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ダンス・マカブル -死の舞踏-

(あらすじ)月明かりの下、ちっぽけな芋虫が、美しい蜘蛛に恋をした――。

(登場人物)芋虫♀

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 ──このまま永久とわに踊り明かそう。願わくは──

 森の奥深く、当てもなく夜道を彷徨っていたときのこと。雨上がりの地面は湿気を含んでいて、ひんやりと冷たく、僕はこの感触があまり好きじゃなかった。

それにしても──

もうすっかり夜も更けた頃なのに、辺りが薄ぼんやりと明るい。不審に思い、ふと空を見上げる。

そこには、あおぐろとばりに浮かんだ月が、威厳に満ちた佇まいで、煌々と下界を照らしていた。こんなにも見事な真円を描く月を見るのは初めてだったから、しばらくその姿に見惚れていると、視界の端で奇妙な瞬きを捉えた。

高い木の枝と枝のあいだに何かが張り巡らされている。それは、透明な糸だった。幾条もの細い糸が縦横じゅうおうに連なり、月の光を浴びて、きらきらと輝いていたのだ。目を凝らすと、それぞれの糸は巧妙な計算のもとに注意深く配置されていて、ひとつの幾何学的な網目模様を表しているようだった。決して、自然に出来上がるものじゃない。何者かが、並々ならぬ情熱と壮大なる美学をもって、この見事な造形を織り成したであろうことは、想像にかたくなかった。

──一体、誰が何のためにあんな物を作ったんだろう。

好奇心を抱いたそのときだった。張り巡らされた糸の周縁部しゅうえんぶで、黒い影が揺らめいたのだ。影は器用な足遣いで糸の上を伝いながら、そそくさとした様子で網目の中心へと向かい、やがて目的地に辿り着くと、そこに陣取ったまま動かなくなった。ここは自分の居場所だ、と言わんばかりの態度だ。どうやらこの生き物が、光る糸によって編まれた風変わりな城の主人であることは間違いないらしい。

彼女の風貌は、その棲家に負けず劣らず独創的なものだった。まず目を引くのが、すらりとした脚だ。胸部から放射状に伸びたそれらは、合計八本。各々が自身の体長をも凌駕するほどに長い。繊細でしなやかな印象の脚部とは対照的に、腹部はでっぷりと幅広な楕円形をしており、ふてぶてしいまでの重厚感に満ち溢れている。

「なんて美しい……」

我知らず、そう呟いていた。もっとよく彼女を観察したかったのだけれど、月明かりぐらいではその輪郭を朧ろ気に浮かび上がらせるのが関の山である。そして何よりここからでは、あの場所はあまりにも遠すぎるのだった。

──この距離が恨めしい。もっと近づくことさえ出来れば。

頭上高く、傲然と構える彼女の威容いように、僕は今やすっかり心を奪われ、魅了されてしまっていた。憧れというべきだろうか。いや、むしろ信仰の対象を見出したかのような感覚に近い。冷たい泥土でいどの不快さなど、とうに忘れ去ってしまっていた。

 そうして、どれほどの時間が経過しただろうか。あれからずっと彼女を眺めていたのだけれど、どうやら彼女は根城から離れるつもりはないようで、同じ姿勢を保ったまま身じろぎひとつしなかった。もしかしたら、眠ってしまっているのかもしれない。

そんなことを考えているうち、木々の隙間から柔らかな陽光が差し込んでいるのに気がついた。森は朝を迎えようとしている。暗くて判然としなかった彼女の姿も、周囲が明るくなるにつれ、徐々にその美貌が露わになりつつあった。

全体的に黒っぽい色をしているけれど、ところどころ臙脂えんじの斑点模様があり、脚やお腹の表面を薄茶色の細かい毛で覆われているのが辛うじて確認できる。朝露で煌めく網目状の巣の中央に鎮座する彼女の肢体は、女王たるに相応しい風格に満ちているばかりか、あまりにも淫靡いんびかつ妖艶で、僕は目が眩むような情欲を掻き立てられずにはいられなかった。

