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CRYAMYとわたし / 2024.6.16

CRYAMYの音楽には、血が通っている。

2024.6.16
CRYAMYから誠実な愛を受け取った日。

言葉にすることは野暮だ、なんて事を考えてしまうほど筆舌に尽くし難い壮絶な3時間半であったが、心がどれほど震える瞬間があっても、いつかは治まってしまう。それがどうしようもなくやるせないので、せめて感じたものを、この日を通して考えたことを、言葉にして残すことにした。
尊敬するバンドマンたちが楽曲を通してそうしているように。(これから失くし続けていくお気に入りは、歌にしようと思うよ、せめて、せめてね/stand in life)

ライブ当日、願いが届いたかのような快晴だった。物販の列は長蛇で、これほど多くの人間にCRYAMYの音楽が届いているという事が心から嬉しく、自分事のように誇らしく、また一方でこの中のどれだけの人の心の奥底にCRYAMYの音楽が届いているのだろう、今日を通して届くのだろう、と不安でもあった。

そんな余計な事を考えてしまうのは、SNSを通して多くの人の発信が目に映るようになり、またライブハウスに多くの知り合いができ、音楽の聞き方が残酷な程にそれぞれであるということを痛感したからであった。(当然、そこに善し悪しはない。しかし、多くの人が自分と同じ想いでないということは、充分に悲しいことであった。)

WASTER

「君のために生きるという、君のためにできる限り」このフレーズで野音の幕が開けた。遂にこの日が来てしまったという緊張感と、CRYAMYが目の前で音楽を鳴らしている事への高揚感が入り交じったような感覚だった。
代表曲の1つといっても過言ではないこの曲は、人によって様々な捉え方がされているだろう。
自分にとってこの曲、とりわけこの歌詞は、商業主義、更にいえば大衆との決別の歌である。つまり、自分が本当に大切だと思う目の前の存在の為だけに歌を歌う、という強い覚悟の歌だ。(この曲で歌われているのは、宗教的な真実の愛などではない。人間が心を割けるのは、目の前にいる相手にだけだ。)
資本主義が成熟したこの社会の中で「君のためだけに生きる」という事は、簡単に成し得るものではない。(JIGDRESSのイセノがアンコール前のMCで大衆に媚びず誠実な音楽をすることの難しさを語っていたのを強く覚えている。)
歌詞の中の「君」にはこれまで色々な人を浮かべながら聞いてきたが、今日この日に限っては違う。確かにカワノは、野音に集った3000人に向けて、いや、自分に向けて歌っていた。
くだらくなったらなんだって捨てればいい、つまらなくなったらいつだってやめればいい、命なんか懸けなくていい。なにも変えられず暮れちまっても、当たり前に愛している。
これ以上は、それこそ野暮だ。

Sonic pop

2曲目に演奏されたのは、Sonic pop。CRYAMYのライブ序盤といえばこの曲、というイメージがある。新譜のツアー中に遂に定番曲を歌うことがなかったカワノがこの曲を歌っただけで、込み上げてくるものがあった。CRYAMYが好きで、この曲のイントロに心が踊らない人はいないだろう。
特に好きなのは、「計算違いだった、カルキの味は嫌いだった」というフレーズ。種子島から上京し、そこで待っていたのは映画のような喜劇ではなく、カルキ味の水道水。砕いた錠剤で眠りを突き刺す日々。それでも心を落とすまで、あなたを大事に思っている。強い歌だ。

普通

Sonic popに続き、CRYAMYの数ある楽曲の中でも特にイントロで心が踊る曲。イントロから盛り上がるフロアは壮観だった。
「泥を被ったように散々愛は牢に、言い出せないままちょっとだけ腐っていった。変わらずじまいはとうに通用せずに、もう二度とは会えないんだね。」なんといってもこの曲で思い入れがあるのは、このサビの歌詞。
肝心な事は言えないし、愛は牢に閉じ込めて腐らせてしまう。そういうものだ。しかし、変わらずじまいは通用しない。CRYAMYの楽曲は、残酷なまでに目を背けたくなるような現実を突きつけてくる。だからこそ、乗り越えようと前を向ける力をくれる。

cry baby

正直なところ、当日は落ち着いて聴けるほど心の余裕がなく、イントロが流れてから我を忘れて拳を突き上げていたことしか覚えていない。
約1分間のショートチューンであるこの曲には、生々しい絶望、怒り、諦観が込められている。「心はあった、けど、壊れてしまった」この曲の魅力は、苦しくなるほど暗い歌詞が、怒りを吐き出すような勢いをもって、確かな心の衝動を伴って、演奏される事だ。

