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拙作語り㊳『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』<Ⅳ>

一次創作、古代中国風伝奇ファンタジー小説『群雄列伝』。
内容その他の詳しいところは過去記事(拙作語り㉟)を見て下さいという話ですが、そのうちの『下天の章・三 群雄割拠譚』は、中央政権が衰退し地方の有力氏族が帝都と天下を窺うようになった群雄割拠の人間界が舞台で。今回は篇ノ三の後半部を再掲します。

毎度の断り書き。
R指定まではいかないのですが、PG-12くらいはあっていいのかなと筆者的には思っています。
更には、やはり15年とか前の筆なので、当世のあれこれに抵触するような表現もあるかと思いますけれども、基本「原文ママ」を通したことを念のためお断りしておきます

古代中国風の興亡史=戦記ということもあり、多少残虐・悲惨なシーンが入るかと思われます。
前回・今回と掲載の篇ノ三は、そういう場面が多めかなと筆者的にも感じます。
どうしても残酷なのはダメ、という方は読み進めないほうが良いです
以上、よろしくお願いいたします。

『群雄割拠譚』本編

篇ノ三

北方の遊牧民族と、西方の有力氏族・リョウ家とその領土の民らにより綴られた、支配と兵乱の記録。
(ノヤン・しん河北かほく河西かせい掩哀帝エンアイテイ六年~玉輅亡欠ぎょくろぼうけつ二年)

<後半部>

策謀の時

 急いで駆り集めたとはいえ、北胡は八千騎を擁する。一方、この西方開放陣営はせいぜい二千。しかも、大多数が武具など手にしたことの無い農民や商人ばかりだった。
「諦めることはない、勝算はある。奴らがいかに大軍だろうと険阻けんその地・森林を抜ける細道を通るときには小隊に分かれざるを得ないし、騎馬隊は動きが鈍る。我らがまとまって一団となり、少数兵力となった奴らを攻撃する…それは大軍で小勢を攻めるのと同義になる。そして、騎馬隊…その機動力を奪う作戦を立てるのだ。騎馬隊は平地戦を得意とし、何も考えずにぶつかれば我々に勝ち目はない。だが、山岳戦…山道や湿地帯の移動を苦手とする。幸いにも、この近隣に関しては我々のほうが地の利に詳しい。馬の歩が鈍るような地を通る時を見計らい、こちらは奴らの隊列が乱れ隙が出来るのを傍で隠れ窺って待ち、機をとらえて総攻撃をかける。これを繰り返して奴らの兵力を削いでいき…最終的には北胡軍を掃滅する」
 将帥らが集まり、今後を話し合う幕営ばくえい〈※幕を張って作った陣営。将軍の本陣〉。そう述べる営論から距離をおいて座っていた呉燎は、改めて彼の将帥としての才智を目の当たりにし、驚いた。
(「十を以って其の一を攻むる」「地形は兵の助けなり。これを知りて戦いに用うれば必ず勝ち、此を知りて戦いに用いざれば必ずやぶる」…この人、本物の『将軍』だ)
 
 平地を行こうとするが、橋がことごとく落とされている。この時期には珍しく増水した大河が行く手を阻む。
「大河に沿って、西方に進む」
 アルハが言い切る。
「行軍に時間がかかれば、敵も動く。秦に入るには雪嶺山脈せつれいさんみゃくがそびえている。山岳地帯は騎兵の死地…分かっておられるか」
 将軍の一人・フヘデが尋ねると、
「知らぬはずはあるまい。だが、奴らは所詮寄せ集めの百姓軍隊だ。ようやく取り返した自らの本拠地から離れ、山を登ってまで打って出てくるはずが無い」
 誰も首長に意見する者は現れない。
 馬を駆り、本隊の後について進み始めたマーニに、フヘデが近付く。
「首長の指針に不満か。マーニ」
「ああ…。大将ならば、不測の事態…むしろ悪い場面を考えて策をめぐらせるようじゃなきゃ。あんな、こっちに都合のいいような希望的観測ばっかで大丈夫かよって思うよ。正直」
 彼の言葉に、フヘデは表情も変えず口調も普段のままで、
「ならば命令に従わずともいい…お前の信ずるように動け。絶対に死ぬな。必ず生きてノヤンに戻れ」
 フヘデは剛直で寡黙な男だ。柵すなわち胡城の南、中原ちゅうげんの者達から見れば自分たちも異民族である。しかし、そんな彼らうちでもフヘデの青灰色の瞳と茶褐色の髪は異彩を放っていた。この男が何を考えているのか、マーニには見当もつかない。
「どういう意味だ?」
 彼の問いには答えず、フヘデはまたがる馬を促して早足で追い越して行く。
(フヘデ…)
 懐に手を当てる。シャマン・ボルテから渡された首飾りの、玉石の手応えが指に伝わる。
(おれの信ずるように、か…)
 やがて、彼は毅然と顔を上げて目の前遠くにそびえる山脈を見据えた。
(どれほどのことが出来るかは分からない。でも、おれはおれ自身に可能なことは全部やってやる。こいつら全員欠けることなく引き連れてノヤンに戻ってみせる…必ず)
 そして自身に任された十名ばかりの小隊の兵士たちに視線を移した。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 策謀の時