──彼女のことを、もっとよく知りたい。

強烈な衝動に突き動かされた僕は、すぐにその場を離れ、太陽とは反対の方角へと向かった。というのも、一つだけ当てがあったからだ。幸いにも僕には一匹の友がおり、名前をケールという。彼は僕よりも三日程早く生まれたとかで、この森について詳しい。ケールなら、彼女の正体を教えてくれるかもしれない。

いくつかのトラブルを乗り越え、やっとの思いでケールの元に辿り着いたとき、彼は葉っぱの陰で、まだすやすやと眠っているようだった。その呑気な寝姿に何となく腹が立った僕は、いささか乱暴な手段に訴えることにした。僕ら芋虫には、外敵を威嚇するため、特有の分泌物を放つ『臭角しゅうかく』という器官が備わっている。それを頭から飛び出させ、彼の顔へとおもむろに近づけてみたのだ。慌てて飛び起きたケールは、この暴挙に対し、怒りの形相で抗議の言葉を並べ立てた。彼の忿懣ふんまんが収まるまでにはかなりの時間を要し、僕は余計な悪戯をしてしまったことを後悔した。ようやく機嫌を直したケールに、あの美しい女王について質問してみる。すると、たちまち彼の全身に緊張が走り、深刻な面持ちでこう警告してきたのだった。

「そいつは危険だ。悪いことは言わない。絶対に近づくんじゃないぞ」

ケールの話によると、彼女は『蜘蛛』と呼ばれる種類の獰猛な肉食生物で、小さな虫などを捕まえては食べてしまうのだという。言わば、僕らの天敵だ。絶対に報われることのない恋をしてしまったことを、僕は改めて思い知らされたのだった。

「そうかい。わかったよ。君の言う通りにする」

礼を言い、ケールの寝床を辞すると、僕は決然とした足取りで、元の場所まで引き返し始めた。

彼の忠告に従うと言ったのは、もちろん嘘だ。今、僕の胸をじりじりと焦がしているのは、命の危険があるから、という程度の理由で諦められるような生半可な情熱じゃない。どんな結果が待ち受けていようとも、僕は必ず彼女の元へ逢いに行く。けれど、そのことを正直に伝えたところで、彼に理解してもらえるとは思えない。なにせ、生存本能というのは、あらゆる生き物にとって、行動理念や価値判断の基準として考えたとき、大抵の場合、最も重要な割合を占めている概念だからだ。僕だって、ずっとその原則に従って生きてきた。数時間前までは。

──ケールとは、恐らくもう二度と会うことはないだろう。

そう思うと、一抹の寂しさと共に懐かしさが込み上げる。彼からは生きる術を沢山教わったし、随分と助けられた。尊敬に値する芋虫だった。ただ、彼には少し変わったところがあって、事あるごとに自分の名前を自慢してくるのだ。それだけじゃなく、僕にまで名前を持つよう勧めてきたこともある。しかし僕にはそんな物、ヘンテコな飾りとしか思えなかったし、実際、名前を持っている仲間など、彼以外には誰もいなかった。何故、ケールが名前なんかにこだわり続けるのか、結局、わからずじまいに終わったのが、少し心残りではある。

 例の蜘蛛を目撃した付近まで戻ってきた頃には、もうすっかり昼を過ぎていた。慎重に身を隠しながら移動していたため、思ったより時間がかかってしまったようだ。太陽光によって存分に温められた地面は、完全に乾いてしまっている。

早速、蜘蛛の居場所を探ろうと、僕は樹上を仰ぎ見た。確か、あの木の枝の辺りだったはずだ。なのに──

おかしい。彼女の姿が見当たらない。それどころか、あの見事な糸の城さえ、跡形も無くなっているじゃないか。

「一体、どこへ……?」

僕は慌てた。強い意思と覚悟をもって、蜘蛛と向き合うことを決めたのに。彼女が居なければ、その決意も空回りするだけで、何の意味もない。

当惑と落胆に打ちのめされながらも、僕は一縷いちるの希望を胸に、彼女の帰還をその場で待ち続けた。手掛かりもないのに探し回ったところで、どうしようもない。第一、そんなことをする気力も体力ももう残っていない。さっきの、ケールの住処との往復で、既に疲れ切っているのだ。何の変化も無いまま時だけが虚しく過ぎていくのを、僕はただぼんやりと見つめていた。

 一陣の突風が森を吹き抜けていく。その風に肌をなぶられ、僕は意識を取り戻した。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。周囲を見渡すと、森全体が茜色に染まっていた。

──彼女は?

