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拙作語り⑲~『Secret Base』番外・「Jun-2003」

現代学園短編連作・拙作『Secret Base』から、クリスマスを控えた今時期ほどを終幕とする番外編「Jun-2003」を、こちらに再掲します。
初代サイエンスクラブ顧問・岸浪教諭の大学時代を描いた話で、400字詰原稿用紙換算で50枚ほどになり、番外編・短編というには微妙な域になっております。。
二昔前が舞台なので、現代の学生生活とはだいぶ違っていますが(だって今じゃ試験前にノート借りてコピー機に走るとか無いでしょ…「板書をデジカメで撮る学生が居るんだよ」と助教授が嘆いてた頃からも既に15年以上経っているし。。)。さらに、今現在では色々問題になりうるような描写や表現もあるかもしれませんが、〈原文ママ〉であることをお断りしておきます。なお、舞台はT波大・つくば市内となっていますが、何せ筆者がT波大卒でないので、学内のところは自身の母校でのこと・自身の見聞きしたあれこれを思い出しながら書きました(爆)

     * * *

 梅雨空が続く6月中旬。期末試験を前に、書籍やノートのコピーを取りに行かなければ、と四年生の岸浪竜起きしなみ たつきは研究室の自身の席を立った。
 研究室を出ようとしたとき、声をかけられる。
「岸浪くーん。どこ行くの?」
「図書分室に」
「なら、ちょっと待って」
 天然パーマの髪に眼鏡をかけた、やや太めの青年が現れ、笑顔で駆け寄る。
「ついでに、これ…返してきてくれるかな」
 にこやかに、ハードカバーの本を二冊ばかり手渡す。
「ああ、はい…」
「じゃ、お願いね」
 そして用が済むと、そそくさと研究室奥の自身の机に戻っていく。
 ハンカチ王子やハニカミ王子などが世間で騒がれるようになるもっと昔から、彼はこの岡崎研究室では『王子』と呼ばれていた。王子というより、『麻呂』に近いかもしれない。少々浮世離れした、至極穏やかで食べることが大好きなポッチャリ型の王子である。彼こそ元祖ポッリャリ王子…かもしれない。
(田中さんも、こういう時こそ率先して運動すりゃいいのに…)
 自身の所属する研究室の田中助手から頼まれた、図書館の本に視線を落としてため息をつく。
  *
 学内でコピーをとるなら大学生協の建屋に行くのが正攻法である。だが、試験前のこの時期、コピー機置き場はちょっとした戦場と化している。竜起はそれを見越して、第三学群棟図書分室の本棚の蔭に、ひっそりと一台だけ置かれているコピー機を使うことを思い立ったのだった。
 助手に押し付けられた本の返却を済ませ、コピー機へ向かう。だが、そこには先客が居た。理工系には珍しい(失礼な)、なかなかに華のある女子学生だった。本棚を眺めつつ、彼女が用を済まして立ち去るのを待つ。しかし機械のほうがトラブルを起こしているらしく、いつまで経っても彼女がコピー機の前から退く様子は無い。
(冗談じゃねえよ。俺だって急いでんだからさ)
 実際、彼は時間に追われていた。卒業論文のための実験。専攻の必修・第一選択科目の試験やレポート。更に、教員免許の取得にかかる教育学関係の試験やレポート。その上、中学・高校理科の免許を希望しているから、この時期にもなって生物学や気象・地質学などの科目まで履修していた。とどめが、この夏・8月に迫った大学院入試だ。
 他大学・学部の大学院へ進学という道を選んだではなく、自分が今所属する研究室に居残るつもりだった。しかし、だからといって勉強せずに試験に臨めない理由があった。
 研究室の流し脇で同輩の小谷浩康こたに ひろやすとコーヒーを飲みながら立ち話をしていたとき。
「お前も院試受けんだよな。試験に向けて何か準備してるか?」
「いや、あんまし。だってさ、身内の人間にバツ付けてオトすはずないだろ」
 浩康が余裕で言い放ったところ、ちょうど岡崎教授が現れて、
「そんなことは無いよ。出来が悪ければ問答無用で不合格にするからね、甘く見ないできちんと英語と専門科目の勉強しときなさいよ…君たち」
「あ、ハイ…」
 岡崎教授は小柄で細身。黙ってその辺に座っていれば『可愛いおじさん』でしかない。しかし、自身の専門分野の話が出たときと指導者・研究室の最高責任者としての威厳が必要とされるときには別人のようになる。身長181cmの竜起からすれば見下ろさざるを得ない紳士だが、その時ばかりは見上げる心地がするものだ。
(当社比・見た目身長1.5倍に変化します、って感じだもんなあ…)
 そんなことを思い返している場合でなかった。早く用事を済まして戻らなければ。
 待つのは止めだ、とばかり、竜起は今なおコピー機の前でおろおろしている女子学生に近付き、声をかける。
「いつまでかかってるんだよ。まだ終わらねえのか?」
「いえ、それが…」
 うつむきがちで、彼女が続ける。
