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拙作語り㊷~聡介のモノローグ@『Secret Base』

過去筆の拙作であり現代学園短編連作小説、『Secret Base』。
文化祭発表箇所以外の、いわば「地の文」は、以下の「聡介のモノローグ」で出揃ったことになるかと思います。
物語本編に登場する、2011年3月段階で高校1・2年生だったサイエンスクラブ部員たちは学校で東日本大震災の大地震を経験しており。以下に再掲するのは、翌年度に部長となる2年男子・津久井聡介つくい そうすけのモノローグ。
このような事情なので、震災を思い出すようで不安がある方は、以下読み進めないほうが良いかもしれません。

 
 
 

 
 
 
 
 

 3月11日。
 午後2時46分、東北宮城県沖を震源とする大地震。これより二時間とおかず三陸沖そして茨城県沖でもM6超の地震が相次いで発生。海底で縦断層を生じた結果、大津波が沿岸地域に押し寄せ、幾多の町を呑み込んだ。
 世界においても最大規模、M9.0の巨大地震が東日本を襲った日。
 けれども、おれもこれだけの情報を得られたのは翌日以降のことだった。その日は、ここ茨城県南でも大変なことになっていたからだ。
 おれの通う茨城県南の高校では、金曜日の放課後を迎えようとしていた時分だ。
 このところ地震が多いもので、「ああ、またか」と慣れが入っていた。しかし、これまでとは比べようもないほど激しく、長くおさまらない揺れに、皆の表情は凍りつく。
 クラブ活動その他で校舎に残っていた生徒たちは、取るものもとりあえず慌てて校庭へ避難した。皆が次に思ったのは……
(そうだ、家族は…)
 次々と携帯を取り出すが、どこにも繋がらない。焦りと不安が渦巻いた。
 先生たちが、「送電が止まり、JRやTX〈つくばエクスプレス〉が動かないらしい。自転車やバスで登下校している生徒は、途中余震と落下物に注意しながら帰宅するように」と言っている。
「…とにかく、家に帰ろう。来栖くるす、お前はチャリ通学だったよな?」
 慣例でいけば、来年度の部長はおれだ。しっかりしなければ、先達に顔向け出来ない――そんな思いだった。
「え?あ、ああ…そうですけど」
「ここに残ってても仕方ない。揺れが落ち着いたと見たら、家を目指せ」
「はい…」
橿原かしはらさんはバスだっけ」
「うん…。電車じゃなくて良かった」
 同級生の彼女はそう言ったが、おれは転勤の多い親に付いて日本のあちこちを歩いていたから何となく分かっていた。この近辺全域停電となれば、最悪の場合信号すら消えているはずだ。こういう時ほど、バスのダイヤは単なる目処めどでしか無くなる。
 おさまったと思うと、また揺れる。動けない。そんなことを繰り返すうちに、一時間が経とうとしていた。
 三十分、一時間と過ぎるにつれ、携帯が少しずつ動くようになってきていた。メールが送れる、家族からの「無事か?」のメールが届く。携帯を握りしめ、食い入るように画面を見つめた。
 近くの幹線道路まで様子を見に出た先生が、信号が消えていて車が速度を落として走らざるを得ず、道が渋滞しているさまを確認してきた。
 このままでは日が暮れてしまう。決心をつけて後輩の来栖と一緒に駐輪場へ走り、自転車を押して校庭に戻る。
「暗くなったら、余計に危ない。帰ろう」
 傍に立っていた地学の樋口先生に声を掛け、他の部員を連れて学校を出た。
  *
