こちらの姫君…浹媛様、と申されましたか。どうした因果か、我が領へ来られて迷子となっておられましたので、当方で保護しております」
 使者は伝渥の前に通されるなり、堂々と奏上した。そして、証拠だとばかりに、浹媛が姿を消したときに着けていた蒼い瑪瑙めのうの飾りを取り出して見せる。接見せっけん〈※地位の高い人が客に面会すること〉の間に居た伝家の者たちの表情が一瞬で凍りつく。何を言わんとしているのかは明らかだ。 『こちらには人質がいる、侵攻など考えぬよう』という、無言の圧力に他ならない。しかし、伝渥はぐっとこらえて使者に告げる。
「それはご迷惑をおかけした。では、今まで世話になった礼とともに、こちらから迎えに参ろう。よろしく取り計らい願いたい」
「いえ、それは…」
 やはり、使者はうなずかない。
「実を申せば、我が江沿の当主・呉彊様の四男であらせられる呉燎様が、ことのほか姫君に目をかけておられまして。我々も申し上げたのですが、『帰したら寂しくなるから』とばかりで…」
「おぬしらは、子供を理由に使うのか!?折角得た人質を帰せぬ理由に…!!」
 我慢ならずに桓娃が声を上げる。彼女の手の中で雷光がパチパチと音を立て始める。
「私を処刑なさいますか?それもいいでしょう」
 使者は動じる様子もなく桓娃のほうを真正面から向いて言い放つ。
「桓娃、やめるんだ」
 彼女を制して、伝渥は改めて使者に告げる。
「では…このまりを妹に渡してはくれまいか」
 浹媛がよく庭先で追いかけていた毬。その毬だけは庭で見付かったのであった。
「かしこまりました。必ずや、お渡しいたします」
  * *
 使者が退出し、やがて日も暮れ、円い月が高く昇りゆく。
「伝渥よ…わたくしは悔しい。何も出来なかった。これほどに自分が非力なものとは…他の者にこれほど助けを乞いたくなったことは、今まで無かった」
 しょんぼりした様子の桓娃に、伝渥は優しく返す。
「あなたにまで悔しい思いをさせました…申し訳ないのは僕のほうです」
 夜空を見上げて、伝渥には聞こえないように桓娃がつぶやく。
「浹媛は…月を拝むことも出来ぬ所に押し込められているのかのぅ…」
 初冬しょとう〈※陰暦十月〉も半ばとなり、夜の冷え込みは日に日に増している。江沿が南方の地とはいえ、慣れないところで人質として過ごしているであろう少女が不憫に思えてならなかった。
 そして、彼女は中庸界の者たちと直接渡りをつける必要性を考え始めていた。
 
 更に一月ほど、時は流れる。夕闇迫る頃、栞駁は浹媛が監禁されたという一室を遠目から様子を窺ってみた。全身から冷や汗が吹き出る思いだった。
「…まさか…」
 ようやく一言洩らすと、急ぎ足で主人の許へ戻る。
(あれは…『かせ』を掛けられた者のみを決してその外へ出させない『おり』。あれを使いこなせる者は、ごくわずか…。私がここに居ると知ってのことか?私を…試すつもりなのか?)