架け橋の花嫁

 一旦、話は北胡ほっこの要請により出征した兵士たちが西進の途中から無事帰還した河北かほくへと戻る。
 河北は、北胡が新たな首長のもとで立ち直るかどうかは現状計りかねるということで、河西かせいへの使者を立てた。その任を自ら志願して受けたのは、燕律エンリツだった。
  * *
 彼が河西の政庁を訪れると、御年二十五歳という河西の女当主に快く迎えられた。
「西方へ進撃する北胡に従うそぶりをしながら機を見て将帥を討ち、己の領土の兵士たちを無事帰したと伺っております。若年ながら、聡く勇気ある御方ですね」
「私のことを、既にご存知なのですか…」
「全て、とはいきませんがね」
 驚く青年に笑顔を見せ、女当主は続ける。
「河北は、この河西へ連携を求めようというのですね。北胡の動き…そして、今後この中原を舞台に繰り広げられるであろう、天下の覇をかけた争乱を見越して」
 燕律は図星を突かれ、返す言葉も無い。
 どこまで見通されているのか、という心中の動揺を隠しつつ、女当主を見据える。
「悪いお話ではありません。よろしいでしょう…お受けいたしますと大総統以下、議士の皆様にお伝えください」
「承りました」
「それから…あなたは、まだお一人ですか」
「えっ…はい、そうですが?」
 とにかく頭の回転が早い上、容貌も世間一般の女性たちより優れている。もしかして…でも自分は河北の地を愛しているし、いくら当主の希望で、これほどの女性とはいえ婿に来るには…などと、つい思いをめぐらせてしまう。
「ならば…華弼カヒツ
 当主は謁見の間に居た数名の臣の一人に呼びかけ、
「何でございましょうか」
「あなたの奥さまには、年頃の妹君がおりますね?いま、嫁ぎ先をお探しの」
「あ、はい。珠簾シュレンのことですか?確かに居りますが…もしや当主様は…」
「その通りです。いかがなものでしょうか?」
 華弼は、改めて使者の青年を見た。郷里と民を愛し、勇気と行動力を持ち合わせた、精悍な顔立ちの若者だ。帝都よりも距離ある北方の人物でなければ異論も無かったが…
「私がここで返答さしあげるわけには…。妻と義妹いもうとに話をする時間をください」
「良い返事を待っていますよ」
 当主は再び使者に向かい、
「彼の夫人と妹君は、維家から分かれたショウ家の者…つまり、当主であるわたくしの縁者です。大総統の若き子息殿、了承が得られたならあなたに是非お嫁に貰っていただきたく思います」
 そして彼は、この河西に数日ほど滞在することを勧められたのであった。
  *
 謁見の間での一件は、早速華弼本人から彼の夫人とその妹・珠簾とに伝えられた。
 突然の話に驚いて言葉も出ず、そのまま自室に駆け込んで行った義妹に困った様子で、華弼は妻・慎芝シンシに言う。
「私には強引に勧められないが、出来ることならば取りまとめたい縁組だ。お前からも話してみてくれないだろうか」
 また職務に戻る為すぐ邸を後にする夫を見送り、慎芝は珠簾の部屋を覗いた。彼女は戸を開け放したままで一人ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「どうしたの。あなたはもう十五歳、笄年けいねん〈※女子が十五歳になってはじめてかんざしをつける年であり、成年に達したことも指すらしい〉を迎えた一人前の女性なのですよ。遠からず自分もお嫁に行くんだと分かっていたでしょう?何をそんなに泣くことがあるの」
 姉の言葉に首を横に振るが、彼女は声を押し殺して泣き続ける。
「河北などという遠いところへ行くのが怖いの?…そりゃ姉さんも、まさかそんな遠方に住まう殿方をあなたの婿になんて話が来るなどと思わなかったから驚いたし、不安もありますよ。でも…」
「違うの、姉上。その御方に申し訳なくて」
 珠簾は泣きはらした顔を上げて姉に告げる。
「当主様をご覧になったその御方には、わたしなど出来の悪い土人形にも映りませんでしょうに。しかも、こんな何の取り柄も無い小娘で…。義兄上あにうえも、その河北からの御使者様も、当主様がお望みとあれば無下むげに断れるはずなどないでしょう?当主様は、なんて意地悪なお願いをされるのかしら」
「珠簾、あなた…」
「何も恐いことなんて無いの。こうして行き来できる距離なんですもの。ただ、そんな驚き入るほど勇敢で凛々しいという御方に、わたしなんかふさわしくないんじゃないかって…」
 嘆く妹に、慎芝は諭すように言う。
「卑屈になるものではありませんよ、珠簾。あなたは充分すぎるほど可愛いし、優しい気配り屋さんだもの。それに、これは単なる縁談などではなく…河西と河北との橋渡し、人と人とで繋ぐ絆。あなたはその大切な任務を与えられたのですよ。誇りに思わなくては」
「橋渡し…人と人とで繋ぐ、絆…?」
 涙を袖で拭うと改めて自分を見つめる妹に小さくうなずいて、慎芝が続ける。
「ええ、そう。こんな名誉なことは、なかなかありませんよ。あなたになら出来るわ。…ほら、胸を張って。自信を持って。笑ってごらんなさい」
 珠簾はしばらく黙ったままうつむいていたが、
「…分かりました。姉上、わたし…お引き受けしたいと思います」
 控え目でありながらも、はっきりと答えた妹に、慎芝は微笑んで大きくうなずいて見せた。
  * *
 新年を郷里で迎えるべく早々に河北に発とうと思っていた燕律だが、一日二日ならば大丈夫だと、申し出のままに河西の宮城で一日を過ごした。そして当主との謁見の翌日、「ほんの少しの時間で良いから都合してはくださらないか」と昨日の家臣に呼ばれた。案内された宮殿の一間ひとまで待っていると、維家の臣・華弼がうら若い娘を伴って現れる。
「これは私の妻の妹で、珠簾と申します。妻と本人も了承してくれたので、あなたへ…河北へ差し上げたいと思います」
「え…あ、はい。謹んで…」
 どう返せばいいか戸惑いながら答える燕律に、華弼は続けて、
「なにぶん話が急で、申し訳ありませんが…年が改まると次は丙午へいご〈ひのえ うま〉、火を二つ重ねた干支かんしとなり縁組には相応ふさわしくないかと…。形だけでも今年中にまとめておきたいと思いまして」
「ですが、逆に言えば丙午は金に克つ火、しかも火の兄たる丙と火の支でも陽の午とを併せ持つ干支。くろがねの刃がぶつかり合う兵乱をねじ伏せるという解釈もありますでしょう。私は気にしません」
 義兄に隠れて後ろのほうから時折窺うように彼を見ていた珠簾が、おずおずと尋ねる。
「本当に、気になさらないのですか?」
 芯が通り気高く美しい女当主とはまた違う、しかし可憐で愛らしい少女がそこに居る。
「ええ。あなたが珠簾殿ですか…遠いところへ嫁いでいただくことになりますね」
 にこやかに優しく語りかけてくる青年を前に、珠簾の頬がほのかに赤く染まる。互いに良い印象を持った若い二人の様子を認め、華弼も安堵し息をつく。
 略式ながら婚姻の段取りをひととおり済ませ、暮れも押し迫る中、燕律は自身の花嫁に見送られ帰途についた。
  * * *
 戻り来た使者が持ち帰った突然の縁談話に、父・燕享エンキョウほか河北の者達は少なからず驚いたが、
「まあ、これも河西の誠意の表れなのだろう…」
 当主が、自身の縁者でありまた信頼する家臣の義妹でもある娘を、自ら寄越すと言うのである。これは考えようだが、先方から人質を差し出したとも取れる。
「はい。こちらが気恥ずかしくなるほど、つつましやかで可愛らしい娘さんなのです」
「おやおや。もう既に愛妻家気取りだな、燕律よ。その様子だと、彼女が嫁入りしてくるという春が待ち遠しくて仕方あるまい?」
 周恒シュウコウが冷やかすと、議士が揃って笑う。
「新年は賑やかになりそうだな」
 河北の年の瀬は、実に華やかな雰囲気の中で過ぎていった。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 架け橋の花嫁

