23/08/05

最近気付いたことだが。
希望(笑)とか夢(笑)とか期待(笑)とか応援(声援)(笑)馬鹿にしてた気がする。いや、馬鹿にはしてないけれども。
ここ一年は適応障害になって、なんでなったかは、いろいろな要因が重なっていて分からない。ただ、以前と違うのは、生きる希望が、意味が、心構えが違うと思っている。

社会が複雑化した今(主語デカ)隣人が自分と同じかは分からない。
人生に絶望しているのか、はたまた希望を抱いているのか、望まれて生まれてきたのか、そうでないのか、人生のスタート地点が皆バラバラで自分の位置が分からないまま学校に入る。
んで、勝手に比べ自己肯定感が下がる、気がする。少なくとも自分は中高劣等感まみれだった。

親戚宅で働いている。7月は丸々一ヶ月休職していた。
人は誰かに大切にされていると感じられないと生きられない。
誰の奴隷でも、誰の影響も受けず。
少なくともその状況に置かれた私なら、生きるエネルギーはない気がする。

で、本日の本題なのだが「死ぬのを諦めた」話をしたいと思う。一つの悟りと言うのかも知れないが、まだ完全には諦めきれていない。何で諦めきれていないのかな~と思うと、行き着くのはやはり自分が作られた意味(苦笑)とかになる気がする。
自分の父は長男制の流れに従い家業を継いだ人間で、子育て(子供)を「人生の楽しみ」と言う人間である。
想像してみて欲しい、もしこのような父がお金を稼げなかったら、病気がちだったら、など。
少なくとも、子供が苦労を強いられる生活をする日々なら、どういう思いを持つ子に育つと思われるだろうか。
生を押しつけられた子供からすれば前途多難スギィ!無理ゲー!である。

もちろん、子育ては一人ではない。
母もいるわけだ。
その母と子供の相性が悪かったら?
不満が満たされないまま自立を求められることほど、子供にとっては理不尽なことこの上ないと思う。

書き逃げは辞めよう、ということで祈りの話をする。
私のTwitterの固定ツイはとある音楽バンドの歌の一節なのだが、これは私の祈りであり、祈りであって欲しいという願いである。(祈りなのに願い?)

まとまりがなくなってきた。
今日の日記は閉じようと思う。
どうか皆が自分を責めず、腐らず、孤独を感じず、楽しく生き生きと生きてほしいと願う。
少なくともここにひとりはそう願っている人間がいるよ、と食事(=生き続けること)をせかされながら本日の締めにしたいと思う。
熱中症には気をつけましょう。
お体をお大事に。

おわり






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