まほろば

これまでは、ラブソングだと思って聞いていた。(言うまでもないが、よくある惚れた腫れたを歌う歌という意味ではなく、身近な人への愛を歌う歌、という意味)しかし、野音では少しだけ聞こえ方が違った。
「見失っても、行き違っても、あなたと生きたい」という歌詞が、「ひとりひとりとすれ違う事ができたこと、それが何よりも1番嬉しかった」という野音前日のカワノのコメントと結びついた。簡単な話、「あなた」の中に自分がいた気がした。カワノはどこかのインタビューで、「ステージに立って歌っている時は他の誰でもなく目の前のあなたに向けて歌っている」というような事を話していた。昨日は特に、そうだったんだろう。

光倶楽部

6曲目にして、新譜から光倶楽部が演奏された。新譜が初めて演奏された7.10の「脱皮」から、毎日といってもいいほどそのCRYAMYの新しい姿に何を感じればいいのか、頭を悩ませてきた。その分思い入れも一入で、意外なことにイントロを聞いた時にどこか安心感があった。(最後のツアーを通して何度もライブハウスで聞いていて耳に馴染んでいたから、というのが本当の所だろうが、長い時間をかけて噛み砕き、やっと自分のものになった感覚は嬉しくもあった)
新譜については野音を通して自分の中で1つの答えが出たのだが、それは後述することにする。
ここでは、光倶楽部について。「卑怯者が演説かましてる」「政治家の全盛期が来てる、あいつらがキモいから泣いてる」、日比谷野音音楽堂は国会議事堂の隣駅にあり、また資本主義を象徴するかのようなオフィスビル群の中心にある。周りの景色に指を指しながらこの歌を歌うカワノの姿を見て、どこか胸がすくような思いがした。
「シュプレヒコールを笑う集団、恥ずかしいねぇ、茶髪がダサい」野音の開演前、物販の列の横をデモが通り過ぎ、それをネタにするようなツイートが流れてきた。それを見た友達が、光倶楽部のこの歌詞の話をしていた。かくいう俺も親の金で私立大学に通ってしまった身分だが、心はそんな人達に染まらないようにしなければならない。自戒の念も込めて、この曲には向き合い続けていきたい。

変身

まさかこの流れで変身が演奏されるとは、とイントロが流れた時には意外に思った。しかし、「もう生きる喜びは忘れたわ、この世にはなんにも残せないわ」というこの曲の象徴的な歌詞は、新譜で分かりやすく表現されている諦観と通じるものがある。
この歌を聞く度に、この曲が10代の頃に書いた歌詞とメロディが基になった曲である、という事実に震え上がる。音楽と人のインタビューの中でカワノは「俺は才気煥発じゃない」と語っていたが、そんな訳がない。
しかし、そんな事より何よりも重要な事は、CRYAMYが確かにこの日を通してこの世に何かを残そうとしていた、という事である。この世に何かを残そうとすること、それはつまり、生きる喜びを感じるという事だ。

注射じゃ治せない

「気をつけて言葉を使わないと、俺がひどいやつみたいだし、気を遣って振る舞わないと、誰かが俺を責めるし」「正直あんたら苦手、ゴミみたいな音楽が好きだし、服のセンスも終わってるし」
新譜を聴き始めた当時は、気心が許せる友達で身の回りを固め、消極的な交流を徹底的に排除する生活を送っていた。しかし、野音開催の2ヶ月前に社会人になると、友達と会う頻度が減る一方で、消極的な交流を強制されるようになった。そこにはあまりに話の通じない人が多く、世間のつまらなさ(健全さ、浅さ、適当な言葉が見つからないが)に辟易する事が何度もあった。野音当日にやっと、この歌は自分のものになった。心の内に抱えた到底人に見せられないような感情が音楽で代弁され、「こんな気持ちを抱えているのは自分だけじゃない」と思えることは、音楽の持つ1つの力だ。