「動かなくなってしまって…どうすれば元に戻るのか分からなくて」
「ちょっと、どけよ」
 まず、コピー機の液晶画面を見る。
「なんだよ、ただの紙詰まりじゃねーか」
 言い終えるより早く、コピー機の蓋や用紙トレーを開け始める。折れ曲がっていた紙を引き抜き、開け放った扉やトレーを元に戻す。画面に『コピーできます』と表示されたのを確認し、
「ほら、直ったぞ」
 相変わらずおどおどしている様子の彼女に、
「いつまでそうやってんだ、俺は急いでるんだよ。さっさとコピーとって明け渡してくれないと困るんだって」
 途端に泣きそうな顔をされ、さすがに彼も慌てて、
「じゃあ、どれを何枚コピーすんだ?貸せよ」
「この本の、付箋が貼ってあるページを一枚ずつ…」
 竜起は至って事務的に、無駄な動きなしで黙々と作業を進め、
「ほら。用が済んだんだから、俺に順番譲ってくれよ」
「ええ…ありがとう」
 すぐに自分の用件へ移る彼の後ろで、彼女は立ち去ることもせずにいる。
「あの…」
「なんだ、まだそこに居たのか?」
「何か、お礼がしたいの。色々迷惑かけちゃったみたいだし…」
「そんなもん要らねえって。俺はさっさと帰りたいだけ。あんたも気にせず戻ればいいだろ」
「そう…でも」
 言うと彼女は小さな付箋紙を取り出して何か書きつけ、彼に手渡す。
「思いついたものがあったら、連絡ちょうだい」
 そして本と紙束を抱え、図書分室から出て行った。
 竜起もコピーをとり終え、忘れ物が無いか周囲を見回す。
 と、コピー機のポケットに、何か書かれた一枚のA4用紙を見つけた。手に取り、目を通す。
(『牧野研究室 暑気払い(案)』…梅雨明けもまだなのに、暑気払いって…気が早いことで)
 開催日は7月下旬となっている。一月近く先の話だ。
(さっきの女の忘れ物か?)
 ふと思い立って、先程彼女から受け取った付箋紙を見る。
「牧野研究室(内線□□□□) 天生…」
 それはいいのだが、携帯番号と携帯メールのアドレスまで記されていた。
(一体何考えてるんだ、あの女。同じ学校の学生とはいえ、つい今しがた会ったばかりの男に連絡先を教えるだなんて…)
  *
 一旦岡崎研究室に戻り、机を整理する。大学のサイトを閲覧し、牧野研究室の所在を調べて、竜起は再び席を外す。
  *
 同じ建屋でも専攻分野が違い、また距離もあると、だいぶ雰囲気が変わるようだ。
「あの、すみません」
 ドアの横に学生が行先を書き込むホワイトボードが設置してある部屋を覗きつつ、声をかけてみる。
 気付いた学生の一人が現れ、彼に問う。
「何か?」
「図書分室のコピー機に、こんなものが」
 先程の『牧野研究室 暑気払い(案)』をクリアファイルから出して見せる。
「こんなものその辺に落としておいたら、皆さんが出来上がった頃、タダ酒タダ飯にありつきたい貧乏学生が紛れ込みかねないですよ?会場が学内の池ほとりみたいですし。不用心だと思いますけど」
「えー!?これが分室のコピー機に!?」
 この学生の素っ頓狂な叫びに、中に居たほかの学生達も次々と姿を見せる。
「どうしたんです?伊藤さん」
「なんだよ、伊藤ー」
「これが図書分室に落ちてたって…」
「落ちてたって、誰が?」
 学生達の視線が、竜起に集まる。
「さあ、俺にも分かりません。ただ、俺の前にコピー機を使ってたのは長い髪にスカートの女子学生でした」
「もしかして、こう…後ろで髪を一つに留めた、藤色のブラウススーツの?」
「え?ああ、多分…」
 彼の返事に、学生達は皆意外そうな顔をする。
天生あもうさんだ。でも…」
「『天生さん』?」
「うちの秘書を、部外者が気安く呼ぶんじゃないよ」
 突如、初老の紳士が割って入る。
「牧野先生…」
 学生の一人が、彼をそう呼んだ。
 牧野教授は竜起をいかがわしいものでも見る目つきで眺めていたが、
「君、ちょっと」
 そう言うと、教授室へと歩いていく。
 仕方ないので後をついて行こうとすると、なぜかこの研究室の学生たちは揃って彼に同情の眼差を向けていた。
「可哀想に…親切が仇になっちゃったね、君」
「なんですか?」
「君の前にコピー機を使ってたっていう…彼女、学生じゃなくて教授秘書なんだよ。牧野先生、今じゃ自分の奥さんとか息子さんたちよりも彼女が大事らしくて…」
 余計なことをするんじゃなかった。他所の研究室を覗いてみるのも面白そうだ、などと軽く思った自分を悔やんだが、今はもう遅い。
  *
 覚悟を決めて教授室に入ると、早々に内鍵を閉められた。
(逃がす気なしってことかよ!?どうなんの、俺…)
「さて…」
 教授は、悠長な口ぶりで話を切り出す。
「君は?」
「応用理工学類の四年生で岸浪といいます」
「はあー。まあ、それはいい…」
 一呼吸おき、続ける。
「で、君の家はどこだね?君は長男かね?年上と年下とではどちらが好みかね?」
「隣のT市で…次男です。年が上とか下とかが問題じゃなくて、それは相手によりますけど」
(なんでそんなこと訊かれなきゃならないんだ?)