山中の邂逅〈かいこう〉

 川沿いを進んできた北胡ほっこ軍がしんの北東に横たわる雪嶺山脈せつれいさんみゃくに達しようとする頃には、年が改まっていた。
「予想以上に時間がかかったな。ま、オレたちには都合が良かった訳だが」
「確かに。しかし、油断は出来ないね。彼らはまだ兵器の扱いに慣れてはいない」
 西方解放軍の遊撃部隊〈※補注後掲〉を率いるのは、墨薈ボクカイ鄭欽テイキン。まずは北胡軍よりも先に山中に分け入り、奇襲をかける目論見もくろみである。
「結局、一月ほどでは長兵ちょうへい〈※槍、戟など長柄の武器〉はともかく、弓矢までは実戦で使えるほど習熟出来た者がごく少数だった訳だから」
「それは仕方ない。あとはお前が五十人分くらい働くだけだろ」
 墨薈の言葉に、鄭欽が苦笑しながら返す。
「五十人分は無理だろう、どう考えても。私には腕が二本しか無いんだぞ」
「いえ、鄭欽様。おいらのも足せば四本になります」
 鄭欽は話に加わってきた歩兵へと振り向き、
「そうだったな、羌進キョウシン。実に心強い」
 秦とその周囲、北胡に支配されていた西方の男たちの中で、短期間のうちに弓術をほぼ自分のものとした数少ない者の一人である。
「あと…確かなことは申し上げられませんけど、雪嶺山脈にはあまりの圧政に耐え切れず、死をも覚悟して逃れ分け入って行ったおいらたちの同胞が居るかもしれません。もう何年も経ってますから、今どうなってるかは本当に分かりませんよ。でも…」
「もし今も無事で居るなら、生きるために獲物を捕らえる術を…対人戦闘にも転化できる技量を持っているかもしれん、と言うのだな」
「おっしゃるとおりで」
 彼の返事にうなずき、墨薈が宣言する。
「これより、二手に分かれて雪嶺山脈に入る。…出るぞ!」
 何本も押し立てた旌旗せいき〈※旗の総称〉を揺らし、大河へ流れる支流・旌水しょうすいのほとりに本隊として四百ばかり残し、解放軍の別隊およそ千六百の兵士たちが、行軍を開始した。
  * *
「こちらの道を行きましょう」
 墨薈が率いる部隊を先導するのは、還暦近い老人だ。
「この西方地域がリョウ家の当主により治められていた平和なみぎりは、よくこの山中へ足を運んだものです。この爺にお任せください」
「おいおい、蕭憲ショウケン。速すぎるぞ。歳を感じさせない、大した健脚だな」
 山中を行くということで、墨薈も騎馬ではなく歩将として進んでいる。
「お褒めにあずかり、光栄です」
 蕭憲は笑顔を見せる。
「しかし…どこへ向かっているんだ?」
「先程の羌進の話ですよ。もしこの山々の中で人間が身を隠し生活をしうる場所があるなら、あそこではないかと思えるところがございます。行ってみるのも悪くありませんでしょう」
 彼が目指す先にあったのは、山の斜面から入り込んだ横穴だった。見れば、穴の周囲に木や草、石を用いて柱や屋根を組んである。
「これは『当たり』だな…」
 墨薈がつぶやいている間に、蕭憲は武装を解き始め、槍を置く。
「いきなり甲冑に身を固めて武器を手にした我々が姿を見せたなら、驚かせてしまうでしょう。私一人で様子を見てまいります」
「…そうか、頼むぞ。念のため、注意は払えよ」
 振り返りざま一つうなずき、老人は密かに斜面を登る。
 耳を澄ますと、若い女性の歌声が聞こえてきた。彼はその旋律に覚えがあった。
(これは西域の楽曲…ならば、間違いない)
 そっと様子をうかがうと、横穴から張り出したひさしの下には幼児をあやす若い女が一人座っている。
「もし、そこの娘さん」
 突如現れた見知らぬ老人に、彼女はひどく驚いて幼児をかばうように立つ。
「…誰!?」
わしは秦の…梁領の民、蕭憲。お前さんと同じだよ」
 両手を広げ、何も隠し持っていないと見せてから、蕭憲が笑顔でゆっくりと歩み寄る。
「蕭…」
「そう。西域の地名に由来する姓を持つ、昔からのこの西方の民だ。なかなか良い声で歌いおるね…久しぶりで聞いたよ、あの曲を」
 そして自分も軽く鼻歌で続きを奏でてみせる。これで、だいぶ彼女の警戒も解けたようだった。
「でも…どうして」
「北胡が攻め入ってきて支配されるようになってから、領内ですら自由に行き来できなくなった。しかし、先ごろ東方より越されてきた将軍様の助けもあって我らは北胡の役人たちを討ち…そうして、儂も何年かぶりでここへ来た」
「え?では、もう…」
「いいや。実は、それを知った北胡の軍隊が迫っているのだ。もうじき、この山に入るという。本当の戦いは、むしろこれからになるだろう」
「そう…でしたか」
 彼女は一度自身の背後に隠れる幼児をちらりと見、
「わたしは茱萸シュユといいます。あなたのおっしゃるように、この山に逃れてきた梁領の民です」
「生きていたのか…大変な苦労をしたことだろう」
 老人の言葉に、彼女は声を詰まらせながら、
「はい…。ですが、かの地に残ったあなたがたも…」
「いや、もう済んだことだ。なあ、茱萸よ。聞かせてもらえないだろうか、お前さんがたのことを」
 彼女がうなずくと、
「将軍様にも是非お話ししてくれないか」
「将軍、様…?」
「ああ。実を申せば、儂らは北胡の兵力をこの雪嶺山脈で削るために分け入ってきた部隊なのだ」
「分かりました。わたしで知りうることならば」
 彼女の了承を得、墨薈も武器を兵士に預けて話に加わる。
「ここに住まうのは、もちろんわたしたちだけではありません。今ちょうど他の者たちは薪集めや狩りのために出ていまして」
 まだ日は高い。当然と言えば当然かもしれない。
「狩り、か…」
「はい。もちろん農耕を生業にしていたわたしどもですから、最初の頃は苦しいばかりで…。ですが、生きていくためにと特に若い男たちが頑張ってくれました。今では、先史時代と言えなくもありませんが、それなりに人らしい生活を送れるようになって」
「そうだったか…」
「あの…」
 不安げに尋ねる茱萸に、墨薈はつとめて明るく言う。
「なに、心配は無用だ。北胡の騎馬兵は、道なき道の先にある斜面の陰に立つこのような場所までは回り込んで来ないだろうし…何より、こちらへは来させない。安心しなさい」
  * *
 一方。山内に踏み込んで、どれほど進んだ頃か。
 微かな物音と人の気配に、鄭欽が反射的に目の前の茂みへ向かい弓を構える。
「何者だ!?」
「それはこちらの台詞だ」
 答えたのは鹿でも熊でもなく、人間だった。彼らもまた弓や槍をこちらへ向けつつ姿を現す。
「北東からではなく、秦の在る南西から来たようだが…貴様らは何なのだ」
 彼らのかしらとでもいった雰囲気を漂わす男が訊いてくる。
「もしかして、あんたたちか?数年前この山ん中に逃げ込んだ梁領の民ってのは」
 思わず話に割り込んだ羌進の言葉に、彼らは驚いたように見えた。
「ああ、その通りだ。では、貴様らは…」
「おうよ。あんたらと同じだ」
「なら、何をしようとしている?武装してどこか目指しているようだが、何が目的だ?」
「北胡の司政府を襲撃し、役人頭を討ったのがおよそ一月前。我々は、今迫り来る北胡の本隊を掃討し、この西方地域に自治を取り戻さんとしている」
 鄭欽の返答に、男はしばし黙って何事か考えていたが、
「そういうことだったのか…。俺たちにとっても関わりの無いことじゃない。協力と呼べるかは分からんが、俺たちに出来うることはしよう」
「感謝する」
 鄭欽が小さく頭を下げ、
「君たちはこの数年の間、この山中で暮らしてきたのだろう。ならば、ここの地形にも詳しいはずだね」
「勿論だ。道、断崖、開けた平地…大方、頭の中に地図が完成してるさ」
「では、その地図を我らに示してくれないだろうか」
 三十をいくらか過ぎたほどの男に、鄭欽は更に続ける。
「私は鄭欽。訳あって河下かかから河南かなん、そしてこの西方の秦へとさすらって来た、しがない軍人だ」
「俺は褒允ホウインだ」
「早速訊くが…かつてこの山脈によく立ち入っていたという老人の言葉に従って、私たちはこの道を来た。頂上よりも手前で、この山を越える太く分かりやすい道に出ると聞いたのだが…」
「その通りだ。貴公らは北胡の軍隊があの道を来ると予想を立てた訳か。確かに、冬になって目印も少ない山の中だ…慣れない場所だから少しでも不安のない道を行こうとするのが人情だからな。俺も同感だ」
「なんだなんだ、黙って聞いてりゃ。そんなケチくさいこと言わないでさ、オレたちも北胡の奴らをやっつけようぜ。恨みならいくらでもあるんだぞ?兄い」
 褒允と名乗った男の後ろのほうから、二十歳やや手前ほどの若者が異議を唱えた。
「なら、お前は彼らに同行すればいいだろう。陝靖セイセイ
「おう。そうするさ」
 若者はそう返して鄭欽らに向かい、
「オレが使うのは、この弾弓だんきゅう〈※矢ではなく石などの弾丸を発射する弓・弩〉。自分で言うのもなんだけど、いい腕してるぜ?ま、人間を狙うのは初めてになるがさ…でも、相手が相手だし、本気でボコボコ打ち込んでやろうと思ってる。お供させてくれるよな?」
「勿論だ。よろしく頼む」
 将軍と自身の弟分とが握手を交わすのを見届け、褒允が言う。
「こいつは少々気が大きく口の悪いところがあるが、足の速さと獲物を仕留める腕は確かだ。この山脈の地形も大方把握している。今、別行動をとっている同胞たちにも、貴公らのことは伝えておく。もし山中で出会うことがあれば、可能な限り手を貸すようにと」
「それは有り難い。どうか、お頼み申す」
 鄭欽が感謝の言葉を述べて軽く頭を下げると、褒允たちはまた山林の中へと消えていった。
「じゃあ早速、行くとするぜ。さ、こっちが近道だ」
 陝靖が、左へ逸れる細い道を指し示して歩き始めた。鄭欽ら秦からの兵士たちも、彼に続く。
 
