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拙作語り㊶『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』<Ⅶ>

一次創作、古代中国風伝奇ファンタジー小説『群雄列伝』。
内容その他の詳しいところは過去記事(拙作語り㉟)を見て下さいという話ですが、そのうちの『下天の章・三 群雄割拠譚』は、中央政権が衰退し地方の有力氏族が帝都と天下を窺うようになった群雄割拠の人間界が舞台。
三回に分けて篇ノ四の前半部再掲、今回はその2です。

毎度の断り書き。
R指定まではいかないのですが、PG-12くらいはあっていいのかなと筆者的には思っています。
更には、やはり15年とか前の筆なので、当世のあれこれに抵触するような表現もあるかと思いますけれども、基本「原文ママ」を通したことを念のためお断りしておきます

古代中国風の興亡史=戦記ということもあり、多少残虐・悲惨なシーンが入るかと思われます。
どうしても残酷なのはダメ、という方は読み進めないほうが良いです
以上、よろしくお願いいたします。

『群雄割拠譚』本編

篇ノ四

秋の声と共に、複数の勢力が次々と対峙する緊迫の時が幕を開ける。
玉輅亡欠ぎょくろぼうけつ三年)

<前>(2/3)

*地図追加
篇ノ四にて以降必要となるであろう、北部におけるもう少し詳細な地図。
河北かほくの更に北に、北胡ほっこの都・ノヤンがあります。

群雄下天・三 地図(北部詳細図)

守御の急先鋒
※註:
  守御〈しゅぎょ〉:城をまもり、敵を防ぐ。
  急先鋒〈きゅうせんぽう〉:積極的に物事の先頭に立って進む人。

 翌、晩秋〈※旧暦九月〉の四日。明け方に邸を後にし当主の許へと向かった謹悌キンテイが、昼前に戻ってくる。昨夜、管尚カンショウは子供たちに毀棄キキらについて何者かと訊かれ、自身の知るところを明かしていた。『教養あふれるお兄さん』というのは、学問を修めて父の後に続こうとする少年たちには実に魅力的に映ったらしい。それを受けて、彼らは朝から少年たちに「先生、先生」と追いかけ回されていたのであった。彼女は子供たちを留めて柳發リュウハツと毀棄を別の部屋へ招き入れ、
「あなたがたのことを申し上げたところ、政務が終わる夕刻に是非お会いしたいと仰せでした。なので、日が傾いてきたら政庁へ」
「え…?僕もですか」
 毀棄が尋ねると、
「はい。お連れ様とも、この機会にお会いしておきたいそうです」
「なら、洪洵コウシュンも…?」
「ええ、そういうことになろうかと」
 部屋から去る彼女の後姿が見えなくなってから、毀棄は申し訳なさげに言う。
「あの…すみません。僕たちまで」
「何が」
「だって…その御方は、あなたの…ご夫人なのでしょう?」
 彼の言葉に柳發は笑い、
「けれど、彼女がそう願うのだから。君が気にすることではないよ」
 納得したわけではないが、毀棄は口をつぐんだ。
「それより、私こそ良いのだろうか。私ばかりこんなくだけた言葉遣いで」
「いいんです。柳發さんのほうが僕よりずっと沢山の本を読んでいるし、いろんな所をめぐり歩いているし…。何より、きっとほんの少しではあるんでしょうけど、あなたのほうが年長だと思うんで」
 どこまでも謙虚な毀棄は、昨夜のうちに柳發に「もう『さん』付けは止めてください」と願い出ていたのであった。実際のところは、彼のほうが時の流れが遅い天界で三歳までを過ごしている分、生まれも早いはずなのだが。
 不意に、忙しい足音が近づいてくる。
「あ、ここに居た!逃げられると思ったら大間違いですよ、先程のが途中じゃないですか!」
 本を抱えた管朔カンサク甘達カンタツに見付けられ、二人は顔を見合せて苦笑した。
  * *
 夕刻へと向かい、西の空が朱に染まり出す。政庁の奥にある当主の住まう宮殿にほど近い一室に通され、三人は交わす言葉も無く待った。
 不意に扉の開く音がし、
「發…本当にあなたなのですね」
 驚きながらも感激に目を潤ませる、美しい女性が現れる。
「綺麗な、ひと…」
 洪洵がつぶやく。口にこそ出さなかったが、毀棄も同じ思いだった。美しいといえば、景瑛ケイエイという中庸界の少女も、まず誰もがそう形容するだけの容貌を持っている。だが、彼女の場合はあどけない表情と愛らしい仕草、天真爛漫さが引き立て役と言ってよい。この、柳發と何やら深い仲にある女性は、それとはまた違った輝きを放っている。成熟した大人の女性らしい艶やかさ、豊かな才知、他者を圧倒する程ではないが確かな威厳と芯の強さが感じられた。
「申し訳ありません。三年経ってもあのままでしたが、どうしても現実のことと思えずに過ごしてしまいました」
 頭を下げつつ話す柳發に、彼女は小さく首を横に振りながら、
「もう良いのです。既にどこか他所の氏族に仕えていて、敵としてあなたを見なければならないとしたらという不安…それが今消え去ったのを思えば、一年の月日のことなど忘れてしまえます。どうしてあの時、三年経ってもなどと言ってしまったのでしょう。自分でも悔しく思っています」
 離れていても信頼と愛情という強い絆を持ち続けていた二人を前にして、毀棄は穴があったら入りたい気持ちになった。自分たちが見ていなければ抱きしめ合って再会の喜びに浸ったであろう二人に申し訳なかったのもある。しかしそれよりも、すぐ傍に居るのに…かつて『どんなに荒唐無稽なことを言ったとしても、馬鹿だなぁって笑わない』と約束したのに、しばしば悪態をつくのをいいことに洪洵にだいぶ酷いことばかり言ってきた自分を思うと、恥ずかしくて仕方がなかった。
「洪洵…」
 神妙そうに話しかけてくる彼を見上げて、洪洵が訊く。
「なに?」
「ごめんな、今まで…お前に色々と言い過ぎたよ」
「ううん。ボクも悪いんだもん、気にしてない」
 洪洵が、にっこり笑って彼の手を握った。
「そういえば…一体何が起ころうとしているのですか?」
 声をやや低く落として柳發が尋ねる。玉鈴ギョクレイの表情に、一瞬だが翳りがさした。
「どうしてそのようなことを」
「以前ここを訪れたときとは、明らかに違う空気が宮城の中に立ち込めているように感じたのです。とくに治安などの乱れがあるわけでもないのに、大路を行き交う人々もどこか不安げで…」
 玉鈴はどう返せば良いか迷ったが、しばしの沈黙のあとで口を開く。
河下かかテン家が動き出そうとしていることを、あなたはまだご存知ではないのですか」
「遠からず再び帝都へ上ろうとするとは思っていました。しかし、二年前もここまで荒れはしなかったのでは」
「ええ、その通りです。以前とは何かと状況が異なっているがゆえに、皆恐れているのでしょう」
 誰にも分け隔てなく接する、若年ながら賢明で仁義を重んじ、統率力のある新たな当主。そして、彼の側近くに在るという天界の貴人の噂は遠く河西にも届いていた。
 柳發は目を伏せ、何か思案しているようだった。と、不意に顔を上げ、
「では、私が行って様子を見てきましょう。もし維領に攻め込む準備があったなら、止めざるを得ないよう…最悪の場合でも先延ばしにするしかなくなるように策をめぐらしてきます。こちらに一切ご迷惑はお掛けしません」
「ですが…」
「私ならば、向こうに顔は割れていません。大丈夫です」
 柳發の決心が固いのを感じて、玉鈴もうなずいた。
「ならば、お行きなさい。けれど、その前に一つ」
「何でしょう」
「情勢がこう不穏になってから、領内に来る者は拒まず…しかし、去る者は追わずというわけにはいかなくなっているのです。あなただけ特別扱いするわけにはいきません。こちらに不利になる情報は一切他所へ流さないという、その証拠をここに残して行ってもらいます」
 この玉鈴の言葉を聞いて、毀棄が声を上げた。
「何故です!?自分の都合とか道楽で出て行くわけじゃないんですよ!?あなたは、柳發さんを信頼していないんですか!?何年もの間、ずっと信じていたんじゃないですか!それなのに…」
「毀棄…」
 だが、非難された玉鈴は毅然と答えた。
「確かに、わたくしは個人として彼を信頼しています。しかしながら、当主としてのわたくしは公平でなくてはなりません。私的な感情は容れられないのですよ」
 尚も不満げに玉鈴を見据える毀棄に、柳發が言う。
「仕方ないことだよ、君が怒りを覚えることじゃない」
 そして、柳發は鍵と二人に預けたのと同じ地図を彼女に差し出す。
「私の邸の場所を記した地図と、邸や書庫の鍵です。合鍵を作るには困難なものですから、これが無ければ、私邸に帰っても入ることは出来ません。半月以内にこちらに戻れないようなら、人を遣って邸ごと処分してくださっても構いません」
「ええっ!駄目だよ、そんな…あれ、全部捨てられちゃうよ!?大事なものなんでしょ?」
 今まで黙っていた洪洵が柳發の腕にすがって止めるが、彼は退かない。
「だからこそ、証として置いて行かなければならないんだ」
「…分かりました。お預かりしましょう」
 玉鈴は、洪洵の慌てようからそれらが本物であると認め、丁重に受け取った。
「それから…彼らはどうして行きますか?」
 訊かれて、柳發が毀棄と洪洵のほうへ顔を向ける。二人は、今度は自分たちに矛先が向けられたのを感じて身体をこわばらせたが、
「どうせ帰らせてももらえないのでしょう?それなら僕も柳發さんと河下へ行きます」
 ここに居たら、この女当主に一発くらい平手打ちを食らわせたく思うに違いない。そう考えて、毀棄は即座に答えた。
「いいですか?柳發さん」
「それなら心強いよ…ありがとう」
哥々コーコが行くなら、ボクも行く!」
 しかし、洪洵が維領を出ることを玉鈴は許さなかった。
「子供が行ってどうこう出来ることではありません。お前はここに残りなさい」
「彼はそこらの子供とは違います!何かの助けになるかもしれないのに、置いて行くなんて僕には出来ません」
「先程も言いましたでしょう、『こちらに不利になる情報は一切他所へ流さないという、その証拠をここに残して行ってもらいます』と。あなたからは、この少年を預かります」
「そんな…」
 しばし、沈黙がその場を支配する。
「…如何いかがいたしますか」
 玉鈴が問うと、洪洵は毀棄を見上げて言った。
「ボクのことは心配しないで…気をつけてね、哥々」
 これ以上の心配をかけまいと不安を隠して笑顔を見せる洪洵。
「必ず半月以内に帰ってくるから、それまでの辛抱だ。…ごめんな」
 彼と目線を合わせるようにかがみ、その肩に手を置いて毀棄は告げる。
「…ううん」
 洪洵は、軽く首を横に振って返した。
 