 意味が分からず戸惑う彼を気にする様子もなく、教授は更に語る。
「彼女…天生くんは、さっきうちの学生たちが言っていたように、この研究室のアシスタント…私の秘書だよ。なかなか美しい大和撫子だろう?」
「はあ…」
 しみじみ眺めたわけでもないので、適当に相槌を打つと、
「君のその目は飾りもんかね?彼女を見て何とも思わんとは…。君はそれでも二十代前半の年並みで健全な欲求を持つ成年男子かね?」
(だから、なんでこのおっさんにそんなこと言われなきゃならないんだよ、俺…)
「彼女は、外見ばかりか中身も非常によく出来た有能な秘書だ。部内書類を落とすなど考えられない」
「でも、俺は奪い取ったわけじゃないです。本当に、コピー機のポケットに置き忘れられてたんです!」
「なら、そういうことにしておいてあげよう…」
(だから本当なんだって!)
 早くここから消えたい気持ちでいっぱいだった。しかし、教授はまだ解放してくれそうにない。
「彼女はまだ若いのに結構な苦労をしてきててね…。『我がまま言って関西の大学に出してもらったのに、これ以上親に負担をかけられない』と院に進まず就職したが、数ヶ月で退職して実家に戻ったのだそうだ。母親が脳卒中で倒れて、家事などしたこともない父親と高校受験を控えた弟を放っておけないから、と…。今では母親は生活にさほど支障がないほどまで回復したというが、家のことの大半をまだ彼女がやっているという。こうして非常勤とはいえ朝から夕方まで大学職員をしながらだ。泣かせる話じゃないか。自分のことは棚に上げてデカいことばかり言う学生諸君…あンのクソガキどもと比べたら、私が彼女にかける愛情は計り知れないほど深いよ」
(クソガキって言ったぞ、自分とこの学生も…)
「そうなんですか…」
「そうなのだ。これだけのことを聞き出すのに、4月に採用してからつい最近までだから二ヶ月半ほどかかってしまった。社会人経験は浅いが、語学力もあり理系の出…更にあの端整な容貌だ。私は即、採用を決めたよ…まあ、面接のときは意地悪して『他にも希望者が居るので、結果は一週間ほど待ってほしい』なんて言ってしまったが」
(嫌な上司だよなあ…)
 竜起が先程の彼女に少し同情していると、牧野教授は思い出したように、
「…あ、クソガキってのはオフレコで頼むよ。この呼び方も私なりの愛情表現のつもりだが、一般的には悪口だから問題になるのでね」
(っていうか…心からクソガキだと思ってるだろ、あんた)
 このどこまでも変わり者の教授に、もはや何か言い返す気力もない。黙って話を聞くだけだと割り切ることにした。
「だからこそ、私は彼女を幸せにしてあげたいと常々思っている。彼女に必要なのは…そう、恋だよ!恋は人を詩人にする。ヒロミ・ゴーのお嫁サンバなど引き合いに出す必要もなく、恋する女性はひときわ美しく輝いて見えるものだ。今の彼女には、残念ながらコレが足りない」
(もう、なんなんだ。このおっさんは…)
 自分の世界に入りきっている牧野教授を、竜起は冷めた目で眺めるばかりだ。
「私はハイスペックマシンなど、それはもう色んなものを餌にしては有能そうな学生を自身の研究室へと釣ってきているつもりだが…そんな連中の集まりである彼らには見向きもしない。穏やかに接しながらも、一分の隙も見せないというか…自分の内に踏み込ませようとはしないのだ。…だが」
 そこまで告げると、教授はちらりと竜起を見る。
「どういうわけか、彼女は君には隙を見せた…。それほど見所のある学生とは思えないが」
(どこまでも口の悪いおっさんだな…)
「まあ、いい。私は彼女の意思を最優先しようと思う。そこで、君」
「何でしょうか」
「彼女に失礼などないように。何かしでかした時には…私の教授権限で君を退学に処するから、心しておきたまえ」
 言い終えて教授は内鍵を解除し、ドアを開ける。
「岸浪くん、と言ったかな?帰っていいぞ」
「…はい」
  * *
 精気を抜かれたような状態で、竜起は岡崎研究室へと戻った。
 研究室に入ると、流しの脇で岡崎教授が自らコーヒーを淹れていた。
「岸浪くん、どうした?顔色が悪いようだけど」
 教授に尋ねられ、とりあえず答える。
「いえ、別に…」
 ふと思い立って、訊きかえす。
「岡崎先生」
「何かね?」
「教授権限って…そんなものあるんですか?学生を一発退学できるとかいう…」
「はあ…聞いたことあるような無いようなだけど。おそらく、都市伝説と同じようなもんじゃないかな」
「そうでしたか…」
 この岡崎研究室は秘書不在である。
(もしここに秘書と呼びうる人間が居るとしたら…それは他でもない俺だ)
 彼がそう結論するのも止むを得ない。