「栞駁…どうしたんだ、真っ青じゃないか」
 主人である少年に声をかけられ、我に返る。考え事をしている間に部屋に辿り着いていたようだった。
 常日頃の彼ではとても考えられない取り乱しように、呉燎は不安げに見ている。
「彼女より、私を心配してくださるのですか?」
「浹媛のことだって心配さ。けど…お前、あまりにも焦ってるみたいだし、具合が悪そうだったから」
 しかし、それでも栞駁の主へと向ける目に死角は無かった。
「呉燎様。今、何を隠されたのですか?」
「何も」
 一瞬ぎくりとするが、平静を装って答える。
 何も、なはずは無い。隠したのは地図と古い書物…中を覗くべくもなく、彼が何か考え実行に移そうとしていることだけは分かる。
「どうされようとしているのか、私には分かりかねますが…あの『檻』は天界・中庸界・下天の三界合わせても解ける者は稀です。この下天にはまず居ません。そうなれば…」
 栞駁はなだめるつもりで言ったのだが、呉燎は逆に確信を得たようだった。
「稀だろう?…皆無じゃない。それに、かけた者があれば、解ける者もあるはずだ。何だって、光と影、表と裏…二つあるんだ」
 そう言って部屋から出て行こうとする彼に、
「…本気なのですか?」
 普段にも増して無機質な声色で尋ねる。しかし、呉燎は笑って、
「本気さ…元凶はぼくにあるんだから。何としても、探り出す」
 人間は、極限状態になったら怒るでも泣くでもなく笑うのかもしれない。勿論、心から楽しいと笑うのではない。言ってみれば、彼が浮かべたのはその『笑み』だった。
 よくよく見ると、羽織る衣の中に平民と大差ない旅服を着込んでいる。
(中庸界へ向かう気なのか?並の人間には酷極まりない旅路を…)
 感情の映らぬ瞳で自分を見つめる守役に、少年が告げる。
「栞駁…ぼくはきっと、戻ってきても、ここには居られない。お前には色々と迷惑をかけたけれど…最後も迷惑をかけるね。どこかで別のお勤めを探しておくれ。…今まで本当にありがとう」
 そして、袖から佩珂はいか〈※ぎょくの おびもの〉取り出して栞駁の前に差し出した。
「ぼくにはもう必要ない。何かの足しにはなるだろう」
 おびだまには、主君が臣下に与えれば訣別を意味するものもある。これを思い出し、栞駁は危うく涙を落とすところだった。
 …自分も、覚悟を決めよう。幼い頃より見守り続けた少年の為に。そして…今の今まで逃げていた自分の為に。
「呉燎様…私も覚悟を決めました」
 差し出された佩珂を押し戻し、栞駁は続ける。
「あの檻、解いてみせましょう」
「…えっ!?」
 意外な答えに呉燎は目を丸くする。
「そうすれば、どちらにしろ、ここには居られなくなります。私も…あなたもです」
「ちょ、ちょっと待ってよ!どういうことなんだ、お前…」
 当惑する主人に、彼は精一杯の思いを込めて言った。
「もう、会うことはないでしょう…お元気で」
 平素から表情に乏しい彼が、笑顔を見せた。今までで一番心に届く、優しさをたたえた笑顔だった。
  *
 監視の目も無い夜半。例の離れへ向かう彼を、呉燎が追う。天の太陰が照らす廊に、微かな二人分の足音だけが続く。
 念のため用心して周囲を窺ってから戸の前に立ち、乱れのない静かな口調で栞駁が告げる。
「檻と、姫にかけられている枷を解きます。私に出来るのはそこまで…後はあなたが決めることです」
 無言でうなずく呉燎を見届けて、栞駁が両手を戸にかざす。次の瞬間、局地的な振動と轟音、光芒が駆け抜けた。
「浹媛!」
 とっさに呉燎が駆け込むと、既にそこに栞駁が居た。浹媛の前にかがみ込み、術を修しているようだった。パキンと甲高い響きが耳を突く。
「これであなたは自由です」
 そうつぶやいたと思うとすっと立ち上がり、外へ向かって歩き出す。
 何も言えず彼の後姿を見送る浹媛と呉燎。
「ほお…こんな所におったのか」
 突如、別の知らない声が廊よりも先のほうから聞こえた。
 二人の目の前で、栞駁の姿は次第に霞み、形を変えていく。
「星辰宮に戻るぞ、辰鹿シンロク
 再び老人の声がすると、光芒と共に彼の姿は跡形もなく消えてしまった。
 しかし、二人は見た。消える間際に彼が残した姿は、これまで目にしたことがないほどの優美で精悍な一頭の牡鹿そのものだったのを。
  *
 沈黙を破って、呉燎が言う。
「行こう、浹媛。約束だからね…君を家まで送るのが」
 これを聞いて、浹媛は呉燎にすがりつく。
「そんなことしたら、あなたもこうなるわ!」
「しっ…静かに」
 宿直の衛兵が異変に気付いてここに駆けつけるのも時間の問題だ。急がなければ。
 彼は、すがる彼女の肩に手をかけてその目をまっすぐ見つめ、
「栞駁の行為を無にしたくない。今はもう、ここに居てはいけないんだ…さあ!」
 言い終えるより早く、彼女の手を引いて駆け出した。
  * *
 門へと向かう途中、厩舎の戸が開け放たれているのが目に入った。気になって近くへ寄ってみると、駿馬が一頭だけ手綱を厩の柱から解かれ、今すぐにも走り出せるようにされていた。しかも、鞍に長弓とふく〈※えびら。矢を入れて背に負う道具〉が結わえられている。
(もしかして栞駁が…?)
