感動の定義が違いますねん

「写メ」より「目で記憶する」ことが上位にあると思っているTwitterでの呟きを最近目にした。
お笑いのネタライブでメモりながら観るよりは…と同質の価値観だと思う。
今しかできない体験を自分が直接見たもの聞いたものだけで脳に刻み込め!
と言えば聞こえはいいね。

でも記憶に残すには目や耳だけでは足りない。同時に自らの動き、または匂い、または音楽
で引き出すための目印の付与が必要なのだ。

メモは記憶にはとても有効な手段であることを知ってて欲しい。

しかしたとえば初めて手品を見た時の感動を言語化するのは難しい。そこでもし自分が驚いてキラキラさせた目を親が写真で残してくれていたらどんなにか嬉しいだろう。
きっとその感動を客観的にも内面的にも甦らせるはずだ。
とは言っても実のところ、その感動は自分の中で何度も再構成しなければ育つこともなく一過性の感情として消化されるだけなのだ。

そして記憶は嘘をつく

最近、ウルトラセブンの再放送でウィンダムがガッツ星人の光線で爆死していたことに驚いた。
小3の自分は正義の怪獣が死ぬわけがないと記憶を改変していたようなのだ。


だからこそ今の瞬間を形として残して置きたいのが写メであり言語化なので、「ただその瞬間を味わう」とは未来への自分に伝える労力を放棄した怠惰だと信じている。

思い出を残すとは未来の自分と今の自分が感動を共有する意味を持つ。

小学校低学年で初めてゴジラの映画を観たときは、家に帰った途端に覚えている場面を紙に描きなぐり、パンフの写真を模写し続けた。その絵はもう残ってはいないが、もし今その絵を見ることが叶うなら、映画の内容も絵を描いているときの気持ちも追体験できただろう。

時のスパンをもっと拡げるならば、和歌や俳句は感動の究極の言語化と言い換えることができる。
昔の人がその言葉を残してくれたからこそ、当時の歌人が目にした景色、味わった想いが現代人の中に再現されるのだ。

なぜその作業を放棄することが、「楽しむ達人」扱いされるのかが全く理解できない。

写真一枚撮ることで未来の自分が今と同じ気持ちを味わえるというのに、現代の自分だけの楽しみとして消化するなんて、最高の料理が完成したのにレシピを残さないのも同然じゃないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?