ひょっとして、もう帰って来ているかもしれない。目を凝らして、高い木の枝を注視していると──

居た! 長い手足に膨らんだお腹。高潔で気品に溢れたあの佇まい。間違いない。蜘蛛だ。愛しい彼女が、僕の前に再び姿を現したのだ。その事実に僕は感激し、天にも昇るような喜びに打ち震えた。

そうして、夢見心地のまま、しばらく蜘蛛の一挙手一投足に見入っていたのだけれど、どうも様子がおかしい。忙しなく、一向に落ち着く気配がないのだ。よく観察してみれば、彼女は、お腹の先端から糸を吐き出し、枝と枝のあいだを何度も往復することで、透明な橋を渡しているようだった。橋はみるみる太さと頑丈さを増していき、やがて立派な巣の幹となる。あっという間に外枠の完成だ。その後も彼女は手を緩めることなく、外側から内側に向かって同心円状に横糸をせっせと張り進めていく。日没を待たずして、昨晩見たのと同じ形の網目模様が出来上がった。それはまるで、一流の芸術作品の誕生に立ち合ったかのような感動を、僕にもたらしたのだった。

「素晴らしい……」

この鮮やかな手練しゅれんを目の当たりにして、僕はますます蜘蛛の虜になってしまった。心地よい陶酔と言っていいだろう。僕はしばらくの間、うっとりとした感慨に耽っていたのだけれど、その内ふと一つの疑問が湧いてきた。

──どうして、巣が消えてしまっていたんだろう。

予期せぬ事故に見舞われて、穴が空いてしまったとかであれば、部分的に修復すれば事足りる。何もわざわざ一から張り替える必要はない。何者かに巣を壊されてしまったのかとも思った。だけど、もしそうなら周囲にも何らかの痕跡が残るはずで、巣だけが綺麗さっぱり無くなってしまうとは考えにくい。それに、敵からの襲撃を受けながら、蜘蛛がまったくの無事で済んだということの説明がつかない。となると、蜘蛛みずからが巣を畳んでしまったのだと推測するのが妥当だ。

──だとすれば、何故?

恐らく、彼女は夜行性の生き物で、日中はじっとして過ごすことのほうが多いのだろう。巣をそのままにしていては目立つし、油断した隙に襲われる危険がある。地上から蜘蛛の姿を視界に収めることが出来なかったのは、きっと縄張りのどこかに潜んでいたからだ。

つまり、本格的に活動を始める夜に備えて夕方のうちに巣を作り上げ、朝になれば速やかに撤収し、日中は身を隠してやり過ごす────それが彼女の生活様式だということになる。

ケールの話では、蜘蛛というのは恐ろしい天敵で、近付いてはならない危険な存在なのだけれど、それは僕らのような小さな虫から見た一面なのであって、必ずしも絶対的な評価とは言えない。視点を変えれば、鳥などの外敵に食べられる可能性もあるわけで、実際に彼女自身もそのことを警戒している。

ここまで考えを進めた僕は、あることに気づき、はっとした。弱肉強食の世界では、一寸先は闇であり、何が起こるかわからない。僕よりも先に彼女の命が尽きることだって十分にあり得る。その憶測は、抑えがたいほどの戦慄と焦燥を生んでやまないのだった。