 日没が迫り、出歩く人の姿も減った頃。宮城の厩舎に預けてあった馬を出させ、国境を抜ける許可証を手にして、人々の使う表の大門と正反対に位置する北方の宮殿裏の門から慌しく旅立って行く二人を、玉鈴と洪洵が見送った。
「はあぁ…。ここまで来てまた牢屋にお世話になるとはなぁ…」
 洪洵がぽつりとつぶやくと、玉鈴は彼に話しかける。
「まだ、彼らが戻るまでのお前の処遇について言い渡していませんでしたね…」
「あ、はい…」
 びくびくしながら、彼女の言葉を待つ。
「彼らが戻るまで、この河西の宮城から出ることを禁じます」
「ええっ?それだけ?」
 予想外の内容に、洪洵は素っ頓狂な声を上げたが、
「その通りです。この宮城の中ならば、自由に歩いて構いません。管尚カンショウの知己でもあるといいましたね…お前が甘侑カンユウの邸で寝泊り出来るよう、取り計らっておきましたよ」
「どうして?言葉悪いけど、ボクって人質でしょ?それに、国境はどうだか知らないけど、この宮城から出るのなんて簡単だよ?」
 すると、玉鈴は少し笑った。
「全くもって、その通りですね…。お前は、自分が試されていると感じているかもしれないけれど、むしろ試されているのはわたくしの方なのでしょう。お前ならば、この宮城だけでなく、国境も越えて出て行ってしまえると思えます。けれど…そうなれば、約束を守って戻ってきても、彼らの立場がまずくなります。わたくしとしても、それは避けたいことです」
 そんな彼女を横から見上げていて、洪洵は自分も毀棄も彼女についてだいぶ思い違いをしているような気になってきた。
「当主様…」
「何でしょう」
「ボクも哥々も、間違った取り方してたと思います…当主様のこと。ごめんなさい」
 意地悪でやっているのではない。柳發のことを…それに、初対面の毀棄のことも、全く信用がおけないからと難題を吹っ掛けたわけではない。信頼できると思えばこそ、心を鬼にしたのだろう…そう考えられるだけのゆとりが、彼の中で生まれてきていた。
「お前が謝ることなんてありませんよ」
 今度は艶やかに笑み、彼女は続ける。
「誰からも恨まれず、憎まれ口も叩かれずに生きていこうと思ったならば、あまり偉くなったり有名になったりしない方が良いのでしょうね」
「…苦労してるんだぁ…。ボクだったら泣いちゃうなぁ」
 ここへきて、ようやく二人揃って笑った。
「もうすぐ日が暮れます。そろそろ甘侑の邸へ向かうがよいでしょう」
「当主様は?」
「わたくしも自分の住まいへ戻ります」
  * *
「確か、この角を曲がって…」
 宮殿を後にし、洪洵が記憶をたどりながら歩いていると、道の向こうで見知った人影がうろうろしているのが目に入った。
「君は…確かソウって呼ばれてた…」
 洪洵が近付いて声をかける。彼よりもはるかに身の丈の低い小さな人影は、彼の手を取ると、
「うちでしょ?こっち、こっち」
 しかし、歩き出してすぐにあくびをして眠そうに目をこすった。それを見て、洪洵は箑を抱き上げ、
「ボク、道は分かるから大丈夫だよ…。ちょっとの間だけど、寝てていいよ」
「ねむくなんかないもん」
 箑はつまらなそうにそっぽを向いたが、洪洵は構わずに歩き出す。つれづれに、幼児の背を軽く叩いて拍子を取りながら、彼が歌う。
 …月の光に 花も草も
  夢を追いつつ こうべを垂れぬ
  声をばひそめ 枝はさやぎぬ
  「眠れ 眠れ 眠れよ 我が子」…
 いつの間にか、箑は彼の腕の中ですやすやと寝息を立てていた。
「強がっちゃって。…でも、可愛いなぁ」
 くす、と彼は笑った。だが、背後から視線を感じ、ぎょっとして振り返る。乳児を抱いた母親が、町屋の戸口の前に立って彼らを見ていた。
「今の子守唄、あなたが歌っていたの?」
「えっ…そうだけど」
 何を言われるのかと思いながら、彼はおずおずと答える。
「とても上手ね」
「はぁ…」
 困りながらも、とりあえず返事だけすると、女性は微笑んで語り出した。
「うちの子、すぐむずかって泣くのよ…。だから、夜も大変。なのに、あの歌が聞こえてきたと思ったら、ぴたっと泣き止んでぐっすり眠っちゃったの。こんなこと初めてなのよ」
「へぇ…」
「あなた、お家はどこ?今この辺りを歩いてるってことは、きっとそんなに遠くないのね。これからも時々聞かせてもらえないかしら」
「はぁ…そういうことなら」
「本当?良かったわ」
 女性はにこにこ笑いながら、一度おじぎをしてから家の中へと入っていった。
  *
 甘侑の邸の前まで来ると、門の前で恵貞が辺りを見回していた。
「箑ならここだよ、お嬢ちゃん」
「あ…」
 眠っている箑が起きないように気を遣いながら、洪洵は恵貞に歩み寄る。
「ごめんね、半月くらいここにお世話になることになっちゃった」
 申し訳なさげに切り出す。しかし、恵貞は全く気を悪くしたような素振そぶりも見せず、
「いいえ、気になさらないで。…わたし、そう〈※十三弦の琴。古くは五弦または十二弦だったという〉をちょっとやってるんですよ。まだあまり上手に弾けないんですけど」
 そう言って、照れたように笑う。
「でも、今日は一生懸命練習したんですよ!伯父様にお話を聞いて、わたしの箏に合わせて歌って欲しいなぁって思ったから…」
「そっか。だから君は、男の子たちみたいに柳發さんや哥々を追っかけてなかったんだ」
 少女はうなずき、顔色をうかがうように彼を見上げる。
 洪洵は笑顔で答えた。
「うん。今日はもう夜だから、明日でいい?」
「やったぁ!」
 手を叩き跳び上がる彼女を前にし微笑む彼のすぐ傍を、秋の夕刻の冷ややかな風が吹き過ぎる。
「…中に入れてくれる?」
「あ、ごめんなさい。もちろんですよ、どうぞ」
 恵貞が先に立ち、邸の内へ入った。
  
 周囲の景色に目を留めたりもせず、ただ前を向いたまま無言で馬を走らせる毀棄に、柳發が馬を横に寄せて話しかける。
「毀棄…」
「僕は怒ってませんよ。柳發さんは悪くないです。そんな済まなそうにするのは止めて下さい」
 そうは言っているが、やはり虫の居所は悪いようなので、柳發も何と言葉をかけてよいものか迷ってしまう。
「必ず半月で戻ってきますよ…いいえ、半月だなんて言いません。あの書庫の鍵は、僕にとっても生命線ですからね。絶対に取り返してみせますよ」
 何か考えがあるようだ。と、毀棄が馬を止める。それにつられる形で、柳發も手綱を引いた。
「鄒頌さん!どうせ、どこかから見ているんでしょう?」
 顔を上げて、声を張り上げる。返事はない。
「鄒頌さん!!」
 突然、二人の目の前で土煙が上がった。
「…ご自分から私を呼びましたね」
「ええ、呼びました。この際、使えるものは全て使います」
 この場に卒然として現れた鄒頌は、彼の言葉と態度とに満足げな笑みを浮かべ、
「やる気ですねぇ。…面白い、協力しましょう。何をすれば良いですかな?」
「通行証は使わなくてはいけませんから、国境までは自分たちで行きます。僕たちより先に河下へ行って、動静を探ってきてください」
「なるほど。それでは伝側の国境そばでは比較的動静の穏やかな臨平りんぺいで落ち合いましょうか」
「そうしましょう。お願いしますよ」
「私を誰だと思っているんです?大船に乗ったつもりで待ってなさいな」
 先程は土遁で現れたのに、今度は風遁でその場から消えた。
「…これで、一つ話は済んだと」
 軽く息をついて、毀棄は呆気にとられている柳發に声をかける。
「さぁ、国境まで急ぎましょう」
「今のは…」
「中庸界の方士様のお一人…知り合いです」
 柳發の脳裏に、橋の嫗―本当の姿は空色の髪の若い女性だが―の言葉が浮かぶ。
「かれは、天界の創草王の後継者にあたる…。天界でもかれに温情をかける者は多く、中庸界にもかれに親しみを持つ者が少なからずある。敵にまわすことだけは誰もが避けたいはず。味方に出来るなら、これほど心強い存在もおるまい」
 毀棄が灰茶の馬の脇腹を蹴り、柳發も続く。二頭の駿馬が二人を乗せ、夜のとばりが下りはじめる中を東へと駆けて行く。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ四 <前> 守御の急先鋒

