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わからないことをワカラナイということは、正義かはたまた暴力か

当社では中期経営計画や年度の事業戦略をアジャイル手法で作成している。
簡単に言うと、経営陣が作成した叩きを全社員に公開し、社員がそれに対してフィードバックし、それを参考に練り上げていくと言うもの。

詳しくはこちら
全社員で「アジャイル中期経営計画」を策定!「伝わる・実行される」経営計画の作り方

今まさに2020版を策定中なのだが、先日この中の1つのキーワードについて、slackで議論がなされていた。

「よーし、参戦するぞ!」と勇んで(?)意見をテキストに書き出した。さて、書き込む前に今の流れを確認しようかとチャンネルを覗いたあと、私は自分のメモを速攻で削除した。

私にメモを削除させたのは、ある人の書き込みだった。

その人の書き込みは、「キーワードを作成した人たちの意図を組もう」「もっとわかりやすくしよう」という建設的なwillを強く感じさせるものだった。

一方で私のメモはと言うと、「わからないことをわからないって言うことは正義!」とか、「いかに分かりにくいキーワードかを思い知らせてやる!」という、暴力的なwillをヒシヒシと感じさせるものだったからだ。

ぐは!はずかしっ

「わからないこと」を「ワカラナイ」って言うには勇気が必要だし、悪いことじゃない。
でも、その後ろに「理解したい」って気持ちがないと、それは「勇気」じゃなく「暴力」や「怠慢」になるのではなかろうか。

もうイイトシなので、「わからないことをワカラナイって言うことは正義!」からは卒業しよう。

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