痛快。その一言に尽きる。イントロがやはり印象的。完全に野音の音響を使いこなしていた。
資本主義のど真ん中みたいな会社に就職してしまったので、きっとこの歌に共感できる日がこれからくるのだろう。最近はJIGDRESSのAMELを聞いて、この歌と重ねていた。どれだけ資本主義に揉まれようと、神様気取りの豚にだけはならない。お前にこうべを垂れたら、殺せよ、俺の感覚を。決意を固める為の歌。

E.B.T.R

注射じゃ治せない、豚、と新譜が2曲連続で続いた後に演奏されたE.B.T.R。この曲も変身と同様、新譜と強烈なシナジーがあった。野音に向かうまでの電車で聴いていたのを覚えている。
特に印象的だったのは、「治らない病気のせいなのか?楽しい振りすらできないのは」の部分。あの限界を迎えたような自虐的な嘲笑混じりの歌声と表情は、脳裏に強くこびりついて残っている。CRYAMYの楽曲はどこまでも生々しく、痛々しく、だからこそ心の奥に響く。

Pink

満を持して演奏されたライブ定番曲。フロアの盛り上がりと、曲名の通りピンク色に照らされたステージが印象的だった。
個人的にCRYAMYの楽曲の中で歌詞が1番難解なのはこの曲で、他の人がどういう解釈で聴いているのか気になっている。まあ、何もかも理解しようとするのは野暮なのかもしれない。
最近は、人に苦しみを打ち明けられた時に、その苦しみをどれほど理解しようとしても究極は自分事にならない事に無力感を感じることが多かった。そんな時にこの曲を聴いていた。公然、漠然、否定と中立、黙然、当然、not because mine。

HAVEN

CRYAMYの数ある楽曲の中でも、特に大切な曲の1つ。「枯れた花じゃ誰も笑顔にはなってくれないのに、今日もそれを飾ったままなのは、自分を愛せないから」に続いて「自分を許せないから」と歌っていた。
自分を愛す為には、自分を許す必要がある。抱えている苦しみに折り合いをつけるために適当に妥協を重ねて楽な方へと進んでいけば、確かに人並みの幸せは手に入るのかもしれない。しかし、それでは誠実ではない。CRYAMYの音楽が美しいと感じるのは、どこまでも誠実に感情と向き合っているからだ。
「大したことじゃない、誰にでもあるような事なのかもしれない。けどそれが壊した繊細さや柔らかさは、もう帰ってこないかもしれない」HAVENの中で特に思い入れのあるフレーズ。人に苦しみを発露する時、大抵の場合は「そういうものだよ」とか「しょうがないことだよ」とか、そういう類の慰めが返ってくる。時速36kmの「最低のずっと手前の方で息が続かなくなっていく/銀河鉄道の夜明け」にも共通する事だが、大したことでないとか、誰にでもあることだとか、そんなことは問題ではない。更にいえば、人はどうしても苦しみを他人と比べて相対化しようとしてしまう傾向にあると思う。「あの娘の方が苦しいし」とか、「それでも自分は恵まれているし」とか。しかし、苦しいものは苦しいし、痛いものは痛い。繊細さや柔らかさを失わないように、いや例え失ってしまっても、お揃いの歌を聞こう。花は枯らしたまんまでいい。

物臭

上京当時、カワノが弾き語りをしていた際に出逢い、そしてもう会えなくなってしまった彼の話から演奏は始まった。物臭と次に演奏されたDelayは、彼に向けて作られた歌。CRYAMYの楽曲の中で数少ない、「あなた」が誰か明らかになっている歌。
日比谷野音に3000人を集め、青空の下でこの歌を歌うカワノの姿は、まるで名作映画のラストシーンのように感動的で、美しいものだった。
地下のライブハウスでは空からは見えないが、野音ではその限りではない。
満員の野音での3時間半は、確かに劇的で、特別だった。