 実際に見ると、道路は酷い状況だった。普段なら速度規制を守る車を見付けるのも難しいほどで、風のように車が走り去っていくその道が、急に徐行指定になったようなものだ。これでは、バスなんていつ来るか分からない。とりあえずバス停までと思った橿原さんだけれど、このままには出来なくなった。住所はクラブの連絡表で知っている。ちょっと距離はあるが、自転車で行けなくもない場所だ。
「後ろ乗って。家まで送る」
「だけど…」
 おれの提案も唐突だったし、彼女は遠慮したが、
「この状況だぞ。ちゃんと家まで行くって!」
「でも、聡ちゃんが」
「おれはいいの、男だから!その辺転がってても何とかなるねん!」
 通学自転車をシティサイクルでなく軽快車(後部荷台が付いている、俗に言うママチャリ)にしておいて良かった――
 渋々後ろの荷台に座った彼女の荷物もかごに入れ、東大通ひがしおおどおりを突っ走る。交差点に来るたび危ない思いをし、止められながらだが、何とか彼女を自宅まで送り届けることが出来た。彼女の家は外見上は無事だったけれども、周囲には屋根瓦が落ちた家や塀が崩れた家が幾らでもあった。多分、うちの近所もこんな状況になっているだろうと思った。
 辛うじてやり遂げた――ほっと一つ息をついたとき、荷台から降りて彼女が言った。
「さっき、ようやく携帯でニュースのページが見られて…。宮城北部で震度7、東北沿岸部に大津波…って」
 彼女は涙ぐんでいた。
「親戚居るの?東北に」
 問いかけて、はっとした。
 父親の実家は、福島県浜通りと言われる地域だ。自分は親と共に『引越し族』でも、親の実家はずっとそこに在る。盆や正月に祖父母の家を訪ねると、なんだか安心したものだった。
「近い親戚は居ないけど…聡ちゃんは?」
 悟られないように、言いつくろう。
「いや。…じゃ、おれも急いで帰るや」
「ありがとう。気を付けて」
 返答もそこそこに、彼女の言葉に背を押されて自転車を走らせた。
 残念ながら、おれの携帯に祖父母の連絡先までは登録されていない。自宅の親の携帯を頼るしかないから、家に帰り着くことだけ考えた。
  *
 自宅に着いたのは、周囲がだいぶ暗くなる頃だった。母は玄関の前に携帯を握りしめたまま立っていた。
「聡介…遅かったじゃないの!」
 無事というメールは送ったし届いているのだろうが、心配していたはずだ。おれは素直に謝った。
「ごめん。こんなだから帰れないんじゃないかと思って…クラブの子を送ってきて」
「そんな…。こんな時まで『いい人』気取って奉仕しなくてもいいじゃない」
 母には皮肉られたが、後悔はしていない。
「福島のじいちゃん達は…?」
「それが…連絡がつかなくて」
 母は首を横に振った。
 間もなく、徒歩通勤の父が困惑顔で帰ってきた。とりあえず、家族の無事は確認出来た。けれど――
 停電が続き、懐中電灯の明かりだけが頼りの夜がやって来た。テレビもつかない、ラジオは無い。水道も出ない(うちはガスは引いておらずオール電化だ)。何も出来ない。
 余震がなおもおさまらない中、ありあわせのパンやペットボトルのお茶で夕飯にし、午後7時過ぎには布団に入った。本当に何も出来ないのだから、仕方ない。
 夜中、日付が変わろうとする頃に、父親が部屋のドアを叩いた。
「…何?」
 起き出して訊くと、
「うちの実家から、『家族は無事だけど、家は津波と地震の被害を受けた』って」
「…そ、う…」
 布団に入り直しても、頭が冴えて寝付けない。早く朝が来てくれれば、この状況が変わってくれればと、願うばかりだった。
 