──一刻も早く逢いに行かなくちゃ。

急速に想いが強まる。気がつけば、夢中で駆け出していた。脇目も振らず、蜘蛛の住む樹へと向かう。見れば見るほど、巨大な樹木だ。彼我ひがの距離が縮まるにつれ、大樹はその存在感を増していく。迫力に圧倒されながらもようやく根元に到着した頃には、すっかり夜が更けてしまっていた。

目的地へ辿り着くには、この樹をひたすら垂直方向に登っていく必要がある。考えただけで、気が遠くなるような道のりだ。けれど、他に手段がない以上、ここで足踏みしていても仕方がない。

深く息を吸い込むと、僕は上体を大きく反らした。その姿勢を維持したまま、樹皮の表面に三対さんつい胸脚きょうきゃくを掛ける。続いて、お腹にある吸盤の形をした十本の脚を使い、がっしりと幹にしがみつく。これで準備は整った。あとは前進──いや、上昇あるのみ。決意を胸に、僕は長い旅路への第一歩を踏み出した。

木登りで一番怖いのが、高所からの落下だ。それだけは絶対に避けなくちゃならない。幸い、足場はデコボコしている。でっぱりに爪を引っ掛け、安全を確保したうえで慎重に進む。さらに万全を期するため、ある物を利用する。糸だ。僕は、口から透明な糸を吐き、頭をぐるぐると旋回させながら、樹の表面に吹きつけていった。この糸で作られた絨毯の上を通ることで、身体が粘性を帯び、不慮の事故を防ぐことが出来るのだ。

それにしても──

こうやって糸の使い方ひとつ取ってみても、僕と蜘蛛では、発想のスケールが違う。糸を編むことで、あんなに立派な城を造り上げるなんて、自分には思いもよらないことだ。改めて、彼女に対する畏敬の念が募るのを、僕は実感していた。

 登攀とうはんを開始して、かなりの時間が経過した。旅は順調そのものだったけれど、いかんせん終わりはまだまだ先になりそうだ。払暁ふつぎょうの気配を肌に捉えながら、僕はこの辺で休息を取ることにした。

──お腹が空いたな。

まさに今、僕がしがみついているこの木の枝にも、沢山の瑞々しい葉っぱが生い茂っている。でも残念ながら、それらは僕らが食べることのできる種類のものじゃなさそうだった。つまり、この樹を下りない限り、食料を得られる機会は永遠に訪れないということ。文字通り、命を懸けた決死行の只中に身を投じているのだと思い知らされる。そして、これだけの艱難辛苦かんなんしんくの果てに待ち受けているものは──

間違いなく、破滅だ。蜘蛛の攻撃射程に脚を踏み入れた瞬間、僕の命の炎は潰えるだろう。それだけは疑いようもない。蜘蛛の餌として華々しい最期を迎えること──それこそが今の僕にとっての生きる目標であり、最大にして唯一の願いだった。

──その宿願を果たすまでは絶対に死ぬわけにはいかない。

 そう心に固く誓った僕の元に最大の危機が訪れたのは、それから数日後のことだ。バサバサという、不吉な羽音の急接近に気づいたときには、もう遅かった。仰ぎ見れば、一羽の野鳥が獲物──つまり僕のことだ──に狙いをつけている真っ最中だったのだ。

黒い翼に白の斑点が目立つ中型の鳥で、下腹部や後頭部だけが鮮やかなしゅで染まっている。何やら樹の幹をくちばしで執拗につついているのを地上から見たことはあるけれど、こんなに間近で目にしたのは、もちろん初めてだ。

僕は慌てて戦闘体勢を取った。すぐさま、頭の上にある隙間から臭角を思い切り突き出し、自分が危険な存在であることをアピールする。さらに上体を起こすと、相手からなるべく大きく見えるよう左右に揺らいでみせた。精一杯の虚勢だ。以前、草むらで蛙と鉢合わせしたときには、このやり方が功を奏し、撃退することが出来た。

けれど、今回はあの時よりも遥かに危険な未知の敵だ。威嚇したところで、果たしてどれほどの効果があるのか見当もつかない。それでもこの方法に賭けるしか──

祈るような僕の想いも虚しく、鳥はまるで怯む色を見せなかった。暗赤色あんせきしょくの虹彩を光らせ、余裕の面持ちでこちらを睥睨へいげいしている。あたかも、じっくりと品定めをしているといった風情だ。

──このままじゃ、喰われる!