 電話が鳴れば、教授室の机上の電話はもちろんのこと、学生たちの居室にかかってきた電話にだって教授自ら出て応対する。それは教授以下、助教授・助手・技官も同じだ。逆に、主不在で虚しく鳴り続ける教授室・助教授室の電話を学生が取るということもある。そちらのほうが頻度は高い。
 来客があると、
「おーい。コーヒー持ってきてくれる?僕を除いて三客分」
などと声がかかり、
「…だって」
「淹れて持ってってあげなよ」
 しばらく押し付け合いが続いたあとで、結局そういう面倒な役回りは下っ端の四年生が引き受けることになる。
 四年生は彼を含めて五人。しかし、彼を除いてことごとく自宅外通学のワンルーム住まいの学生ばかり。時間にはルーズである。夕方やってきて日が昇る頃帰っていく同輩も居る。講義が無くとも朝九時には登校し、夜九時には帰宅する彼は、当然のようにコーヒーを出す機会が多かった。
 しかも、生まれ育った環境としては兄一人の弟であるが、彼は意外にも面倒見の良さと困っている人を黙って見ていられない性分とを持ち合わせていた。
 つい案件に夢中になって昼食をとり損ね、午後三時頃コーヒーだけ飲んでごまかしていた新井助教授の姿を目にして以来、助教授が昼休みになっても実験室や助教授室にこもって出てこない時など、声をかけてしまう。
「新井先生。お昼、ちゃんと食べました?」
「いやー、それがまだ…」
「先生、もうあまり若くないんですから。そんな乱れた生活してたら体壊しますよ?奥さんやお子さん、どうするんですか」
 助教授デスク脇の壁に貼られた、幼稚園くらいの子供の筆跡で『おとうさん、がんばって』という言葉とピカチュウが描かれた一枚の絵。それを目にしてから、余計に助教授の心配までするようになった。
(食堂に行ったり、売店に何か買いに行く時間も、この人にとっては惜しいんだろうな)
 大学の教官とは奇妙な職業である。学生への授業で給料を貰う身でありながら、合間に実験・研究を重ね、論文を提出し、また学会で発表を行い、研究者としての業績を上げておかなくてはならない。
「おにぎりとサンドイッチですけど…これで良ければ、とりあえずどうぞ」
「え?でも、君はどうするの」
「俺はまた買いに行くからいいです」
「すまないね、君も何かと忙しいだろうに」
「ええ、まあ…教職なんてとってますから余計と」
「ありがとう。お代は後で払うね」
 昨日もまた、そんなことがあったのだった。
 やれやれと、共用パソコンの前に座り、メールボックスを開く。すると、見知らぬ差出人からのメールが届いていた。スパムは途中でハネられているはずだから、必要なもの・怪しくないものではあるのだろうが……
「申し送り事項…?」
 とりあえず開いてみる。
『岸浪くん
 どうもぉ~、「マッキーノ」どぇーす!
 先程はあつかましくも恩着せがましい来訪、有難う。
 何故俺の研究室でのメルアド分かったんだよ!?と、君は今頃大慌てだろう。
 フッフッフッ、私はあちこちに顔が利くのだよ。
 先程の件、宜しく頼むよ。くれぐれも失礼などなきよう。
 私と下僕たちはいつでも目を光らせているからね。
 では、また会おう明智くん!
 アディオス・アミーゴ!
 ε=ε=ε=ε=ε=┏(・_・)┛ダダダ!!!』
 竜起は頭を抱えてそのままパソコンのキーボードに突っ伏した。
(…もう二度と会いたくない)
 心底泣きたくなった。だが、周囲に救いや同情を求めてみたところで、誰も信じないに決まっている。
「情報系の研究室なら、学生が皆のメールボックス監視しちゃうって言うじゃないか。教授のメルアド使って、誰かにイタズラされたんじゃないの?そもそも、院生とか教官たちスタッフなら大学サイトの研究室紹介にメルアド載せてるから仕方ないけど、お前四年生じゃん。からかわれてるんだよ。それとも、お前の自作自演?面白いねー」
 そう笑われて終わるのがオチだ。
 あの教授本人に自分が何を言ったところで効果はなさそうだ。それなら……
(秘書とかいう…彼女に頼んでみるしかないのか…)
 竜起は、あのとき彼女に渡された付箋紙と携帯を取り出した。

 翌、土曜日。梅雨の中休みといったような、良く晴れた日だった。
 昼下がり、彼女に指定された待ち合わせ場所・西大通にしおおどおり沿いのコンビニの駐車場に向かう。
 クリーム色のトレンチコートに淡いグレーの傘を手にした見覚えのある女性が、店舗の軒下に立っていた。車の中から手招きすると、彼女は気付いたようで車に歩み寄り、助手席のドアに手をかけようとする。
 助手席の窓を開け、竜起が言う。
「後ろ、乗って」
「え?ええ…」
 彼女が後部座席に落ち着いたのを見届けて話しかける。
「とりあえず、どっか入って茶でも飲みながら…。行きたい所あれば聞くけど」
「別に…。それより、どうして?わたしが助手席に座ったら、何か都合の悪いことでもある?」
「何を想像してんの?あんた。ここは俺の通学用バッグの指定席。ただそれだけ」