 山道に入ってすぐ、マーニは自身が乗るルジムの向きを変え、本隊を追うのを止めて違う道を進み始めた。
「マーニさん、どこへ?」
 気付いた兵士の一人が尋ねると、
「おれに考えがある。おれを信じて、ついて来て欲しい」
「え?」
 首をかしげる兵士たちに、マーニは手短に言って聞かせる。
「ここに至るまでに、何日も経っている。彼らに知識があるなら、騎兵が山岳地帯を恐れることくらい分かってるはずだ。つまり、この山の中は最も危険ということになる。一団で居続けようとしたって、この地形だ…分断されちまう。数も騎馬も、ここで攻撃を仕掛けられたら優位に立つどころか裏目にしか出ないんだ。だから、おれたちは敢えて別の道を行く。…いいか」
 一同が黙ったままうなずく。
「行こう」
  * *
 木立と茂みとを縫うように道なき道を行き、日が暮れた。山中で不安な一夜を明かし、日の出とともにまた西南へと進み始めて幾時かを経る。マーニが、はっと顔をあげて首をめぐらし、舌打ちする。
(…囲まれたか!?)
「皆!刀を…武器を手放せ」
 彼の率いてきた兵士たちは、その言葉に従って次々と武器を地上に置いていく。
「…その服装は北胡の兵隊だね、あんたたち」
 木陰から姿を見せたのは、十名ほどの槍や弓を手にした人間だ。一人の若い娘が、彼らに問うた。
「ああ、その通りだ。だが、おれたちにお前らとやりあう気は無い。だからこうして武器も棄てた」
「どういうこと?だって、あんたたちは…」
「おれたちは首長の命令で嫌々ここまで連れてこられた哀れな兵士さ。その上、この不案内な山ん中で本隊とはぐれちまった。更に悪いことに、こうして山賊に取り囲まれた…ってわけ」
「あたしたちは山賊なんかじゃない!あんたたちが、あたしたちを人とも思わずこき使って搾り取って…だからここに逃げてきたの!」
 彼女の、何かを振り払うような叫びとも取れる返答に、マーニは表情を曇らせて、
「そっか…知らないこととはいえ、失礼なことを言った。すまない」
 深く頭を下げた彼を前にし、娘は不思議そうに、
「北胡にもマトモな人間が居るのか…」
「もちろんだ。あいつらと一緒にされちゃ困る」
 すると彼女は少し笑い、
「へえ…。じゃあ、あんたたちはどうしたいの?」
「無傷でこの山脈を越えたい」
「越えてどうするの。またこの西方地域を傲慢に支配するためっていうなら聞かないよ」
「だから、さっきから言ってるだろ?おれたちは望んで来たわけじゃないし、こんな遠く離れたとこを治めてどうこうって思いもない。かと言って、現状郷里に引き返すことも出来ないんだよ。進むも退くも地獄って感じかな。…なあ、お前たちはここの地理に詳しいんだろう?道を教えてはくれないか?あ…もちろん、タダでとは言わない。お前たちにしてみれば、おれたちは憎むべき敵だしな」
 彼は、何か返礼として差し出せるようなものがないか考えた。
「これなら…どうだ?」
 言いながら、首飾りを懐から取り出して見せた。
「わ…綺麗…」
 思わず手をべた彼女に、ボルテから託された首飾りを渡す。
「おい、芙蓉フヨウ。本当にいいのか?こいつらは…」
「構わないわ。あたしの裁量で通す」
「でも褒允に知れたら、お前だってただでは済まないぞ。既にこの山中には秦からやって来た部隊が展開してる。『彼らに出会うことがあったなら協力を惜しむな』と言われただろう?」
 仲間の言葉に彼女は笑い、
「知られなきゃ何の問題も無いでしょ。叔父貴の行動範囲とこの件での計画は大体見切ってるし、そこを避けて行くから」
 戸惑う同胞を振り返り、
陝朗セイロウ。お前だけは、あたしの供をお願い。念のため、彼らの武器をまとめて持って付いてきて。皆は戻ってていいわ。このことは内緒でね…ばらしたら承知しないよ」
 彼らの中でもひときわ背が高く堂々とした体格の若い男が、苦笑いを浮かべつつ腰をかがめてマーニたちが地上に捨て置いた武器を拾い集め、軽々と抱え上げる。
「物好きなんだからな、芙蓉は。そんな石に目を輝かせるとは、お前も女だね」
「…さて、行くよ」
 歩き出す彼女に、マーニが話しかける。
「フヨウ…か。いい響きだな」
「うん。花の名前なんだ」
 答えてから、思い出したように口調を変えて言い返す。
「まだ気を許したわけじゃないんだから!そんなお世辞に乗らないぞ」
 嬉しそうに首飾りを掛けて眺める彼女の姿を見、マーニは心の内でボルテを思う。
(ノヤンに帰ったら、謝らなきゃならないな…お守りとして預かったものをくれてやっちまったなんて、言い辛いけど)
 彼女たちの後に続いて山林を進みながら、
「そうか、やっぱり秦から既にして出兵がなされてたのか…ここに」
「うん。茱萸も叔父貴も会ったって話で」
 二人の会話はここで途切れ、あとは皆黙々と山道を進む。山に夕日がさす頃に、芙蓉が大きく一つ息をつき、目の前を指し示しながら言った。
「この道をそのまま行けば、山を下りて旌水の川岸に出るわ」
「日暮れまで付き合わせちまったな。恩に着るよ」
「まあ、こんな珍しいもの貰っちゃったし…」
 首飾りに視線を落としつつ、彼女は尋ねる。
「もし、戦いが終わったら…帰るんだよね」
「ああ。無事でいればな」
(「今回のことは、あなたに与えられた試練です。どうか、くぐり抜けて見せてください」だったけか…生きてノヤンに戻れたなら、試練は終了ってことなんだろうがな)
 ボルテの言葉を思い出しながら、マーニは答えた。
 芙蓉が、何か言いかけて口ごもる。彼女に代わるかのように、陝朗が担いできた武器を下ろして告げる。
「ほら、これ。持って行け」
「…いいのか?おれたちは、お前らの同胞と戦おうとしてるんだぞ」
 つい問いかけたマーニに、彼が返す。
「俺たちを打ち倒し、再び力で支配しようとする為ではなく…お前たちが自分を守る武器だ」
「ありがとう。それしか言葉が見付からない」
 北胡の兵士たちが、マーニに促されて武器を手に取る。
「いいのか?本当に」
 不意に小声で訊かれ、マーニは驚いて顔を上げる。
「あの首飾り…」
「いいんだ。他に何も礼になるようなものを持っていない。気に入ってもらえたのなら」
 言いかけた言葉を遮るように答えたマーニに、陝朗は更に続ける。
「そうか…。待つ人が居る郷里に帰り着ければいいね、あれをくれた人間の待つ」
「お前、一体…」
 気にはかかるが、日が暮れかけて山林は闇の中へと埋もれていく。
「気を付けて」
 誰にともなく芙蓉が言うと、麓への道を進み出したマーニは振り返って軽く右手を上げて応えたのだった。
  * * *
 数に優る北胡の騎馬隊ではあったが、この数年を山中に潜んで暮らしてきた西方の民が解放軍に知恵を貸したことで、旗色は一気に悪くなっていく。
 不案内な山越えの道を進む中、行軍の乱れたところを解放軍の歩兵に奇襲を受ける。大軍も小隊となり散り、地図も無い状況で本隊を捜して山岳の道なき道をさまよう。そのような状況の下、再度待ち伏せしていた解放軍の遊撃部隊に襲撃される。断崖がその先にあるとも知らずに無我夢中で逃げ、はるか下の谷へと身を捨てる兵士も少なくなかった。
  * * *
「兵乱とは厭わしいものだね、冢狛チョウハク
 雪嶺山脈でもひときわ高い峰の頂に、眼下を眺めながら足元に伏せる犬狼に話しかける青年の姿がある。
「ほう、鬼籍宮きせききゅうの方士自らが下天にお出ましとは。実に珍しい」
 青年は振り返らず、声の主に答える。
「下天にやって来たのは、これが初めてではないのですけどね。甲喜コウキ様」
「俺がここらをうろついていたのに気付いていたか。聡いな、お前は。さすがは下天に居た頃『若年ながら近年稀にみる才子』と持てはやされただけのことはある」
「やめてください。もうかれこれ百年は昔の話ですよ」
 彼らは、中庸界の鬼籍宮を活動の本拠地として、生者と死者との境界に立つ天界の夜摩王ヤマオウの補佐的な仕事をしている。青年のなりはしているが、彼の生まれた場所や時代は同じく中庸界の方士である鄒頌スウショウに近い。下天の年数でいけば百歳ほどになっていようが、それでも中庸界では新顔の部類に入る。名を泰衡タイコウという。下天に居た頃は司法官を目指しており、一度目の役人試験で間違い無く合格するだろうと周囲から思われていた。しかし、運命の皮肉というもので、彼はその直前に若くして死の床についてしまう。下天での成功を棄てて中庸界で自分の手伝いをしてくれるのならば助けてやってもよいとした夜摩王の提案に乗った結果がこれなのだ。
「甲喜様、もう日が暮れます。帰りましょうよ」
 連れに乞われ、一人と一匹がその場から去る。
「幾多の魂魄こんぱく〈※たましい、人間の精霊〉が、今宵も鬼宿きしゅく積尸気せきしき〈※補注後掲〉へ昇っていく、か…」
 西の空を見遣れば、今まさに日が落ちようとしていた。
  * *
 断続的に繰り返される解放軍の不意討ちに、自慢の軍馬をやられ、騎兵の士気も下がっていた。しかし、アルハは退却を潔しとせず、前進あるのみと主張する。
「もうじき山を越え、平地に出る。平坦な地は我ら騎馬軍が優位だ。所詮奴らは寄せ集めの民百姓。我らが本気になれば、ひとひねりだ」
 言って豪快に笑う。だが、幕僚たちは冷ややかにそんな首長を見るだけだった。
 将軍の多くが立ち去り、アルハは残ったほんの数名の将帥と共に幕に囲まれた本陣で夜を迎える。
「まさか奴らにこれほどの力が残っていようとは…。ドレンめ、手抜かりばかり残しおって」
 悔しさに、アルハが歯噛みする。と、遠吠えが聞こえてきた。皆がいぶかる間にそれは途絶えたが、今度はすぐ近くで犬狼の唸り声が起こる。
「何だというのだ!バカにしているのか、畜生!」
 こらえきれずに、弓矢を手にしてアルハが席を立つ。一人、フヘデだけが彼の後を追った。
 声の出所へと、用心しつつ近付く。それは、すぐに見付かった。雪を被った草むらに、狼ほどの大きさの獣がうずくまっていた。アルハが弓を構えたその瞬間、獣が首を上げた。
「…なに!」
 こちらへ顔を向けるその獣は、一点を除いては普通の犬か狼かという外見をしていた。鋭利な刃を宿したような眼を四つ持つ以外には…。
 唖然として立ち尽くす二人をあざ笑うかのように、獣は夜の闇へと消えていった。
  * *
 音も立てず山の斜面を駆け登り、獣は頂にたたずむ青年の足元に身を伏せる。
「立ちなさい、冢狛」
 青年に命令されて、獣が身を起こす。
「突然どこへ行ったのかと思ったら…。あまりあちこちうろつくんじゃないよ。『見える』善良な人間まで驚かせてはいけないのだから」
 泰衡は軽くその頭をなでてやると、
「さて、私たちも帰るとしようか」
 つぶやくように告げて、左手を横へと差し伸ばす。突如として巻き起こる淡い蛍色の光の渦が彼らを包む。光が消え去った後、山脈の頂にはただ闇が在るばかりだった。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 山中の邂逅

※註:
邂逅=偶然の出あい。めぐりあい。
遊撃部隊=あらかじめ攻撃する目標を定めず、戦況に応じて敵の攻撃や味方の援護に回る部隊。
鬼宿の積尸気=
 鬼宿は西洋の星座で言えば蟹座に対応する、二十八宿と言われる星座の一つ。積尸気はその中にある散開星団プレセペにあたる。