Delay

物臭に続いて、Delay。開演の数日前に、この曲が1番好きだと語る友人と「物臭とDelayが野音で聞けたらいいね」と話していたのを覚えている。野音という特別な舞台でこそ演奏される曲。
歌い始めが古いバージョンの「何もなくて何も持たず」だった、何度も繰り返しライブ音源を聴いていたから耳に馴染んだ。
「未だに望んでた明日はこないけど、言葉を吐き出したいよ、あなたが私にしてくれたように、私もあなたのように」普通でも書いたことだが、想いは内に閉じ込めすぎると腐ってしまう。しかし、わざわざ内に秘めるような想いを言葉にして吐き出すことは、そう簡単なことではない。
だからこそ、特別な誰かにくらいは言葉を吐き出せる人間でありたいし、特別な誰かが言葉を吐き出してくれた時くらいは、正面から向き合えるような誠実な人間でありたいと思う。きっと想像以上に時間は有限であり、命にも限りがあるものだから。

ALISA

物臭、Delayに続き、ALISAが演奏された。この曲も「あなた」が明らかになっている数少ない曲である。(というか、この3曲しか思いつかない。このセトリにはきっと、そういう意味があるんだろう。)ALISAは母に向けて作られた歌だとされている。
以前弾き語りでも聞いたことがあったが、野音では特に 「ここにいちゃいけない」が切迫した力強い声と表情で歌われたのが印象的だった。シカゴのレコーディングから帰ってきてからのカワノの歌声は、明らかに力が増している。
物臭、Delayに続いて開けた青空の下でこの歌を歌うカワノの姿は、当然苦しくも見える一方で、どこか清々しいようにも見えた。

GOOD LUCK HUMAN

演奏前のMCでは、「音楽の中では、綺麗な事を歌おうとしてきた。単純に、綺麗なものが好きだったから。けれど自分は、良い人間ではない。戦争には心を痛めるが、こんなやつは死んだ方がいいと、本気で思う人もいる。あなたたちが、俺を人間にしてくれた」という想いが語られた。後述するが、新譜での表現は、ある種カワノがどこまでも人間であることの白状であった。
GLH、下北沢公演での世界を除いて、全国ツアーで唯一歌われた旧譜。
野音では普段と違う聞こえ方がした。というのも、「弱そうに震える青空を迎えにいけるのは僕らだけ」も、「永遠にいうなよ、「さよなら」の4文字は随分前に僕が壊しておいてあげたから、なくさないでね」も、確かに自分に向かって歌われている感覚があった。大丈夫だ。例え野音が終わろうと、例えこの先どうなろうと、絶対賛美歌は終わらないし、生涯賛美歌は途切れない。
この曲といえばやはり、「暴力に憧れないで、悪意に魅力を感じないで」という歌詞だろう。自分は誠実に生きている、なんてとてもじゃないが胸を張って言えない。それでも、大学生活では辟易するほど暴力と悪意を目にしてきた。人を大切にしない事や、モラルに反した行動をとる事が、「カッコイイ」とされる文化があった。この曲は、そんな胸糞悪い大衆の流れに抵抗し、少しでも誠実に生きようとする背中を押してくれる。

ディスタンス

第1部の締めくくり。フロアも特に盛り上がっていたのを覚えている。眠れない夜がくる度にSoundCloudのライブ音源を聴いてきたので、ディスタンスを聞くとどうしても「生きてきて、良かったなんてことも、ないないないない!」のアレンジが脳内で再生される。
果たして、野音でのライブはカワノにとって「生きてきて良かった事」になるだろうか。きっとそれを決めるのは、あの場に居合わせた全ての人だろう。CRYAMYの音楽は、彼らの演奏を聴いた人の心の奥底に届いてこそだ。
本人の目に触れる事はないだろうが、その一助になればいいと思い、ここに残す。
2024年6月16日、言葉なんかでは到底言い尽くせないほど、生きてきて良かったと心から実感した日だった。もう人生でこんな日は訪れないだろうと、一切の悲しみはなく、心からの充足感をもって感じた日だった。心臓を温かいなにかで包まれたような、そんな日だった。