相対す天界の二貴子

 領を出るとすぐ、海が近付き川幅を増した大河が滔々とうとうと流れている。これは現在の大河の主流であり、更に東にもう一本、古くからの流路が存在する。そのほとりにある町が、臨平りんぺいである。近隣に大きな橋もないせいか要衝とは認識されていないらしく、テン領の町ではあるが河下かかの影響をさほど受けていないようだった。二人がかの地に到着する頃には、五日の夕暮が迫っていた。
「とりあえず、宿を探そうか」
 馬を降りて手綱を引いて歩きながら、気遣って柳發リュウハツは提案するが、
「でも、急を要する切迫した情勢かもしれません。一晩ここで休んでなんていられるか…」
「いえ、大丈夫ですよ」
 毀棄キキの言葉は、突如会話に割り込んだ声に遮られた。
「誰です!?」
「俺です」
 しかし、傍に立つのは町住まいの若い男。
「ああ、こんな格好してるから分かりませんか。鄒頌スウショウです」
 男の顔をしげしげと見つめ、ようやく毀棄はうなずいた。
「街の中であの服装じゃ目立ちますのでね」
「大丈夫って…どういうことですか?鄒頌さん」
「確かに、河下に当主自ら軍を率いて西進の動きはあります。当主本人より、その傍近くに居座っている天界の王女が相当強気な構えなんですが、河西かせいはもとより維領に近付く前に引き返すことになりますよ」
「どうして、そんなことが言えるのです?」
「彼らが河南かなんを目指して動くのを不穏に思う者が、河西以外にも居るということです。雑兵千人…いや、人外の存在でも軽く薙ぎ倒しうる、珍しい者が」
「よく分かりませんけど…ならば、僕たちは戻っても問題ないということですか?」
「はい、そうなります」
「本当ですね?」
「信用してくださいよ。河下に関しては当座…まあ来年までは心配いりません。むしろ、あなたがたが今このとき憂慮すべきは、北方の動きです」
「北方…?しかし、河北かほくと河西とは連携を約し、当主の縁者が大総統の子息に嫁いだと」
 思わず二人の会話に加わった柳發に、鄒頌は笑顔を向けつつ、
「よくご存知ですね、柳發さん。おっしゃる通りです。ですが、俺が言っているのは、もっと北…北胡ほっこの出方ですよ」
「北胡が…?何を目的に」
「河北ではなく、河西…そして、ゆくゆくは河南かなんを狙うのでしょう。間もなく北方の荒くれ騎馬軍団が南下を始めると思われますが、彼らの狙いはあくまで帝都。河北にはかつての事件の負い目もあるからか手出ししないようです。河北の民たちは中原の者達以上に彼らの力を知っていますから、彼らの神経を逆撫でしてまで積極的に河西を助けようとはしませんよ…多分」
 柳發も、突然の差し迫る深刻な状況に黙り込む。
「でも…」
 なおも納得いかない様子の毀棄に、鄒頌が提案する。
「ならば、ご自身のその目で見てきますか?先頃河下を発った伝家軍を」
「どうやって…」
「あなたがそうお望みなら、お連れします。いくらでも」
遁甲とんこうを使うのか…)
 毀棄は柳發へ向き直り、
「僕、行って見て来ます」
 そしてすぐに鄒頌に尋ねる。
「ここで一晩過ごしても問題ないというのは本当ですね?」
「信用ないですなあ。本当ですよ、安心してください」
「なら、柳發さん。どこか宿を決めて休んでてください。すぐ戻りますから」
「え?ああ…気をつけて」
 いまいちこの状況を理解しきれてない様子ながら、とりあえず返事をした彼に、自身がここまで乗ってきた馬の手綱を手渡す。そして毀棄は再び鄒頌へ視線を移して歩み寄り、
「お願いします、鄒頌さん」
「承りました」
 何かを含んだ どこか嫌らしい笑みを浮かべ、鄒頌が右手を高く掲げると、その掌中にいつもの杖が現れる。秋という季節柄、夕日に彩られる町の路地に散った落ち葉が、激しく舞い上がる。
 思わず柳發は腕で目を覆う。静寂が戻ったところで手を下ろすと、そこにもう二人の姿は無かった。
  *
「ご覧ください、天界の貴子殿」
 鄒頌の声で、改めて毀棄は周囲を見回し、眼下へ視線を向ける。
「河下から四、五十里ほど西方の城塞です。今夜はここに泊まるようですね」
 今自身が立っている小高い丘から、彼が指差す砦を見下ろす。
「ざっと五万ほどは居りますかね」
 毀棄はしばらく黙ったまま、夜を迎える準備に忙しい伝家軍の兵士たちを眺めていた。しかし、ふと東の方角を見やって首をかしげた。
「鄒頌さん。あれは何でしょう」
 彼の指し示す先には、橙から紫そして夜の闇色へと染まりゆく空があるばかり…のはずだったが。
「ほう…。あなたにはアレが見えますか」
「はい。黒塗りの椀にでも黒豆がこんもり盛られているような」
「また庶民的な喩えですな」
「すみません」
「あれは『黒きかごの気』…城砦に謀事はかりごとあり、との知らせです」
「では、あそこにも伝家軍の別隊が?」
「いえいえ、あちらは伝家の本拠地…河下の宮城になります」
 これが何を意味するのか つい考えかけたが、それより不安なことは他にあると思い直し、再び目の前の城へ視線を向ける。
「実は、アレが見え隠れするようになったのは、だいぶ前…春の終わりか夏の初めかという頃でして。俺も最初は、伝家の中枢部が秋の出陣に向け深謀遠慮を繰り広げているのかと思っていました。しかし、本隊が出払っても尚残っているのを見て、ようやく別物だと気付いたんですよ」
 その鄒頌の言葉から、毀棄は一つの推論を得た。
(河下の城に残る者が、当主不在の間に造反を企てているとでも…?)
 だが、河下の伝家と自分とは何の縁もゆかりもない。強いて何かを挙げるならば、かつて仕えた掩哀帝エンアイテイを自決へと追いやられた怨みだけだ。早々に思い切り、彼は鄒頌に言う。
「もう少し傍で見たいんですけど」
「何故です?」
「その、あなたの言う『河西以外に居る、彼らが河南を目指して動くのを不穏に思う者』の手を借りずに、僕が何とか出来ればと思って」
 彼の言葉に鄒頌は少し笑い、
「決定力にはならなくとも、嫌な予感を残していくくらいのことは出来ましょう。…よろしい、ついでですから伝家の当主や雷夏王女ライカオウジョつらも拝んでいらっしゃい」
 そう告げると、どこからともなくくしろ〈※うでわ〉を一つ取り出し、彼の手首に通す。
「あなたは今現在、まだ下天の庶民と何ら変わらない御身です。これはお守り代わりと思ってくださいな。万一の際には、俺が避難させて差し上げますので」
 言い終えた途端、いきなり彼を突き飛ばした。
「では、行ってらっしゃい」
 そこにもう地面は無く、不意をつかれた毀棄は自然の法則に従い下へ下へと落ちていくのみであったが、鄒頌が手にしていた杖を振ると同時にその姿は消えた。
  *
 我に返った毀棄は、自身が城砦に植えられた高い木の又に腰掛けていると知る。ほどなく、何者かが近づく気配を感じた。じっと黙り、神経を尖らせて待つ。
「…何奴じゃ!?」
 突然眼前に稲妻が走り、思わず両腕をかざして盾にした。
(うわ、もう見付かったか)
 釧のお陰か、怪我はせずに済んだようだが、全身から冷や汗をかいた。息を潜め、様子を窺い続ける。すると、用心深げに辺りを見回しながら一人の娘が姿を現す。長く伸ばした深紅の髪を結い、豪奢な装束をまとった少女は、野獣のようにその紫の瞳を光らせつつ、彼が身を隠す木へと歩み来る。
「よう、こんなところまで忍び込む輩が居ったものじゃ。どれほどの者か、その面が見てみたいのう」
 小さく笑い、彼女が顔を上げる。
 毀棄は、この少女こそ天界の雷夏王女と悟った。
(見くびられる訳にはいかない…!)
 あくまで毅然と、余裕の表情を作って彼女を見下ろした。鳶色の奥に隠した琥珀、そして紫石しせき〈※紫の水晶〉。二つの視線がぶつかり合う。
 彼の姿を認めた少女は、驚愕に目を見開く。
「鳥、王…?何ゆえ、貴様がここに!?」
 彼女の反応に、毀棄は以前柳擶リュウセンに言われたことを思い返す。
『あなたの兄君は、天界の鳥王様なのです』『どことなくあなたと面ざしも似ておいでです』
(僕を兄上と思い込んでいるのか…)
 彼は腹をくくった。兄の―鳥王のふりをして、彼女に揺さぶりをかけてやるのだ、と。
(兄上…申し訳ありません)
 まだ見ぬ兄に心の内で詫びてから、背筋を伸ばし不遜に笑い、口を開く。
「ごきげんよう、雷夏王女殿。いつまで下天で遊んでおられるおつもりですか」
「貴様には関係あるまい。貴様こそ、何だというのだ。今時分このような場所に、そんな下天の貧民のなりなどして」
「普段通りでは目立ち過ぎますからね」
「ふん。そこまで我が身を貶め、何用でこの世界に現れた?」
「弟が居るのですよ、この下天に。姉上も彼を案じておいでのようなので、様子を見に」
 雷夏王女に何事か尋ねる隙を与えず、更に続ける。
「帝都目指して行軍なさっているらしいが…急ぎ国許へ帰還することをお勧めしますけど」
「何故じゃ?」
「河下の宮城から、『黒き籠の気』が昇っているのが見えます。城砦に謀事ありと告げているしょうですよ」
「謀事だと!?何だ、それは!」
「残念ながら、そこまで申し上げる義理はありません」
(本当は、僕もそれ以上のこと知らないんだけどね…。鄒頌さんに教えてもらって、あの気の意味も分かったくらいだし)
 口許だけで笑う。
「忠告はいたしましたよ」
 言い終えると共に彼が指を鳴らすと、突如として周囲の木々から無数のふくろうが飛び立ち、彼の周囲をめぐり始める。鳥たちが羽音も騒々しく散り去ったあと、その木から彼の姿は消えていた。
「おい、鳥王!どういう意味じゃ!?こら!!」
 彼女がどんなに声を上げようと、もう答えは返らない。
「どうしたんだ、桓娃カンアイ
 回廊の階段を降り、城砦の奥まったところに開けたこの庭へと鎧甲がいこう〈※よろい〉をまとった少年がやって来る。
伝渥テンアク…」
 彼女は振り返り、その名を呼んだ。
「いや、大したことではない」
「ならば構わないけれど…。もう暗いのだし、外を歩くのは良くないと思いますよ」
 促されて、屋根の下へと戻る。しかし、彼女は先程の一件を話すべきか否か迷っていた。
(このたびの行軍は、伝渥が思い続け、準備に準備を重ねてきたもの。亡き兄の志を継ぎ、また、兄の仇を討つための…)
 確証の無いことを口にし、彼を惑わしてはいけない――
 だが、日はとっぷりと暮れ、もはや周囲は夜の闇だ。
(これでは、河下を望むことも出来ぬ。明朝、わたくしも確かめよう。そしてもし、『黒き籠』が見えたなら、その時は…)
 ようやく思い切り、桓娃は半歩ほど前を行く伝家の若き当主・伝渥の腕を取る。
(鳥王の単なる嫌がらせだと…奴の思い過ごしなのだと良いのじゃがの…)
 鎧姿も凛々しく、「さすが、妾が目をつけた男」と惚れ直しながらその傍を寄り添うように歩く彼女は、既に一人の恋する娘に戻っていた。
  *
 一方、毀棄は何事もなかったかのように先程の丘に立ち返っていた。
「ありがとうございました」
「いえいえ、これくらい」
 丁寧にお礼を言われ、鄒頌は釧を受け取りながら余裕の笑みで返す。だが、内心言葉にしがたいほどの動揺の渦中にあった。
(彼が使ったのは、まぎれもなく禽遁きんとん…。だが、手を下したのは俺じゃない)
 方士が呪力を込めた装身具を持つ者は、その方士の力で護られる。しかし、実はそれだけではなく、呪具を介してそれを仕立てた方士の操りうる方術を使うことが出来るのだ。勿論、誰にでも為せるわざではなく、相応の資質を持つ者だけに限られる。つまり――
(そんなこんなの諸々を知らないはずなのに、俺の方術を自ら使った…というわけか)
 つい先日までは、全く凡人と変わらないほどだった。しかし、このところのその覚醒ぶりには驚かされるばかりだ。
 だが、鄒頌はそんな思いを隠し、笑顔のままで提案する。
「さて、戻りますか」
「はい」