 翌朝。
 第二土曜日だから高校は休みだ。というか、「来い」と言われても無理だ。JRで何駅も離れたところから電車とバスを乗り継いで通学している人は、どうやって家へ帰ったのだろう。そもそも帰れたかどうかも分からないくらいだ。
 普段ならば朝も暗いうちに届く新聞が、郵便受けに入っていない。太陽が高く昇ってきた頃、ようやく朝刊が来た。
「東日本 巨大地震」「町が消えた」
 津波に呑まれ、残った建物からも炎が上がる住宅街の写真。
 こんなことが、あの時起こっていた。地震から半日以上経って、ようやく知った。呆然とした。
 この辺りでは、翌日には電気が復旧した。電気が戻ったので、テレビをつけた。そこには、次々と信じられない光景が映し出された。新聞だけでは掴みきれなかった被害の大きさが、被災地の惨状が、どっと流れ込んできた。
「ひどい…」
 それ以外の言葉が見付からなかった。
 宮城県仙台市、多賀城市、気仙沼市、名寄市、南三陸町、岩手県大船渡市、大槌町…あちこちの「今」が、かわるがわるテレビに映し出される。
 こんなことを言っては罰が当たるに決まっている。でも、正直あまりに爪跡が大きすぎて、現実のものと受け止められずに、ただ画面を眺めるだけだった。よく見知った町の今が、映るまでは。
「こちら、福島県いわき市の現在の映像です」「福島県南相馬市です」
 息を呑んだ。あの町並み、あの駅のホームが、消え去っていた。初めて涙がこみ上げた。
 今までどんなに海外の津波の凄まじい映像を見ても、実感が湧かなかった。今まで決して、海を怖いと思ったことが無かった。だけど、今回は違った。
 自然の脅威を、痛いほど見せつけられた。海という存在に、恐怖を感じた。
 
 水道も数日で復旧し、TXはJR常磐線よりも早く運転を再開し、茨城県南と東京を繋いだ。今なお避難所で不便そして不安な思いで過ごす被災者からすれば、おれたちは恵まれたほうだ。けれども、この周辺でも一日二日は給水車へ水を貰いに行ったし、今でもガソリンを求めてGS前からありえない程の長い車の列がのびているし、スーパーには開店前から人の列が出来る。
 
 地震から五日が経とうとする頃、福島の祖父母がやって来た。やって来た、なんて穏やかなものじゃない。福島原発が地震そして津波の被害を受けて危機的状況に陥り、近隣住民は遠くへと避難せざるを得なかった。脱出というか、うちを頼って転がり込んで来たのだ。
 常磐道は通行止で、JR常磐線も取手から南でしか運転していない。そうニュースで聞いた。一体どうやってここまで来たというんだろう。下道を通って来たのか、それとも北ほど通行止や車両規制の高速道でも、通してくれたんだろうか。
 疲れきった顔の二人には、とても訊けなかった。
「荷物…これだけか」
 置かれた二つ三つのバッグを見て問いかけた父に、祖父は「持ち出せるものは、もう無い」とだけ答えた。何日かぶりで風呂に入った祖母は湯船で涙をこぼしていたという。こちらへ住民票も移してしまおうと思ってる…なんて話も聞こえてきた。
 
 地震から一週間。支援と復旧への動きはあちこちで進み、徐々に立ち直りつつあるように見える。でも、完全に元通りになる日は…きっと、まだ遠い。
 けれど、皆が「このまま立ち尽くしてはいられない」と思い、悲しみや苦しさをこらえて前へ進もうとしている。
 おれに今、出来ること。節電、節約、募金…ちっぽけな自分に出来うる小さなことを重ねながら、『明日』―『明るい日』―が来ることを、東北の地を再び訪ねられる日を、心から願っている。

『Secret Base』Mar-2011 = the disaster =・monologue by Sohsuke・

これは、茨城県北で生まれ育ち、福島県浜通り地域とも馴染み深い私自身が彼に託して、残しておかねばと思って自身の見聞を基に書いたものです。ゆえにフィクションとノンフィクションの境界が曖昧です。ただ、地震当日中に福島県でどれほど携帯が使えたかは掴めず、そこは茨城県北の実情です(実家から家族の無事を伝える携帯メールが来たのが当日の深夜だった)。
震災より時間が経ち、震度・震源・マグニチュード等の情報は訂正されたかもしれませんが、これはさほど時をおかずに書いた文章のまんまです(2011年4月中頃のことと思われる)。