 なおも何か言いたげな彼女に、
「あんた、大丈夫か?助手席ってのは距離が近いんだよ。運転手が変な気起こして手を出してきたらどうしようとか、考えないわけ?」
『彼女に失礼などないように。何かしでかした時には…私の教授権限で君を退学に処するから、心しておきたまえ』
 牧野教授の言葉が脳裏をよぎる。
 改めて近くで見れば、連れて歩いたなら鼻高々であろう可愛らしい女性だ。自家用車という密室で二人きり、長い時間一緒にいたらと考えると、彼も自信は無かった。
 交わす言葉もない車中。漂う空気は、重い。
  *
 我ながら型通りというか、鉄板だなあとは思いつつも、ラ・ヴィ・プロヴァンサルで車を停める。地元では有名な洋菓子店が開いているカフェである。
 店内に入って案内されたテーブルに座る。タイミングよくやって来た店員に注文を済ませて一息つき、彼女が話を切り出す。
「こうしてわたしを呼び出したってことは決まったのかな。お礼に何をすればいい?」
「それより何より…頼むから、あの教授を何とかしてくれ」
「教授を?教授に何か言われた?」
「言われたも何も…」
 思い出すのも嫌になる。
「とにかく、もうこれ以上案件を増やしたくないんだよ、俺は。それでなくても、卒論の準備に通常の専攻がらみの試験に…教職関係のレポートやら試験やら…しまいにゃ院試の勉強も。正直、こんな所でお茶してる時間があるならレポートの一本でも仕上げたい気持ち」
「そう…。大変なんだ」
「分かったようなこと言うなよ」
「分かるもの。わたしも経験者だから」
「え?」
「こう見えて、わたし…中高理科教免持ちの工学学士なの」
 牧野教授はそこまでは話していなかった。彼にとっては初耳だ。
「レポート一本くらい、引き受けようか?」
「それは…」
 彼が渋ると、
「これでも教育学関係は『優』貰ったんだけど…まあ、何年も前の話だからアレかな」
「何年も前って…」
「年がばれるから内緒。でも、本当に書いてもいいよ」
『家のことの大半をまだ彼女がやっているという。こうして非常勤とはいえ朝から夕方まで大学職員をしながらだ』
 教授の言葉が脳裏をかすめる。頼んでしまえば一つ荷が降りそうではあるが、その決心はつかなかった。
「失礼します、お待たせいたしました」
 店員はケーキと紅茶を置くと、お辞儀をして去っていく。
「でも、大変なの分かってても教免とりたかったんだ…岸浪くんは」
「あ、ああ…。もっと前から…一年の頃から本気で考えてたなら、今時になってここまでせわしくならずに済んだはずなんだけど。二年の終わりに聞いた同輩の一言で、改めてやる気になったてか…」
 三学期の期末試験を終えて迎えた、大学二年の春休み。彼は学科うちでも仲の良い同輩三人と連れ立って福島県磐梯に小旅行をした。夜、お決まりのように始まった飲み会の席で、不意に小谷浩康に訊かれた。
「岸浪。お前の夢って何?」
「別に…。とりあえずはダブらず大学出て、普通に会社員になってそこそこの生活を…」
「今のうちからそんな打算的でどうすんだよ。ダメ、ダメ。男は夢を追わなきゃ」
「じゃあ、お前の夢は何なんだよ?」
「砂漠を緑に変えること」
 予想だにしなかった返答に、ぽかんとして同輩の顔を見るばかりだった。すると浩康はゆるく笑い、
「こんなこと言うと、『そんなの無理に決まってる』って顔をして女は馬鹿にするけどさ…」
「いや、そんなことないって。実際そういうプロジェクトあるんだろ?聞いたことあるぞ、俺」
「そうか、そうか!分かってくれるか!やっぱ、お前も男だな…まあ、飲め」
 明らかに酔っている同級生は、彼の持つプラのコップにジュースを注いで続ける。竜起は周囲の大方の予想に反して(?)アルコールが苦手な甘党の学生だった。
「なら、お前も追いかけてみろよぉ。小さい頃、思っただろ?何かさ…」
「小さい頃…」
 小学生の頃は野球少年だったが、熱血とか根性、努力という言葉を好かない子供だった。中学以降は野球などやめてしまった。今更野球選手になろうとか審判員の資格を取ろうという思いはない。何か、他にあるとしたら……
平澤ひらさわ先生…)
 小学五年生のとき、彼の担任となったのは、それまで長年続けていた中学校理科の教諭から小学校教諭へと転向し赴任してきた、五十過ぎの強面こわもてな男性教師だった。貧乏くじを引いたと、彼も彼のクラスメートも思った。だが、ヤンキーあがりと見えなくもないその教諭は外見と反して優しくユーモアに富み、教えるツボを心得ていて児童たちの心をとらえるに長けた人物だった。元々理科の教師をしていただけあって、理科の時間は非常に力が入っているのが伝わってきた。
「岸浪。お前、理科は好きか?」
「嫌いじゃないです」
「そうか。じゃあ、あとは先生の腕次第ってことだな?