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ四 <前> 相対す天界の二貴子

五日月の下で

 鄒頌スウショウ柳發リュウハツの入った宿を探し当て、毀棄キキは早速自身が見聞きしてきたものについて話す。
「ですから、柳發さんは夜が明けたらすぐ河西かせいへ発ってください」
「君はどうするんだ。毀棄」
「僕は残ります。まだ彼らが引き返すのを見届けたわけじゃありませんから」
「なるほど、そういう選択をいたしましたか。なかなか賢明ですな」
 話に割り込む人物へと振り返り、
「鄒頌さん…まだ居たんですか」
 その冷めた口調に、鄒頌が不満げな様子で、
「居ては都合が悪いですか。つれないですなあ、人をアレコレこき使っておきながら」
「いえ、そうじゃありませんけど…何です?」
「明朝急ぎで河西に向かい、この件を奏上して北方の堅守が即決の上 派兵されたとしても、間に合うかどうか…国境侵犯を阻めるかどうかは微妙です」
 河西に残してきた洪洵コウシュン。昔馴染みの司法官・管尚カンショウと、彼の縁者。自分は心を許したわけではないが、柳發と懇意の女当主。彼らの身に危険が及ぶのは、断じて避けたい。それなのに――
 思わず、非難めいた文句が口をついて出る。
「鄒頌さん!一晩ここで休んでも大丈夫って、自分でさっき言ったじゃないですか!!」
「ええ、言いました。あの夕刻の段階で馬も乗り手も相当お疲れのようでしたから。即、引き返したはいいが帰途でズッこけるほうが、町の宿屋で一夜過ごすより結果として時間の損失が大きかろうと考えた次第です」
「そう、でしたか…でも…。じゃあ、僕たちに打つ手は無いのですか?何か、方法は…」
「無い、とは申しませんよ。ですが、それはあなた自身が導き出すことでしょう?」
「はい…」
 用は済んだとばかり一礼して去りかけた鄒頌が、ふと何かを思い出したように振り返って告げる。
「一つ、ご参考までに。この情報を知る者は俺一人ではありません。おそらく彼女も何か働きかけをするはずです。河西は自身が目をかけている者が住まう地ですからね…。それから、いかなる因果かは謎ですが、河北かほくには『伝令』となりうるモノがあるようです。北胡軍南下の報が、時をおかず河西に届くことになるでしょうね。では」
 そう言い残し、彼の姿が忽然と消える。
「彼女…?誰のことですか?伝令って…。鄒頌さん!」
 返事は無い。
「毀棄、今夜はもう休もう」
「はい…。明日は早いんですものね、柳發さんは」
 西へと傾く月を窓から見やりながら言う柳發に、毀棄も渋々ながら うなずいた。
「そうだ。彼らに名前を付けたんだ」
「彼ら…?」
「この先もお世話になるだろうと思ったからね。君が乗ってきた灰茶の馬は晨風シンプウ、私のほうは白兎ハクト…気に入ってもらえたみたいだよ」
「へえ…。はやぶさうさぎですね。どちらも速そうな、いい名前」
 柳發は嬉しげに笑うが、すぐに真顔に戻って首をかしげる。
「天下一の名馬とまではいかないが、彼らも結構な駿馬だ。どういう経緯であんな場所に居たのかが知りたいくらいだ」
「はあ…僕も同感ですね」
「…それはあなたが無意識のうちに呼び寄せたんですよ」
 臨平の上空から、鄒頌は届くはずもない返答を一人つぶやいていた。
  *
 思索にふけっていた柳發も、時が経ち横になり寝入ったようだ。毀棄は、宿の小さな灯の下で地図を広げる。
(伝家軍が近々本当に引き返すのか、今はまだ分からない。でも、北方からの脅威も迫ってきてるという…)
 とりあえず、河西より北東が描かれた地図の右上へ視線を移す。
(この臨平から河西に戻り、北東の国境まで向かっていたら多分間に合わない…)
 どうするのが最善かを考えて一人地図を見つめる。
(ここから直接北東の国境に向かう、か…。でも、国境と言っても、どこに…)
 ふと、河北と河西の中間ほどを流れる川・滂水ぼうすいに目を留め、気付く。
(滂水に架かる、河西への最短経路にあるこの橋…おそらくここに来る。僕一人で、ここへ行く)
 自分一人で何が出来るというのか。相手がどれほどの規模なのかは分からないが、多勢に無勢は明らかだ。それでも自分は賭けてみるのだと、毀棄は決めた。
『姉さんはお前を信じているから。だから、負けないで』
 幼い日に出会った姉・陽炎王カゲロウオウの言葉が、心の中によみがえる。
(ああ、大姐ターチェ〈※ここでは一番上の姉の意〉…僕は負けない、僕は逃げない。大姐が信じてくれたチカラが僕にあるのなら、必ず北胡の騎馬隊を退けることが出来るはずだから)
 明日になったら、彼に話そう――
 傍で眠る柳發に視線を落とし、少し開かれたままだった窓へと歩き、閉めようと手をかける。月明かりに、思わず空を見上げた。
「綺麗な月だ…」
 地上がいかに騒がしくなろうと、太陽も月も星も変わらずに光を投げかけ続ける。毀棄は そっと部屋を後にし、宿の前の路地に出た。改めて月を見上げ、歩き出す。夜が更けゆく頃だけに、出歩く者など誰も居ない。気付けば、町外れの辻まで来ていた。
「…あなたですね、下天に降されたという創草王ソウソウオウのご子息は」
 突然、すぐ傍から声をかけられた。驚いて振り返ると、微かな足音と共に人影が現れる。
「え…。なぜ、僕を?」
 声の主は被るようにまとっていた外套を脱ぎ、顔を見せる。二十歳前後の青年だ。
「鳥王様にお目にかかったことがあるのです。面ざしがどことなく似ておられるので分かりました」
「兄上に…」
 毀棄は驚きつつもひるむことなく、
「あなたは一体何者なのですか?」
薊軻ケイカと申します」
 更に問いかける。
「薊軻さん、兄と会ったとおっしゃいましたね。では、あなたは天界か…中庸界に?」
「いいえ、ずっと下天に居ります」
「でも…」
 何かを感じ取り、いぶかるようにつぶやく彼に、薊軻と名乗った若い男は一言だけ返す。
「特殊な事情を抱えているものですから」
 しばし、沈黙が漂う。
「あなたは、何をしようとしているのですか」
 唐突に尋ねた毀棄に、薊軻は淡々と答える。
「河下から河南へ向かう伝家軍を、帰還させます。しかし、これは河下の為でも…勿論あなたがたの為でもありません」
「では、何の…」
「東の有力氏族である伝家が動けば、現在の各地氏族が睨み合う危うい均衡状態が崩れて大規模な動乱へ繋がるからです。川の流れが血に染まり、山々に悲鳴と怒号がこだまする…それは避けきれぬ、この下天が通らねばならない道なのかもしれません。けれども、出来る限り小さなものに抑え、穏便に済ませたいと願うのです」
 鄒頌が話していた人物が彼であると、毀棄は悟った。
「けれども…おそらくは河下と河西…伝家と維家双方の利になることですよね」
 毀棄の言葉に、彼は微かな笑みを浮かべ、
「そういうことにもなるでしょうか」
「あなたもお気付きなのですか?河下の城砦に謀事があるようだと」
 ほんの少しだけ首を縦に振り、彼は『その通り』と返した。
 薊軻は西の空低く沈みかける五日月に目をやり、
「では、私はこれで」
「待ってください。もっと聞きたいことが…」
 恭しく一礼し歩きだす彼の背に、慌てて引き留めるかのように毀棄が言うが、
「申し訳ありません、預けている者を迎えに行かねばなりませんので。あなたも、お休みになられたほうがよろしいでしょう」
 振り返らずに告げると、彼は町を取り囲む塀を出入りの為にくり抜き造られた門へと歩み去っていく。夜ということもあり堅く閉ざされていた門扉が、彼を待ちかねていたかのように静かに開き、やがて音も無く閉められた。 あとに残されたのは毀棄一人。ため息をつき、宿へと急ぎ足で引き返していくほかなかった。
 しかし、彼と実際に会い、話をすることで毀棄の腹は決まった。
(伝家軍のことは、彼を…薊軻さんを信じて、僕は滂水に向かう。柳發さんには黙っておこう)
  * *
「間に合って良かった。申し訳ありません、太陰君タイインクン
 美しい女性が草原に座り、幼児に膝を貸して眠らせている。薊軻は彼女に歩み寄ると、その傍に腰を下ろす。
「いいえ、平気ですよ。私こそ、月が沈むまでしか引き受けられなくて済まなく思います」
委順イジュンは…?」
 太陰君と呼ばれた女性は、眠る幼児に視線を落とし、
「見ての通り、よく眠っていました」
「そうでしたか。なら良かった」
 起こさないように気遣いつつ、薊軻は幼女をそっと抱き上げる。
「ただ…」
「いかがされました?」
「時折、うわごとのように爸々パーパ〈※お父さん〉や媽々マーマ〈※お母さん〉と口にするのが不憫で…」
 彼の腕の中で変わらず寝息を立てる幼女を見つめ、太陰君が言う。
 生まれて間もなく親許から離され、下天に降された子。両親を知らぬままの、憐れな娘だ。顔も知らない本当の両親の夢でも見ていたのだろうかと思うと、ますます切ない。
「ですが、あなたがこの子に実の父のように…いえ、それ以上の愛情を注いでくれていますから。ありがたい限りです」
 月がはるか西の峰々に没すると共に、彼女の姿も霧が去るがごとくに消える。
 自分がこの娘の為に出来ることは何なのだろう――
 薊軻は委順を抱いたまま立ち上がり、人のみならず禽獣の影もない草原を歩きだした。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ四 <前> 五日月の下で