その先に在ったもの

 さらに一夜を山内で過ごしたマーニたちの小隊は翌日に山を降り、大河へ流れる支流・旌水しょうすいの前に開ける平地へ出た。そこに待っていたのは、ノヤンを発ったときより大いに数を減らした、同郷の兵馬たち。恐らくは半分以下、いや、五分の一にも満たないほど…千騎に達しないのではと取れるほどだった。遅れはした小隊ではあるが一人の犠牲者も出さなかったマーニたちを、彼らは責めることなく迎え入れた。
 川を挟んで、西方開放軍の部隊が布陣し構えているのが見えた。鄒頌スウショウ司政府しせい ふの蔵から持ち出して彼らに返還した金品を軍資金に、戦車や投石機まで揃えていた。
(前は川、後ろは山。川を渡った先には無傷の部隊。おそらく、まだ山中には奇襲部隊も残ってる…。まるで袋のネズミだ。この状況を見るに、千に一つもおれたちに勝ち目は無い)
 マーニは思った。ふと、先日フヘデに言われたことが脳裏をよぎる。
「ならば命令に従わずともいい…お前の信ずるように動け。絶対に死ぬな。必ず生きてノヤンに戻れ」
 確かに、自分はその言葉通り、山越えの時点から間違ったフリをしながらも実はこれまで得た知識と知恵とを総動員し、自身の率いる隊の犠牲を最小限に留めてきた。先頃新たにシャマンとなった少女がくれた高価な首飾りのお蔭で、不案内の山地でも先導を得ることが出来た。山中ではぐれたふりをして故意に本隊から離れ、出会った当地の人間に彼女から渡された首飾りを与えることで解放軍の伏兵が潜んでいる事実とその場所を聞き、結果として自身の率いる部隊は無傷で山脈を越えたのであった。
 すぐ横を、駿馬にまたがったフヘデが通り過ぎて行く。
「忘れたわけではなかろうな」
 追い越しざま、彼が笑ったように感じられた。
  *
 統率のとれぬ大軍は烏合うごうの衆に過ぎない。もとより、山脈を越える際に奇襲を受けて士気と兵力を削がれていた騎馬隊だ。敗北は決定的なものとなった。
 アルハは眼前の現実に恐れおののき、部隊を置き去りにして単身陣中から飛び出し、北へと馬を走らせた。
「首長が敵前逃亡した」
 北胡の兵士たちに、瞬く間に動揺が広がる。
 最終的に、北胡軍は本拠地へと立ち去るしか道が無くなった。
  * *
 我先にと逃げ出し、ひたすら遥か北東の都・ノヤンを目指して馬をけしかけるアルハを追う影がある。だが、彼はそれを認めると安堵の色を浮かべて手綱を引き、馬を止める。
「フヘデ…?フヘデだな!ちょうどいい、俺の護衛をしろ」
 しかし、フヘデは馬を止めるに引いた手綱を無言のまま放すと、矢をつがえて弓を引き絞り、アルハへと狙いを定めた。
「な、何をする!?お前、自分のしようとしてることが分かってるか?首長に仇なすつもりか?」
「笑わせることを言うな。率いてきた部隊を己の失策で散々苦しめ犠牲を出した上、敵前で自分ばかり助かろうと逃げ出した…。きさまに、もはや首長の名をかたる資格など無い」
 弓とげきとを主力とする北胡の騎馬兵の中でも、フヘデは弓の名手だ。その事実と目前の現況に狼狽ろうばいし、アルハが媚びるように持ちかける。
「馬鹿なことを。無事にノヤンに帰り着いたなら、何でも好きなものを取らせるぞ?」
「俺は我欲ではなく大義の上に生きる。あの時の四つ目の犬狼は、地獄の門の番犬だったのだろう…さらばだ、愚人」
 一度大きく身震いし、アルハが慌てて跨る馬の脇腹を蹴り、尻に鞭を打つ。フヘデの手から放たれた矢は、あやまたずアルハの背に突き立つ。その体が馬上から大地に落ちるまで、フヘデは何本も矢を放ち続けた。
  
 川を挟んで相対する西方解放軍の本隊のなかに、不空も居た。しかし、初めてではない、どこか懐かしさを思い起こさせる気配を感じ、密かに陣から離れる。
 人気のない、秦の中心部へと続く道に、ぽつんと立つ人影がある。
「不空様…ですね。お久しゅうございます」
「その声…。君は…薊軻ケイカなのか」
「はい」
 答えながら、人影は被っていた布を取る。
「…本当に変わってないのだね」
「ええ、自分でも驚いています」
 一呼吸おき、彼が続ける。
「あなたならお気付きでしょう。北胡の首長は部下たちをあの窮地に置き去りにし、己ばかり助かろうと逃げ出したのです。もう残された彼らに戦う意思も理由もありません。どうか、これ以上の攻撃は止めに…」
「分かっている。報告はするつもりだ。しかし…結論を下すのは私ではなく下天の者達だということを忘れないでほしい」
「もちろんです」
「…君が何を思い、何を願っているかは私にも感じられる。すまない」
「いえ…あなたの事情も存じております。無理な願いを言ってしまい、私こそ申し訳ありません」
 音もなく立ち去る旧知の者の背を、不空は黙ったままで見送った。
  * *
 日没が迫り、雪嶺山脈に展開する西方解放軍を指揮する墨薈と鄭欽は、それぞれ自身の立つ場所から本隊が駐留する旌水のほとりを見やる。
狼煙のろしが上がらない…攻撃命令が出ないようだな」
 ひとりごとのように言う鄭欽に、この数年山中に潜み暮らしてきた西方の民の一人・陝靖セイセイは不満げに声を上げた。
「どうしてです?こんな好機を逃していいもんでしょうか?」
「何らかの策があってのことだろう。我々は現在の情勢を把握しきれていない」
「ですが…!」
 にわかに陣中が騒がしくなる。
「どうした!?」
 鄭欽が兵士たちに尋ねるのとほぼ時を同じくして、彼らの間を飛ぶように駆けて来た一頭の雄鹿が、ひときわ高く跳ねて茂みの向こうへと消えた。
「鹿…」
 ようやくの思いで陝靖が言うと、羌進キョウシンが後に続けて、つぶやく。
「そういや、ここに登ってきて初めて見たな…鹿なんて」
 一呼吸ほどの間を置き、鄭欽は宣言する。
「本営からの指示も無いことだ。夕刻から夜の奇襲は取り止めとする」
「え…」
 納得いきかねると言いたげな表情の陝靖に、彼は語って聞かせる。
「確かに、高地に陣取る我々が低地に居る奴らより優位にある。しかし、『戦というものは天道鬼神てんどうきじん祥禍しょうかしるし』。勝つ為には『時』に逆らってはいけないのだ。…鹿というものは総じて凶、自軍の破れる験。我々も守りを堅くして、休みまた備えることにしよう」
 距離を置いて待機していた墨薈の隊でも似たようなことが起きていた。つまり、何の前触れもなく現れた鹿が陣中に突っ込み、通り抜けていったのだ。
 鄭欽と同様に兵道の知識を持つ墨薈もまた、攻撃の中止を決めた。
 そして、静かに夜のとばりが下りていく。
  * * *
 宵闇の中、旌水そばの本営では今後についての相談がなされている。
「もう胡城を越えて来ようなんて考えないように、残っている部隊は壊滅させるべきです。今、混乱の中にあるようですから、こちらの損失は最小限でいけます」
 呉燎ゴリョウは強気な提案をしたが、幕僚の大半は気乗りしない表情を浮かべた。
「彼らは既に戦意を喪失している。速やかに立ち去るようならば、そこまでする必要は無いだろう」
 営論に続き、琇娜ユウナが言う。
「わたしもそう思います。痛めつけ合うだけでは、お互いに傷も憎しみも増すばかりです」
 最も北胡を恨んでいるはずの彼女も、遠回しながら反対したわけだ。
「分かりました。あなたがたがそうおっしゃるのなら、ぼくがこれ以上強く言うのもおかしいだけですからね…。でも、一言突き付けてきますよ。『早々に立ち去れ』と」
 呉燎が席を立つと、すぐに不空が後を追った。
「火矢を射かけるつもりか」
「そうです」
 何の躊躇ためらいもなく告げる少年に、不空は末恐ろしいものすら感じた。
(やはり、彼もまた宿命には逆らえないのだろうか…)
 戦の場を経験させるのではなかった。自分は争乱の世でこそ生きるべき人間なのだと、彼はきっと思い始めている。
「奴らにとって、生き延びるべきが運命であれば助かることもあるでしょう」
 巣から落ちた雛鳥を世話していたあの頃の面影は、今の彼には見受けようもない。いや、何かに対して優しさを見せようとすれば、時として他の何かには残酷な行為を犯すことになると知っているだけなのか…。
 不空はただ、弓を手に取り歩き出す少年を苦しげな表情で見つめるばかりだった。
  