道化の歌

本当はやるつもりがなかった、と言いながら歌われたのは道化の歌。第2部の幕開け。カワノ単独作品の「冷たい哺乳瓶」収録曲。まさか聞けるとは思わなかった。「僕がのたうち回るのを笑ってる君の顔が好き、見返りに今日も踊るよ、止まったらちゃんと殺してね」マリアの終盤を彷彿とさせるような狂気的な覚悟を感じる歌詞が、息をするように歌われる。まるでそれが当然だと言わんばかりに。カワノ単独作品は、歌詞が歌詞らしくデフォルメされていないところがいい。
いつかA,UN、俺たちは失敗した、などの他の収録曲もどこかで聞けないものか。

テリトリアル

第2部、バンドサウンドの1曲目はテリトリアル。CRYAMYを聴き始めた当初に1番聴いていた曲であり、間違いなく自分の音楽体験の核となった曲。何を書くことがあるだろうか、カワノが、満員の野音で、テリトリアルを歌う。最高に決まっている。物販の待機列にいる時に音漏れが聞こえてきた時でさえ、それだけでもう胸がいっぱいだった。最早、何も覚えていない。
唯一覚えているのは、「お前の歌だぞ」とカワノが叫んだ事だ。年明けの下北沢公演でも、カワノは世界の間奏で同じことを言っていた。世界も、テリトリアルも、俺の歌だ。
「簡単なこと言えやしないよ、君の絶望に触れていたいよ」「見えない奥の隙間の方まで届いて欲しい、をなんと言おうか?」これまで色々な好きな歌詞について想いを書いてきたが、結局これに尽きる。君の絶望に触れていたいと思えば思うほど、見えない奥の隙間の方までどうにか届いて欲しいと願えば願うほど、簡単なことが言えない。この曲に頼る夜が、何度あっただろうか。

鼻で笑うぜ

いつも一緒にライブにいく友人が、一時期この歌が特に好きだと話していた気がする。もちろん、俺も好きな曲。
「昔褒められた「優しさ」は、つけこまれるだけの欠点にしかならん、まずね、「優しさ」はそもそも金にはならないし」野音で特に印象に残っている歌詞。確かに、歳を重ねるにつれて優しさが報われない事が増えた。同調圧力の真相、皆互いを利用したい。資本主義社会で上手に生きる為に、優しさは不要である。それでも、「君が生きていてよかった」と思えるならそれでいいのだ。優しさは、無力なんかじゃない。金も力も才能もなくても、何も変えることができなくても、君が生きていてよかったと、お互いに言い合えればそれでいい。

戦争

戦争。綺麗な夜に、無性に聴きたくなる曲。ライブでは特に良い。野音では、言うまでもない。「くだらない夜を耐えてたのは、朝焼けを抱きしめたいから」優しい君ならでもそうだが、CRYAMYの楽曲では時々朝焼けが救いの象徴として登場する。夜が明けると必ず朝日が昇り明日がくることは、時に残酷だが、時に救いになる。CRYAMYの音楽を聴いていなかったらきっと知ることのなかった感覚だろう。この歌がきっかけでCDを買い、ブルーハーツの1000のバイオリンを聞くようになった。真理は、きっと案外シンプルなものだ。最後は見つめ合ってるだけ。

Ten

crybabyと同じく、約1分間のショートチューン。案の定、イントロから我を忘れていて、何も覚えていない。
「確証のない愛を癖になって唱えていた」この歌詞に殺された夜を越えたから、今の俺がある。

ウソでも「ウン」て言いなよね

実はこの曲が、新譜で最も噛み砕くのに時間がかかった曲である。しかしある日、ふとタイトルの英訳を見返して激震が走った。My name is beautiful lier。カワノは葬唱の中で、これまでの楽曲を「無理やり唱えた理想論」「誰にだって言えそうな無限の愚痴」「誰も口ずさまないような歌」だと歌った。当時の俺からしたらそれはとても悲しい事だったのだが、彼は自分の事を「lier」だと自称した上で、それを「beautiful」だと表現していたのだ。何も捨ててはいなかった。何も諦めてはいなかった。カワノにとって旧譜のような綺麗な歌を歌うことは、「酷い手を使って、卑怯に頼り、最悪嘘をついて、死ぬまで騙しきる」事だったのかもしれない。しかし、それらは何もかも、「あんたがいきなりいなくなる事がとても恐ろしいから」であり、「単純にあんた可愛くて抱きしめただけ」だったのだ。
CRYAMYの旧譜は、あまりに綺麗で、時に心の奥底まで届きすぎてしまい、まるで宗教のように崇めてしまいそうになる。しかし、宗教的な信仰は不純である。実際、カワノはこの曲のインタビューでも「「明らかに黒いものでもカワノが白っていうんだ、だから俺たち私たちも白って言わなきゃ」って、そんなことは望んでいない。宗教じゃあるまいし。」と語っている。生身の人間が歌うからこそ、意味があるのだ。
2024年6月16日、日比谷野音音楽堂単独公演。確かにカワノはこの曲を通して、完璧な愛情をステージから捧げていた。