 思い当たるといったらそれしかない。ありがたいとばかりに彼は馬に飛び乗り、一緒に走ってきて息せききる少女を馬上に引き上げ、迷わず馬の脇腹を蹴る。
 門まで来てみたが、門番の姿も無く、不用心にも門は開け放たれている。しかし、勘ぐる余裕はない。一気に駆け抜け、一路、北東へ五千五百里も先の河下へと向かった。
  * * 
 江沿の城の者たちがこの異変に気付いたのは翌朝のことだった。
 まさか実の子息にこんな形で裏切られるとは思っていなかった呉彊は、ひどく衝撃を受けていた。呉彊には子息が五人いる。その中で彼が最も期待していたのは常に溌剌として誠実な呉燎だったのだから尚更だ。嫡子でもなく長子でもない。生母は既に世を去って久しい。母方の縁という後ろ盾も、そう強いものではない。だから立場的には弱い少年だったが、それを決して感じさせない内なる強さが彼にはあった。
「必ずや燎を連れ戻すのだ。良いな!?」
 叩き出されるかのように、追手が江沿の宮城を後にする。
 あの娘を妻にと望むのなら、与えてやろう。穏健にと望むなら自分の名で直々に河下と折り合いをつけてもいい。
(お前が望むのなら…お前が戻って、もう二度と父を裏切らないと誓いを立ててくれるのならば、この当主の座とて今すぐお前に明け渡しても構わぬのだぞ、燎)
 部屋の扉も開け放したまま、組んだ手の上に額を預けて顔を伏せる呉彊に、外から声をかける者があった。
「…まあ、勿体無いことをなさったものですな」
 見れば、先日の方士とはまた別の、青年のなりをした男がそこに座っている。白に灰色や黒の斑という毛色の獣と一緒だ。
「また中庸界の方士か!偉そうなことばかり抜かす割に大したことも無い奴らめ」
「おやおや、これはお怒りの様子ですね…」
 困ったような顔をしながらも、男は自分に向けられた非難をやり過ごし、
「大体の事情は分かっていますよ。奴の仕掛けた籠は、確かに三界合わせても解ける者は稀なものです。つまり、奴はウソをついてはいません。そもそもの誤算は、ここに中庸界の星辰宮にて飼われていたはずの辰鹿が隠れていたことに在った…それだけのこと」
「辰鹿…とな?」
「ええ」
 やはり疑わしげに繰り返す呉彊をあまり気にする様子もなく、男は淡々と続ける。
「鹿といってもただの鹿とは箔が違うのですよ。そこらの半端な方士より、はるかに方術も占術も巫術も使いこなすだけの力量を持っています。人間の姿に化けるなど簡単なこと。特定の分野に関しては、高名な方士より秀でているくらいの存在なのですから」
 正に開いた口が塞がらないとでもいうように呆然としている呉彊を横目でちらと見て、
「惜しい獲物を逃しましたね、江沿の当主殿」
 言い終えると、男は獣の背にまたがってどこへともなく飛び去って行ってしまった。
