九井諒子ラクガキ本に感動したオタクが、およそ学校教育以来に絵を描いた、その結果と感想

 『九井諒子ラクガキ本 デイドリーム・アワー』が、注文から一ヶ月の品切れ期間を経てようやく届いた。

 本書は絶賛アニメ化中の『ダンジョン飯』を始めとし、『竜の学校は山の上』や『ひきだしにテラリウム』などの作者で知られる九井諒子先生がこれまでに描き溜めたラフイラスト、1ページ漫画、ダンジョン飯のちょっとしたアレンジイラストなどを一冊にまとめたもの。私はWeb公開していた『魔王城問題』から九井諒子先生のファンで(準古参アピール)、興味を持って買いはしたものの、正直絵の機微に疎い人間としてはそこまで楽しめないものだと侮っていた。全然そんなことはなかった。
 落書きならではの、人の痕跡が強く感じられる剥き出しの画力。まるで尽きる様子のない空想の源泉。その質と量のどちらからも圧倒された私は、読み終えた晩に色々考えた結果、絵を描くことの奥深さ、絵を描くことで手に入る実感の正体を確かめるべく、絵を描くことにした。それが昨日のことである。
 中学の授業では美術が嫌で嫌で仕方なく(担当教師のことは別に嫌いではなく、シンプルに絵を描くことそのものに苦手意識があった)、高校は選択性で音楽を履修していた自分だが、それでもオタクの習性に漏れず高校時代は講座動画を視聴してみたことがあったし中古で発掘した10年以上前のモデルのペンタブが家にある。だがちゃんと描いたことは一度もなかった。そのため、便宜上昨日をコゴリオンお絵かき伝説の夜明けとさせていただきたい。
 恐らく日常的に絵を描く人は、何らかのタイミングで絵を頑張ろうと決意した原体験のようなものがあるはずだ。こんな漫画を自分も描いてみたいとか、絵を描くことなら自分はたくさん努力ができるかもしれないとか――絵を描く人の多くが恐らく学生時代に授かるその託宣を、私は昨日授かった。

 活動開始にあたり仲が良い絵描きの方にアドバイスを伺った。かっこよくて綺麗な絵、私も好きな絵を描く人だ。
 おそらくこれは人選ミスだと思われる。彼は大学一年の時に絵、特に漫画のための絵を描こうと思い立ち、およそ二ヶ月間『ブリーチ』と『だがしかし』をひたすら模写することで今の画力に到達したという。今はその時の貯金だけで食っているらしい。画力信用金庫の年利は随分羽振りが良いようだな。なんで学校で教えてくれないんですか。
 だが、技術や決まり事を学ぶ前に、何にしても模倣から入るのが大事であるというのは私も理解できるところだ。何かを創作したいと思い始めた時には、大抵「こうなりたい」という理想が念頭にある。これは文字書き活動などでも同じ。まずはその強い感情への対処を最優先にすべきで、その上で理想の実現に不足している技術を外部から取り入れるという順序が好ましい。スタート地点から上達の最短経路を考えるやり方は私には向いていない。
 であれば九井諒子先生の絵を模写するしかあるまい。
 紙とシャーペンと消しゴムで二時間ほどかけて(ペンタブとイラストソフトの使い方はよく分からなかった)、『九井諒子ラクガキ本 デイドリーム・アワー』の表紙を飾るマルシルの絵を模写した。詳しくはアマゾンなどで確認できる表紙を見ていただきたい。
 自分が実際に描いたのは下の写真。

『九井諒子ラクガキ本 デイドリーム・アワー』表紙の模写(マルシル・ドナトー)

 絵の初心者が完走した感想としては、絵の情報量マジで半端ねえ。
 今回の挑戦にあたり、なんでこんな難しい絵をお手本に選んだの??? という突っ込みは各方面からいただいたが、(たまたますぐそばにモチーフがあったという事情を除くと)この難しさ、情報量こそが私が手ごたえとして欲しかったものなのだ。
 見たままに描く。それだけのことが万難をもって立ちはだかる。
 今回の模写を通して、私の節穴に初めて墨が入ったような心地がした。

