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船上の貴婦人【創作大賞×エッセイ】

まだ初夏だというのに、バルセロナの陽射しは強烈だった。真っ青な空と海を背景にして、真っ白な巨体が目に眩しい。冗談半分で荷物に入れていたサングラス越しに、私はその船を見上げた。

「どういう理屈で浮いてるの…」

思わず零れた独り言に、前を歩いていた夫が振り返って笑う。何かを説明しているようだが、まるで頭に入ってこない。私の視線は目の前のマンションもといクルーズ船に釘付けである。

「ここで眺めてていいよ、乗船手続きしてくるから」

夫はそう言って受付カウンターらしき方へ向かって行った。その姿をちらと見送って、また船に視線を戻す。みなとみらいでクルーズ船を見たことはあったから、あの位の大きさかと思っていた。この高さはどう考えてもおかしいだろう。ちらとタイタニックの末路が脳裏によぎってしまう。

手続きを終えて乗船すると、船の中とは思えない吹き抜けのメインホールに出た。既に船内のあちこちでウェルカムイベントが始まっているらしく、私たちを見掛けたクルーがにこやかにドリンクを差し出す。ここではこれが日常なのだ。

荷物が部屋に届くまで少し時間がかかるとクルーから聞き、私たちは船内探索をはじめた。レストラン、プール、劇場、ショッピングエリア、カジノ、図書室、ギャラリー、最上階デッキなどをひと通り見てから部屋へ向かう。

部屋に入ると荷物が届いており、ベッド上にはタオルアートと花が置かれていた。船内放送でそろそろ出港らしいことを知り、バルコニーから出港風景を眺めることにした。

「あれ?手を振るんじゃなかったの?」

ボーという汽笛に混じり、楽しそうな声があちこちから聞こえてくる。出港は船旅の醍醐味であり、いつか自分も船上から手を振ってみたいと思っていたのに、いざその時になると何故かそんな気分ではなくなってしまった。最上階のデッキは子供たちも多いので賑やかだが、バルコニー付近は年齢層も高く、景色を眺めながらドリンクを楽しむ勢がほとんど。その雰囲気に私は負けたのだ、一生に一度の機会だったかもしれないのに。


船は翌日の終日航海を経て、3日目にナポリに寄港する。下船してアマルフィまで観光に行く予定だったので、早起きしてビュッフェ式のレストランへ向かったが、広いレストランをどこまで進んでも空席が見つからない。

最悪、部屋に持って帰るか…と考えていたところで窓際の席のご婦人が私たちを見て手招きをしていることに気づく。

「こちらへいらっしゃい」

日本とは手招きの形が違うので、直感的に気付きにくい。向かいに座っていたご主人らしき男性が、ご婦人の隣の椅子へ移動している。

「よろしいのですか?」

かなり身なりの良いご夫妻なので、夫が念のため確認を入れると

「良いも何も、席がなければ食べられないでしょう?それにここは元々4人席よ?」

とご婦人がにこやかに笑った。私の英会話はセンター試験で止まっているので、簡潔にお礼だけ述べて頭を下げた。会話は夫にお任せである。

席が確保出来たので、料理をひと通り取ってから席へ戻る。食事をはじめるとご主人が

「ナポリへは定刻通り入港するらしいよ」

と話題を振ってくれた。

「それは良かった、今日はアマルフィまで行くので助かります」

そう夫が返すと、今度はご婦人が

「アマルフィへ行くなら、路地裏の階段も登ってみるといいわよ」

と言う。夫が持っていたガイドブックを開くと、あちらのご主人が地図を指さし何やら言っている。どうやらオススメの場所があるらしい。

「素敵な旅になるといいわねぇ」

顔を上げると、ご婦人が私に向かって微笑んでいた。意図が分からず反応に困っていると、ご婦人は私の左手を見てから

「新婚旅行なのでしょう?」

と言った。夫と私の真新しい結婚指輪を見てそう言っているのだと気付く。なんだか何もかも見透かされているような気持ちになり、手がソワソワしてしまう。

ご夫妻はポンペイ遺跡へ行くのだと言う。良い天気で風もあるから遺跡探索にはちょうど良いかもしれない。そんな話を少しした後、ご夫妻が先に席を立つ。私たちも立ち上がって改めてお礼を述べる。

「素晴しい時間をありがとうございます」

そう夫が述べると、あちらのご主人が

「こちらこそ、話し相手がいて楽しかった」

と言ってパナマハットをさっと被る。その隣に立ったご婦人が、私に向かって小さく手を振った。それがあまりにも自然だったので、私も小さく手を振ってご夫妻を見送った。


朝食を食べ終えて部屋に戻り、出掛ける準備をしていると

「帽子いいなぁ」

と夫がボソっと言った。どうやら先ほどのご主人に感化されたらしい。

「船のロゴが入った野球帽なら売ってたよ」

と私が茶化すと、夫はゲラゲラと笑った。どうやら船はナポリに着いたらしい。バルコニーの向こうに街並みが見えている。

今日もサングラスが必要そうだと思い、頭に乗せて部屋を出る。廊下で清掃に入るクルーとすれ違い

「行ってらっしゃい、お気をつけて」

と声を掛けられた。なんだか嬉しくなっていた私は

「行ってきます、ありがとう」

と笑顔でクルーに手を振った。


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