  * *
甲喜コウキ様」
 空を滑るように飛びながら、獣が背の上の主人を呼ぶ。
「なんだ、晧黔コウケン
「どうして鄒頌スウショウの弁明までしてあげたんですか?」
「…ああ、あれか」
「そうですよ。弟子でもないのに…」
 やや不満のこもった声色で晧黔は言うが、甲喜と呼ばれた男はフウッとため息を一つついて、
「弁明って程でもないだろう。まあ、強いて言えば似た者同士、弟分みたいなものだからな」
「…似た者同士?…あ。ははは、そうですね。中庸界にあっては結構な異端児ですからね」
 忍び笑いする連れにちょっとばかり不愉快そうな顔を見せるも、
「いつまでも笑ってるんじゃない。さっさと帰るぞ」
 甲喜は手に持っていた払子ほっすで軽く晧黔を叩いて促した。
 
 昨夜江沿を出た二人に、話は戻る。
 夜昼と通し駆け抜いたことで、馬は当然のことながら、乗り手のほうもかなり疲れていた。
「ねえ、呉燎…休もう?」
 おずおずと首をかしげて彼の顔を覗き込み、遠慮がちに浹媛が提案する。
「いや、まだだ…せめてもう少し」
 浹媛は少しだけ肩を落として目を伏せたが、
「それじゃ、次に川が見えたら休もう?ね?…帰り着く前に、あなたやこの子が倒れてしまうもの」
 自分のことも心配でないはずはないだろう。しかし、彼女は周囲の考えに逆らって自分を連れ出し、ここまで来た少年や、縄を解かれていたばかりに夜から昼まで続けて道を駆けることになったこの駿馬のことを、より気がかりに思っていたのだ。それを彼女の優しさと解して、呉燎は答えた。
「…うん、分かった」
  * *
 日が頭上高く昇る頃まで駆けると、目の前に小川が流れているのが見えた。川のそばで二人は馬を下りる。
 川岸で馬が水を飲むのを眺めながら、二人は交わす言葉もなく肩を並べて座っていた。
 …そうしているうち、どれほど時が経っただろう。
 空から降る羽音に、二人は我に返った。
「…鳥?」
 小鳥は迷わず呉燎のすぐ側に舞い降りる。彼が手を伸ばすと、ためらいもせずにその上に乗った。
「どうして…」
 見覚えがある。幼少の頃から空を翔ける鳥たちが好きで、親や兄弟たちとはぐれたらしい雛鳥を何羽か手許で育てていた。そして、彼らが成長した後も籠の中に入れて大切に飼っていた。しかし浹媛が囚われてから、すべて空へ放したはずだった。
「自由におなり」
 彼はそう言って、鳥たちを狭い籠から大空へ放してやった。
「呉燎様、どうなされたのかしらねぇ。あんなに大事に飼っていらしたのに…」
 そうつぶやく侍女も居た。でも、彼は心の中で答えていた。
「この鳥たちにとっては、空が『あるべき場所』なんだよ」と。それなのに…
(全てを忘れること・切り離すことなんて出来ない…そういうことなのか!?)