 参考にしたマルシルの絵を観察していると、まあ出てくるわ出てくるわイラストの中に潜む技巧の数々! 絵を美しいと思う無意識への刺激の正体が、「描こうという気持ちで観る」ことで初めて意識上に登ってくる。
 
かつて私が見ていたつもりのイラストレーションの世界では、人体も、重力も、繊維も、文化も、感情も、美醜も、そして作者の意図も見えていなかった。それらの情報がたった二時間の活動の中でぶわー入ってきましてもうどないなっとんのやろ。
 この衝撃的体験を十代で通過しておきたかったと思ったりもしたが、逆に思春期には刺激が強すぎて毒かもしれないなあ。

※ここからは参考にした絵と自分の絵に関する感想です。自分が観察して思ったことだから間違いも多く含まれるかと思います。
 このマルシルの絵は恐らくバレエ、もしくはそれに近い踊りで披露されるターンの途中を切り取ったシーン。右回転の強い力がかかっており、その躍動感が絵に反映されている。回転のトルクは中心からの半径が長いほど強くなるため髪の毛は先端が翻っている。結んでいない髪はばらけて後頭部だけでなく、耳の下、脇の下、首の前などに入り込んで一緒に回転している。
 一方で人体は髪と違って剛体なので、つま先と足の付け根で向いている方向が微妙に違っていて、その動きの差が腿周りの服のねじれを作り、皺として描かれる。皺は回転の力だけでなく、重力の影響も受けるので、膝周りにゆったりとしたインナーの膨らみができているのだと思う。ただ、単純に脱力した状態で足を回転させたにしては脚は関節を感じさせず、一本の剛体としてかなりまっすぐ回っているので、これは筋肉のしなやかさ、およびマルシルの踊りの技術の賜として我々の目には映っている。
 次に服。ドレスは各フリルの折り目(呼び方が分からん)が腰回りに一直線に並んでいて、それが回転することで柔らかく広がるように設計されている。それにも関わらず折り目の線の始点が右上から左下にかけて斜めに並んでいるのは、足を上げることでお尻が服を持ち上げるから。逆に言えば、斜めに始点を並べることで人体のパーツが強調される。回転を美しく見せるドレスなので、こっちはトルクの差を織り込んだ設計になっていて、回転に合わせてフリルが広がるように作られている? 服飾には明るくないが糸の方向とかも関係してそう。
 そしてマルシルの顔もまた回転の途中だから、体勢は一本足でまっすぐ立っているように見えて右下を向いている。ここが何度描き直しても手本のようにいかない! 何よりも自分が描いた顔はマルシルっぽく見えない!
 マルシルの顔の最大の特徴は丸っこい垂れ目だと思うが、この絵では瞼が閉じられているため目による識別はできない。でも元の絵はマルシルっぽいと分かり、私の絵はそうではない。眉や輪郭が原因だと思う。元絵の眉はたった二本の線でマルシルの特徴を色濃く反映している。輪郭は丸っこくて元絵はその線引きに幼さの表現(=成長後にどういう形へ形成されるかという受け手の想像力の誘引)を感じる。耳は種族を色濃く反映しているが、それだけでなくこの丸い輪郭と尖った耳(ただし尖りすぎない)を組み合わせた顔全体としてのシルエットが、我々が散々可愛いと叫んできた見覚えのあるマルシルの形になってる。自分の絵はそのシルエットが重ならないため、近くから見ても遠くから見てもマルシルっぽくならない。
 顔の角度が違うと髪の毛の生え際の位置とその角度も異なる。見たままに描いているつもりなのに身体のパーツごとに方向がちぐはぐ。しかし描き直そうとすると今度は隣り合う別のパーツとの位置関係が狂って接続ができなくなる。苦肉の策で薄い線を何度も引いてごまかそうとしても空間全体のアンバランスさはごまかせない……マクロだと人体のパーツが、ミクロだと顔のパーツがとにかく鬼門だった。
 ミクロの世界で、特にこの絵の繊細さを感じたのは歯。デフォルメされた白い図形でしかないのに、ミリどころかマイクロ単位で線の位置や太さが変わるだけで口の奥行き、角度、他のパーツとの親和性が激変する。その中でどうしてお手本は正解が探れる?
 あと、ここは確信が持てないが彼女の目線は多分回転中の左足の先端を微妙に追いかけている。少なくとも踊りに没頭している瞬間を切り取った首の角度ではなさそう(意識的に首を動かしているため)。自分の技巧を確認する視線は不安に起因するものではなく自慢のため。笑顔も相まって「見て見て」と誰かに踊りの様子を見せつけている妄想ができる。社交的でなく個人的な踊り。年齢相応に子供らしい振る舞い。想起される状況が自分の頭の中にあるマルシルの性格と合致しており、他のイラストや原作のマルシルと、このマルシルの持っている魂の連続性を感じられて感動する。私の絵からはまだそういった文脈が繋がった感情や性格は感じ取れない。
 描いている途中で一番混乱したのは靴の踵部。つま先の角度から微妙にねじれていて、踵部はもっと隠れて見えるか、あるいは見えないような気がするのだが、実際には主張して描かれることでずっと絵としての納得感が増している。同じような疑問だと、腕の下に見切れている髪束はどこから流れてきているのか、左手は今どこにあるのかも分からないが、疑問はさておきこの絵ではそう描くことが正解に思える。多分ここが、九井諒子先生が絵を描くにあたって「何を見せたいのか」という意図の部分に相当するのだと思う。絵は現実との整合性を意識せざるを得ないが、時として描き手の意志が現実を凌駕することもある。
 光源は右上から。おでこやお尻には白い輪郭線が入っていて、腹部に向けて淡いグラデーションがかかっている。髪の影は首回りを暗くする以外よく分からん……と思っていたが、改めて見返すと自分が左側の髪の位置を勘違いしている可能性があるな。思ってたよりずっと手前に配置された髪束があって、それと後ろに留まった髪束で濃淡を演出しているのか?