完璧な国

力強いタイトルコールから曲が始まった。野音では34曲が演奏されたが、タイトルコールが行われたのは唯一、この曲だけである。この曲はまさに、CRYAMYの「綺麗な歌」の象徴だろう。個人的に特別に想い入れが深い曲である。
過去にカワノはこの曲について、「いっとき不本意な受け取られ方をして封じていた曲。「完璧な国」とは閉鎖的集合体でもなければ、宗教じみた根拠のない安らぎではない。一人が一人にすがったときに助けてやることであり、それがどれだけ大きく、深い心かという、そういう曲である。」という言葉を残している。誤解してはいけない。彼が歌っているのは、根拠の無い救いではなく、生身の人間の優しさである。だからきっと、ウソでもの後にこの曲が歌われたのだろう。
「今日にでも消えてなくなっても構わないと言えてしまった、顔の歪め方を忘れたあなたも、無事に明日を迎えられますように」誰かの苦しみに触れた夜に、どうしようもなく苦しくなってしまった夜に、何度も繰り返し再生してきた大切な歌詞。ただ漠然と「なんとかなれ」と神に祈りを捧げるのではなく、生身の人間として向き合い、手を差し伸べ合うこと。きっと無駄じゃない。

天国

第2部の締めくくり。ウソでもが他人に捧げる歌であるのと対照的に、天国はカワノが自身に捧げる歌である。(もちろんこの歌は違う聞き方をしてもそれはそれでとても美しいのだが)
イントロから崩れ落ちそうになったのを覚えている。どうやら、今年1番再生した楽曲らしい。
変化は偶然を装って、その実周到に用意される。息苦しい事を受け入れても、何もない。変わらずに生きることはできないのに、都合良く救いなんて用意されていない。喪失の歌。
喪失の歌でもあり、一方で、それでも理想を捨てずに生きていく事を歌う、信念の歌。
あなたが誰かを信じるのを、俺も見てみたい。
伸びた髪が肩にかかっても、生きていて欲しい。
死なないで。どうか、死なないで。

葬唱

第3部の幕開け。日が沈み、照明の明るさが鮮明になった頃に演奏された。間違いなく、野音のハイライトとなった1曲。演奏も、照明も、上手く形容できないが、とにかく鮮烈だった。
「今日は使いこなす」そう言って演奏が始まった。何を使いこなすのか。もちろん、「使いこなせない愛と誠実」をだ。この一言で、全てが繋がった。堪えきれず前述してしまったが、新譜の目を背けたくなるような表現は、この日野音に集った3000人に誠実な愛を届ける為だった。無理やり唱えた理想論が人の波に流されてしまうなら、更に強い力で堰き止めてしまえばいい。盲目的な信仰を買ってしまうなら、自分が人間である事を白状して、目を覚ませばいい。「終わってしまうだけ、駄目」。
この日、この曲を通して、確かに俺はカワノから誠実な愛を受け取った。こんな素晴らしい日がこの先の人生を過ごして二度と来るだろうか。もう、来なくても、いい。

待月

「True Dub」という英語版タイトルが付けられているこの曲。意味は、「綺麗事の上塗り」である。カワノはインタビューの中で、「美辞麗句や大袈裟な愛情を並べて、誰かを過剰に想って、そういうことを繰り返すけれど、結局それは綺麗事でしかない」と語っている。確かにそうだ。文字通りの真実の愛なんて存在しない。純度100%の「誰かの為」なんて存在しない。誰かの為だと心から思ってはいても、その実、背景にエゴや美徳が存在しない事は無い。所詮は綺麗事なのだ。だがしかし、それを自覚した上でそれでも「誰かの為」にと心を割く事は、それに無自覚でいる場合と比較して、全く質が違う。
この曲は、新譜の収録曲の中でとりわけ綺麗な曲である。「万能じゃないけど神だよ、信じていないけど愛してるよ」「かけがえのないものなんてないけど、君はそうだよ」俺も誰かに、心からそう言える人間でありたい。カワノに守られた分、誰かを心から守れるような、そんな人間でありたい。