 夜も更けゆく頃。突如として、北胡の陣営の周囲から火の手が上がった。夜の静寂は、一瞬で破られた。
「落ち着け!道はまだある!北にはまだ火が回っていない!」
 取り乱して右往左往する兵士たちを何とか誘導しようとして、マーニが声を張り上げる。だが、風向きは一つに落ち着くを知らず、くるくると変わっていく。
「北だ!今は北へ…あっちへ急げ!」
 だが、このままいけば炎に取り囲まれる可能性も否定は出来ない。額を汗が伝う。その時だ。自軍の兵士たちの流れに逆らうように、こちらへ近付いてくる人影があるのを認めた。彼の目の前を過ぎ去って、影は迫り来る炎に恐れる様子も見せず、剣を抜いて足元にあった草を次々と薙ぎ払う。燃えるものを途切れさせ、ここで食い止めようというのだろうか?確かに、しばらくは炎の壁もそこで留まっていたが…
「そんなんじゃ、ここも長くはもたない!どこの誰だか知らないが…命が惜しければ逃げるんだ!死にたいのか?」
「…死にはしません」
 布を被っているので顔も分からないが、声は若い男のものだった。何故かそのとき、彼は笑った。少なくとも、マーニにはそう感じられた。
「皆、避難し終えましたか?」
「分からない…。だけど、これだけ炎に勢いがあれば水辺だろうが生木だろうが、燃えそうなものがあれば関係ない。強風に煽られて飛び火してきたら同じことになる」
 すると、男は肩に羽織った広幅の布の間から腕を伸ばして水瓶すいびょうを高く掲げた。途端、火の勢いは見る見るうちに衰えていき、ほどなく掻き消えてしまった。
「彼らがいぶかしむ前に、あなたも立ち去るが良いでしょう」
 こちらを振り返りもせず、彼は両手を下ろして告げた。
「こういう場合、礼は言わねばならないんだろう…。だが、どうしておれたちを助けた?それに、あんた…」
「分かりません。自分が何者かも」
 訊いてはいけないことだったのだと直感して、マーニは口をつぐむ。見なかったことにしよう…そう自分に言い聞かせて、馬の脇腹を蹴る。
 周囲の草木も燃え尽きて、風が吹いてももう音を立てるものも無い。炎が掻き消えるのを待っていたかのように吹く南風に乗って、彼のつぶやきが聞こえた気がした。
「…もう、百年近く考え続けているのに…」
  * * *
 マーニはおびえ惑う兵士たちを励まし叱咤しったしながら、山脈を越える最短経路ではなく、芙蓉に教えられて来た道を目指す。
(どうか、出てこないでくれよ)
 山中にまだ残っているであろう解放軍の部隊が現れないことを祈りつつ、山道を登る。
「足元には注意しなさい」
 凛とした、気品すら感じる若い女性の声がそう告げた刹那、山林が淡い光に照らされた。ふと夜空を見上げると、天頂から西へと傾いた上弦の月がひときわ強く光り輝いている。
(あの道を照らす、光だ…)
 青白い月明かりが、細く心もとない山道を彼らに指し示すように降り注ぐ。
「どんな美人でも三日見れば飽きるって言うけど、月はあんなにも綺麗なのに飽きることがない。もし、人の姿をとって現れたなら…どんななんだろうな」
 以前、幼なじみであるヤッサが笑いながら話していたのを思い出す。
 天の太陰を仰ぎ見て、マーニは微笑む。
(何を思って、おれたちを助けてくださるのかは分かりませんが…。御礼申し上げます、優しき月の女神様)
 しかしすぐに厳しい表情に戻り、進もうとする前方を見据える。
「天の助けだ。急ごう、皆」
  
 山の斜面に座り込み、一人夜空を見上げていた芙蓉に、陝朗が声をかける。
「寝ないのか」
「うん…なんだか眠れなくて」
 彼女の隣まで歩き、自分も同じように頭上の星空を仰ぎ見る。
「月の綺麗な晩だな」
「なんだろう、今夜は月が変に明るい。まぶしいくらい。気のせいかな」
 つぶやく彼女に、陝朗は問いかける。
「あいつらの心配をしてるのか?芙蓉」
「心配って程じゃないけど…」
 沈黙が漂う。
「『彼にご加護を』…そんな祈りが聞こえてくる。その首飾りから」
 陝朗の言葉に、芙蓉が驚いて振り向く。
「え!?」
 二人は幼なじみで、姉弟同然に育ってきた。互いに、相手のことなら知らぬことなど無いと言い張れるほどだ。彼が、そのたくましいばかりの体躯とは裏腹とも言える、非常に繊細で鋭敏な感覚を持ち合わせているのを、彼女は良く知っていた。
「じゃあ、これ…お守りなんじゃないの。なんで今まで言わなかったの?」
「お前だって危ない橋を渡ろうとした訳だし、相応の代価は貰っておかなきゃ損するだろ」
「でも…」
 一度口ごもるが、またすぐ続けて、
「誰が、これを…」
「女の声らしいけど、年とか奴との関係とか…そこまでは俺にも分からない」
 彼の母親か、姉妹か、祖母か。それとも…郷里に恋人が居るのか。様々な憶測を繰り返しつつ、芙蓉は首飾りを取り、見つめる。
「これを持つべきなのは…あたしじゃ、ない…」
「返しに行く、だなんて馬鹿なこと言うなよ。それの元の持主は、こうなることをどこかで予想してたフシがある。もし奴が無事に帰還出来たのならば、きっとお前はその首飾りの新しい持主として認められる…俺はそう思う」
「そう…なのかな」
「お前に似合うよ、それ」
 言うと、陝朗はきびすを返し、横穴へと斜面を登り始める。
「夜更かしも程々にな」
「分かってる」
 そう答えてはみたものの、眠れる気がしなかった。
 彼女を置き去りにするように、夜は静かに更けてゆく。
  * * *
 北胡の陣営に火矢を射かけると告げたときの、不空の驚きと嘆きとも取れる表情が気に掛かり、一旦は川向こうの西方解放軍本営に戻ったが再び引き返してきた呉燎は、信じられない思いで立ち尽くすばかりだった。炎が、何らかの大きな力によって消されたような痕跡が見て取れたのだ。
「どういう…ことだ?」
「逃げる敵には橋を作れ、と言うでしょう。呉燎」
 初めて耳にする声に振り返ると、月明かりに照らされて一人の若い女性が立っている。
「あなたは…?」
「私は、天に在って地上を照らす太陰の娘」
「…あなたが逃がしたのですか?奴らを」
 睨むような目を自身へ向ける少年に、太陰の君が答える。
「私は少しばかり夜道を照らし、宵闇の山中に橋を架けただけ。火攻めに遭った彼らを助けたのは別の者です」
『それは一体何者なのか』
 訊きたい思いとは裏腹に、言葉にならない。太陰君は黙ったままの彼に、更に語りかける。
「怖い顔をするのですね、あなたは。親許からはぐれ、心細い思いをしていたであろう小鳥たちを案じ慈しむ、あの少年は何処へ行ってしまったのか…不空があなたの行く末を気がかりに思うのも当然でしょうか」
「不空様を、ご存知なのですか!?」
「ご存知、という程でもありませんが」
 とらえどころのない言葉ばかりを繰り返す、この常人ならざる女性に、呉燎は思い切って尋ねた。
「あなたは…天は、どこの…誰の味方なのですか」
「どこにも誰にも味方などしません。このたびの争乱は、来るべくして来たものではあるが、どこの誰に明らかな非があるわけでもなく…。下天の者達に全て委ね、次なる王朝を立てる者が決まるのを見届ける…というのが天界の総意です」
「でも、あなたは…」
 どこか非難するような口調の彼に、
「天界に住まう者達にも心があります。あなたたちと同じように」
「ならば、今後も天界から直接…中庸界を介しても、この下天に干渉がなされるということですか?総意によるものではなく、一部の者の独断で」
「その可能性は否定しません。いえ、出来ませんね。けれども、私がこの下天を思い、手を下すことなど些細なものです。はるかに大きな…強い思いで下天に在る貴子を見つめる方々が居られます」
「あなたがたにとって、ぼくらは…下天に住まう人間たちは一体何なのですか?さしずめ己の思い通りに動く駒…退屈を慰める玩具みたいなものなのでしょうね」
 嘲るように言い放つ彼に、太陰君は何故か悲しげな表情を向ける。
「中にはそう思っている御方も居られるでしょう。でも、私は違います。私はかつて、この下天に人間として生きていた者だから…。彼らの、短い生涯の中で様々な『出会い』と『別れ』を繰り返し、悩み惑う…その苦しみと喜びとを知る者だから」
「え…?それは、どういう…」
 彼の問いには答えず、彼女は告げる。
「不空が心配しているようです。戻ってあげなさい」
「お待ち下さい!答えてください、太陰の君…!」
 彼が引き留めようと手を伸ばすが、彼女の姿は月明かりの中へ消え去ってしまった。
「どうしても気にかかるのなら、不空に訊いてごらんなさい。偃月エンゲツとは、いかなる者であったかと」
 最後に彼女が残した言葉を、呉燎は心の中で繰り返す。
「不空様に…」
 そっと右の耳に手をやり、〈※耳に飾る玉〉に触れる。
 湧き起こる風に身を任せる。風が吹き去ったあと、山脈を傍に控えた川辺には何者の影も無かった。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 その先に在ったもの