 これくらいにしておこう。まあとにかく描いていて不思議なことばっかりで面白い体験でした。三連休がルーズリーフ一枚を読むだけで終わってしまう。
 今回一番感動したのは、自分の絵とお手本の絵の差異を見て、『少なくとも表現の出自は神秘ではない』ということを身をもって知った点だった。自分の絵は、元の絵にあった人体の躍動感や服飾の美しさやマルシルらしさが色褪せて表現されているが、それは別に九井諒子先生の持っているペンから魔法のインク的なものが噴射されているわけではなく、線や色の使い方の差。それしかない。
(「なぜお手本がそのように描かれることによって表現に成るのか」という問いについては分からないし、その理由を感覚で理解できる感性のことをきっと人は才能と呼んでいるのだろう。だが才能の話はさておき、絵が放つ表現力を作っているのが線と色彩にしかないことは確かだ)
 それは言い換えるなら、絵を描くことは誰にでも開かれる活動であり、どんな美しい絵も線と色を置くことから始まり、線と色を置くことで終わっているということ。
 みんな必ず同じ場所から始まっていて、学ぶにつれてみんなの絵は表現としての力強さを増していくということ。
それって尊いことだと思いませんか。

 と、すごく充実した体験ではあったものの、なんだかんだ一枚描いたら満足しちゃったな……なにか疑問に思った時、解決手段の一つに「絵を描く」というやり方があるということもデイドリーム・アワーのコメントから知ったが、私もこの模写を通じて「どうして九井諒子先生の絵は魅力的なのか」という疑問に納得を得た。ちゃんと近づいて見ないと気がつかないほどの、人物描写や物理法則や文化背景がさりげなく示唆されているからなんだ。
 納得した上で、この解決方法の常用化は自分に向いていないと感じた。全ての技術を極めることは人間には難しい。コゴリオンのお絵かき伝説は打ち切りになる予感がしています。次回作には期待しないでください。
 そんなわけで、私が衝撃を受けたデイドリーム・アワーを皆さんもお一ついかがでしょうか。濃厚な九井諒子ワールドを堪能できますよ。

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