 その叫びが声になることはなかった。
「…だいじょうぶ?」
 浹媛に尋ねられて、彼は今まで考えていたことを振り払って言った。
「大丈夫だ。行こう」
 そして、手の上で休む名もない小鳥を再び空に放して川岸を後にした。
  * *
 名を残すような駿馬でさえ、「千里の馬」である。一日では国境も見えない。
 疲労と不安の色が隠せない呉燎に、浹媛が一言だけ言葉をかけた。
「知らない所でも、今度は一人ではないもの…大丈夫よ、恐くない」
 不思議に彼女の言葉に励まされた気がして、呉燎は一度小さくうなずいて、また前を見つめた。
 江沿の城を出て三度目の昼を迎え、呉と伝との国境に近い匯水いすいの支流までやって来た。北の大河と南の大江に挟まれた川である。匯水が見えた、もう少しだと思ったその時だった。
「呉燎様!!」
 背後から呼びかける声に振り向くと、江沿で一、二を争う名馬・迅駛ジンシ駃騠ケッテイまたがる、父の直臣・郢宁エイチョ湘晢ショウセキの姿がそこにあった。
「郢宁、湘晢…何故お前たちが…?」
 信じられないという表情で固まっている呉燎に向かい、まず年嵩の郢宁が告げる。
「聡いあなた様ならば、お分かりにならないはずがありません」
 続いて湘晢も、
「我々やこの呉の名馬をしてまであなたを追えとおっしゃった呉彊様の御心をお察しください!」
 見開いていた目を閉じて首を横に振り、呉燎は声を張り上げた。
「父上の御心!?もう関係ない。ぼくは父上の…当主の意思に背いた。もう帰れはしない!」
「それは違います」
 郢宁は歩を進めて、
「呉彊様は全てを許すとおっしゃっています。だから速やかに江沿に戻って、二度とこんな形で父を裏切らないと誓いを立てて安心させてくれ、と…」
「馬鹿な…そんなはず!」
 呉燎が吐き捨てるように言うと、
「いいえ。あなたが気付いておられないだけなのです」
 静かな口調で、湘晢は語り出す。
「他のご兄弟の前では言いにくいことではありますが、呉彊様は五人あるご子息の中で最もあなたを頼りとされておられます。伝家の姫を妻女に望むなら、伝家にも直接吾自らの名で働きかけて穏健に計らい叶えてやろう、と… 伝へ呉領の一部を割譲して収まるなら、そうしても構わないとさえ、おっしゃったのです」
 しかし、呉燎は鼻で笑って、
「口でなら何とでも言えるさ。腹の中は領土を広げることばっかりだ。割譲なんて、これっぽっちも考えてないくせに」
 そして、馬の向きを変えさせて駆け出した。
「お待ちください!」
「これ以上の親不孝はありませんぞ、呉燎様!」
 郢宁と湘晢も、駿馬に鞭を当てて追う。
「何を言われたところで、帰りはしない。国境まで追いかけたが追いつけなかったことにして、お前たちは引き返せ」
 呉燎は長弓を構えて矢をつがえ、振り返りざまそう叫ぶと弓を引き絞る。
「やめて、呉燎!」
 今の今まで黙っていた浹媛が、懸命に彼の腕にすがって止めるが、
「本当に射落とすつもりは無い…大丈夫だ」
「だけど!」
 馬上から、動く的をぎりぎりでそらして射る…危険である。だが、呉燎は彼女の制止を振り切って矢を放った。
「危ない!」
 矢は、駆ける迅駛と駃騠をかすめるように飛んで、はるか向こうに落ちたようだ。馬も、二人の臣も全く傷を負った様子は無い。信じられないものを見たとは、こういうことなのか。
 そういえば聞いたことがある。南将・呉家はイン王朝の時代から弓弩きゅうどの家であった、と。
「郢宁、湘晢!何故尚も追うんだ!!」
 いっこうに引き返す気配を見せない臣たちに呉燎は言うが、
「伝家領に入ってでも追いついて説得して連れて戻れと命じられて来ました。はいそうですか、と帰れはしません!」
 湘晢が答え、
「その弓の腕は正に呉の証。よそへ行かれる理由などありません!いや、よそへ出してはいけないものです!」
 郢宁も叫ぶ。
 ここにきて呉燎は、彼らが本気であるのを事実としてようやく受け入れることが出来た。とはいえ、引き返すことは…江沿に戻ることは受け入れられなかった。