火焔の伝令

 柳發リュウハツ、次いで毀棄キキ臨平りんぺいを発ったその日、河北かほくの城砦は北胡ほっこの騎馬隊に包囲されていた。
 彼らの言い分は、こうだった。
「あなたがたには借りがある。ここに留まり、我らが南下するのを見過ごしていただければ、あなたがたには何の危害も加える気はない」
  *
「…しかし、これでは何も出来ないというのが正直なところだ」
 城壁の物見やぐらから周囲の草原に展開する北胡の騎馬隊を見やり、河北の施政を担う議士の一人である周恒シュウコウが言う。
「はい…。彼らの目指す先にある帝都の前には、領が…。河西かせいに危急の使者をすら送ることが出来ません」
 彼の傍近くに立つ青年が、悔しげに答える。
「ですが、この城内に留まり沈黙を守ることで、我らの…この河北の安全が保証されるのであれば、やむを得ないかと」
「お前には辛いな、この状況は…」
「はい…」
 この青年・燕律エンリツは、議士たちの長たる大総統・燕享エンキョウの子息。昨年の春に河西から維家当主の縁者である娘を妻に迎えた。いわば政略結婚ではあるが夫婦仲は非常に良く、周囲の目にも好ましいものと映っていた。
  *
 日が落ち、自邸に帰宅した燕律は、妻・珠簾シュレンに苦しい胸の内を語った。
「すまない、珠簾。私にはどうすることも出来ない」
 新たな北胡の王は、先代のように矢文一つで千の将兵を貸せなどと言うような男ではなかった。使者を寄越し、丁重に不干渉を貫いてくれるよう申し入れてきたのである。しかも、かれこれ百年も前の『事件』―自身の祖先が招いた誤解の為に河北の者たちが命を捨てた、無惨な事件の罪滅ぼしをしたいと言い、「今後は是非友好的にお付き合いいただきたい」と強健な馬やふさふさの毛をたくわえた羊を何十頭も置いて行った。
「燕律様…どうかご自身を責めないで。わたしも分かっていますから」
 自らの郷里が危機に立たされているのを感じながらも夫を気遣うそのさまが、燕律には痛々しくてならない。普段なら明け暮れ眺めていてもとさえ思う愛妻の前から、逃げるように自室へと去っていく。
  
 翌朝。城砦の周辺で野営し一夜を過ごした北胡軍が動き出す。日が昇るとあっという間に荷をまとめ、数百の騎兵だけを残し、次々と西南へと向かっていった。
 それを伝え聞き、珠簾は意を決して一つの薄い平箱を手に取り、静かに開く。
義兄上あにうえ…」
  *
 さかのぼること、およそ一年と半ほど前。輿入れの準備に追われる中、彼女は姉の夫・華弼カヒツに呼ばれた。
「珠簾。お前は、この世界には三界…今私たちの暮らす下天のほかに、中庸界、天界とがあるということを信じるだろうか。おそらくは笑うのだろうね、『物語の中のお話ではありますまいに』と」
 以前から、義兄がそういう不可思議な事象を絵空事と切り捨てられない性質たちなのは知っていた。だが…
「はい、申し訳ありませんが…」
 彼女が正直に答えると、華弼は微笑み、
「私がその存在を信じるのには理由があるのだ。私の祖父のそのまた祖父くらいになるかという人が、かつて中庸界に赴き、そこで修行と勉学に幾年か過ごし…結局一人前の方士となることは叶わず下天に戻ってきたのだが、この焔報紙えんぽうしを持ち出す許可を得たのだという」
「焔報紙…?」
 彼が手にしているのは、両手のひらを広げた上に載せて多少はみ出すほどの大きさの紙片。縁にはぐるりと何か記号のようなものが書き込まれている。
「炭で伝えたいことを書き、届けたい先をり念じつつ火をける…。これの御蔭で、この国で内乱があった当時の私の先祖は命拾いしたこともあったそうだ」
 やはり疑わしげな彼女を見やり、
「そんな昔のことでは信じられないだろう。だが、私自身この目で見たものだからね」
「えっ…?」
「昨年の秋だ。河南かなんの姉から、『これ』によって帝都での事件を知らされた。エイ王朝を滅ぼしたテン家の当主が家臣に倒され、その臣たちも覇権をかけ相争い、帝都が荒廃したという…その一件を、私は姉から伝え聞いたんだ」
「そ…そうだったのですか…」
 帝都・河南での動乱から遅れること数日、河西にもその報が届き、皆が揃って驚く中で義兄だけは顔色一つ変えないのが不思議だった。珠簾は、このとき初めてその理由を知った。
 彼の姉・蒿矢コウシは河南で助産婦も兼ねる女医として働いていたが、同じく医師である夫の許凌キョリョウと共に南方へ逃れ、許凌の郷里でもある宛江えんこうに向かったという。今も、おそらくは南の大江へと続く支流・子江水しこうすいの源にほど近い宛江に留まっているのだろう。
「だから、お守り代わりに これを持って行きなさい」
 華弼は一枚を別の平箱に入れ、手渡す。
「間違っても、夫君と喧嘩したなどということを書き送ってこないように」
 冗談めかした義兄の言葉に、珠簾は笑って返した。
「そんなことしません!」
  *
(今は、これに頼るしかない…)
 半信半疑のままながら、珠簾は炭を折り削って尖らせると、息もつかず危急の知らせを書き綴る。
「義兄上、姉上…当主様、皆様…」
 祈るような思いで、紙の端に火をともす。
「河西の宮城の当主様の…皆様の許に届いて、どうか…!」
 そして きつく目を閉じ、懐かしい故郷を強く心に想った。
 