能登地震から、今日でちょうど3ケ月。少しずつ元の暮らしに戻りつつある地域や人々もある一方で、そのままで前に進めないところもあるとのこと…。
どうして今、私がこの聡介のモノローグを出そうと思ったかというと、本日4/1の読売新聞朝刊の一面見出し「全半壊の町 住民去る」に考えさせられたからです。
被害が大きかった石川県珠洲市正院町では、「もうここには住めない」と去っていく住人も少なくなく、「それでもここに住みたい」と思う人にも、新たな生活への第一歩、新たな住まいを建てる為の全壊・半壊自宅の解体が始まれない現実が立ちはだかっているのだ、と。
東日本大震災でも問題になった、震災廃棄物。能登地震でも同様で、今後も相当量出ることが予想され、「そのごみはどうするのか」という議論にも…。(ここは朝刊記事を参照)

言ってしまうと、地震によるダメージはもちろんなのだけれども、「これからどうしよう」の見通しを立てるための指針をなかなか示せない国や自治体の責任もあるんじゃないかと。極言ながら、「始まりは天災だったが、途中からはもはや人災」の域に入っているんじゃないかと(かなり酷評)。東日本大震災の時にも思ったことですが。

拙作の中で、福島県浜通りに住んでいた聡介の父方の祖父母も、「いつ戻れるのかも分からない。戻ったとしても昔のように暮らせるか分からない」と、結局「先が見えない」から、「もう(息子たちの居る)つくばに住民票も移してしまおうか」と口にするようになるのです。
その後のことは書いていませんが、おそらく聡介の祖父母は住民票を移し、郷里を思いながらも茨城県南で暮らすという選択をしたんじゃないかと、筆者は思うのです。
年を取れば取るほど、近所であれもこれも用が済ませられる方が安心できる(切実)。若いうちならいざ知らず、老いてから生活に不便な山奥とかに引っ越すのはリスクが大きいのが現実ではないでしょうか。
能登地震で大きな被害を受けて一時孤立もした地域には、高齢者の多い集落も複数あったと聞きます。高齢者なら尚更、「ここにはもう住めない」と思わざるをえないのではないかと。いつまで自分が丈夫でいられるか、自分自身で自由に動いて用を為せるかなんて、分からない。高齢者なら尚のこと不安が付いて回るはずですから。

知恵がある奴は知恵を出そう。 力がある奴は力を出そう。 金がある奴は金を出そう。自分は何にも出せないよっていう奴は元気出せ。

シンガーソングライター・松山千春さんの名言

大きな自然災害が起こるたび、支援の輪が広がっていきます。まだ人間も捨てたもんじゃないと思わされる光景ですが、一方で人の善意につけこむ詐欺が横行したりもします。これは本当に残念極まりない。。
自ら片付けなど力仕事で復興を手伝うのが震災ボランティアであり、資金面で助けようとするのが寄附・クラウドファンディング・募金であり、なのでしょうが。
個人的には「とりわけ災害時、何も出せないほど惨めなことはない」と思うのです。落ち込んでるよりは無論いいけど、元気だけでは被災者を(物理的に)温めることもお腹一杯にすることも出来ない、それが現実じゃないかと。
「気がかりでおります」「頑張って下さい」も、思わない・言わないよりはいいけど、それだけじゃ被災地は前に進めない。知恵も力も無ければ、何にでも化けられるお金での援助を少しでも、と考えるほかないんじゃないかと。だから義援金は集まるんじゃないかと。
何か自然災害が起きたとき、応援の思いと共に小銭でなく紙幣範囲の寄附・募金が出来るようでありたい――それが私がパートながらほそぼそ働き続ける理由の一つでもあります。自分が働いて得た収入なら、自分の思うように堂々と使えるので(爆)。

顔を上げて前を向く為に、未来を見て前へ進む為に必要なものが何であるのか。殊に、行政関係の人たちには改めて考えてほしいものです。

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