「呉燎…あなたは戻った方がいい」
 小声ではあるが、はっきりと浹媛が言った。しかし、
「戻っても、戻れはしないんだ…あの頃には」
 立場の弱さゆえ、心細さは否定できない生活ではあった。だが、今戻っても、無くしたもの・無くすものは取り返しようもない。「どこで油を売っていらしたのですか」と嫌味を言いつつ迎えてくれる栞駁も、畏怖の念ばかりしか持てなかった父や兄弟らの姿も、そして…きっと浹媛も。
 振り返ることもなく、彼はただ前だけを見つめていた。
  * *
「それ以上進まれては危険ですぞ」
 後ろから郢宁が告げる。とうとう国境まで来てしまった。伝側でも、こちらに気付いたらしい。
「何者か!?ここが何処だか分かっていような」
 警備の兵士たちが剣戟や弓を構えて言う。
 緊迫した空気が漂う。
「そちらの当主様の妹君のお帰りなのだよ?物騒なお出迎えすぎやしないかい?」
 沈黙を破ったのは、一陣の風と共に突如として現れた青年の姿をした方士の一言だった。一瞬兵士たちが退く。
「一体何事だ!」
 体格のいい、やや肥えた中年の男が騒ぎを聞きつけてやって来る。
「あなたが、ここの警備を河下より任されている陳徂チンソどのですね」
「だったら何だ」
「呉と伝との停戦締結を、伝側の一代表として見届けて下さい」
 陳徂ばかりではない、皆訳が分からず首をひねる。
「停戦とは…どういう…」
 問いには答えず、方士は宙に高く舞い上がると腕を前に伸ばし、手のひらを揃えて天に向けた。その手の中に数本の金剛杵こんごうしょが現れ、閃光を上げ始める。
チー!」
 彼が気合と共に言い放つと同時に、手の内の金剛杵が光芒を放ちつつ目にも止まらぬ速さで大地に堕ち、あちこちで風の柱を打ち立てた。
「武装した兵士は、この国境を通れません。…向こう三年間は全面戦争をお控え下さい、と当主様にお伝え願います」
 彼は地上に降りて陳徂たち伝側の警護兵たちと呉側にいる者たちに目を向けてそう告げ、最後に馬上の呉燎と浹媛の傍へ歩み寄ると、横から馬の手綱を取った。
「何をなさるのです!中庸界の方士どの!!」
 危機感を感じた湘晢が止めようと迫るが、
「私は不空。今となっては遥かな昔、江沿で過ごした者…。私にお任せください、決して悪いようにはいたしません」
 次の瞬間、巻き起こった風に三人と一頭の姿はかき消された。
「呉燎様!!」
 湘晢は焦って目をこらし、周囲を見回す。だが郢宁は冷静に言った。
「戻るぞ、湘晢」
「しかし…」
 渋る湘晢に、郢宁が続ける。
「あの御方を見ただろう。似ておられなかったか、呉家の方々に」
「似ておられた…とは、どういうことですか」
「昔の記録で読んだような気がするのだ。不空と名乗る中庸界の者が、直系の子孫にあたる呉の幼い当主を助けて撥乱反正の戦いに臨んだというのを」
「ですが、呉彊様のご命令はどうなるのです!?」
 呉燎も居なくなってしまい、とても今の状態では戻れない。戻ったところでまた叩き出される可能性も否定出来ず、不安は尽きない…湘晢が気がかりに思うのも当然のことだ。だが、
「呉燎様のことは、また別として…この国境の風壁のことをお伝えせねばなるまい」
 そう言って彼は迅駛の向きを変えさせ、もと来た道へと駆け出した。
「お待ち下さい。私も戻ります」
 慌てて湘晢が後を追う。
  * *
 ほどなく、不空は浹媛だけを連れて河下の城に現れた。
「浹媛様!!」
 門兵がすぐに気付いて、中へ向かって叫ぶ。
「浹媛様が、お戻りになられました!!」
 あっという間に、城の中から家人たちが詰めかける。伝渥ら親族も急ぎ足で駆けつけた。
「浹媛…!」
「姫様!」
「よくぞ無事で帰ったの、浹媛」
「本当に戻ってきたんだね…良かった」
 伝家の者皆が彼女を迎え、その無事を喜んだ。
「しかし…」
 桓娃は、浹媛のやや後ろ手にたたずむ青年に目を止めて、
「お前は何者か?」