 身の回りにはな、サイエンスな物事があふれてるんだぞ。それなのに、今時の子供たちは目を背けて違うことに一生懸命だ。理科って楽しいんだ…そう思う生徒を一人でも増やすのが、先生の使命だと思ってるからな」
 平澤教諭の、何か企んでいるような…だが、教え子を見守る教師としての深い愛情を含んだ笑顔が、今でも忘れられないでいる。彼に出会わなかったら、自分は理系に進んでいなかったかもしれない。
 教師になりたいと考えた時期もあった。しかし、教員浪人の存在、親や教師・学校の抱える教育現場の問題など厳しい現実をニュースで見るたびに、その思いは薄れていった――はずだったが。
(でも…今ならまだ間に合う)
「小谷」
「なんだ?」
「ありがとな」
 訳が分からずに目を丸くする同輩の肩をたたき、なみなみとカップに注がれていたジュースを口に運んだ。…それから、かれこれ一年と数ヶ月。
「…どうかした?」
 彼女に問いかけられて、現在時間に戻る。
「いや、別に」
「そう」
 フォークを手に取り、また顔を上げて彼女が尋ねる。
「さっきの話では、院試受けるみたいだけど…教免はとりあえず取っておくってこと?」
「本当に教員目指すつもり…一応は。採用試験も受けて」
「じゃあ、専修免許を?」
「そんなんじゃなくて。『お前は院くらい出ろよ』って兄貴に頼まれたから」
「お兄さん、居るんだ…」
 何をさっきから自分は身の上話など滔々と語っているのだろうか。竜起は不思議な気分だった。
「そんな裕福な訳じゃないから、兄弟二人とも大学院だなんてのは一寸ちょっと難しくて…。兄貴のほうが優秀なのに、自分は四年で大学出てさっさと就職しちまって。親父とかおふくろだって、院に行かせるなら俺よりも兄貴をって思ってたらしいのにさ…」
「そうなの…」
「実は、あのチェイサーも兄貴が車を新調するのに手放すって言ったやつを安く譲ってもらったもんで。通学用だから、そんな流行りのものとか要らないし丁度良かった」
 入学したての頃は公共交通機関を使っていた。しかし、何かと不便で我慢ならなくなり、さっさと自動車免許をとって自家用車通学を始めたのであった。
「ふうん。仲、いいんだね」
 フォークを置き、紅茶を一口飲んでから、彼女は言った。
「ねえ。やっぱり、レポート一つくらい書かせて。岸浪くんが気にしないなら」
「は?なんで」
「こうして、忙しいところ時間をとらせてしまったでしょ」
「いいって、もう。糖分摂取して脳に栄養補給した訳だし。家帰ってからやればいいだけ」
 ほんの少し残っているケーキを突ついて、続ける。
「そもそも、俺は礼してほしくてコピー機直したんじゃない。気にしないでくださいよ、天生さん」
 言い終えてケーキを完食し、紅茶を飲み干す。彼女の前の皿とカップも空になっているのを見届けて、竜起は伝票を手に席を立つ。慌てて後を追ってくる彼女が財布を出そうとしたので、
「そんなのしまってくれよ、俺払うから」
「でも…学生さんの講義とゼミの合間なバイト収入よりは、わたしのほうがそれなりに貰ってるから」
「俺だって分かってるさ、んなこと」
 彼に押し切られ、渋々財布をまたバッグに収める。
  *
 カフェを出、彼女が竜起の愛車(兄のおさがり)・メタリックグレーのチェイサーの後部ドアに手を伸ばすと、
「気にしないなら助手席どうぞ」
 運転席のドアに手をかけながら、彼が言う。
「え?ええ…」
 戸惑いながらも、彼女は助手席に乗り込む。
「どうして…」
「この車に二人乗りで、運転席と後部座席って不自然だから」
 答えつつ竜起はエンジンをかけ、慣れた動作で発進させる。
 信号で停まっても自分のほうに視線を向けることなく前ばかり見ている彼の様子に、彼女は何と言葉をかけて良いのかためらっていた。カーステレオの音楽が流れるばかりだった車内。先に口を開いたのは竜起のほうだった。
「あのさ…」
「なに?」
「あの時の礼にって強要するつもりは勿論ないけど…もし、俺のこの忙しすぎる現状が落ち着いて先が見える二学期の終わり頃に、天生さんがフリーでいたら…俺と付き合ってくれってのは」
「え?」
 訊き返されて、彼は思いつきか出来心からか馬鹿なことを言ってしまったと悔やみつつ、はぐらかそうとした。
「いや、今のは無かったことに」
「そうじゃなくて…二学期の終わりまで待たせる理由って何なのか」
「当分はとても構ってられそうにないもんで…。周囲の遠距離恋愛…あ、近距離でもだがさ…話聞いてると、結局のところ『会えない時間』が恋人たちの心を冷やし引き離してしまう訳だなって思うし…俺も自信無いし」
 そこまで言って、ふと気付く。
「待たせる理由って…待つ気あるの?」
 彼女が、こくりとうなずいて見せる。
「教免はとったけど、試験に通って教員になることはあきらめた わたしだから…応援させて。わたし、名前は与恵くみえていうの。『与え恵む』と書いて、『くみえ』」
「ふーん…。でも『天生さん』で」
「他人行儀だな」
 そう本人から言われても、万が一何らかの形で牧野教授に知れたなら、攻撃されるに決まっている。
「天生くんをファーストネームで呼ぶなんて…君、一千万年早いよ。どこまで身の程知らずな学生なんだろうね。やはり、ここは私の教授権限で…」
