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「庭師としてのデザイナー」を深読みする

突然だが、ブライアン・イーノがこんなことを言っている。

Think like a gardener, not an architect.
建築家ではなく、庭師のように考えよう。

Working with Brian Eno on design principles for streets

これは、スウェーデンのイノベーションラボであるVinnovaのダン・ヒル氏(当時)が、ブライアン・イーノ氏とのコラボレーションによってまとめた「Design Principles for the street(ストリートのためのデザイン原則)」の1つめの項目として書かれているものだ(久しぶりに見たら有料記事になってた。前は無料で見れたんだけどな…)。

この言葉がけっこう印象的で、1年ほど前からちょくちょくいろんな人に言ったり、引用させてもらったりしているのだが、考えれば考えるほど味のある言葉で、「あ、そういう解釈もできるな」という新しい発見や見方が次々に出てくる。これほどまでに噛んでも味が出てくるスルメみたいな言葉には、近年なかなかお目にかかれない。

というわけで、ここ1年ぐらいの自分の頭の整理も兼ねて、この言葉の個人的な解釈をざっくり書き連ねてみる。大きく6つぐらいになると思う(今後さらに増えるかもしれないけど)。



それぞれ簡単に補足する。

1.デザインは終わりではなく始まりである

これは原文の中でも語られている内容なので細かい説明は不要かと思う。基本的にデザインには「完成」というものはなく、時とともに継続的に育て上げていくものだということ。

2.「コントロールできない」ことを前提にする

これも原文の中でも少し触れられているが、庭師は自然を相手にする以上、全てを自分の思い通りにはできない。むしろアンコントローラブルであることを前提にして、環境の変化や偶発性を受け入れる。

3.つくりながら考えるリフレクティブな実践

アンコントローラブルを前提に置くと、デザインのアプローチも変わってくる。はじめに完成形を決めて(というか完成という概念自体がそもそもないのだけど)、そこに直線的に向かうのではなく、一度配置したものを観察しながら、リフレクティブに実践していくブリコラージュ的なアプローチが必要になる。原文の中でも、ブライアン・イーノのこんな言葉が引用されている(翻訳はDeepL)。

People tend to imagine that making art is like making architecture — that you have a ‘plan’ or a ‘vision’ in mind before you start and then you set about making it. But my feeling is that making art can be more usefully thought of as being like gardening: you plant a few seeds and then start watching what happens between them, how they come to life and how they interact. It doesn’t mean there’s no plan at all, but that the process of making is a process of you interacting with the object, and letting it set the pace.
芸術を作るということは、建築を作るようなものだと思われがちです。つまり、作り始める前に "計画 "や "ビジョン "があって、それから作り始めるのです。いくつかの種を植えて、その間に何が起こるか、どのように生命が吹き込まれるか、どのように相互作用するかを観察するのだ。何の計画もないという意味ではなく、制作のプロセスは、あなたが対象物と対話し、それにペースを委ねるプロセスなのです。

From Brian Eno’s notes on his Sonic Garden installation for Serpentine Gallery

4.人間と非人間を含めたマルチスピーシーズなネットワーク

このあたりからだんだん解釈が飛躍してくるのだが、自然を相手にする「庭師」というメタファーは、マルチスピーシーズなネットワークを相手にするということも意味する。庭園には、一方に植物や動物を取り巻く生態系があり、一方に庭園を訪れたり、管理する人間の存在がある。それらが絡まり合う「場」をつくることがデザインであり、さらに言うと、庭師自身も一つのアクターに過ぎない。デザインは、もはや「人間中心」ではなく、非人間も含めたマルチスピーシーズな世界を射程に収めつつある。
このあたりは、以前Podcastでもゲストに来ていただいたACTANT南部さんの解説がわかりやすいのでぜひ参照されたい(ついでにPodcastのリンクも貼っときます)。

5.「選択のロジック」から「ケアのロジック」へ

マルチスピーシーズなネットワークの絡まり合いの中では、デザイナーである庭師はすべてを思い通りには設計できない。というかそもそも庭をつくるのは自然なのだから、自分が「デザイナー」と呼べるのかどうかもわからない。周りの環境や他のアクターと持ちつ持たれつの関係性の中でデザインに向き合うことは、すなわち「ケア」の倫理にも通じるのではないか。

ANT(アクター・ネットワーク・セオリー)の旗手である人類学者のアネマリー・モルは、「ケアのロジック」と「選択のロジック」という概念で、科学技術や高度医療に代表される西洋社会と伝統社会の枠組みを相対化している。松村さんの『旋回する人類学』での解説がわかりやすいので引用させていただく。

「選択のロジック」では、アクターはしがらみから解放され、自由を手にする。だが、アクター自身がその帰結の責任を負わされる。そこでは、自立と平等が善であり、抑圧が悪である。一方、「ケアのロジック」では、アクターは周囲の人や物とともに物事を行い、試し続ける。行為が動き回り、ケアしたり、ケアされたりする。確かに患者は自由ではない。だが、他者に一方的に依存するだけの受動的存在でもない。そこでは、気配りと具体性が善であり、放置が悪である。それぞれ違う種類の善と悪がある。

松村圭一郎著『旋回する人類学』講談社

「建築家」と「庭師」というメタファーの対比は、「完成形」を自らの意思で自由に設計し、思い通りにコントロールする「選択のロジック」と、コントロールが効かないある意味「不自由」な関係性の中で、自らもそのネットワークに絡め取られながら試行錯誤し続ける「ケアのロジック」の対比とも読み取れる。

6.「中動態」としてのデザイン

「ケアのロジック」では、患者は他者に一方的に依存するだけの受動的な存在ではなく、「ケアする」「される」というパターナリズム的な関係性も成り立たない。これもデザインに置き換えると、庭師としてのデザイナーと庭の関係性も、「デザインする」と「される」が相互に混じり合った状態の「場」として立ち上がる。
「建築家」から「庭師」へのシフトは、能動的なデザインから「中動態」としてのデザインへの転換とも読み取れる。
(中動態とデザインについてはいろいろ興味深い事例や研究もあるのだが、ちょっとまだ考えがまとまってないのでまた改めてどこかで書きたい)


以上です。
解説がどれも言葉足らずではあるが、ここ最近新しい概念に知ったり、触れたりするたびに、「あ、これも庭師だな」と思うものが非常に多い。ANTからマルチスピーシーズ、ケアのロジック、中動態までをこんなにもエモい一文で言い表すブライアン・イーノのセンスまじすげーな、と改めて思う次第です(あくまで個人的な解釈です)。


Photo by Olesia Bahrii on Unsplash


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