 何か企んでいるのではあるまいな…といった、疑いの感情のこもった口調で尋ねる。
「この方は…」
 浹媛が説明しようとするが、
「あなたが雷夏王のご息女ですね。私は中庸界の老爺ラウエが弟子で不空と申します」
 先に不空が名乗った。
「おお!そうか、お前が!!」
 桓娃の表情が、ぱっと明るくなる。
「いいえ、妹姫を救出したのは私ではありません」
 彼女が少々誤解しているように感じたので、不空はまず本当の事情を明かした。
「話せば長くなりますが、きっかけを作ったのは呉家のある子息どのと、彼の…従者です」
 浹媛が顔を背けて目線を家族からそらす。そんな妹を見て伝渥は、
「呉の子息どの、ですか…。ぜひ兄として礼を言いたく思います。彼は今どこにいるのですか?」
「当主様も野暮なことをお訊きになるものだ。どうせここに来たら仕返しされるとでも思って江沿に戻ったのだろうに…親切には感謝するが、終わりがこうではな」
 ぼそりと言う者が家人の中にあった。しかし、幸か不幸か、聞きとがめる者も無かった。
「家には戻りたくないと言うので、私が預かることにしました」
「では中庸界に…?」
「はい」
 伝渥は残念そうに、
「そうなのですか。くれぐれも宜しくお伝え下さい」
 伝と呉との国境に立つ風柱と三年間の停戦について言い残し、不空は去って行った。
  * * 
 次に不空は江沿へ向かう。その途中、甲喜と出会った。
「結局、お前も何年経とうと血族と縁を切れないのだな」
 顔を合わせざま、甲喜が言う。
「甲喜様…言い過ぎですよ」
 下から晧黔が小声で意見するが、当の不空はあまり気にしていないようだ。
「急いでおりますので、これで」
 甲喜は、早々に立ち去ろうとする彼を呼び止めて、
「不空。江沿の当主は我々中庸界の者たちに相当な嫌悪感を持っているようだ。心に留めておいた方がいいかもしれない」
 それだけ告げた。
  * * 
 追手として送り出した二人もなかなか戻らず、呉彊は心穏やかではない。何をしても落ち着かない様子なのが、傍目にも手に取るように分かる。
 彼の様子を遠くから眺めて、不空は彼に不意に父親の顔を見た。我が子を案じる、父の顔…懐かしい思い出と重なる。
 自分は、遠い距離と長い時間、実の父と隔てられて過ごした。交わした言葉も少ない。しかし、父の優しさと強さは今も心に焼き付いている。だが、自分はそんな父親になれただろうか?師の願いを立てたとはいえ、妻とまだ十歳にもならない子供たちを置いて中庸界へと去って行った自分は…。
 しかし、浸っている場合ではないと思い直し、時機を見計らって声をかける。
「呉彊殿」
 呉彊は、即座に彼が何者であるか見抜いたらしい。「また来たか」と顔に書いてあった。
「私は不空…中庸界に籍を置いております。ご子息のことですが…」
「燎のことか!?あの子をどうしたのだ、どうするつもりだ!?まさか、河下に売ったのではあるまいな!?」
 相当心配していたのだろう。息子の話が出るや、矢継ぎ早に問いただす。
「いいえ、決してそのようなことはしていません」
「信用ならぬ」
「信用する・しないは、あなたの勝手です。私はただ、彼が『ここにはもう戻れない』と言うので、それをお伝えにあがっただけなのだから」
 あくまで意固地な彼の言動に、不空は大人気ないと思いながらも半ば投げやりに返す。すると、
「燎がそんなことを!?何故だ…全て許すだけでは足りないとでも言うのか…」
 水の枯れた植物のように、途端に弱々しくうなだれる。
 しばし、沈黙が漂う。
「…不空、どのと申されましたな。あなたは燎が今どこにいるか知っておられるのですね…?」
 淡々と呉彊がつぶやく。
「はい。雷響洞らいきょうどうそばの庵廬あんろ――中庸界の私のすまいに」
「直接会って話をしたい。そのように計らってくれまいか」
「伝えてはみます。しかし、恐らく彼が了承しないでしょう」
「何故だ。あれはそれほどまでに吾を…」
