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願いと祈り

2023年も残りわずか。今年もいつもどおり、色んなことがあった。

毎年なにかしら大きなことがおきる。子どもの受験だったり、自分の転職だったり、ラジバンダリ。

一年をとおして何もないことなんてない。自分ひとりで生きてればまだしも、家族や友だち、同僚まで含めたら何かしらが起きるものだ。

中でも大きかったのは、母の体調の変化。数年前から入退院を繰り返しているが、今年はそのほとんどを自宅以外で過ごした。お見舞いに行くたびに、小さくみえる母の姿を見ながら、一回でいいから実家のテーブルでみんなで食事をしたいと願う。

テーブルの端っこにちょこんと母がいて、ぼくや兄がお酒を飲んでいる姿を満足そうに見ている。「お父さんは元気かねぇ」と呟きながら、空高い雲を見遣みやるように天井を見つめる母。

そんな光景を見ることは、もう叶わないと思いながらも願ってしまう。

「願い」という言葉が好きだ。願いは祈りよりも利己的だと言うひとがいる。祈りは感謝を示し、願いは欲を表す。そう考えるひともいる。

でもぼくは、欲があっていいじゃないかと思う。謙虚に、感謝の意をもって祈るだけでは足りないときがある。奇跡でいいから、わがままな想いでいいから、願わずにはいられない。

去年、上の子が母へのバースデーカードに書いたメッセージが心に残っている。気持ちのこもった、とても短い言葉。ぼくの大好きな言葉。

元気になることを願っています。

「願い」は強いことばだ。使い方によっては相手に何かを強いることになる。「お願いだから元気になってね」、 これだと一方的すぎて、相手の気持ちが置き去りになっている。

でも、「願っています」は、ちょうどいい。「祈っています」ほど他人行儀じゃない。また一緒にご飯を食べたいよとか、春になったら桜の下を散歩しようとか、たまには電話で話したいよとか、自分の願望が根底にあって。でも、それが難しいことも知ってるから、負担にならない言葉で、相手に自分の気持ちを伝えるんだ。

今年は色んなことを願った一年だった。そのほとんどが、叶わぬものだったけど。来年もまた、たくさんの願いごとをしよう。



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