直感がそう告げている。志半ばで道を断たれてしまうのが残念でならなかった。少し前の僕ならこの終局をすんなり受け入れていたに違いない。だって、地面を這いずり回るだけの芋虫と、優雅に空を飛び回る鳥とでは、どちらがより偉大な生き物であるかは明白だ。死が避けられない運命なのであれば、せめて上位存在の血肉となることで報われたいと望むのは自然な感覚じゃないだろうか。

でも今は事情が異なる。何と言っても、僕が肉体を捧げたいのは、蜘蛛であって、鳥じゃない。この世で最も美しく崇高な彼女に手折たおられるためだけに、僕の命は在るのだ。それなのに──

どうしても諦めきれずに僕は、無駄な抵抗だと知りながら、鳥からの逃走を試みた。身体の向きを反転させて、幹の裏側へと急行する。僕にとっての全速力ではあったけれど、鳥からすれば、さぞ緩慢な動作に映ったことだろう。一歩ないし二歩で追いつかれるのを背後に感じた。続いて急速に迫り来る、明確な殺意。

──もうダメだ!

覚悟した次の瞬間、大きな影が眼前に立ちはだかった。驚くべきことに、もう一羽、別の種類の鳥が現れたのだ。今度は、薄茶色の羽根に、短く黒っぽい嘴が特徴だ。この招かれざる闖入者ちんにゅうしゃに対し、先客の黒い鳥は甲高い鳴き声をあげ、不快感を露わにした。薄茶色の鳥も退く気はないようで、場には不穏な空気が流れている。どうやら餌──僕のことだ──を巡って一触即発の緊張状態にあるらしい。この機会を逃すわけにはいかない。僕はその場から離脱しようと、死に物狂いで身体をくねらせた。鳥たちはというと、最早、僕なんかには目もくれず、喧嘩をするのに忙しいといった様子だ。ついには、二羽でもつれ合いながらどこかへ飛んで行ってしまった。

「助かった……」

思わず安堵の声が漏れ、僕はその場にへたり込んだ。長旅とさっきの騒動で、気力も体力もつかい果たしてしまっていた。そう言えば、もう随分と食事を摂っていない。これまで不屈の精神で極限状態を耐え抜いてきたけれど、それもそろそろ終わりが近いみたいだ。

でも、だからこそ──

僕は自分を奮い立たせた。終わりが近いからこそ、ここで立ち止まっているわけにはいかない。悲願達成はもうすぐそこまで来ているのだ。気を取り直して、歩みを再開しようとした僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。

「あれは……蜘蛛……!?」

狂おしいほどに追い求めた瀟酒しょうしゃたる肢体がそこにあった。夕暮れ時ということもあって、丁度巣作りに精を出しているところだ。指呼しこかんに臨む蜘蛛の姿は、遠くから眺めるよりも一層、凛として映り、また一段と麗しい。

僕は大いに感動し、そして、それ以上に落胆した。何故なら、蜘蛛の居る場所に問題があったからだ。彼女の現在地はこの樹の延長線上じゃなかった。そのすぐ隣の樹だ。僕が進路の選択を間違ったのか、はたまた蜘蛛があれから拠点を移動させたのか、真相はわからない。ともかくこのまま登り続けても、一生、彼女に逢えないことだけははっきりした。

「なんてことだ……」

今から、来た道を引き返して、一から隣の樹を登り直すような余力など、もう残っていない。いずれかの時点で、中断を余儀なくされるだろう。命懸けの挑戦が徒労に終わったことへの失望、虚無、挫折感に打ちひしがれながら、僕は悄然しょうぜんと触覚を垂れた。