 一方、晩秋七日の朝を迎えた河西の政庁。
「どうするのが最善の道なのでしょうか」
 政務の間に集まった信任厚き臣たちを前に、誰にともなく独り言のように女当主が問う。
「いつでも派兵できるよう、軍は整えてあります。そちらは心配無用です」
 この河西の維家に仕える武官の長を務める馬宗バソウが言うと、文官の一人・甘侑カンユウは控えめに反論する。
「しかし、無益な兵乱は我らも得るところが何も無い…。先方が事を構える意思を持たぬのなら、こちらから余計な手出しをするのは賢明とは言いがたい」
「それが分からないから困ってるんだろうが」
 その場に居合わせた全員が黙り込む。
 と、突然石畳の床から炎が上がる。
「な、何だ!?」
 皆、驚愕に目を見開く。
「落ち着いて下さい、馬宗どの」
 慌てふためく馬宗を制したのは、華弼だった。
「落ち着けって…これを見て落ち着いていられるか!」
「大丈夫です、これは我々が普段目にする火炎とは別のもの。決して火事にはなりません。ほどなく消えます」
 彼の言葉通り、炎は床の上を素早く何か描くかのように駆け巡っていたが、やがて掻き消えてしまった。
 それを見届け、一同が石畳に視線を落とす。先程の炎が残したらしい灰が、文字の形に敷かれていた。
「『一万近い北胡の騎馬兵が、帝都に向け南下しております。この河北は彼らの別隊に取り囲まれ、挟撃の兵を出すことも、危急を告げる使者をそちらに送ることすら叶いません。どうか、お急ぎ国境の防備を』…。これは一体…!?」
「珠簾…」
 華弼は、ぽつりと小声でつぶやいたあと、政務の間に在る全員に向けて告げる。
「珠簾から我々に向けた嘆願です。まさか、私もこのような形で使われるとは思わなかったのですが…」
「どういうことですか?華弼」
 当主に問われ、
「私が、中庸界で修行をしたという遠い先祖から受け継いだ紙片を彼女に持たせたのです。距離を隔てた者に火急の用件を伝えることが出来るという、その道具を」
「中庸、界…?お前、そういうの信じやすいタチだとは思ってたが」
「これを見て、まだ絵空事と言いますか?甘侑どのは。この字は間違いなく彼女の…珠簾の筆跡ですよ」
 馬宗は眉をひそめ、
「だが、これが事実としたなら…俺たちはどうする?北東と南東、二隊に分けて出すしか無いのか?だとしたら、河下と北胡、どっちも兵力等の情報が少なすぎて何とも言えんが、現状 数の上でこちらが不利になる可能性が高い」
「二兎を追う者は一兎をも得ず、と言う。我らにとって最善の選択とは一体…」
 文官の一人・管尚カンショウが、そう口にしたとき。
「北胡の侵攻を食い止めるため、急ぎ北方への出陣の準備をして下さい」
 突如割って入った声が、せわしく告げた。
「發」
 臣たちに一礼し、一人の青年が当主の前へと進み出る。
「お前、何者だ!?」
 馬宗は反射的に背後の壁に立てかけていたげきに手を伸ばし、尋ねる。この間には部外者が立ち入ることは出来ないはずだからだ。しかし、彼を知る管尚は馬宗を止めるべく、
「お待ちください、馬宗殿。この者は…」
「私は柳發。伝家軍の動向に関する情報を得てまいりました」
 自ら名乗った彼の後に、当主・玉鈴ギョクレイが続けて、
「わたくしが、彼に依頼したのです。この河西に戻り来たなら、すぐにわたくしの許へ赴き伝えてくれるようにと」
「本当か?して、奴らは…?」
「ほどなく本拠地の河下へと帰還の見込みです」
「それは確かなのだろうな?若いの」
 馬宗に訊かれ、
「はい。但し、私自身彼らが引き返すのをこの目で見た訳ではありません。念のため毀棄が臨平に残ってくれています」
「維領との境にも近い、伝領の町…そこに毀棄一人を?」
 玉鈴の言葉にうなずいて返し、
「はい、彼が自分から『ここに残って見届けますから』と言ってくれたので」
「あんな気の優しい若者一人置いてきたとは。貴公、何を考えておられる?」
 思わず批難を含んだ口調で問いかける管尚にも、柳發は表情を変えずに、
「彼は、あなたが想像している以上にしたたかです。自分が大切に思うものを守る為なら、どんな手だって使います。それに、我が身を案じてくれる者達を悲しませるようなことは決してしない…。必ず無事戻ってきてくれます。私は心配していません」
「だが…」
「それは本当なのですね?發」
「ええ、相違ありません」
 玉鈴は目を伏せ思案していたが、すぐに顔を上げ、
「ならば、珠簾を信じて北方…滂水へ向かい、至急いま可能な数の兵馬を率いて発ってください。馬宗」
「え?…はい、承知いたしました。では」
 初めこそ戸惑ったものの、たちまち武将の目となり退出しかけた馬宗は、政務の間に近付いてくる騒々しい足音に気付く。
「ああ、居た!宗兄、大変だ!」
 飛び込んできたのは、二十歳過ぎほどの一人の青年だ。
「何だ!?やかましいな。ここがどこだか…今の情勢が分かってるか?お前」
「分からない訳じゃないけどさ。だから大変なんだって。翻羽ホンパが乗り逃げされたんだよ!」
「なんだと!?」
 翻羽は、この河西一の駿馬である。それが乗り逃げされたというのは……
「本当なのか?馬陽バヨウ
 話に加わった甘侑に、馬宗の末弟・馬陽が答える。
「はい、本当なんです!オレがちょっと厩舎から目を離した隙に、どこぞのチビが…。追いかけてはみたけど、到底ムリでした」
 彼に続いて、今度はひどく取り乱した様子で当主の身の回りを引き受けている女性・謹悌キンテイが現れる。
「お嬢様…申し訳ありません、このような時に。ですが、お耳に入れなければならないことが…」
 椅子から立ち上がり歩み寄る当主に、彼女が何か小声で伝える。
「何ですって!?」
「本当にお詫びのしようもございません。婢子わたしどもが付いていながら…」
 悔しげに涙を堪えている彼女に、玉鈴は優しく言葉をかける。
「いいえ。わたくしこそ、あなたたちに甘えてしまっていました。わたくしの責任です」
 そんな二人のやりとりを眺めていた馬陽が、思い出したように声を上げた。
「そうだ、あのチビ…あんたがたのところの一番ちっさいチビだ、間違いない!オレが厩舎に置いといた戟まで持って行っちまったんだぞ。どうしてくれんだよ?甘侑さんに謹悌さん!」
 彼の言葉に、玉鈴が驚いて尋ねる。
「馬陽。その子は翻羽を駆り、どちらへ向かったのですか」
「え?ええと…ここの宮城の北、玄武門から出て一目散に鉤郷こうごうのほうに…。オレは結局追いつけなくて、手前で引き返してきたんですけど」
「鉤郷…ここから見て、北東…」
 思いつめたように一言つぶやき、玉鈴は顔を上げて居並ぶ臣たちに告げる。
「馬宗、わたくしも行きます。馬陽、あなたはここに残る兄たちに協力を仰ぎ、この河西の防衛の為…そして万一のための第二陣派遣を見越し、更に兵を召集し組織しなさい。甘侑、華弼、管尚。あなたたちはここに残り、わたくし不在の間のまつりごとの代行を。あなたたちだけで判断しかねることがあれば、ケイおじい様に相談しなさい」
 すぐさま一歩進み出て、華弼が申し出る。
「お言葉ですが、当主様。武官のみでは…将軍と兵士ばかりでは幕営ばくえい〈※幕を張って作った陣営。将軍の本陣〉は上手いこと機能いたしません。私もご同行つかまつります」
「なら、そう願います」
 彼の夫人や義妹への思いを汲み、その申し出を玉鈴が了承する。
「皆、頼みましたよ」
 彼女の一言で、政務の間に居た者達が慌しく動き出す。
 飛び出すように間を後にした玉鈴を追おうとした謹悌に、馬陽が声を落として話しかける。
「謹悌さん、今の今までよく隠し通したもんだね」
「何のことです?」
「事情は知らんけど…あのおチビさんは、あんたがたとこの子供じゃなくて当主様のお子様なんだろう?」
「突然なんてことを言うの、お前は」
「図星なんだろ?顔にそう書いてあるよ」
 きまり悪げに押し黙る彼女に、馬陽が続けて、
「あんときの当主様の目は、姿が見えなくなった我が子を捜して首をめぐらす母馬とおんなじだった。だからオレにも分かったんだ」
 謹悌は周囲に他に誰も居ないのを確認してから、
「その通りよ。でも、お前は本当に口を開けば馬の話なのね」
「まあね。オレにしてみれば褒め言葉だけどさ」
 我に返ったように、彼女が手を叩く。
「…いけない、こんな場合じゃないのよ。お前も、急いで仰せつかったことに掛かりなさい」
 駆け出す馬陽の背を見送ると、謹悌も早足で当主の住まいへと向かう。
 いつか他氏族と刃を交えてでも自らの領土と臣民とを守らねばならない時が訪れる。その時には自分も戦地に赴き、将兵たちと労苦を共にしたい――
 そう言って玉鈴が鎧甲がいこうを用意させたのは、長男・ソウがまだ胎内に在った頃だ。武家の生まれでもなく、平穏な時代に育った謹悌は、もちろん鎧を着付けるなどといった知識も経験も持たなかった。だが主人がそう決意した以上、武骨な男たちのその手で大切な女主人に触れられたくない思いから、彼女もまた「せめて、この河西を発つ時は婢子わたしが」と、密かな準備をしてきたのだ。しかし……
(こんなに早く、お嬢様があれを御身にまとうことになるとは…)
 大きく動き出した運命の歯車を怨みながら、歩を進めるのみだった。
  *
「玉鈴」
 廊を急ぎ足で自室へと戻るところを、柳發に呼び止められて振り返る。
「私は…どうすれば良い?」
「そうでした、申し訳ありません。あなたに関して、まだ何も…」
 玉鈴は一つ息をついてから、
「まずは、洪洵が心配しているでしょうから、会ってあなたから毀棄のことを伝えてあげなさい。甘侑の邸に居るはずです」
「次には…?」
「ごめんなさい、考えが及ばないの…。わたくしこそ、どうすれば良いの」
 普段では決して見せぬほど動揺している彼女に、柳發が穏やかな語調で問う。
「気がかりなのだね。この河西一の名馬にまたがり、戟を手にして北東へ走り去ったという箑のことが」
 その言葉に、彼女は目を怒らせる。
「当然でしょう?この世界にただ一人の我が子なのですもの」
 何年も離れていた父親たるあなたには分かるまい――
 つい幾年もの心細さからなじるような口調になってしまい、はっとした玉鈴であったが、柳發は慎ましく受け止めた様子で告げる。
「それは私にとっても同じこと。ならば、私も共に行こう」
 そこに、彼女を追ってきた謹悌がやって来る。
「洪洵に事情を話したら、すぐに戻ります」
 謹悌にどこの誰に頼めば甲冑を貸してもらえるかを尋ね、軽く頭を下げると彼は慌ただしく立ち去っていく。
  
「…懐かしいものを見たな」
 河西の上空から、白黒の獣に乗った青年がつぶやく。
「あいつの子孫が、アレをまだ大事に持っててくれてたとは…」
 百と数十年昔のこと。この中庸界の方士・甲喜コウキの下で方術を学んでいた一人の青年が居た。しかし、彼は父母が体調を崩して倒れると、両親を捨て置けぬと修業も中途で下天へ慌てて立ち返り、そのまま下天で亡くなったのだった。彼がもう戻り来ることはないと思った甲喜は、これまでの彼の努力の証と思い出の品との意味を兼ねて、焔報紙を数枚手渡したのだった。
華弘カコウ…)
 根っからの人の良さそうな青年に笑顔で「師傅シフ〈※師匠、おやかた〉」と呼ばれていた頃を懐かしく思い返した方士は、やがて自身の乗る獣・晧黔コウケンの向きを変えさせ、北方へと飛び去った。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ四 <前> 火焔の伝令

黒き亀蛇、起《た》つ

※註
・亀蛇〈きだ〉:
 東西南北の方位の守護神・四神のうち、北方の玄武〈げんぶ〉の別称。玄武は、脚の長い亀に蛇が巻き付いた形、あるいは尾が蛇の亀として描かれることが多いという。

