眉村卓さんの追悼文(2021年6月)

2021年6月に刊行された追悼文集『眉村卓の異世界通信』(「眉村卓の異世界通信」刊行委員会編)に寄稿したもの(眉村さんは19年11月に亡くなりました)。
編纂メンバーであった堀晃さんより、21年になって「小浜くんも〈星群〉の会員やったんやし、書かなあかんで」(大意)と畏れ多くも直々のお誘いをいただきました。書きあぐねていたところ、その年の〈創元SF短編賞〉の選考委員をお願いしていた堀さんに、最終選考会(オンライン)の席上で催促されたという思い出も。
なお同書には山岸真による入魂の長文眉村作品論「SF作家・眉村卓の六十年」が収められています。読むと愛情の深さにびっくりします。

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星群祭と『司政官 全短編』のこと 小浜徹也(東京創元社)

 京都に出て大学生生活をはじめた1981年、初めて参加したコンベンションが7月末の星群祭だった。暑い日曜だった。会場は百万遍近くの京大会館で、この会場はその後、京都SFフェスティバルでも使用し、京都のファン活動の舞台として思い出深いが、10年ほど前に閉館となってしまった。
 主催団体の〈星群の会〉は、80年代のファンダムでは、全国規模の会員を有する創作同人誌として「東の〈宇宙塵〉、西の〈星群〉」と並び称される存在感を放っていた。
 一階の大会議室に集った200名近い参加者全員に、事前に〈星群〉の同人が寄稿したオリジナル・アンソロジー『星群ノベルズ』が配布される。参加者は読んでいくことが前提で、当日は当時第一線で活動していた10人近いゲスト作家(翻訳家、批評家、編集者も含む)が連続して小講演をおこなったあと、最後のプログラムで一堂に会して収録短編の手厳しい批評がはじまる。この「星群ノベルズ批評」が、伝統的に「地獄のノベルズ批評」と呼ばれていたことを知ったのは少しあとになってからである。
 おそろしく刺激的なコンベンションだった。その一ヶ月後に、いまや伝説として語られる日本SF大会DAICON3が開かれ、もちろんぼくも参加したが、星群祭のほうが強烈に記憶に残った。
 このときの星群祭のゲストの先生方のなかで、後年まで「この人の作品評は間違いがない」と、一介の大学生ファンだったぼくが生意気にも信じた方が3名いらっしゃった。もうあまりあれこれ遠慮することもなくなったので記させていただくと、眉村さんを筆頭に、柴野拓美さんと堀晃さんである。皆さんのコメントには、本当にいろいろと教えていただいた。
 ぼくはその翌年から〈星群〉の誌友会員となる。当時からの夢が「ノベルズ批評に加わって司会をつとめたい」だった。なので、94年に再開された星群祭でノベルズ批評の司会を2001年までお任せいただけたのは望外の光栄であった。ぼくはすでに編集者という立場だったとはいえ、当時は翻訳書しか扱っていなかったし、まだ30代の身でお三方と同席し対等に議論させていただけたことは生涯の自慢である。
 09年から東京創元社で「創元SF短編賞」を主催することになり、担当編集者として受賞作選出に加わったが、そのルーツは間違いなくこのときの星群祭の参加体験にある。さらに16年から、株式会社ゲンロンが主催し、今も大森望が主任講師をつとめる「SF創作講座」ではぼくも何度も登壇させていただいているが、そこで図らずも再現されることになったのは、18歳の夏の星群祭だった。
 話は前後するが、07年から東京創元社では日本SFの刊行をはじめた。
 その少し前に東京で開かれた日本SF作家クラブのパーティーで、出席されていた眉村さんに《司政官シリーズ》の中短編全7編を1巻本の文庫として再刊させていただけまいかとご相談をさしあげた。『司政官 全短編』というタイトルにしようというのは、そのときから決めていた。
 その場でご快諾をいただき、さらにその場で早川書房との相談もすませ、ゲラにしようと再読して驚いたのは、この連作が70年代の日本SFを代表する、高密度の文化人類学SFであることだった。文化人類学SFは69年のル・グィン『闇の左手』あたりを嚆矢として80年前後に英米SFで流行したが、それに先んじて眉村さんは日本で数々の傑作を誕生させていたのだった。文庫の巻末解説を依頼した中村融さんもまったく同じ結論であったことが忘れがたい。さらにこのときの中村さんの解説は、後日人づてに、眉村さんに褒めていただいたと知らされた。「今後、ぼくの作品を論じるときのスタンダードとなる」とまでおっしゃっていただけたという。
 もうひとつの思い出が、やはり同文庫の巻末に児島冬樹さんの「司政官制度概要」を収録させていただいたこと。77年に〈星群の会〉が刊行した単発同人誌『司政官の世界』に発表し、その後『SFマガジン』に転載された論文を、同書巻末に収録「しなければならない」と信じていた。このご縁も〈星群の会〉に所属したおかげだったと思う。
 ぼくは残念ながら「MBSチャチャヤング」(70〜72、74年)が放送されていた当時、まだ小学校中学年で、眉村さんのDJとしての語りは存じあげない。編集者としてはその後も『年刊日本SF傑作選』への短編収録のご相談をはじめとしてお話しする機会が多かったが、ぼくが初めて講演をうかがったときの、諧謔をまじえた早口はのちのちまで健在だった。
 『司政官 全短編』の刊行をきっかけとして、08年の京都SFフェスティバル(このときの会場は京都教育文化センターだった。こちらも70年代後半に星群祭でよく使用された会場である)で登壇され、岡本俊弥さんとの対談企画のあと一階の喫茶でご一緒したとき、眉村さんはこんなことをおっしゃった。「小説家が1000部で食っていくにはどうすればいいでしょう」。びっくりしたが、眉村さんはその頃から現在の出版界の状況を見越していたのだと思う。もちろんその問いには答えようがなかったし、今も回答は見つからないが、この問いは近年ますます出版界にとって深刻な問題になっている。
 編集者として眉村さんのご期待に添える仕事を充分に果たせなかった悔悟ばかりがあるが、思い出を語る二度とないであろう機会をいただき、以上、したためさせていただいた。
 眉村さん、ありがとうございました。本当にお世話になりました。

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