──こんなはずじゃなかったのに。

絶望の淵に立たされた僕の全身を強烈な眠気が襲う。目の前が霞んで、今にも気を失ってしまいそうだ。無理もない。元々、疲弊の極にあった肉体を辛うじて支えていた心の軸が、根本から折られてしまったのだ。ここに至って著しい変調を来すのは、当然の成り行きと言えよう。

それでも──

朦朧とする頭を巡らせる。今、やるべきことが何かあるはずだ。

そう自らを鼓舞すると、僕は勢いよく糸を吐き出した。足場の広範囲にわたって、それを吹きつけていく。このまま完全に意識を手放してしまえば、地面に落下してしまう。そうなる前に、身体を樹木に固定しておく必要があると判断したからだ。

腹部と樹皮を十分に接着させたら、今度は、胸脚きょうきゃくに糸を巻きつけていく。それを幾重にも繰り返し、輪っか状に成形したものを背中側に通すことで、命綱として利用するのだ。最終的には、太い糸にもたれ掛かる形で身体を仰け反らせ、くの字の姿勢のまま状態を維持することに成功した。

これで落下の心配からは解放された。けれど、打つ手が何もないこの現状は変わらない。その場しのぎの延命措置にどれほどの意味があるのだろう。

──残念だ。僕には彼女に逢う資格がなかった。

流麗な脚さばきで巣作りに没頭する蜘蛛の息遣いを遠くに感じながら、僕は深い眠りへと落ちていくのだった。

────。

────。

────ああ。

────なんて穏やかな時間なんだろう。

いつまでも、どこまでも──ただ、ひたすらに静謐せいひつで穢れのない空間が、天壌無窮てんじょうむきゅうの広がりをもって、僕の全身全霊を包み込んでいる。あらゆる感覚を失った今、その認識だけが、僕の世界のすべてだった。

──死ぬのか、僕は。

ぼんやりと脳裏によぎるのは、諦観ていかんじみた一つの予感。それは恐怖も苦痛も伴わず、ある種、解き明かされた真理のように、透徹とうてつした理解を僕にもたらすのだった。

──ああ、いっそ、このまま露と消えてしまいたい。

湧き上がるその欲求に抗う理由なんて、今更どこにもない。僕は、これまでに味わったことのない幸福感に満たされながら、溶け出した自意識が世界と混ざりゆく過程を堪能していた。これですべてが終わる──そのはずだった。

──これは。

懐かしい風の匂いがする。それだけじゃない。聴こえるはずのないさざめきが、視えるはずのないほのめきが、触れられるはずのない生命の息吹が、切実な実感を伴って、次々と僕の元へ働きかけてくる。どうやら、夢境むきょうの一部に、いつの間にかヒビが入っており、諸々の事象は、そこから流れ込んできているようだ。気づけば僕は、生じた亀裂に我が身を滑り込ませるべく必死でもがいていた。何故だか、そうしなければいけない気がしたのだ。渾身の力を込めて、裂け目をこじ開けていく。その先には──

 無数の星々が、飾り立てるように上空を埋め尽くす。地上に広がる森は一見穏やかだけれど、よく観察してみれば、至るところで生物たちのしたたかな営みが垣間見える。慣れ親しんだ、いつもの夜だ。さっきまでのふわふわとした頭が段々と冴えてきて、久方ぶりに現実への帰還を果たしたのだということを、僕はようやく悟った。

──どれくらい眠っていたんだろう。

そう思いつつ、何気なく視線を落とした僕は、自分の身体を見て驚愕した。全部で十六本あったはずの脚が、たったの六本に減っていたのだ。つまり胸脚きょうきゃくだけが残ったわけだけれど、今までとは形が全然違う。細い枝のようにすらりと長く、沢山のふしで分かたれている。先端の鉤爪は鋭く、それを足場に引っ掛けることで、しっかりと全体重を支えられる仕組みだ。

顔の下のほうには、ひょろ長い管が垂れ下がっていて、これは口であることがわかった。こんな形の口では、葉っぱを噛み切ったり糸を吐いたりといったことは出来そうにないけれど、そのことは今や大した問題ではないように思える。

それよりも──

背後に確かな重みを感じる。薄っぺらで幅の広い巨大な何かが合計四枚、背中を起点として伸びているのだ。恐る恐る慎重に、それを動かそうと試みる。ほんの僅かだけれど、左右に開いたり閉じたりすることが出来た。この不思議な何かの正体は──間違いない。はねだ。這いずり回るしか能のない芋虫の僕に、突如として翅が生えてきたのだった。

──こんなことが起こるなんて!