月面旅行

日は完全に沈みきり、月が綺麗に輝いていたらしい。月面旅行を聞くのに、これほどいいタイミングはないだろう。演奏前にカワノは「大事に聞いてくれて、ありがとう」と言った。涙が止まらなかった。どうやら、曲に対して我々が抱いている想いは、演者には想像以上に伝わないものらしい。その事実にやるせなさを感じていた最近だったので、想いが届いていたという事実は心底嬉しいものであった。
「世界が毎日変わっても、誰かは他人と暮らしても、よほどの事ではない限り、誰も死なずにすんでいる」人は想像するよりもしぶとく、本能にはそうそう逆らえない。しかし、裏を返せば、よほどの事があればその限りでは無い。寂しい夜に外に出て、歩いて疲れて座りこみ、タバコを吸って考えた言い足りない言葉は案外他愛なく、味気ない。そんな夜が、確かに俺にもあった。
何よりも印象に残っているのは、「「愛されちゃいたい」と思っちゃって、馬鹿なくせに笑って息してたら良かったのに」と歌わずに、「愛してくれてありがとう」と歌った事だ。日々積もらせているCRYAMYの音楽への愛が、ちゃんと届いていた。散々沢山のものを一方的に受け取ってきたが、もし何かを返せていたのだとしたら、それ以上の事は無い。

プラネタリウム

CRYAMYの楽曲はどれも大切だが、個人的にギロチンとプラネタリウムは特別である。シンプルで純度の高い、願いの歌。
祈った言葉は、空に星と溶けてしまう。極めて悲しいことだ。祈りも、願いも、分かりやすい形で実を結ぶ事は滅多にない。万能ではない。
この歌は、楽観的に、能天気に、盲目的に神に祈りを捧げる歌ではない。地に足を付けて、残酷な現実から目を逸らさずに正面から向き合い、痛みを抱え、その上で1人の人間としてあなたの幸せを願うという、そういう歌である。質も重みも、そこらの曲とはまるで違う。野音の舞台でこの曲を聞いた3分間を、大切に抱えて持っていく。

街月

この日この曲は、他の誰でもなく、野音に集った私達に向かって、確かな熱量を持って歌われた。「「最近いい感じ」って嘘つくあんたに気づかない俺じゃないけれど、なんて言ったらいいか実際何にも浮かばないんだよ」ツアーで何度も聞いてきたはずだが、野音では特別に切実だった。
カーディガンといえば、Nirvanaだろう。「In Utero」を手がけたスティーブ・アルビニの下でレコーディングされた事とも結び付けずにはいられない。バケツに水を張って、そこで泳ぐ勝算を立てよう。無謀だと分かっていても、到底勝ち目はなくとも、それでも、きっと、俺達は何も諦める必要はない。

マリア

CRYAMYの楽曲の中でも、特にバンドの根幹に関わる重要な意味を持つ曲である。インタビューでは、「僕と音楽についての歌詞ですね。ここで書いてる〈マリア〉は音楽の象徴ですけど、僕が作ったっていうより、僕の心を癒してきた音楽のこと」と語られている。俺にとってのマリアは、CRYAMYである。これはもうどうしようもない。
新譜のツアーは、やはり「正体を打ち明ける」過程だったのだろう。しかし、カワノは「死ね」ではなく、「生きろ」と歌った。これはあまりに大きなことだ。ここの歌詞について、「〈死んでしまえ!と言われたいよ〉ってところは、自分のことをさらけ出して、一生懸命尽くしても、結果的に何もしてやれなかった僕への戒めです。何もできなかったら、俺はCRYAMYを聴いてきた君たちに、死ねとか死んでしまえって言われて当然だから。」という言葉を残していた彼だが、この日を終えた今、「何もしてやれなかった」なんてことはない。少なくとも、俺にとってはそうだ。人生において最も、といっても過言にならないほど意味のある3時間半だった。大袈裟じゃなく、1つの生きる意味になった日だった。
この曲中だったかは定かではないが、「ここまでやったんだから、信じてくれ。愛してる。」と言っていたのを覚えている。ライブ中に叫ぶ「愛してる」に、ここまで説得力があるバンドマンが他にいるだろうか。
マリア、あなたは世界で一番の詐欺師らしいけど、愛してるよ、愛してるよ、あなたしかいないんだよ。