 考えたくなかった。懸命に悪い想像を打ち消しつつ、ハンドルを握る。
 そうこうしている間に、ほんの数時間前彼女を乗せたコンビニに着いた。
 与恵が降りようとしたその時、竜起は彼女の腕に手を伸ばした。
「あの…」
「なに?」
「やっぱ、レポート一つお願い」
 笑顔を浮かべて彼女はうなずき、
「それじゃ、教科書とノート貸して」
「ああ。今から帰ってすぐ取って来るから、またここで一時間後…いいかな」
「了解」
 にこやかに手を振る彼女に見送られ、メタリックグレーのチェイサーは駐車場から大通へ出、西に傾きつつある陽光の中を走り去っていった。

 怒涛の試験とレポート提出日程を何とか乗り切り、迎えた夏休み。しかし、卒論のためのデータ収集に追われ、竜起に休みは無かった。あっという間に、二学期が始まる。
 四年生の一学期分までが記された成績表を受け取り、中を見る。竜起は一言つぶやいた。
「嘘だろー…」
 結局中身に目を通さず、与恵が書いたレポートをそのまま提出した教育基礎学の成績が『優』評価だったからだ。
 初めて学外で会った日、彼女が言っていた、
「これでも教育学関係は『優』貰ったんだけど…」
という言葉。
(あれはハッタリじゃなかったのか…)
 それに引き換え、自力で試験やらレポートに取り組んだ科目は『良』どまり。がっかりしないはずはなかった。

 結局、本当に忙しくて以降は彼女と学外で会うことはなく、メールや構内の図書分室などで時折手短にやりとりするくらいのまま数ヶ月が過ぎた。
 ようやく二学期の期末試験が終了し迎えた、半週間ほどの二学期末休業。
「まとまった時間もとれそうだし、少し遠くまで出掛けてみようか」
 三学期は12月1日の月曜から。ちょうど、11月29日と30日は土日にかかる。彼女も休みのはずだから、竜起はそうメールで提案してみた。すると、
「28日、朝7時半。岸浪くん家最寄りのセブンイレブンに迎えに行くから来て」
(金曜日なんだけど…あの教授、学会か何かで不在なのかな)
 だいぶ早い時間を指定されたが、何ヶ月も放っておいた手前、黙って従うことにした。

 当日、真っ赤な日産マーチに乗って現れた与恵は、コーデュロイのジャケットとパンツに革のスニーカーという、これまで見たことのない活動的な出で立ちだった。
「これはまた一体どういう…」
「少なくとも、タイトスカートにハイヒール履いて行く場所じゃないから。それに、わたしだって車免くらい持ってるし」
「どこ行く気?」
「まあ、乗って」
 言われるまま、助手席に乗り込む。
「ちょっと窮屈かもしれないけど、高速と湾岸線で一時間半もあれば着くと思うから我慢してね」
「あのー…だから、目的地は?」
「ディズニーランド」
「…は?」
「知らないはずないよね。テーマパークは嫌い?」
「いや、むしろ好きだけど」
「なら問題ないでしょ」
 突然その日の朝にディズニーランド行くぞと言われても…と彼が困惑するのも無理はない。しかし与恵は意にも介さずエンジンをかける。
「今年は開園20周年だし…今はクリスマスのイベントなり限定グッズなりで更に賑やかなの。だって、行きたくても女一人ではチョットだし」
「俺はダシですか?ねえ」
「そう思ってくれても結構ですよ。パスポートも、わたしが買ってあげるから安心して」
「やめてくれよ、そんなの格好悪い」
「無理しないほうがいいと思うけど」
 このところ、バイトなどしている余裕もなかった。当然収入はここ数ヶ月減っていて正直心もとないのを見透かされていた。
「…自分の分は自分で払う」
 ふてくされたように答える彼をちらりと見て、与恵が微笑む。
「天気、もつといいね」
「そうだな」
 車のフロントガラスごしに二人、曇り空を見上げた。
  *
 夢の国でのお昼時。二人はクリッターカントリーにあるレストランで昼食をとっていた。
「そういえば…」
「なに?」
「お前、なんでまた自分の携帯番号を教えたりした訳?同じ大学の学生って言えども初対面の俺に」
「さあ…。でもね、『これは一期一会じゃない、一期一会にしちゃいけない』って、そんな気がしたから。だから暑気払いの案内置き忘れたの気付かず帰っちゃって」
「はあ…。不思議なもんだね。俺が他人に自慢できるのなんて、ズボンの裾上げ頼んだことない事くらいなんだけど」
 彼の言葉に、与恵がくすくすと笑い出す。
「あと…」
「他にも何かある?」
「コピー機のトラブル…紙詰まりに一度も見舞われたことないの?お前」
「コピーなんて、とる機会が無かったから。ノートは貸す側だったし」
「うわ、嫌な奴だ。優等生ぶりをさりげに自慢してくれて…。しかしなあ、仮にも工学部出なのに、あの程度の機械何とかしてみようって気にはならなかったのか?」
「だって、わたしは金属材料が専攻で機械なんて良く分からないの。変なとこいじって、余計おかしくしたら困るでしょ」
「用心深いことで」
 二人は顔を見合わせて笑った。
  *
 その後も、「あれが欲しい・あれに乗りたい・あれが食べたい」と思うがままにパーク内を駆け回る彼女を追いかけ続けて、日が暮れた。