これまでにも数回、僕は古い皮を脱ぎ捨て、その度に大きく成長するという経験を重ねてきた。けれども、今回の一件は成長なんて言葉で言い表せるような代物じゃない。劇的な変貌と呼ぶべきだろう。まったく別の生き物に生まれ変わったのだと錯覚すら覚えるほどだ。いや、それが錯覚なのかどうかさえ、今の僕には判断がつかないけれど、それはもうこの際、どっちでもよかった。とにかく──

「翔んでみたい……!」

思えば、物心ついた頃からずっと、空を翔ぶことへの憧れがあった。ひょっとしたら、自分に秘められた可能性を本能で感じ取っていたからなのかもしれない。そして今、満を持して、その時が訪れた。すぐにでも翔んで回りたい、と気持ちが逸る。けれど、焦っちゃダメだ。生まれたばかりの僕の翅はまだしっとりと柔らかく、満足にひろがりきっていない。十全な機能を得るためには、時間を掛けて、形を整えてやる必要がありそうだった。それから僕は、細長い脚で樹の幹に掴まり、大切な翅が無事に完成するのを、ただじっと辛抱強く待ち続けた。

 大いなる予兆を前に、僕の感覚器官は鋭敏に研ぎ澄まされていく。おびただしい量の体液が、翅の付け根から先端へ向けて、じんわりと隅々まで沁み渡るように流れ込み、力強く循環しているのをはっきりと感じる。四枚の翅は既に最大限にまで伸展し、一定の強度を獲得したように思える。頭の奥が妙にひりついて、僕は大きく身じろぎをしたくなった。頃合いだ。機は熟した──。

「今だ!」

宙空に向かって、僕は勢いよく身を投げ出した。ついさっき胴体の一部になったばかりの翅を、必死に羽ばたかせてみせる。空を飛ぶ鳥や他の昆虫がしていたことの見よう見真似だ。

──やった!

僕は今まさに、夜明け前の生暖かい風の中を遊泳している。衝突や落下に対する不安はあったけれど、そんなことを気にしちゃいられない。初めはつたなかった翅の扱い方も、しばらく自由気ままに翔び回っている内に、みるみる上達していった。ただ地を這うだけのちっぽけで惨めな自分は、もうどこにもいないのだ。めくるめくような高揚感。はちきれんばかりの充足感。とろけるがごとき多幸感。いつもの見慣れた光景のすべてが一層輝いて映り、僕の感動は最高潮に達していた。

──もっとずっと翔んでいたい。けれど──

強烈な喉の渇きが、突然、僕を襲った。軽い眩暈すら覚える、酷い失調だ。それも当然のこと。空腹のまま長旅を続けたせいで、栄養分がまるで不足している。生き永らえるためには、速やかに食事を摂ることが必要だ。食事といっても葉っぱじゃない。この長い口吻こうふんを使って、花の蜜を吸うのだということを、僕の生存本能が教えてくれるのだった。

早速、手頃な花を探そうと、僕は素早い動作で翅を翻した。鱗粉が飛び散り、闇夜にきらきらと舞う。地上を目指すため、ぐんぐんと高度を下げていく僕の身体に、ありべからざる異変が生じたのは、その時だった。

「何だ……!?」

いつの間にか、自慢の翅が、何かべとべとした細い束に絡め取られている。そのせいで、まるきり身動きが取れなくなってしまったのだ。そこから逃れようと懸命にもがくのだけれど、それはまったくの無駄、というよりも逆効果で、むしろ状況は悪化する一方だ。ジタバタともがき続ける内に平衡感覚を失ってしまい、自分が今、天地いずれを向いているのかすらわからない。