THE WORLD

新譜の1曲目。新譜の音源がリリースされた時、この曲を再生して家を飛び出したあの時の衝動を忘れることはない。怒りの歌。悲しみの歌。この世界の歌。
大抵の事はなんだって上手くやれてきた。爪の先まで抜かりがなく立っているつもりだった。それでも、世界は揺れた。けれど、俺はCRYAMYに出会った。彼らの音楽は、世界の正体を暴いてくれた。時に残酷だったが、行き先を見失った時に道標になってくれた。どこまでも誠実に、愛を与えてくれた。これ以上、何を望む事があるだろうか。

人々よ

叶わないこと、届かないことは、悲しいことである。更に言えば、それを自覚し、予感してしまうことは、より悲しいことである。それでも、いつか願いが叶い、想いが届くことを、どうしても信じずにはいられない。向き合えば向き合うほど、諦観に襲われるようにできている。重要なのは、その上でどうするかだ。
私の声は、私の決めたように響く。あなたの声は、あなたの決めたように響く。心の中に花をもっていれば、自分の中の悪魔に負けずにいれるのであれば、それでいい。何も変えることなんてない。

世界

新譜のツアーDay0、下北沢Daisybarで「この曲を満員の日比谷野音で歌うのが夢でした」とカワノは叫んだ。その夢が、叶った瞬間であった。
CRYAMYに出会ってから、あらゆる時間をこの曲と共に過ごしてきた。原点であり、終着点の歌。
この日最後にカワノが残した言葉は、シンプルなものだった。本当の言葉、突き詰めた先に残る言葉は、得てしてそういうものだと彼は言った。下北沢公演では「頑張れ」がそうだったように。「身体に気をつけること。悪い人もいるけど、良い人もいるというのを忘れないこと。長生きをすること。」この先どんなことがあっても、俺にはこの日があるから、きっと世の中は捨てたもんじゃないと思える。きっと、大丈夫。
「たった100円出すだけで買えるようなコーヒーや何億円もするビルがどこにでもあるように、あなたもどうせ探せばいるようなどこにでもいるような人さ、それでも生きてて欲しいから、あなたは生きていてね」誰かに生きていて欲しいと思うのに、何か劇的で説得力のあるような明確な理由が必要な気がして、じゃないとただのエゴのような気がして、どうしていいか分からず答えがでない時があった。そんな時に、この歌があった。特別じゃなくていい。理由がなくたって、それでも生きてて欲しいと思うのだから、それでいい。
肩を抱く人がいなくたって、結婚指輪がなくたって、誰にも愛されなくたって、あなたが、生きてて欲しい。

終わりに

この文章を書き終わるのに1週間もかかってしまった。初めはただ感想を書くだけのつもりだったのに、曲への想いを整理しているうちになんだか色々と余計な事を書いてしまった気がする。
まあいい、こんなクソ長い文章をきっと誰もちゃんと読まないし、そもそも誰かに向けて書いたものでもない。

最後に、CRYAMYの今後の活動について思っていることを残す。
結局、この日を通して何も明言されることはなかった。ただ、野音前最後のインタビューで「疲れた」と胸の内を明かした男が、あれだけの生命力を使ったのだ。きっと当分は戻ってこないだろう。当然一抹の寂しさはあるが、この日のCRYAMYの演奏に尋常ならざる力があったのは、間違いなく「惜しまずここで使い切る」覚悟があったからだ。彼らの覚悟と決意に、最大限の敬意を払いたい。というか、あれだけのライブを見せつけられて、もう何も言うことはできない。
今できる唯一の事は、彼らがいつか戻ってくるその日の為に、この3時間半を、彼らの残した音楽達を、自分の中で風化させないこと。それだけだ。







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