 柳發リュウハツ甘侑カンユウの邸を訪ねると、その姿を見付けて洪洵コウシュンが駆け寄ってきた。
「柳發さん!哥々コーコは…?」
「大丈夫。毀棄キキもあと数日で戻るはずだから」
「え?一緒じゃなかったの?」
「ああ。すまない、洪洵。もうしばらく、ここに居てもらえるだろうか。彼が…そして私が再び戻り来るまでは」
「再び、って…どこか行くの?また」
 彼はうなずき、
北胡ほっこ軍がここへ向け進軍している。北東への派兵に、私も同行することにした」
「北東…北胡?」
「そうだ。申し訳ないが、待てるかな」
「ボクが待つのは構わないけど…何が起きてるの?哥々も、柳發さんも…。イヤだよ、ボク…」
「心配いらない、私も彼も必ず帰ってくるのだから。冬が来る前に西岳せいがくに戻って、あの蔵を片付けなくてはね」
「うん…だけど…」
 なおも思い惑う少年の肩に手を置き、柳發は諭すように言う。
「いいかい、洪洵。君もしっかりしなくては。じきに、この宮城の人々の許にも東や北東の軍の動きが流れる。音楽には、人を心穏やかにさせる不思議な力がある。あんなに上手に歌える君ならば、皆の不安な思いを和らげることだって出来るだろう。この河西かせいを頼んだよ」
「…はい」
 ほっとしたように微かに笑むと、背を向けて慌ただしく去って行く。洪洵はただ胸の前で手を合わせ、彼らの無事を祈りつつ見送った。
  *
 出陣への最終調整を進める馬宗バソウを見付け、甲冑姿の維繋イケイが声をかけた。
「おお、とうとうだな!わしもまだまだ若いもんには負けないということを見せてやるぞ」
 豪気そのものの口調で言いながら腕を回す老人に、馬宗は申し訳なさげに述べる。
「いえ。維繋様は、この河西に」
 途端に維繋は顔をしかめ、
「何だと、儂を置いて行くのか!?」
「俺に怒鳴られても困ります。当主様がお決めになったことですので」
「玉鈴が?何故だ」
「俺にも全ては分かりかねますが…当主様自ら出陣なさり、ここを留守にされると…。で、甘侑と管尚殿がその間の政務代行を仰せつかったのですが、『あなたたちだけで判断しかねることがあれば、繋おじい様に相談しなさい』とのことでした」
「う、うむ…。だがしかし、玉鈴の命令と言えど儂は生来の武士。同胞が戦地に向かっているのに、この宮城で安穏としてなどおれんわ」
「そんなこと、俺に言われても困りますって」
「分かっている!玉鈴に直接話してくる」
 それだけ告げると、足音も勇ましく去って行く。
  *
 将兵が集まる宮城北部の広場。当主に詰め寄り、維繋が訊く。
「玉鈴!何故、儂を置いて行くのだ!お前は分かっておるだろう?儂が何を思うのか」
「はい、ですが…」
 しかし、彼女は渋る。
「それで本人のお気が済むのであれば、同行していただいて構わないでしょう」
 二人は、突然話に加わった若き将校へ目をやる。
「發、それはどういうことですか」
「予想としては四、五日…長くとも十日あれば帰還できると思います。それくらいの間なら、甘侑殿と管尚殿のお二人が居られれば政務は問題ないでしょうから」
「なぜ、そのようなことが?」
「この維家軍の召集された、河西の宮城の上に黄色くまる雲気うんき…『天祐てんゆう』があります。文字通り『天のたすけ』―諸神の加護が得られる、吉の気です。最終的な結論は北胡の陣営も見てみなければ何とも言えませんが、おそらくはこちら優位かと」
 維繋も玉鈴も、腑に落ちない様子で首をかしげる。そんな二人に、青年が続けて、
「これは敵味方の陣からのぼる雲気―軍気ぐんきを見ることで、敵の動きを知り、倒す術…おそらくは古い呪術が兵道として取り込まれたものです。『戦というものは天道鬼神てんどうきじん祥禍しょうかしるし』、勝つためには律気すなわち時の気に逆らってはいけない…。天文を まじないに見立て、災いを避け戦争に勝利しようというのが、この兵術です」
 空を見上げ、維繋がつぶやく。
「儂には何も見えんが。ただ、青い空があるばかりぞ」
「誰にでも見えるものではありません。大騒ぎになるでしょう?」
「なら、何故お前には…」
 言いかけて、ふと気付く。
「初めて見る顔だな。何者だ」
「夫です、わたくしの」
 青年ではなく、玉鈴が先に説明した。
「…夫?初めて聞いたぞ」
「はい。今、こうして初めてお話ししています」
 突然の告白に維繋は一驚を喫したが、すぐに気を取り直して問い返す。
「玉鈴!何故そういうことを儂に黙っているのだ!!」
「いえ…色々ありまして、お話しする機会が。これに関しては、また後程ゆっくりと」
 不服ではあったが、のんびり会話している状況でもないので、ここは退くことにした。
「とりあえず、名前だけは聞いておこうか」
「申し訳ありません、ご挨拶が遅れました。柳發と申します」
 そこへ、急ぎ足で馬宗が駆け寄ってくる。
「全て、完了しました」
 玉鈴はうなずくと采配を掲げ、
「維領北辺ほくへん〈※北の地方、北の果て、北方の国境〉の更に先、水際で北胡軍を食い止める。滂水ぼうすいへ向け、進軍を開始せよ!」
 ごん〈うしとら、北東〉へと紫色のふさ〈=房〉の采配が振り下ろされるや、北の玄武門へと千五百騎が次々と広場を風のごとく駆け出す。既に、太陽が南の空高くに昇ろうとしていた。
 
 これと時をほぼ同じくして、単騎鉤郷こうごうへと続く街道を駆ける者があった。手綱を掴む小さな手を黒馬の首筋にやり、四、五歳ほどの幼子が叫ぶ。
「おねがい、いそいで!」
 彼らこそ、朝に河西を飛び出した名馬・翻羽と当主の子・ソウ。幼い少年は、とある娘子じょうし〈※少女、婦人〉の導きにより、今ただ無心に北東の地を目指していた。
  *
「あのときの、おねえちゃん?」
 朝日の中、邸の前で伸びをしたところへ卒然に現れた若い女性を見上げ、箑がつぶやく。
「ついておいでなさい」
 差し出された手を取り、尋ねる。
「こんどは、なに?爹々ティエティエ〈※お父さん〉が帰ってくるの?」
「確かに、彼はもうじき戻り来ます。けれど、今わたくしが伝えねばならないのは、この河西…維領に攻め込もうとしている者が居るという事」
「え…?東からくる人たち?」
「いいえ、北です」
 彼女は更に続けて、
「今はまだ、わたくしからはあなた一人にしか明かせぬことなのです。滂水で防ぐことが出来たなら、引き返すはず。そこに一つだけ架かる石の大橋を、維家軍の本隊が派兵され到着するまで決して彼らを通させぬこと。必ず蹴散らしてみせるのですよ」
「ぼく、が…?」
「ええ、あなたなら出来ます」
 手を引かれて歩き、たどり着いた先は河西の政庁内の厩舎だった。皆取り込み中なのだろうか、周囲には誰も居ない。内に入ると彼女は厩舎の一頭の手綱を柱から解き、その駿馬の鼻面を優しく撫でながら語りかける。
「お前は駿足であるのみならず賢く勇敢な、この河西一の名馬…。この子を…この地を守って。翻羽ホンパ
 つぶらな瞳で彼女を見つめていた黒毛の駿馬が、「承知した」と答えるかのように首を下げる。
 厩舎を出、北東の滂水へと向け走り出す彼らを見送る娘子が、ぽつりと告げた。
「箑…あなたになら出来るはず。あなたは、わたくしと赤性王セキセイオウさまとが渡した橋の下に生まれた、わたくしたちの愛し子なのだから…」
  *
 少年は、眼前に人里が在るのを認める。だが、そのまま横を過ぎ、はるか北方の川とそこに架かる石橋へと駆け続ける。日は次第に西へと傾きだしていた。
 