混乱に陥った頭で考える。この全身にまとわりついた糸の束には見覚えがある。そう、これは僕が、恍惚たる眼差しで眺めていた憧れの彼女──蜘蛛の吐き出した糸なのだ。

不覚だった。今の今まで、彼女の存在を失念していた。ここに至って、ようやくはっきりした。蜘蛛の巣とは、単なる居住空間なんかではなく、僕のように翅を持った生物を捕まえるために張り巡らされた恐ろしい罠だったのだ。となれば、次はもちろん──

ひたひたと背後から何者かが近づいてくる。立派に伸びた僕の二本の触覚が、その気配を敏感に察知した。僕はありったけの力を振り絞り、窮地からの脱出を図った。僕が暴れる度に、巣全体が激しく揺れ動く。そんな様子を嘲笑うかのように、蜘蛛は驚くべき俊敏な身のこなしで、僕の前に回り込んでくる。逃げ場などないと悟った瞬間──それが、一途に追い求めた彼女との初対面だった。

事実だけを単純に切り取れば、僕の願いは成就したことになる。なにせ、彼女に命を捧げる覚悟で、困難に立ち向かい、試練を乗り越えて、ようやくここまで辿り着いたのだから。でも今の僕は、知ってしまったのだ。生きることの素晴らしさを。勝ち得た自由の尊さを。快哉かいさいを叫ぶほどの胸の高鳴りを。

これからもきっと心躍る出来事が僕を待っているはずだった。花の蜜の甘い味を知り、燃え上がるような恋をして、やがて可愛い子孫を残す──そんな幸せな未来図を思い描いていた。やっとそうするに相応しい存在になれたのに。

それなのに──

至近に蜘蛛の毒牙が迫る。皮肉にも、芋虫だった頃よりも著しく性能が向上した複眼で、僕は彼女の全身を改めて観察してみた。せめてもの思いで、最期の記憶としてその姿を目に焼きつけておこうと考えたのだ。でも、それにしても――

──なんて醜いんだろう。

目の前にいる生き物は、むせ返るほどの殺意を辺りに撒き散らす、おぞましくも醜怪しゅうかいな捕食者以外の何者でもなかった。深淵を覗き込むようなくらく濁ったその瞳からは、最早、希望の一欠片も見出せない。すべてを諦めて、運命に身を委ねようとしたその時──

ひらひらと宙を漂う何かが視界を通過していった。青緑色の帯の入った黒い四枚の翅をひらめかせ、実に優雅な佇まいをしている。僕は直感した。あれは僕の仲間だ。ああ、そうだ、そうに違いない。あの美しい姿は、きっと彼は、彼は──

「ケール! 僕だよ! 助けて!」

無我夢中で叫んでいた。その声が届いたのか、彼は憐憫の眼差しで僕のほうに一瞥いちべつをくれると、さっさとどこかへ翔んで行ってしまった。僕はひどく後悔した。何故、あの時、自分の名前を決めておかなかったのだろう。そうすれば、彼に自分のことを呼んでもらえたかもしれないのに。

きっとケールは、最初から知っていたのだ。己というたったひとつの存在を、他者の心に刻んでもらうのに最も効果的な方法を。そうやって互いの価値を認め合うことの大切さを。繋がることの掛け替えのないよろこびを。つくづく彼は正しかった。

──終わらせよう、この恋を。

雁字搦めにされた僕の翅は、激しくもがいたせいもあり、見る影もなくボロボロに破れてしまっている。そんなことはお構いなしに、僕は羽ばたくのをやめなかった。翔べなくても、どんなに無様でも、やめるわけにはいかなかったのだ。名前のない僕が唯一、生きた証を残すために。

──このまま永久とわに踊り明かそう。願わくは──

死臭漂うこの場所で、魅入られたように舞踏に興じる僕の姿を、細長に欠けた月だけが、冷ややかに見つめていた。

(了)

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