訪れし春

「相変わらず痛そうだね、格好悪いったら」
 からかうように声をかけてくる少女に、ヤッサはうるさげに返す。
「分かってるなら少し黙ってろ、ナラン」
 西方への出兵で、このノヤンに残る者は数少ない。だからこそ、普段ならば顔を合わせ声を掛け合うこともない従妹いとこのナランと、こうして話をしているのだ。
「にしても、調子がいいよなあ。お前の『風邪』も」
 出陣の直前に高熱を出したために派兵から外された彼女であったが、ほんの数日で何事もなかったかのように回復したのだった。
「それはきっと、シャマンのお祓いが効いたんだよ」
 他愛のない話をしていると、にわかに外が騒がしくなる。
「フヘデが戻った」
 その報を聞きヤッサが駆けつけると、彼は何かを握った右腕を突き出した。
「これはお前が持て」
「…首長の胸飾り?どういうことだ、フヘデ。親父は…」
「禽獣か虫けらの腹の足しくらいには、なれているだろう」
「死んだのか…負け戦だったんだな」
「ああ。これのかつての持主だった愚かな男の過ちにより、我ら将兵は大いに痛手を受けた」
 一呼吸おき、フヘデが続ける。
「お前が新しい王だ。この北の都を…誇り高き騎馬の民の国を立て直せ。俺は、お前にそれだけの力量があるか見せてもらう。出来ないようなら、お前など追い落とし、他の者を立てる…心してかかれ」
 弓矢に優れた将軍といえど、首長の子息であるヤッサにこれだけの物言いが出来るのは不思議である。だがヤッサは丁重に胸飾りを受け取ると、
「分かった。最善を尽くそう」
 黙って立ち去るフヘデの後姿を見送り、思う。
(『雷の子』…何を考えているか分からない、本当に恐ろしい男だ)
 どこからか迷い込んできた青い目の女が、この北方の都に暮らしていた青年との間に産んだ子。落雷を受けたが奇跡的に命を取り止めた彼を、いつからか誰からともなくそう呼んだのだという。
 ヤッサは胸飾りを握り締め、空を見上げた。
  * * *
 それから数日が経ち、騎馬兵が相次いでノヤンに帰還した。マーニが、自身に委ねられた兵士だけでなく、幸いにも西方での戦いを生き延びた者達を率いて戻り来たのであった。
「無事だったんだな!」
 マーニは杖をつきながら出迎えた幼なじみに笑顔を向け、
「ああ、何とかな」
 しかしすぐに、くるりと向きを変えて、
「ごめん、話は後だ。早くシャマンに会って謝らないといかんから」
「…は?」
 追いかけようとするが、体の自由がきかないのはなにぶん不便である。ヤッサは、あっという間に遠ざかる彼の背を目で追うばかりだった。
  *
 マーニがシャマンが住まうゲルを訪ねると、その前に彼女が立っていた。彼が来るのを見越して待っていたかのようでもあった。
『ご無事でお戻りになったのですね…安堵しました』
 恭しく頭を垂れる少女に、マーニもまた頭を下げながら、
「すまない。あの首飾り、返すことが出来なくなってしまったんだ。山越えのときに、道案内出来るような当地の人間に会ったもんで、その礼として…」
 しかし彼女は、彼の腕にそっと手を添え、
『いいえ、構いません。あなたがたの命が助かったのですから、首飾りの一つや二つなど、どうでもよいこと。おもてをお上げください』
 すぐ傍に、年頃の娘の愛らしい笑顔がある。どきりとした。
「そう言えば…。お前、なぜ口をきかない?さぞかし綺麗な声が出るんだろうに」
 西方一の美女という噂話があった。興味が無かったと言えば嘘だが、そんなことがどうでもよくなるような驚きだった。
(居たんじゃないか。こんな近くに…少し手を伸ばせば、この手で触れられるところに)
 兵乱、しかも不利な状況に立たされっぱなしの緊張や恐怖から解放されたことだけが理由ではなかった。シャマンの少女は、彼が不意に心惹かれるには充分すぎるほどの可憐な容貌を持ち合わせていたのだから。
 差し伸ばされる彼の指が頬に、横頸よこくびに触れる。彼女は身体をこわばらせて目を伏せ、顔を背ける。
『何をなさるのです。お止めください…』
 かたくなな彼女の姿に、マーニは我に返って手を離す。
「あ…悪かった。ごめん、忘れてくれ」
 そして背を向け、早足で立ち去る。
 シャマンは生涯独り身で過ごす。妻に望むことなど…
(いや、彼女がシャマンを降りれば…別の誰かが新たにシャマンになれば…)
「それは無理な相談ですな、マーニ殿」
 不意に声をかけられて振り向くと、老人が杖をついて立っている。前のシャマン・クチュだった。
「よろしいか。あれは同じ年頃の他の娘たちとは違います。このたびあなたをお救いしようと手を尽くしたのも、あなたを恋い慕うゆえではありません。あなたが懸想し言い寄るような相手ではないのです」
 先程のことも、今現在の心の内も見透かされている。マーニは返す言葉も無い。
「外聞も悪いでしょうから、この爺一人の胸にしまっておきます。しかし、このような浮薄な行いは今後自重下さいますよう…天地や祖霊への冒涜ぼうとくともなりかねませんゆえ」
 黙り込む彼に、老人は続ける。
「新たな首長…ヤッサ様に、このたびの兵乱の経過をご報告なさいませ。それこそが、この厄災をくぐり抜け、生きて戻った騎兵を率いて来たあなたが、今すぐにでも為すべきことです」
  *
 このクチュの言葉に従い、改めてヤッサの許を訪ねて今回の件を知る限り語り、
「大変だったな…ゆっくり休んでくれ」
 幼なじみでもある彼に温かくねぎらわれたが、マーニはシャマン・ボルテのことが頭から離れずにいた。
(あの娘のことを、もっと知りたい。触れたい。この腕で力の限り抱きしめたい。そして…)
 許されぬ思い、叶わぬ願い。あのとき川のほとりの陣中で見た、目の前で燃え盛る炎と、瞬く間に灰燼かいじん〈※灰や燃え殻〉と消え去っていく草木や輜重しちょう〈※ここでは、武器や食糧など陸軍で使う全ての品物〉。それらと自分自身とが不意に重なる。
 泉へ行き、胸中のわだかまりを振り払うかのように顔を洗う。春の足音まだ遠い、北方の地に湧く水は、氷のように冷たかった。
 
 もう、旌水のほとりに人々の姿は無い。
 北胡の本隊を討つために新年の祝賀もそこそこに戦いに明け暮れていた秦とその周囲の民たちは各々住まいに戻り、改めて平穏に新たな年を迎え祝った。北胡の圧政から逃れて雪嶺山脈で暮らしてきた者達もまた、山を降りて元の生活に戻っていった。
  * *
 一方、前の領主・梁家の娘である琇娜は隠れ家を出、北胡が造営した司政府に居た。
「建物は器でしかありません。その内にあるもの…政務を司る者の心次第なのだと思います」
 琇娜は新たに自身の住まいや政庁を建てることをせず、司政府の華美な装飾をことごとく取り外して処分し、これを継続して使うと宣言した。
 中庸界への去り際、彼女の心意気に共感した不空は、置き土産代わりに浄地の方術を修していった。
「土地、建造物、巌石…そういった長くこの世にあり続けるものは、歳月を経るうちに傍近くに暮らす者たちの心に染まるもの。ここを白紙に戻して差し上げよう…。あとはあなたが、彼らのような汚れた欲望ではなく清き行いで、この地史を綴っていきなさい」
 司政府の一室から退出する不空の後を追いかけた呉燎が、引き返してきて再び彼女の前に立って告げる。
「琇娜さん。あなたはお気付きかもしれませんが、ぼくは江沿こうえんの呉家の者です。かつて北胡がこの秦に侵攻したとき、あなたの父君は周囲のどの氏族にも救援を頼めなかった…。それは皆自分の領土ばかり、あわよくばそれを拡大し私利を増そうと思っているのを知っていたからでしょう。残念なことです、今なお悔やまれます」
「呉燎…」
「ぼくは、そんなことをしたくない。見過ごしたくはないのです。今は訳あって不空様の許に身を寄せていますが、もし父や兄があなたがたを…ここ秦を、梁領を侵すことがあれば、何としてでも阻止します」
「どうして…?」
「あなたがたの…この地の民たちの心持ちが、あまりにも素晴らしかったから。親族があなたがたと相争うのを黙って見ていられるはずがありません」
 琇娜は真っ直ぐに自身を見つめて語った彼に微笑み、
「あなたの気持ちを、とても嬉しく思います。わたしも、争いなど…兵乱など避けたいですもの。ありがとう、呉燎」
「では、ぼくもこれで失礼いたします。営論さんたちにも宜しくお伝えください。どうか、お元気で」
 顔を上げてにっこり笑うと、くるりと向きを変えて部屋から出ていく。少年の後姿を見送ると、琇娜も扉へと歩きだす。
  *
「姫様」
 部屋の外には、西方が北胡に制圧されて以来、自分をかくまい尽くしてくれた老臣・班業ハンギョウとその妻・寧楽ネイラクが待っていた。
「お話は済みましたか」
「ええ。あなたたちにも、まだ改めて今までのお礼を申し伝えていませんでしたね…ごめんなさい」
「なんて勿体ない。我らは当然のことをしたまでです。梁鋪リョウホ様も、きっと安堵しておられることでしょう」
「もう、思い残すことは何もありません。いつお迎えが来られても、胸を張って旅立てます」
 感激に涙ぐむ老夫婦に微笑みかけながら、彼女は二人の手を取り、
「そんなことを言わないでください。あなたがたのお陰で、わたしの…梁領の今が在ります。どうか、もっともっと長生きして、わたしに何か恩返しをさせてください」
 彼女の言葉に、夫妻は嬉し涙を流しながら、
「我々ほどの果報者は、この国のどこにも居りますまい。ありがたい、ありがたいことでございます」
 ひとしきり感涙にむせんだあと、班業が顔を上げて言う。
「琇娜様、将軍様方への御挨拶は…?」
「いえ、まだです。皆さま方は、どこに?」
  * *
 司政府には、軍事的な目的ではなく、おそらくは役人頭たちの遊興のために建てられたとおぼしき望楼ぼうろう〈※遠くを見るために使う やぐら〉がある。そこに上ると、このたびの北胡掃討は彼らの協力無しでは為し得なかった、功労者たる三名の将軍が立っていた。
「皆さん、本当にありがとうございました。何とお礼を申し上げて良いものか…」
 琇娜が改めて感謝の辞を述べると、営論は普段と変わらぬ調子で返す。
「俺たちは、少しばかり手伝っただけに過ぎない。方士殿の御力もあったし、何よりここの民たちの強い思い、そしてあなたが在ってこそ成しえたのだと思う」
 二人の家臣たちも、謙虚な主人に苦笑いしつつうなずいて見せる。
「ですが…」
「俺たちのことならば気にせずとも良い。ただ帰るあてが無いので、雨風をしのげる住まいと相応の衣食を当座いただければ有難いのだが。もちろん、それに見合うだけの仕事は何かさせてもらうつもりだ」
「いえ、もちろんです!あなたがたには、これからも是非この地に留まり、わたしどもを…この秦と近隣の領土と民たちをお願いいたしたく思います」
 彼女がひざまずき臣下の礼をとろうとするので、営論がそれを制して告げる。
「この地の宗主は、あなた以外に無い」
 戸惑う彼女へ、鄭欽が続けて、
「北方の河西かせいでは、女性が当主に立たれていると聞いたことがあります。あなたもそうあれば…堂々としていれば良いのですよ」
「けれど、わたしには何の取り柄もありません。学があるわけでも、武芸に優れているわけでも…」
「姫様はまだお若い。そんなものはこれからいくらでも学ぶことが出来るし、何より心ばえってか人徳ってのは生来のもんらしくて、努力してそなわるもんじゃない」
 墨薈が言うと、営論がうなずいて後を引き継ぎ、
「あなたが姿を現したときの民たちの喜びようを思い出してごらんなさい。何も自分を卑下することなど無いだろう」
「はい…ありがとうございます」
  *
 こうして北胡を排除し自治を取り戻した、秦を中心とする西方地域は新たな歴史を歩み始める。
 