 河西から滂水まで、一日では至らない。維家軍は、日没と前後するかのように達した村・鉤郷で先遣隊と合流し、ここで夜を過ごして翌朝ふたたび北東へと向かうことにした。
「發」
 玉鈴に呼びかけられ、村の道脇の石に座っていた柳發が顔を上げる。
「あなたは私を『柳發』とは呼ばないのですね」
リュウエイイン、さらにその前…この地上に初めて『王朝』なるものを興した者の末裔なのですよね、あなたは」
「その通りです」
「もとより、名君の子孫が末代まで名君であるはずなどありません。何もあなたが恥じることなどありませんでしょうに」
「それでは答えになっていません。何故全てを承知の上で、なおも私を名だけで呼ぶのか」
 玉鈴は彼に微笑みかけながら、
「あなたを家族と思っているから」
「家族…」
「ええ。ですから、繋おじい様にもそう申し上げました。『わたくしの夫です』と」
 そして彼の傍に腰を下ろす。
「發…ひとつ尋ねてもいいですか」
 彼も座り直して訊き返す。
「何でしょう」
「先程の『軍気』のことです。それは、何か鍛練をすれば見えるようになるものですか?」
「さあ、どうでしょう。でも、なぜそのような」
「この先、他の氏族との間に戦を避けられないのであれば、わたくしもその兵道を知っておきたいのです。河西を…維領を、そこに住まい生きる者達を守るためにも」
 思いつめたような表情の彼女の肩にそっと手を置き、柳發は答える。
「そんなことは私に任せておけばいい。あなたは、あなたにしか出来ないことに全神経を傾けなさい」
「發…」
「何もかも自身の目で確かめ、その手で為さねば不安だとでも言うのか。もっと周囲の者を頼って良いんだ、玉鈴」
 黙り込み顔を伏せる彼女に、更に続ける。
「戦乱となれば維繋様や馬宗殿ら武将たちが剣戟となり盾となり、甘侑殿や管尚殿ら文官は算盤となり書巻となる。そして私も…。あなたは、彼らが…臣民が惑い迷うてもその下へ集えるように立ち続ける旌旗せいき〈※旗の総称〉であればいい」
「…それは、わたくしが女だから?」
「分からないのか、旗幟きし〈※旗とのぼり。旗印〉がどれほどの役割を担うのか。道標を失い、あてもなく暗闇を彷徨さまよう者たちの心の内が」
「ですが、あなたとて『玉璽ぎょくじの子』。一氏族の家臣で終わるなど…」
「終わるつもりなど無いよ」
 玉鈴が、はっと息を呑む。
「これより続く天下の覇をかけた抗争は熾烈を極め、各地の勢力の潰し合いになるのは間違いない。過去何百年も歴史に綴られてきた幾つもの氏族の名さえ消してしまうだろう…ただ一つ、次なる王朝を興す家を残して。そのような展望の中、何物にも代えがたい妻子を見殺しには出来ないものでね…私には」
「あなた…」
「あなたも、箑も。もしここで失ってしまったなら、あなたがたを超える妻と子には二度と巡り会えない。得ることも叶わない。だから私も覚悟を決めた…山中で書物に埋もれ暮らしている場合ではないと」
「では…維家に、次なる王朝を興す者となれ、と?」
「そうなれば、私は国母こくも〈※皇太后つまり皇帝の母親のこと〉ならぬ国父くらいは望めるし…。あなたの『維領の臣民を守る』という願いも叶う」
「あなたはそれが可能だと読んでいるの?」
「勿論だ。最善なのは、国力を疲弊させる戦争などしないこと。続くのは…勝ち目のない戦争をしないこと。もとより、勝算の無い賭けになど私は最初から出やしない」
「なるほど。では、互いの利害は一致したとして良いのですか?」
 射抜くような鋭い視線を彼に向けながら、玉鈴が問う。
「怖い顔をされるんだね…当然かな」
 ひとりごとのようにつぶやいて苦笑し、柳發は続ける。
「確かに、そう。けれども、あなたはあのとき維繋様に躊躇ためらうことなく私を『夫』と紹介してくれた…。歴史に名を残すという欲が無いと言えば嘘だが、それよりも最後まで守り抜きたいと願うのは、今もなおあの日と変わらず私に思いをかけてくれるあなたや、今まで打ち捨てられていたのに出会ってすぐ『爹々ティエティエ』と呼び懐いてくれた箑…そして、初めて訪れた時に心惹かれた河西の地。これは信じてほしい」
「箑…」
 子息の名が出て、再び玉鈴の表情に翳りがさす。柳發は夜空を仰ぎながら、笑顔で答える。
「大丈夫だよ」
「どうして?」
「『天祐の気』が、今なお、この空に…我々について来ている。きっと、天が…諸尊が、私たちがたどり着くまで、あの子を護ってくれる。だから今夜は休んで、また明日滂水へ急ごう」
 言い終えて腰を上げ、彼女へと手を差し伸べる。
「…ええ」
 玉鈴はその手を取って握り締め、我が子の無事を願いながら立ち上がった。

 同じ頃、北東へと駆け通して何もない草原で夜を迎えた箑と翻羽の前に長兵ちょうへい〈※長柄の武器〉を手にした影が現れる。影は彼らを止めるようにそれを横に構え、水平に掲げた。翻羽が気付いて立ち止まる。
 天頂から西へと傾いた、半円なる七夜月の明かりに照らされて立つのは、凛としたその姿も艶やかな若い女性だった。
「疲れているでしょう。私がここに在る間だけでも休んで行きなさい」
 彼女は手にしていた偃月刀えんげつとう〈※補注後掲〉をぐるりと背後に回して腰を下ろし、刀を置く。再び立ち上がると、何処から取り出したのか小さな水瓶を傾けて地面に注ぐ。ほんの少量の水が、見る間に清水をたたえた大きな池となった。翻羽は池の傍に歩み寄り、ありがたいとばかりに喉を鳴らして水を飲む。女性は戸惑う箑を黒馬の背から降ろし、その鞍にこっそりと結わえられていた小さな巾着を取って開く。
「きっとケイが持たせてくれたのですね」
 微笑む彼女に、箑は首をかしげて問いかける。
「あなた…だれ?でも、はじめてじゃない…」
 彼女は嬉しげな笑みを彼に向け、
「覚えていたの、昔のことを」
「あなたは、月…。ぼくに、媽々マーマを想う爹々ティエティエを見せてくれた…」
「ええ、そう。私は天の太陰の娘」
 太陰君タイインクンは草原に腰を下ろし、箑も彼女の横に座る。
「『薪売りのお姉さん』が、あなたがお腹を空かせた時にと用意してくれたもののようです」
 差し出されたのは、大きな木の葉で包まれた大根餅と竹の水筒だった。忘れかけていた空腹をその匂いで思い出した箑は手に取って口に運び、あっという間に食べ終えてしまった。
「あと数刻…月が沈むまで、お休みなさい」
 彼女の言葉にうなずき、かがみ込んでその膝に頬を寄せる。漆黒の駿馬もまた、立ったままで目を閉じた。
 太陰君の膝枕で夜半ころまで眠り、月が西の空から消える前に目を覚ました箑は再び翻羽に跨り、更に北東の先を目指す。

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ四 <前> 黒き亀蛇、起つ

※註:
・偃月刀:
 長い柄の先に大きな刀を取り付けた大刀〈だいとう〉の一つ。湾曲したその刃は日本の薙刀〈なぎなた〉よりも幅広で大きくなっている。三国志の英雄・関羽愛用の武器としても名高いそうだ(「青龍偃月刀」と呼ぶのは、刃の部分に青龍の装飾が施されているため)。

水克火~空翔ける水竜~

 先遣隊から間を置くことなく昨日のうちに家軍の本隊もが北東へと発ったと聞き、河西かせい甘侑カンユウ邸では少年たちが複雑な表情で話をしていた。
「当主様自ら御出陣なさるなんて…」
 管朔カンサクが、洪洵コウシュンのつぶやきに答えるように、
「それだけ切迫した状況なのでしょう」
「…あの後、ソウについては何か分かった?」
「いえ、何も。叔母様が、宮城の衛兵の詰所にも頼んできたらしいのですが」
「そうか…何がどうしたっていうんだろう」
 しかし、八日の昼を迎えようという頃になっても毀棄キキは戻ってこないし、前日の朝から行方知れずの箑の情報も得られないままだった。
 邸の外が騒がしいので出てみると、宮城の南西、裏鬼門の方角から煙と炎が上がっている。
「火事だ、火事が…!」
「火事!?どこかの軍が攻めてきたわけじゃないだろうな?」
「いや…ここの住人の不始末で起きた火事だって話だ。しかし…」
「このまま燃え広がれば、この河西の宮城全てが灰燼かいじん〈※灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと〉に…」
「そんな…!」
 ここに住まう者たちはこぞって驚き慌て、半ば錯乱状態で右往左往するばかりだ。
『この河西を頼んだよ』
 柳發の言葉が、洪洵の胸の内で繰り返し響く。
(ボクが…皆が戻って来るまで、この河西を護る!)
「洪洵さん!いったい、どこへ…!?」
 突然駆け出した彼に、管朔が訊く。
「ボクのことは気にしないで、大丈夫だから…すぐ帰ってくるから!」
 足を止めることなく振り返って答えた彼は、あっという間に遠ざかっていく。
  *
 南東の、大河の支流より引き込んだ運河から続く水路まで来る。南西の火事に皆気を取られているのか、周囲に人の気配は無い。
(あのとき…)
 西岳せいがくから河西への道中、夜半に見た少女。
「『土は水につ』、常ならず」
 そう告げて小さな池から川を作り出した、謎の娘子じょうし。この話をすると柳發リュウハツは、
「五行相克説によれば、『土は水に克つ』はすぐ説明できるけれど…」
「五行相克説?」
「ああ。木は土に克ち、土は水に克ち、水は火に克ち、火は金に克ち、金は木に克つ…
 木は土を押しのけて芽を出し、根を張る。土は水をき止める。水は火を消し、火は金属を溶かし、つちや鉄の刃は木を打ち壊し切り倒す…。そういう、めぐりめぐる力関係とでも言うのかな」
 彼の言葉を思い返し、
「水は…火に、克つ…」
 洪洵は思いつめたような表情でぽつりとつぶやき、水面を見つめる。炎は変わらず燃え続け、煙が途切れることは無い。宮城の人々が叫び行き交う声が聞こえる。
 不意に、横から目の前の運河へと差し伸ばされる腕。はっとして振り向くと、隣にはあの夜の少女が立っている。
「見て」
 彼女の言葉に従い、運河を見下ろす。水面がにわかに波立ち、渦を巻き始める。
「な、に…?」
「かれは、街を灰燼に変えようとしている火炎に怒っている…。『水は火に克つ』、あなたも唱えるの」
「どうしてボクなの!?」
 しかし彼女は答えない。ただ、
「この河西を護る、んじゃ…なかったの?」
 洪洵は ぐっと口を結ぶが、決心をつけて顔を上げ、水面に向けて高らかに告げる。
「水は火に克つ…水の誇りをかけ、宮城を焼き滅ぼさんとする火焔を打ち消すべし!」
 少女も同時に重ねたその言葉と共に、渦が水の柱となり竜巻のごとくそびえ立つ。高さを増した水の柱は蛇のようにうねり、古来より絵画に描かれてきた空を舞い飛ぶ竜を思い起こさせる姿をとって宮城の上空を突き進み、家々を焼き焦がす炎へとぶつかっていった。激しい音のあと、霧が周囲に立ち込める。
「…消えた?」
 彼女がうなずく。
「これが、かれの…水の力よ」
 向かい立つ彼女を見つめ、問いかける。
「ねえ…。君…誰?ボクは…」
「ワタシ ハ …」
 最後まで紡ぎきることなく彼女が消えたのが先か、それとも彼の記憶が途切れたのが先か。洪洵はただ、薄れゆく意識の中、遠くで誰かが自身の名を呼ぶ声を聞いていた。  

『群雄列伝 下天の章・三 群雄割拠譚』篇ノ四 <前> 水克火~空翔ける水竜~

* * *

篇ノ四<前>、中盤は以上になります。

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