 楽しいひとときの思い出をお土産に(実際は色々とグッズも買い込んだのだが)、彼らは心の内とは裏腹な、雨が降り出しそうな暗い雲に覆われた夜空の下、帰途についた。

 12月に入った、ある週末の昼下がり。二人は再びつくば市内のカフェで話をしていた。
「教授は最近おとなしくしてんの?」
「ああ…メールはもう来てないでしょ?」
「来てないから訊いてるんだけど」
「あの後ね、研究室のメールサーバの監視をしてる博士課程の学生さんに頼んで、教授のメールボックスは わたしが目を通すようにしたから。怪しそうなの、送信前にその都度削除してるし」
「握りつぶしてた訳か、お前が」
「人聞きの悪い言い方しないで。心穏やかにいられたでしょ、おかげで」
「そりゃ、まあ…」
 コーヒーを一口飲んで、彼が続ける。
「愚問だけど…どんなこと書いてあった?」
「『フッフッフッ、君も澄ました顔してなかなかやるもんだね。どうしてお見通しかって?私には忠実な三つのしもべがいるのだよ』…とか」
(三つのしもべって…なぜにバビル二世…)
 生粋の悪人という訳ではないのだろうが、とにかく厄介な人だ。竜起は一人ため息をついた。
「そういや、先月の28日って…教授不在だったんだよな」
「ううん。休ませてもらった」
「え?許可下りたのかよ。何て言って?」
「『金曜日休みます、ヤボ用ですから』って」
「ヤボ用…」
「で、また教授が何かメール書いてたけど、それも送信前に削除したから」
 見た目より、はるかにしたたかな女性だ。
(まあ、並の女じゃ、あの教授に対抗なんて出来ないしな)
 二十二歳の男子学生、異性に興味が無いはずはない。だが、やりたいこともやらなければならないことも多すぎる。元々一人で寂しくない性分もあり、彼女なんて面倒くさいだけと思っていた――半年ほど前までは。
(彼女が居るってのも、悪くないな…)
 手にしたコーヒーカップに視線を落とし、彼はこっそり微笑んだ。

 12月も下旬に入り、冬季休業目前となった頃。岡崎研究室に、この研究室の紅一点・四年生の志村ののかが駆け込んできた。
「どうしたんですか、志村さん。そんな慌てて」
 竜起が気付いて声をかける。彼女は学年こそ同じだが、昨シーズンの冬に事故で大怪我をして入院、留年が決定して目下二度目の四年生をやっている。同輩とはいえ先輩なので、丁寧語を使っているのであった。
「なんかね、外に変な人が居るの」
「変な人?」
「うん。中途半端にトナカイのコスプレした、おかしなおじさん。こっちをジーッと窺ってるんだけど…」
(まさか…)
 嫌な予感がして、席を立つ。
「ま…!」
 牧野教授が、そこに居た。急いで研究室から見て死角、廊下の柱の陰に引っ張り込む。
「何やってるんですか、こんなとこで!しかも何なんです、その格好。自分の立場とか分かってますか?先生は」
「君に言われずとも分かっているよ。私はね、ただ…年末年始の郵便局ならいざ知らず、電気信号なデジタル世界のMyパソコン内部にも最近ヤギさんが出てメールが消えるらしいので、直接届けに来たまでだよ」
 そう告げて、封筒を差し出す。
「しかし…仮にもITのスペシャリストである私からのメールをブロックするとは。君は一体どんなシステムを構築したのだろうね」
「何も高等なことはしていません。ごく初歩的なものです」
「いかなるものかね?」
「『用間(※間者を用いる、つまりスパイを使うということ)』…俺には、あなたの動きをよく知る協力者が居る。それだけですよ」
 売り言葉に買い言葉で、余計なことを言ってしまった。はっとして口をつぐむが、もう遅い。
「なるほど。では」
「あの」
 立ち去りかけた教授を引き留める。
「何か?」
「その被り物…取って帰ったほうがいいと思います」
 しかし彼の忠告(?)を無視し、牧野教授はトナカイの角と耳が付いた帽子を被ったままで廊下を歩いて行き、やがて曲がり角の向こうへと消えた。
  *
 カミソリレターだったらと用心を重ねて開けてみるが、封筒の中には絵葉書が一枚入っているだけだった。
『 そのときの出逢いが
  人生を根底から
  変えることがある
  よき出逢いを
           みつを 』
(何故に相田みつを…)
 首をひねりながら、宛名面へ返す。そこには、一言。
『この、しあわせもの!』
(幸せ者、か…)
 竜起の口許に、笑みが浮かんだ。
 廊下に出て研究室から少し離れ、携帯を取り、電話をかける。
「どうしたの?」
 いつもと同じ、彼女の声が返ってくる。
「今、大丈夫?どこ?」
「え?ええ…階段そばにある休憩スペース」
「教授室じゃないんだな?」
「来客があって、今お話中だから…席を外したの」
(そっか…もう戻ったのか)
「教授に何か言われたか?お前」
「何も。…どうして?」
「いや、何でもない。気のせいか、ごめん。じゃ…また」
 内心ほっとして、電話を切る。
「卒論…仕上げなきゃな」
 携帯をポケットにしまい、竜起は再び研究室へと戻って行く。
 2004年の足音は、すぐそこまで近付いていた。

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