 抱きかけた希望を絶たれ、呉彊は肩を落とす。落胆する彼に、優しくもあるが乱れのない静かな口調で不空は話しかける。
「積み重ねられた矛盾はいつか爆発し、大きな亀裂を生みます。これを埋めるには、双方の努力もさることながら、時間も必要なのです。しばらく、彼に時間を与えてください。大丈夫ですよ…あの子には『不孝』の相が見えません。やがて和解できます。その時が来るまで、呉燎のことは私に任せて下さい」
 退出しかけた不空の背に、無感情に呉彊は尋ねた。
「あなたは、あれに方術を仕込むおつもりなのですか?」
「本人が望むなら、それもいいでしょう。強制するつもりはありません」
 不空が振り返らずに答える。その言葉に納得したかは分からないが、もう呉彊は何も言わなかった。
 
 暮れも押し迫った晩冬ばんとう〈※旧暦十二月〉のある日、不空は星辰宮を訪れた。
「何かと騒がしかった乙巳の年も、もうじき終わるのう」
 ひとりごとのように語る寿考に、穏やかではあるが感情を込めることなく不空が返す。
「はい…。永王朝が倒れ、各地の氏族の間に争いが起きました。『雨月うげつ〈※陰暦五月〉の五日が歳星さいせい〈※木星〉の影響を受ける「木曜星の日」となる年、この「重五ちょうごの日」に日食あるいは月食が起こるならば、必ずや国王が崩御し諸侯が争うこととなる』…あなたがおっしゃった通りに」
 実はこの年の重五の日、部分日食が起きていたのであった。それは白昼の太陽が突如翳り闇が訪れるといった大規模なものではなく、下天の多くの人々は気付かぬままで、騒ぎにもならなかったのだが…。
「この数百年で、現在の暦にもだいぶズレが生じてきておるな…新たな王朝が興る時には改暦が行われるであろうか」
 しばしの沈黙の後、寿考はふと不空に問いかける。
「子孫にあたる少年を引き取ったようだが…そなた、まだ後継者を求めるほどの年齢ではあるまい?」
「いえ、別の事情がありまして」
「ほほう…」
 ここで内情を説明するのは避けたい様子の彼を気遣ったのか、老人はさりげなく話題を変える。
「それから、馬も一頭連れてきたかな」
「何でもお見通しなのですね、あなたは」
「何でも、は語弊があろうがのう…。その馬、峡関きょうかんそばの村に在る牧夫ぼくふ〈※牛や羊などを飼う男〉に預けてくるが良いじゃろう」
「峡関に…ですか?」
「さよう。まだ名も無い若駒であるが、数年の後に下天にその名を轟かすであろう…『晨風シンプウ〈※ハヤブサ〉、ここに在り』と」
「分かりました。きっと、そうさせていただきます」
 大変な思いをさせたと、日々かいがいしくその世話をする呉燎には申し訳なくもあったが、不空は彼の言葉に従って灰茶の若馬を中庸界から下天へ戻すことを決める。そして、帝都・河南と永家ゆかりの地である河源かげんの間にあり、西岳せいがくよりもやや東に位置する山間やまあいの峡関近くの村へ託した。
  
 次なる王朝が興るまでの動乱の時代の幕開けともなった年が今、静かに終わりを迎えようとしていた。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ一 巡りあい、そして…
「巡りあい、そして…」挿画。放した飼い鳥と再会した呉燎と、浹媛。

 * * *

以上、篇ノ一の末尾までを再掲しました。
既に人名・地名など情報量が多かろうと(汗)。
人外魔魅な中庸界の方士・方姑も、現時点でもう柳擶・景瑛・寿考・不空・桂思君・鄒頌・甲喜と出てますからね…(過去人物的に主に名前だけの登場な吉地や老爺も合わせると、もっとだ…さらに汗)。
次回以降に人名録やキャライメージ画とかも再掲出来たらと…
そして、今後もぼちぼち目下書いてあるところまで再掲し、書けずにおり今後も書けるとは思えない以降の展開もざっくり出しておこうと思っています・・・(ええもうしんどい展開…あの人もあの勢力も云々な…orz)。

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