 若葉が芽吹き花が咲く本格的な春の訪れを待って、背に大きな荷を負った馬や馬丁ばてい〈※馬の世話を仕事とする人〉を供とし、ここ河西から遥か北東の地・河北かほくへと一人の花嫁が旅立とうとしている。
「頑張ってこいよ。お前らは健脚で頑丈だから大丈夫だよな!」
 笑顔で荷運びの馬たちに話しかける青年に、壮年の男が不機嫌そうな表情で言う。
「全く…珠簾シュレンまでもが嫁に行ってしまう。本当に、お前には困ったものだ」
「なんだよ?ソウ兄」
「お前には困ったものだと言ってるんだ、ヨウ!この河西では知らぬ者のない、武官筆頭の我が馬家。その誇るべき子息でありながら、嫁に来てくれるという娘御がただの一人も現れん。それもこれも、お前が『口を開けば馬のことばかり、暇があれば厩舎通い。娘子じょうし〈※少女、むすめ〉になど興味のない変わり者』という不名誉な噂が立つような行いしかしないからだ!」
 馬宗バソウに怒鳴られても、彼の末弟・馬陽バヨウはどこ吹く風といった顔をして、馬たちの準備に駆け回っている。
「お止めなさい、馬宗」
 様子を見に来た維家当主・玉鈴ギョクレイが、そんな彼を見かねて声をかけた。
「当主様…」
「馬陽は優れた伯楽はくらく〈※馬医。補注後掲〉で、この河西の軍馬のみならず近隣で農耕に従事する馬たちにも明るい。突然人間の若い娘にうつつを抜かされたのでは困ります」
「しかしながら…」
「兄としてのあなたの気持ちは分からないでもありません。けれども、人の…男女の縁とは奇なるものです。きっと、彼にも相応しい女性が現れることでしょう」
「はあ…そう願いたいものですな」
  *
義兄上あにうえ、姉上。今日のこの日まで、本当にお世話になりました」
 遅くに生まれた娘なため、実の親よりも姉・慎芝シンシ、そしてその夫である華弼カヒツの許で育った歳月のほうがむしろ長い珠簾は、二人を前に深々と頭を下げた。
「綺麗よ、珠簾…幸せにね」
 涙ぐむがこらえて笑顔を作る姉にうなずいて見せ、彼らの傍に立つ当主へ向き直る。
「珠簾、どうか身体には気を付けて」
 当主・玉鈴は彼女の手を取り、顔を伏せて目を閉じる。
「どうか、よろしくお願いいたします」
「当主様…」
 戸惑っていた彼女が、微笑んで告げる。
「御顔を上げてくださいませ、ご心配にはおよびません」
『わたしは一人じゃありませんから。あの御方が…わたしの夫となる方が、彼の愛する郷里とそこに住まう人々とが居りますから』
 彼女の思いを読み取り、玉鈴もにこやかに返す。
「そう…。お幸せにね、珠簾」
「はい」
  * *
 河北に到着した花嫁は大いに歓迎され、夫のみならず当地の人々にもほどなく愛され慕われるようになったという。
  
「ご無沙汰してます、寿考大老ジュコウ ターラオ〈※補注後掲〉」
 不意の珍しい客を、しかし中庸界の星辰宮せいしんきゅうに住まう方士・寿考は驚いた様子も見せず迎える。
鄒頌スウショウか。どうしたことじゃろうな、お前がここに来るというのは」
大爺ターイエ〈※ここでは一般的な「おじいさん」的呼びかけとして使用、補注後掲〉なら、いちいち俺に訊かずともお見通しでしょうに…」
 白髭の老人は青年の言葉に笑みを浮かべ、
「星回りを…儂の見立てを伺いに来た、というわけか」
「はい」
丙午へいご〈※ひのえ うま〉の年…あれこれ忌避される年ではあるな。更に、『喜寿きじゅ〈※七十七歳の異称。補注後掲〉の計都けいと〈※ここでは彗星を指す〉』が現れる。これに対する畏怖もあり、今年は穏やかに過ぎるであろうのう」
「良かった。俺の見通しと同じで」
 安心したというよりも何故か嬉しげな様子の鄒頌に、寿考が言う。
「こうして折角来たのであるから…久しぶりに爺の長話でも聞いてゆくか」
「ええ、そうさせていただきます」
 星辰宮の奥へと歩き出す老人の後を、青年が追う。その足取りは、どこか軽やかだ。
  
 皇帝および王朝不在の期間を言う玉輅亡欠ぎょくろぼうけつ、その第二年。
 下天には、永王朝の終焉より初めての春が訪れる。各地の情勢が目まぐるしく動いた昨年の秋から冬、新年とは裏腹な、静かな春の到来だった。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ三 訪れし春

※註
●伯楽
 馬の良否を良く見分ける人。また、馬や牛の病気を治す人。更に現在、腕ききのコーチや監督を「野球界の名伯楽」などと言うが、そもそもは古代中国、周の時代に居たという馬を見分ける名人・孫陽そんよう〈姓は孫、名は陽〉で、中国の天馬を守る星の名からの称らしい。
 …つまり、馬陽はその名人から名を拝借しているワケで…(汗)
●呼称いろいろ
 大老ターラオは優れた老人、老年の賢者を言う言葉。大爺ターイエは「爺(おじいさん)+尊敬の意の接頭語・大」。なんとなく中国読みになんてしているが、実際中国で呼称として使うかは保証の限りではありませんので、要注意です(おい!)
 特に大爺は現代中国では伯父(父の兄)の呼称らしいですからね…(汗)
●喜寿の計都
 喜寿とは、数え七十七歳の異称。ということは満年齢七十六だよー…てなわけで、七十六年周期で地球に近付くハレー彗星を元ネタにしていたりする(自爆)。
 ちなみに、古希=七十歳などはともかく、喜寿に関しては中国には無く日本生まれらしい(汗)

* * *

篇ノ三は以上になります。
また舞台と登場人物が増えまして…(滝汗)
篇ノ二の中でハツが語った「北胡が河北や河西ではなく西方の秦に侵攻した」件の経緯を追ったのが篇ノ三、ということに。ゆえに、篇ノ二終了時から少し時を戻って始まるのが篇ノ三でした。

次は篇ノ四へ入ります。
筆者がこんなこと言うのも何ですけど、展開として しんどさも少なめで、一番面白いのがここじゃないかなと(謎だらけ発言)。
篇ノ一そして三と、既にやりたい放題だった中庸界の方士・鄒頌ですが、篇ノ四になると更に過熱し「もうどうにも止まらない」感が…だから筆者自身この箇所が好きなのかも(苦笑)。

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